第12話 虚無の遺影

重厚なブラッドオーク材の扉が閉まる。山脈に眠る古龍のように厳めしく貫禄に溢れる扉だ。扉としての役割を与えられて長い年月を経たことを、表面の色合いとくすみが示す。閉まる際に粟立つような金切り音がしないことから、手入れの丁寧さがうかがえる。


大富豪風間財閥総帥、風間羽左衛門満州うざえもんみつくにの応接室の扉なのだから、傷一つでも品格を欠くことは許されないのだ。メイドさん達が、文字通り命がけで乾拭きして、ワックスがけをして、蝶番に油をさして、それはもう念入りに掃除する。基本的に、総帥の近くにある物ほど綺麗に、丁寧に。メイド喫茶で、萌え萌えキューンと喚いているなんちゃっての数阿僧祇倍は真剣に働いている。皆さん目が仕事人だ。


メイドさん達が丹精込めて磨き上げた扉を慇懃に閉めた男性。山高帽にステッキ、大正の紳士風のいでたちだ。傍には丸眼鏡をかけた、肥満体の小男。腹はそうでもないが、頬が今にも宙に浮くのではないかと思うほど膨らんでいる。


愛想笑いを浮かべて風間総帥にへこへこしていた二人は扉が閉まり、周囲に人影がなくなった瞬間悪態をつき始めた。

紳士風の男性が言う。


「風間の頑固爺め!なにもわかっとらん……瑣末なことに捉われよってからに」

「ふぁったくでふ」


紳士の不満に、綿を口に含んで発したような声が応じる。


「確かに、俺は納めるべき会社の利益を少々使い込んだ。お前と謀らってな。だが、それでも今まで以上の利益を出してきたではないか!増えた利益の中から少しばかり頂戴したって罰は当たるまいに」

「おっひゃるとおりでふ」


廊下の壁に並ぶ油絵の歪んだ女性や、ふわふわ揺れるレースのカーテンや、地球に熱と光を提供する太陽すら睨みつけて、二人は廊下をずんずん進む。


「もう我慢ならん。浅草あさくさ、計画を実行するぞ」

「かしこまりふぁした」

「もう風間なんぞに寄れはせん。工場の方もフル稼働だ。なぁに、二、三十人くらい過労死しても、燃料機関に放り込めばいい。少しは足しになるだろう」

「まったくです、ふぁっふぁっふぁ」

「遺族も、火葬の手間と費用が省けるうえに見舞金までもらえる……」

「素晴らしいことでふ」


徐々にいつもの冷徹な社長の顔を取り戻してきた紳士は、広大な屋敷を出る前に一人のメイドに会った。

メイドは慎ましく一礼した。少し青みがかかった、紺色に近い髪が艶やかだ。顔立ちもすっきりしていて、若いが相当に美しい。肥満体の男は、涎を垂らしそうに顔を緩める。


「神宮寺様。もうお帰りでございますか」

「うむ。用は果たせたのでな」


果たせていないが、メイドといえど悟られるわけにはいかない。この屋敷のメイドは、時に護衛から忍びの真似事までこなす恐ろしい集団だ。萌え萌えキューンなどとんでもない。

二人がメイドの側を通って、公園のような庭に出ようとした。

背中に声がかかる。和毛が総立ちになるような、ぞっとする声だ。まるで、風間のお嬢様の声を聞いたかのようだった。


「神宮寺様、浅草様。何卒、賢明な判断を成されますよう」

「な……」


反射で振り返ると、メイドの影も形も無かった。

二人はしばし棒立ちになる。やがて、紳士が渇いた笑い声を出す。


「か、かははは!賢明な判断、か。召使風情にいわれなくとも……底辺の作業員の体調管理などに気を回す小心な老害の下になどつけない。仮にも神宮寺直実なおざね愆過けんかなど無い」

「そのとおりでふ」

「帰るぞ。風間の傘の下で蹲っているのはこりごりだ」


二人は、肩を怒らせ、ゴンドラに乗り込む。あまりに庭が広いため、これで移動しないと時間がかかりすぎるのだ。

二階の窓から覘く絶対零度の視線、その中に隠れたもえのこりのような呵責に気づくことはなかった。




***************



蒲池家は、浜松町よりさらに南、品川区梅屋敷にある。遠距離通学に見えるけど、京浜急行本線で五十分もあれば入船まで行ける。蒲池家のお父さんは神奈川に職場があるみたいで、毎朝早く、父は南に娘は北に、それぞれ出発していた。

電車に揺られながら外の景色を見る。新馬場、青物横丁、鮫洲、各駅停車で揺られながら流れゆく窓景を眺める。立会川を越すと、磔刑にされた咎人の怨嗟渦巻く鈴ヶ森処刑場跡が見える。僕も神奈川へ遊びに行くときはこの電車に乗るけど、ここが近づくといつも目が醒める。


降車、改札を出る。蒲池家まで、歩いて八分ほど。スマホを頼りに歩くと、それらしい宅が見つかった。

心なしか周りの民家より数段鬱々とした雰囲気が漂っていた。

僕はインターホンを押して待つ。出ない。土曜日だから家族の誰かがいてもおかしくないとは思ったんだけど出かけてるのかな。

そう思ったら、ギギギと扉がかったるそうに開いた。

中からせた男性が顔を出した。穴が開いたように窪んだ頬と、浮腫んだ目の下の青白さが、悲劇の二文字を極彩で点滅させるかのようだ。


「……どちら様………で、すか」

「深舎高校二年の小野寺紡です。娘さんの蒲池…乞河さんとは友人でした。お線香の一本でも手向けたいと思うんですが……」

「そうか……上がってください」


のろのろと、ゾンビみたいに首を垂らして先導する。でも少しうれしそうだ。

仏間に通された僕は、形式通りに焼香を上げて黙祷する。嘘を憑き通して、大変申し訳ないことだけど、遺影で初めて蒲池乞河さんの顔を拝見した。

快活な笑顔が映える、活発そうな顔つきだ。


こんな明るそうな子が、男に捨てられたことで自死するかな?


