第6話 小野寺家の妹様
僕が自宅に帰還した時、陽はぎりぎり沈まずに暗橙色の空に僅かな雲が浮かんでいた。この分だと晴れた夜になりそうだ。今日は確か寝待月、布団のなかで本を読みながら昇月を見守るのも一興かな。
そんな風流気取りの思考は、玄関を開いた瞬間にチリとなって嵐に消えた。
「遅いぞ!待ちくたびれて死にそうだ!」
「ごめんごめん」
「なんだその態度は!それが妹様に対する態度なのか?」
妹様に対する態度として間違いはないと思うんだけど、お気に召さなかったらしい。
ふんすふんすと鼻息荒く僕を睨みつける妹様。名前は
僕の帰りの遅さを放送コードギリギリ(アウト)の語彙で詰ってくる。でも、着ているだぼだぼのシャツがハチクマシリーズだからまるで威厳がない。
「馬鹿と八郎兵衛も使いよう」
「なんだと!だ、誰が馬鹿だ!そんなことゆうにーちゃんが馬鹿だぁ!」
「周、いつから八っつぁんになったんだい?」
僕は周を馬鹿にしたわけじゃなく、もちろん八郎兵衛さんに恨みがあるわけでもなく、シャツのプリントを音読しただけだ。ハチクマシリーズは八っつぁんと熊さんという二人のとぼけたキャラクターが気の抜けた掛け合いをしている商品で、もともとはTwitterの漫画発祥だ。それにどっかのファッションブランドが目をつけてシリーズ化。すごく売れた。最近はLINEスタンプにも進出して注目の的なんだ。
余談だけど、八っつぁん熊さんの本名は一定しない。八郎兵衛だったり八助だったり。熊五郎だったり熊蔵だったり。そういった訳のわからなさが売りの一つなんだと。
「ぼーっとするなあ!話を聞けにーちゃん!」
「ごめんって。でも家康と義経が同一人物ってのは無理があるんじゃ」
「何の話だ⁉︎」
ハチクマのことを考えてたら全く話を聞いてなかった。ダメ元で適当なこと言ってみたけどアテが外れた。
「にーちゃんのメシを楽しみに待ってやったのにいつもより一時間近く帰りが遅いじゃないか!とっても心配したんだぞ」
「そかそか。そんなに心配してくれたんだ。にーちゃん嬉しくて泣きそうだよ」
「もう今日は夕飯ありつけないかもって思うと胸が張り裂けそうだった!」
「なるはやで作るよ」
年相応に薄い胸をぎゅっと押さえつけてはよ飯作れとせきたてる。諸事情により我が家は両親不在。炊事洗濯は僕の役割になっている。周は掃除役。案外ちゃんと雑巾掛けも埃取りも煤払いもやってくれている。ガサツに見えて根が綺麗好きなんだよね。
「えーと、トマトピューレを使い切りたいな、と」
冷蔵庫や埋め込み棚を漁りながら献立を決める。本当なら揚げ物を作ろうと思ってたんだけど、油が跳ねる前に妹様の堪忍袋が破れそうだ。古麻の頭陀袋みたいな脆さだもんね。とりあえず冷凍庫からロールキャベツの袋を取り出して小鍋に中身をごろっと入れる。おっきいのが三つ。二つは周に消えるんだろう。
トマトピューレを掬って使い切る。瓶は洗浄。胡椒と適当なスパイスを入れる。塩加減は問題ないと思うけど、我が妹様は濃い味付けを好むから、トマトジュースで足す。市販のトマトジュースってめちゃくちゃ
揚げるつもりだったタコさんをぶつ切りにして、野菜と一緒にジャジャーと焼く。オイスターソースで適当に味付けして、タコ入り野菜炒め。工夫も粋もあったもんじゃないけど、早くて美味いのは間違いない。タコは残ってるし、明日にでも素揚げにして酢醤油でいただこう。
「明日は早く帰れてるのかなぁ」
野烏候吉くん。とりあえず病院に江藤先輩をお見舞いに行こうかな。同じ学校だし、通してくれないことはないと思う。野烏くんと、マネージャーの蒲池さんについて少しでも聞き出したい。
