第30話 距離

 正直なところ、僕は眠たかった。

 千里が目が冴えたと言うからつき合っているのだ。

 一人になるのが嫌なだけかもしれない。


 僕はソファーに座って映画を見ていた。千里は床に座ってソファーにもたれかかって映画を見ている。

 二人掛けのソファーの上と下。

 これが僕達の距離だ。

 手を伸ばせば届く。

 伸ばさなければ届かない。


 僕はぼうっと千里の白い髪を見ていた。

 映画のシーンに合わせて髪が揺らぐ。

 BGMに合わせて、千里は一々ビクッと反応する。たまたまやっていたサスペンス映画を見ているのだ。

 映画が終わったら寝よう。そう思ってから、すでに一時間が経過していた。

 未だに山場では無さそうだ。

 だんだんと意識が朦朧としてきた。


 「面白かった。よし、寝よう。川俣さんは寝ないの?」

 「うん……僕も寝るよ」

 「しっかりして。こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ」


 いつの間にか眠っていたようだ。

 千里が体を揺する。

 まどろみの中で、振動はふわふわと浮いてるように心地の良いものだった。

 なんとか体を起こして千里の後ろをついていく。ドアの前にたどり着くと、千里は足を止めた。

 そして、少しの間を置いて振り返った。

 かき回された空気に石鹸の香りが混じる。

 千里は一度僕の顔を見て、考え事でもしているかのように目を伏せた。

 何か、言おうとした。

 それはわかった。

 千里が何を言おうとしていたのかはわからない。

 今、この瞬間が、言葉よりも多くを物語っている気がした。

 僕は、その漠然とした空気のようなようなものを読み取ることに気をとられていた。


 沈黙にしては長すぎる時間、僕の口は閉ざされたままでいた。


 「それじゃあ、おやすみなさい」


 千里はいつものように、笑ってそう言った。

 目線が離れるまでの間、一秒よりも短い時間。

 いつもよりも長く、繋がっていた。

 空気の核心が、そこにあるのだ。


 この空気を作り出しているのが、僕なのか、千里なのかわからない。

 ただ、きっと、名残惜しさを感じているのは僕のほうだ。

 千里の目は、薄暗い廊下の中で、一際明るく輝いていた。僕は、明りに群がる虫のように、もう一度、千里の目が僕を捉えることを願って止まなかった。

 千里が、ドアノブに手をかけた。

 僕は、その手にそっと自分の手を重ね合わせた。そして、千里の華奢な身体をたぐり寄せた。

 線の細さから想像できないほどに柔らかい。触りなれたコットンのシャツが、身体を包んでいるというだけで、まるで別のもののように感じられた。

 今、僕と彼女を隔てているのは、二枚の布だけだ。

 千里の熱が全身で感じられた。


 「ちょ、ちょっと。やだ、やめてよ川俣さん。どうしたの?」


 逃げていくのはわかっている。

 ただ、少しでも長く、繋ぎ止めたかった。

 僕は、腕に力を込めた。

 答えられないのなら、こんなことをするべきではなかった。


 「やめてよ……川俣さんが好きなのは、私じゃないでしょ」


 千里は静かに言った。

 その言葉の意味を理解する前に、千里は、さらに、言葉を続けた。


 「川俣さんのしてることは、ただの甘えだよ」


 そう言った千里の声は、今にも泣き出しそうなくらい弱々しかった。

 それでも、千里は逃げようとしなかった。

 逃げていたのは、僕の方だ。


 「……ごめん」


 手を解いた。

 千里は、俯いたまま、顔を見せなかった。

 許して貰えるとは思っていない。

 いつものように、笑ってくれるなんて、そんなことがあるはずもない。

 僕は上着を羽織って家を飛び出した。


 自分で、自分が嫌になる。

 そう思うチャンスはいくらでもあった。

 僕はそのチャンスから目を背け続けていた。

 現実から逃げていたわけじゃない。

 どうでも良かったんだ。逃げたって、失うものなんか、なにもなかったのだから。

 たった一つの出来事で、築き上げた価値観全てがひっくり返ってしてしまうほど、僕にはなにもなかった。

 そんな自分が、とことん嫌になった。

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