第10話 小野寺家の家庭事情

「今日は早いな!偉いぞ」


えっへん、褒めて遣わす。

本調子の周は癒しになる。それに、僕が少しナイーブになっているのを察して、いつもり要求が穏やかだ。

気遣いができるなんて、本当に血を分けた妹なのか疑問に思ってしまう。


「お?弁当箱が多くないか?」

「油が熱いから気を付けて」


後ろから覗き込んできた。

周が言ったのは洗い場の隣で乾かされている弁当箱のこと。神集くんと蘭翅くんに持って行ったものだ。

僕がたまに他人の弁当を作ることは周も知っているので、何かを聞いてくることはない。

昨日今日と早めに帰宅したから、周の機嫌も頗るいい。

かと思うと、少し元気のない声で言ってきた。


「にーちゃん……優しい妹様が、今度から皿洗いもやったろーかな、なんて」


口調は偉そうだけど僕の様子を心配してくれたのが沁みるほどわかる。


「これくらいは僕で足りるよ。それに、こういうのは作った人間が片付けた方がいいと思うし」


新年と言うほど強固なものではないけど、ちょっとした拘りだ。忙しい時は代わってもらうこともあるけど、自分の作ったものを他人に始末させるのは少し抵抗がある。


「たくさん食べるのはあたしなんだし、本当に無理しなくていーんだぞ?」


食べた人が片づけるべし。その考え方も分かるから、反論はしない。


「周の気持ちはとっても嬉しいよ。でも大丈夫。その内父さんも母さんも帰ってきて、僕も周も少しは楽になるから」


周は顔を伏せている。父さん母さんのことを言ったのは無神経すぎたかな。周には各別堪える話題なはずだ。

僕と周が二人暮らしで、こうして家事を分担して行うのは両親不在が原因。

二人とも、しばらく帰ってこれない。

母さんは病院に、父さんは……服役中だ。



***************



あれは四年前のこと。僕は中学生になったばかり、周はランドセルを背負う年頃。家族四人で近所のスーパーに出かけた帰り道。

僕は靴紐が解けて、地面にしゃがみ込んでいた。中学生になってローファーをやめて、まだ紐の結び方が板についていなかったからしばしば解けてた。

家族三人は少し前を歩いていた。紐を結び終わって、急ぎ足で追いつこうと顔を上げた僕の視界に、白い車体に錆が目立つ車が、酔っ払いのような蛇行運転で向かってくるのが見えた。

僕は、テレビのスタントショーを見るような非現実感の中、車が反対車線にはみ出るほどうねり、反転して両親と周が歩く歩道へ突進してくるのを眺めていた。

車の進路の真ん中にいたのは周だ。とても大人しい子で、恐怖で足が動かなかった。この時、一番早く反応したのは母さんだった。それこそ子供を守る母性本能が成せるものだったのかもしれない。

蛇行運転だったから車体に引きつぶされるまでに至らず、周を庇った瞬間にボンネットに弾き飛ばされて、傍の縁石の出っ張りに腰を強打した。当たった部分がへこんで、靨みたいになっている。緑色のナンバープレートがにやっと笑っている口みたいで悪寒がした。体を痙攣させて泡を吹く自分の母を見ている時の周の表情は、一生忘れることはできないと思う。そして、それを見ていた自分の表情はどんなものだったのか、恐ろしく思う。

父さんは動揺しながら、模範的行動をとった。救急車と警察を呼んだ。つっかえながら電話して、周が声を出さずに大粒の涙を流す。その時白い車の運転席が開いて、中から腹を抱えた男の人が苦しそうに出てきた。


僕は、目の前の光景が信じられずに、右手はテレビを消そうとリモコンを探すように空中を掴んでいた。


母さんは生きてた。お医者さんによると頭部、脊髄には損傷はないらしくて、命にかかわるようなものではないと。

ただし、と憐憫を込めて前置きしてから、日常生活にはかかわるかもしれないね、と言った。

腰の打撲で非常に面倒な容体になっているらしい。手術はできず、恢復するかどうかはリハビリにかかっていると。リハビリがうまくいくと殆ど後遺症もなく生活できるようになるけど、リハビリの過程でより酷い状況になることもあると言っていた。僕には難しい単語がよくわからなかったけど、腰椎版のすぐそばにナイフのようにとがった骨が近接していて、それが良い位置に収まればそのまま安泰だけど、間違うと神経系をずたずたにしてしまうんだと。位置を固定するためのリハビリらしい。

先生は僕と同じように空気を読まないタイプの医者だったみたいで、幼い子供に聞かせるか?というところまで話していた。僕も僕で、気になることをどんどん質問していた。父さんは横で自失していて、周は虚ろな目から涙を、半開きの口から嗚咽を溢していた。今でも、どうしてあんなに冷酷な態度でいられたのか不思議でならない。悲しみより、母さんの状況を正確に知りたいという気持ちが何倍も勝っていたんだ。その気持ちに、あの先生は真摯に答えてくれた。今もリハビリを担当してくれていて、お見舞いの時には雑談するくらい打ち解けた。


一方の父さんは、法的後始末に追われていた。民事、刑事、両方の裁判にかかりきりで、母さんの見舞いもいけない程。その裁判の結果も後味の悪いものだった。

あの白い車、あれは自家用車じゃなくて業務用だった。そういえばナンバープレートが緑色だった。

運転手は浦瀬さんという二十代後半の男性だった。調査によって、蛇行運転は彼の過失よりも外的要因が非常に強いと判断された。

浦瀬さんは工具を工場に卸す小さな会社の配送員で、同僚にとても仲の悪い富田さんという人がいた。あの日、富田さんが浦瀬さんを困らせてやろうと飲み物に下剤を混入したのだ。

