第35話 喪失

 コートの男は、千里と顔を合わすなり、手帳を突きつけた。


 「五課の山本だ」

 「どうも。あの、えっと。私なにかしましたか?」


 山本は、ちらっと僕に目をやって、それから言った。


 「とにかく同行してくれるかな。任意じゃない。嫌だと言えば罪が一つ増える」

 「……わかりました」


 千里は、か細い声で返事をした。

 こんな不安そうな千里を見るのは初めてだ。

 千里が連れていかれるというのに、この男が警察的な何かだということくらいしか僕には理解できていない。

 説明くらいしてもらっても良いはずだ。


 「ちょっと待ってください。どういうことです?」

 「君には関係ない」

 「あなたは僕を尾行した。関係無いってことはないですよね」

 「面倒くさいやつだな。文句があるなら無理やりにでも奪い取ったらどうだ。お前ならできるだろ。なあ川俣」

 「本気で言ってますか?」

 「本気さ」


 山本は、ポケットに手を入れたまま表情一つ変えなかった。

 間に立つ千里は、困惑した様子で目を泳がせた。


 千里の腕を掴んで引き寄せようとしたその時、拳が飛んできた。

 あしらう様に軽い突きだ。

 それが目に当たり、視力を奪われた。

 次の手が見えない。引けばやられる。


 腕で顔を守り、闇雲に飛び込んだ。

 体を抱えられ、背中に容赦なく拳が降ってくる。

 密着していれば殴られるが、見失うよりマシだ。

 渾身の力を込めて、山本を殴りつけた。

 手ごたえが浅い。


 緩まった腕を振り解き、突き飛ばす。

 力だけなら、僕のほうが上だ。

 体格も勝ってる。

 負けない。負けるはずがない。


 再び距離をとって向き合った。

 山本は、曲がったネクタイを戻した。

 落ち着き払った仕草が、神経を逆撫でる。


 左で距離を測り、続けて右を打ち込む。

 山本の打撃は、素人同然だ。警戒しなくていい。

 耳が腫れているところを見ると、柔道をやり込んでいるのだろう。

 体格的にそうは思えないが、軽量級もある。

 掴まれなければ大丈夫だ。


 手を休めなかった。

 山本が動こうとする度に、ジャブで牽制した。

 山本は、顎を守りながら、亀のように固まってじっとしている。腕をねじ込んでガードをこじ開けようとした。

 もう少し、というところで山本が動いた。

 出しかけた左拳を戻して、ハイキックを打つ。

 かわされた。


 いきなり、鈍器のようなもので脇腹を叩かれた。

 激痛で悶えながらも、山本の手に銃が握られているのが見えた。

 再び、顎先を殴られた。

 気がつけば床が目の前にあった。


 「悪いが、馬鹿の相手をするのは少ししんどい。俺も若くないんだ」


 山本に抱え上げられ、家の中に放り込まれた。

 千里が何か叫んでいるのが聴こえる。

 追いかけたいのに、体は動かなかった。



 全てが嘘だった。

 そう考えてもいい。もともと、一人だったのだ。

 今までの出来事は全て妄想で、千里なんてはじめから存在しなかったのだと。


 一日が過ぎて、目が覚めた朝は現実的すぎるほど、孤独だった。

 ベーコンも卵も味気ない。

 全くもって、贅沢病だ。

 ついこの間まで一人でい事が当たり前だったのに、一人で食べる朝食が味気ないなんて贅沢も良いところだ。

 こうして欲望は際限なく肥大していくのだろうか。


 外に出ようかと考えた。

 つまり、刺激を求めて。

 それが、いけないのだ。

 求める気持ちそのものが、僕には余分なものだ。

 千里はもういない。

 馴れなければいけない。元の生活に。


 何もする気がおきないのならば、何もしなければ良いだけだ。

 僕は、椅子に座って窓の外を眺めた。

 秋らしいうろこ雲が、空を覆っていた。

 うろこというよりも、羊の群れが身を寄せ合っているように見える。

 すると、群れから離れてぽつんと浮かんでいるあの雲は僕だ。

 ふざけた雲だ。

 雲に腹を立てるほど馬鹿らしいこともない。


 立ち上がってコーヒーを入れた。

 出てきた黒い汁を一気に飲み干す。

 ポットからもう一杯注いでいる間に、インターホンが鳴った。

 飛びつきたい気持ちを抑えて、ゆっくりとコーヒーを喉に落とし込んだ。


 「はい、もしもし」

 「川俣くん。八千です」

 「八千さん……?今開けます」


 ドアを開けると、本当に八千が立っていた。


 「今、大丈夫?」

 「どうしたんですか?上がってください」

 「ここでいいわ。それより川俣くん、出かける用意をして。私の時代に行くわよ」

 「え?」


 突然の八千の言葉に驚きはしたものの、さっきまでのウジウジとした気分は一瞬で吹き飛んでいた。

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