一色さんに頼まれた神宮寺くんだけど、これはまず溝呂木くんにまた聞いてみよう。他にもあと一、ニ心当たりがある。その後、あんまり気が乗らないけど風間さんに接触して聞き出す。それでも埒が開かなかったら、残念だけど彼女に頼るしかない。
それは嫌だなあ。
「うーん…………ははっ」
あれ程巻き込まれるのが嫌だ平和平凡バンザイと叫んでいたのに、こうしてやる気になっている自分に嗤う。
小気味いい音を立てて野菜が香ばしく焼ける。野菜の旨汁とタコから滲むエキス、そしてオイスターソースが食欲を揺さぶるように刺激する。
結局トマトジュースを加えた汁だくロールキャベツを深皿に、野菜炒めを大皿に盛る。
「おい!まだか、まだなのか!お腹と背中の皮がぺったんしそうだぞ!」
「今行くよー」
食卓から文句が飛んできた。皿を持って運んでいく。周は目をキラキラさせて鼻をうごめかした。
「あああああっ。この匂いだ!にーちゃんの匂いだ!ひゃっほー」
「僕じゃなくてオイスターソースね。はいどーぞ。お、机拭いといてくれたんだ」
「ふん。あんまり遅いから手慰みでな!感謝しろ」
「はい、感謝感謝」
「な、撫でるなっ!」
流石に中学生にもなれば、頭を撫でられるのが恥ずかしいらしい。でも、周の頭を撫でるとすごくほっとした気分になるから、顔を真っ赤にして怒るのを無視して撫で続ける。空気を読まない小野寺くんの真骨頂だよ。
犬歯を剥いてがるると唸り始めたから手を離す。炊飯器からもうもうと蒸気を立てる白米をよそう。周は箸と取り皿を用意している。
「いただきまーす」
「いふぁふぁきふぁうふぁぐ、うまい!」
「それは重畳」
幸せそうな表情が何よりのご馳走。クラスメイトには御令嬢衆に囲まれて羨ましいと羨望及び殺意を向けられるけど、心臓に負担を掛けずに楽しく会話出来る異性は今のところ周だけ。同性なら案外溝呂木くんがそれに近い。
僕はタコを噛み切れずに奥歯をもごもごさせている周に、思い付きの提案をしてみた。
「ねえ周。好きな人、あ恋愛的な意味でだけど、いる?」
「ぶふぅあ、げほっ。い、いきなりなんだ!気でも違ったのか⁉」
「いや実はね、クラスに周と似合いそうな男子がいるんだけど付き合ってみない?」
「名前も顔も知らないオトコを紹介されたってどうしようもないだろぉ!馬鹿なのか?バカなのか?」
「溝呂木秋蔵。顔はまあ、楕円形で目玉と耳と眉が二つ、鼻と口が一つ」
「名前と顔を説明されても変わらん!って顔の説明になってないだろ!逆に目が一つだったらヤダわ!付き合う付き合わない以前に妖怪の国へ帰れ!ぜぇぜぇ」
政宗公が男泣きするのが聞こえてきた気がする。それは気のせいで周が突っ込み疲れて過呼吸になっただけだった。
「じゃ、話もまとまったところでご馳走様」
「まとまってなあああい!なんでいきなりオトコ紹介してくんだよ!勝手にまとめられてたまるかぁぁ!」
「冗談だよ。妹様は元気だなあ」
「うがー」
手足をブンブン振り回して怒りを体現する周。でも忘れてはいけない。周は今、ハチクマのTシャツを着ているんだ。たとえ地獄の閻魔様でもたちまちコメディアンに変えてしまうある意味恐ろしい衣服。
「先にお風呂入っててー」
「うあああ!納得いかんっ!シャンプーいつもの二倍使ってやる!」
「あ、新しい香料のやつ買っといたから。脱衣所の三段目の棚にあるよ」
「よっしゃ!」
周がパジャマを取りに自室へ向かった。
小野寺家は今日も平和です。こういった平和が学校でも続いてくれるといいんだけどね。男子、一歩外に踏み出せば猛吹雪の凍世なり。明日に備えて早めに寝ようと考えながら、食器をスポンジでごしごし洗った。洗剤の泡がシンクの隅に身を寄せ合っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます