第9話 悪友の襲来
翌日は曇天だった。
予報では雨が降るはずだったけど、雲は地面を濡らさないまま気流に従って西へ流れていく。
校門の近くでは無用な傘を所在無げに振りながら帰路につく男子生徒や、折り畳み傘にしてよかったね~と笑いあう女子生徒が見られる。
校門と一口に言ったけど、深舎ともなると校門というより城門かもしれない。
北には巨大な正門が登下校中の生徒を見守っている。正門は旧幕府の普請奉行、作事奉行、配下の黒鍬、そして朝廷の宮大工まで抱え込んで作らせた豪勢な門だ。本来なら重要文化財に指定されてもおかしくないレベルの建築だけど、毎日下をくぐる人間がいることを考えると難しいみたいだ。
深舎の施設は大改修や時代に合わせた棟の増設を繰り返しながらも、開校当初の姿をできる限り変えないようにしているとのことだ。もっとも僕は電車通学だから駅に近い南門から下校する。
息を吸い込むと、湿った空気の中に僅かな香りが混じっている。東京湾からの磯の香りだ。
深舎は中央区入船町にある。殆ど東京湾にはみだしているこの町から電車で南へ向かう。
小野寺家は港区浜松町に甍を見せる。……普通の瓦屋根です。甍って書くと瓦葺きよりもかっこよく聞こえるから不思議。
帰宅中の事だった。駅へ向かう途中で、見知った女性を発見する。
最近色々あったけど、彼女にだけは会いたくなかったというのが本音だ。御嬢様は大抵面倒ごとを運んでくるけど、彼女だけは、妙な格好をして僕を見てくる彼女はダントツに苦手なんだ。
僕は馬鹿なことに立ち止まってしまい、彼女が声をかけるのを許してしまう。
まぁいいや。どうせ逃げられやしない。
「やっほ~!つっむぐう~」
「やっほお」
「テンション低いなあ、駄目だぞそんなんじゃ!若者はぼんぼんと爆発しなきゃ!」
「僕の友達の言を借りるとね、この世で爆発すべきなのはリア充と税務署の役人だけらしいよ」
「あっはっははは」
何がおかしいのか陽気に笑う。その笑顔が怖くてならない。
漫画や小説の表現で、口は笑っているのに目が笑っていないという描き方がある。それは基本的に恐怖を与えるけど、目の前の女子……
つまり、見た目はなんてことはない快活な笑顔なんだ。よく笑い、よく冗談を言うムードメーカ的存在。
そして、僕を変えてしまった悪魔のような、神のような女性である。
「隠岐さんも何か頼み事?」
「あははっ。酢を飲み下したみたいな顔してるよ。そんなに嫌なん?」
「そうだねものすごく」
「うわあ正直かいっ」
ノリがいいのか図太いのか、僕の肩をべしっと叩いて突っ込んでくる。
当然距離は近くなって、ショートヘアーからの清冽な芳香と海風運ぶ磯の香りが僕の脳髄に、直接酢を垂らしたような刺激を与える。
隠岐さんはこんなノリのいい一見フレンドリーな人だけど、学校内での立場は魚住さんや荒砥さんと同じだ。
彼女は、芸術界の頂点に君臨する【ユズリハの会】会長の娘、
深舎の三大派閥と言えば、
【氷の姫君】風間淑乃を頂点とし、【従者】魚住堅芽を側近とする派閥。
【焔の女王】一色誉紫を頂点とし、【騎士】荒砥白記を側近とする派閥。
【花の妖精】譲羽美華を頂点とし、【悪友】隠岐疎を側近とする派閥。
この三派閥が、今の校内を、いや日本を曖昧に分割していると言える。
「う~ん、どうしてもボクと関わりたくないんなら……そうだなぁ」
顎に指をあてて思案する隠岐さん。【悪友】とは六人の中でも異彩を放つ言葉だけど、僕にはしっくりくる。
いいことを思いついたように、つまり僕にとっては悪いことを思いついて、彼女はにっこり笑った。
僕は隠岐さんのことを、心の中でカルミア・ラティフォリアと呼んでいる。美しい毒花。あの花の蜜を吸ったミツバチは、別名【狂気の蜜】と呼ばれる毒蜜を作る。それを食べれば、最悪死に至る。
花弁と蜜を用いて毒を撒く花……こう言っては何だけど譲羽さんの何百倍も恐ろしい人だ。
「ボクの言うことを何でも聞いてくれるなら、面倒なことは言わないであげよう!」
「それが面倒ごとなんだけど」
面倒ごとを頼む代わりに面倒ごとを頼まれたんじゃ何も代わっていない。試合を中止にしてほしいのに打者が変わっただけの話だ。
「あっはっは。紡はほんとにおもしろいね~」
「それはよかったです」
「もうそんなにいじけないでって」