車に乗るまでかなり時間があるはずだったから問題ないと思っていたら、注文が立て込んでるからと予定より早く出発させられた。

車のボロボロ具合から察せられるように経営不振で、かなりのブラック企業だったから、浦瀬さんは途中で下車してトイレに籠ろうと思うほどの余裕がなかった。その結果があの蛇行運転、事故。

裁判の結果は刑事で浦瀬均うらせひとしに罰金五十万円、富田与平治とだよへいじに罰金六百万円と懲役四年半、執行猶予付き。民事ではそれぞれ二百万、五百万円の慰謝。浦瀬さんも富田さんもお互いを罵りあうばかりで酷い内容だったけど、世間の関心は事故そのものよりブラック企業の弊害に向いていた。司法も事故の刑事的、民事的処分より会社に対する行政処分に目が向いていて、僕たちへの対応が少し杜撰になっていた。まぁ立法行政司法、国民の風潮には弱いからそうなるよなぁと思う。


父さんは日に日にやつれていった。裁判沙汰で会社を休んだ間の仕事が溜まっていて働きづめ、食事も満足に喉を通らない。僕の料理の腕がなっていなかったのもあるんだと思う。傷心にべちゃべちゃのうどんは受けつけないだろう。

そして、ある日。

父さんは仕事で出向いた先から帰る途中、ビルと工事現場の鉄骨の間から打擲音を聞いた。

ぼーっとしながらそこを覗き込むと、見覚えのある顔が鼻血を流していた。もうひとり、拳を固めた男も覚えている。

忘れるはずもない。を流しているのが富田、殴ったのが浦瀬だ。

二人は覗かれているのも知らず、口汚く罵り合った。


『てんめぇ!てめぇが変なクスリ盛ったせいで仕事失うしオンナに捨てられるしあがったりだこんにゃろぉ!』

『うっせぇばかやろう!おめえは五十万払って済んだけど俺は六百万だぞ!おまけに執行猶予の監察付きだぜ。いくらいわれても恵んでやる金なんざねえよ』

『恵む、だぁ?よくそんな口が…』

『まぁ待てって。俺に文句言うなら路上をちんたら歩いてた親子連れにこそ文句言えよな』

『言ったさ。ったく、大したスピードも出してねえのにひかれやがって……ノロマが』

『ほんとだぜ。なぁ、俺たちどんくせえ親子連れのせいで職場と金と信用失った被害者同士じゃねえか。因縁なんて忘れてよ、仲良くしようぜ』

『誰がてめえなんかと……いいさ。金がねえんならもう用はない。じゃあな』

『ちっ』


限界だった。父さんの中で、怒りの火が噴煙を巻き上げて爆発した。

気づいたら、側にあった百キロ近い鉄骨を持ち上げて、浦瀬をぺちゃんこに潰していた。それは、車に轢かれたように無惨な死にざまだったらしい。富田も同じ運命をたどった。二人の残骸と血に濡れた鉄骨、赤池の中で父さんは慟哭した。

それに気づいた通りの人達が通報して、父さんは捕らえられた。


今度は父さんが裁きを受ける番だ。やっぱり世間の風にお上は弱い。手のひらを返したように交通事故被害者の悲哀を訴える民衆の声に、二人の殺人としては異様に軽い六年の懲役刑が下された。

僕はその時初めて、とても悲しいと感じた。


これが、溝呂木くんに話した「交通事故」の真相だ。



***************



「お~い、にーちゃん!にーーーーちゃん!」

「え?なに?」

「何?じゃないぞ!がんもどきみたいなふにゃふにゃの顔してたぞ!」

「え…」

「ほら、焦げてる焦げてる!炭素!」

「あああしまった」


慌ててコンロの火を止める。

う~ん、大分黒いチャーハンになっちゃったなぁ。

夕食はたこ揚げと揚げ餃子、チャーハンと菜の花のおひたしでいこうと思ってたんだけど……。


「ごめんごめん。焦げてないところ全部周に渡すから」

「そんな事するな!むしろ炭素全部寄越せ!」

「え……この前焦げた野菜炒め出したら怒ってたじゃん」

「ふん、ばーか。今うちの学校じゃ炭素食がトレンドなんだ!なんか流行ってきたの!」

「なんてアグレッシブな中学生なんだ」

「いーから寄越せ!そんなもん食べたらお腹壊すぞ!にーちゃんがお腹壊したら明日以降のメシどーなるんだよ」

「……でも、周に壊されても」

「あー、もう!いいか、にーちゃんは我儘言わなさ過ぎなんだよ!兄妹だろ?あたしにも色々言って来いよ!少しは妹様を見習え!」

「………ははは」


乾いた笑いが漏れる。

でも、心は霧吹きがかかったようにじんわり湿っていく。周が何笑ってんだ!って喚いてる。

僕は火が止まっていることを確認してから、周を軽く抱きしめて頭を撫でた。

タコが油を吸ってギトギトになるし、チャーハンもパサついちゃうけど、少しこうしていたい。


「は、放せぇ!もがもが」

「ごめんね。でも、これが一番癒されるんだ」

「……特別、だぞ?寛大な妹様に感謝するんだぞ?」

「うん。ありがとう」

「ふんっ。どういたしまして」


本当に、あんな哀しいこと、酷いことを経験してよくここまで純粋に、思いやりがある子に育ってくれたものだ。兄として、至上の喜びだ。

僕が歪んでしまっただけに、周には順当な人生を送ってほしいと思う。良い人、それこそ溝呂木くんのような人と添って、幸せな人生を歩んでほしい。

そして、いつか帰ってくる父さん母さんに、周だけは守り通したと誇りたい。誇れるものなんてそれしかないから。


この時だけは明日の仕事も忘れて、周を抱きしめていた。

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