写真を見ただけで何を判断できるものではないけど、そう思った。そして遺影から目を離した時、あることに気づいた。

位牌が二つある。白木に戒名が墨筆されているけど、それが二つ、寄り添うように並んでいた。

改めて遺影を見ると、写真の位置が真ん前からずれている。まるで、横にもう一人分の遺影があるように。

僕は、荒砥さんが言った言葉を思い出す。


『神宮寺限徒の一番の悪癖は、母娘を揃って犯すのを愉しむ事だ』


未だ顔も姿も見せない蒲池家のお母さん。

そこにない遺影が誰のものなのか、想像はついた。


………これが、江藤先輩が言い渋っていた事か。


お父さん、克修かつみさんは、僕が失礼な質問をする前に事情を語り始めた。きっと、誰かに話したくて仕方なかったんだろう。


蒲池乞河さんと交際していた神宮寺くんは、この家にも我が物顔で入ってくるようになっていた。克修さんもお母さんも疎ましく、そして娘の身を案じていたけれど、何も言うことはできない。なぜなら、克修さんは川崎にある神宮寺の大工場で働いているから。鬼のような工場長の、その上から指示を出す本社の天辺に座す社長の息子。とても意見ができるものじゃない。

両親とも、神宮寺くんを甘く見ていた。飽きて捨てられてから、またやり直せばいい。今の時代、学生時代に純潔を散らしたからって女としての価値がなくなるわけじゃない。じっと、暴君が通り過ぎるのを待とう。例幣使が通る街道沿いの宿場住民のように、ただ頭を下げて、耐え忍ぼう。そう考えていた。


「馬鹿でした。私が工場であくせく働いている間に………妻まで毒牙に……」


薄い涙が窪んだ頬に水脈を引く。仏間の抹香臭と、不幸が縫い付けられた顔の陰翳が、心を抉る。僕は掌に爪が食い込むのを自覚していた。


「ある日、私が激務から帰ってくると……妻と娘は、和室で首を括ってぶらさがっていました」


脱力して、すぐに事態を悟った。

葬式には誰も来なかった。いや、一組だけ来た。神宮寺直実社長だ。


克修さんは仏壇の引き出しを開けて、中から白い包みを出した。封筒が束になって、いくつも入っている。


「これで、口を閉じろと、渡されました。香典だと………」

香典くちどめ、ですか」

「受け取らないわけに、いきますか?娘を殺した、妻を殺した、その事実を葬るための金を、受け取らないわけにいかないんです……ッ!それが、中卒の底辺人間の悔しさです。だから、だからッ」


克修さんの握りこぶしが床を叩く。衝撃で位牌がカランと哀しく揺れた。


「だから、乞河だけはちゃんと教育を受けさせて……頭を地面にこすりつけるだけの人生を避けられるようにしようと、一生懸命働いたのに……」


二人が死んだあと、嫌味のように休暇を打診されて、養生しろと言われた。身を粉にして忘れることさえ、許されない。


「でも、良かった……乞河にも、こうして焼香を上げてくれる人がいたんだ……乞河の事は、誰も彼も忘れてしまったものだとばかり……」

「皆、恐れているんですよ……次は自分かもしれない、って」


恐ろしい。人を踏みつけることに慣れた化け物はこんなに恐ろしい。

克修さんの頬の窪には、糸を引くほど粘ついた怨毒が溜まっている。


「……多分、その内工場から解雇通知が来るでしょう……でも、それでいい。全て、捨ててしまいたい。この家も引っ越すつもりです……。位牌さえあれば、それで」

「そういえば、奥さんの遺影は」

「妻は死ぬ前に自分が映る全ての写真を燃やしてしまっていました。神宮寺に犯された自分の姿を、私に、いやこの世に遺したくなかったんでしょう……」

「………辛かったんですね」

「はい……神宮寺が憎い。憎くて仕方がない……でも、あそこももう長くないかもしれません」

「え?」


虚ろな目で語ることには、社長と本社の経理部長が謀って風間へ送る金を誤魔化していたのが露見したという。


「私のような下っ端作業員の間にまでそんな噂が流れるということは、収拾がつかなくなっているという事です………ははははは、潰れてしまえ……」


呪詛を紡ぐ。それだけが自分にできる供養であるというように。

僕は掌に疼痛を感じた。開いてみるとうっすら血が滲んでいる。強く握り過ぎた。


僕も、友達として、供養をしなくちゃいけない。

本当はそんな事をしたくない。僕はいつだって平和主義者でいたい。

でも、この家には誰も来ないんだ。渦巻く怨嗟を晴らしてくれる神様は、いつだって出不精だ。

だれも晴らせぬ恨みを拾ってくれないなら、僕が拾うしかないじゃないか。

僕には風間さんがいる。一色さんがいる。譲羽さんがいる。魚住さんも、荒砥さんも、あんまりあてにしたくないけど隠岐さんもいる。


「ねぇ、克修さん……」

「え……」


だから、僕に怖いものは無い。

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