「いじけてません。いじられてるだけです」
「……ぷっ。ま、このくらいでいっか。今日は本当に何もないんだよ」
そう言って両手をひらひらさせる隠岐さん。害意がないって示したいんだろう。
「ただ、気づいてるかなぁって」
「……」
「尾けられてるよ」
耳元でそう言った。
何を言われるかわから無からなかった緊張がふっとほぐれる。
「何だそんなことかぁ」
「そんなこと、ね。あれは確か野烏候吉の手下の一人だけど」
「へぇぇ。大丈夫だよ。人通りも多いしもうすぐ駅だし」
「そうだね。じゃあ行こうか」
そう言って、僕が避ける間もなく腕を掴んで引きずられてしまった。向かうの駅の方角から少し外れた、都会の一部とは思えない寂しい裏路地だ。
隠岐さんを見ても、ニコニコしているだけでなにも教えてくれそうにない。更に、聞く暇も無く第三者が現れた。
鉄屑を踏んで奇妙な音をたてる。周りは数本の鉄パイプ、割れて中身が見えるゴミ箱、何が入っているのかもわからない二つの鉄箱。
第三者、僕を尾けていた誰かが言った。
「追い詰めた……隠岐さん、感謝しますよ」
「あはっ」
状況は、簡単に飲み込めた。豆腐のように消化がいい事実は胃に溶け込んで瞬時に脳の理解まで及ぶ。
「隠岐さん……」
「いいじゃん、たまには」
「……はぁ」
もう諦めて前を向いた。
袋小路、逃げ場はない。家に帰るには目の前の、野烏くんの手下をどうにか突破しなきゃいけない。
そして、今日の帰宅は遅らせたくない。これ以上、周の角を増やすのはよくない。
「ふぅ…ふぅ……」
ナイフを取り出した男。野狼のようなギラギラした目で、雄たけびを上げて突きかかってきた。
本当に、獣の咆哮のようだった。捕獲者のそれではない。追い詰められた獣の、悲鳴だった。
ナイフの刃を立てて左胸を狙う。玄人じゃない。手早く殺すつもりなら刃を寝かせて着くはず。じゃないと肋骨に引っかかる。
僕は転げるようにかかってくる男を右ひざの力を抜くことで避けた。体育の準備体操の伸脚のような姿勢になる。狭い道で避けるのは難しいけど、左胸を狙っていたから躱せた。
男は僕の足を越えようと軽く跳ぶ。空中に浮かんでいる一瞬に、僕は腰を狙って膝を蹴り上げた。
「ウアアッ!」
腰の神経が一瞬麻痺して、着地できずに鉄片転がる不衛生な地面に崩れた。
それはまるで、蘭翅くんがやっていたゲームのイラストのようだった。王冠は転がってないけど。
「さっすが~。ま、あの紡がこんなのに負けるはずがないけどね」
「疲れたなぁ」
本心からそう言った。悪びれもせずに、隠岐さんは拍手をして話しかける。
僕はそれを生返事で聞き流しながら、隠岐さんとの縁を思い浮かべていた。
風間さんや一色さん、周は知っていることだけど、僕は一応武道経験者だ。
流派は巌流。多少知識のある人に言うと、ジョークか中二病扱いされる。佐々木小次郎が創始した、中条流の流れをくむ古流剣術。
その全ての教え、資料は江戸期の内に失伝、佚書となったと言われている。
正直、僕自身も学んだ教えが本当の巌流の姿なのかわからない。空気を読まない僕は、はっきりと師匠にそう言った。
師匠はこう返した。
「巌に定形無し。山奥の巨岩、川辺の礫石、海岸の真砂、須らく巌にて巌流也」
格好つけてそう言っていた。つまり、細かいことに拘るな巌流を学べばそれが巌流なんだと、そう解釈した。山から海へ、流れに従って名前と姿を変える巌。流れてゆくのは水か巌か、それとも自分か。
師匠は佐々木小次郎の号である巌流を、そう捉えたと、僕は捉えた。
師匠の名前は
そう、隣で朗らかに、さっきのことなんて嘘のように喋る隠岐さんは師匠の孫娘。
入門当初からの付き合いだから、一応幼馴染というくくりに入るんだと思う。
いや、もしかしたら隠岐さんは僕の悪友なのかもしれない。悪い、友達。
「あ~あ、もう駅かぁ。つまんないなぁ」
「そう言ってもどうせ同じ車両に乗るんでしょ」
「もっちろん!でも電車の中じゃ騒げないんだよね……今日のは一瞬で終わって刺激が足りなかったし」
刺激……。
隠岐さんは、僕に刺激を求めている。
僕が彼女を苦手とする一番の理由だ。
だって僕は、隠岐さんに乗せられて、初めて人を殺したんだから。
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