第29話 認めたくない気持ち

 しばらく玄関でぼうっとしていた。

 考えることが多すぎて頭が回らない。何もかも投げ出してしまいたい。


 最近、うすうすと気づいていたのだ。どこへ逃げても、部屋に籠もっていても、嫌なことから逃げることはできない。

 社会が僕を追い詰めるのではなく、僕の頭が、僕を追い詰めるのだ。

 生きている限り、僕は僕自身から逃れられない。あの人もきっとこんな気持ちだったに違いない。


 中学三年の終わり頃、近所に住んでいた三つ上の友人から連絡があった。歳は離れていたが、兄のように慕っていた。出会った時、友人は元気だったが、少し悩んでいる様子だった。

 僕はただ当たり前のように、彼を励ました。子供だった僕は、言葉を選ぶような気遣いもなければ、社会の恐ろしさも知らなかったのだから。


 「お前の言う通りだ。もっと頑張らないとな」


 それが僕が聞いた、最後の言葉だった。高校に入学してすぐの頃に、彼は川に浮かんでいるところを発見された。高校を卒業してすぐに就職した彼は、職場に馴染めずに悩んでいたと、彼の両親から聞いた。


 自殺するなんて馬鹿みたいだ。

 当時はそう思った。

 それなのに、それからずっと、友人の言葉が脳裏に焼きついて離れない。

 多分、僕が学校生活に馴染めなくなったのもそれからだった。

 今にして思えば、僕たちは似た者同士だった。月日が経つにつれて、彼は僕の未来なのかもしれない、と思うようになった。そうなることが暗示られている気がしてならないのだ。


 嫌なものが胃から込み上げてきた。

 誰かに、すがりつきたい。助けて欲しい。

 なのに、それが許せない自分がいる。

 誰か……千里。

 そう、千里をほったらかしにしていたことを思い出した。


 僕は急いで千里のいる部屋へと向かった。

 部屋の中は静まり返っていた。

 元々誰もいなかったんじゃないのか。

 そんな不安がよぎった。

 クローゼットの前に立ち、取っ手を握る。

 心臓が、嫌なゆれ方をする。一呼吸置いて一気に開いた。

 千里は、壁にもたれかかって眠っていた。


 規則正しく寝息をたてている。

 なんとなく起こしたくないと思った。寝顔を見ていると、安心できる。さっきまでもやもやしていた気持ちが、少しだけ晴れた。

 安心できるのは、千里が僕を信頼しているからだろう。


 僕は、自分の中で千里の存在が大きくなっていくのを、認めたくなかった。

 千里はいつか消えてしまう。そんな気がするからだ。


 千里を起こさないようにそっと抱えあげた。

 随分軽い。

 そのまま寝室へ運び、ベッドに寝かせた。

 千里は煩わしそうに寝返りをうった。



 秒針の進む音が聞こえるほどに、部屋は静まり返っている。

 読みかけの小説も、いよいよ佳境に入った。

 戦争で離れ離れになった二人がようやく出会う。一途に想い続けていた男とは裏腹に、女は結婚していた。

 勇気をだして一歩進めば二人はやり直せる。しかし、常識がそれを拒む。

 もう会わない。そう決めるや否や、諜報員である主人公に暗殺指令が下った。目標は彼女と、その旦那だ。

 彼女は男の消息を探るために西側のスパイとして活動していた。男が死んだものだと諦めた彼女は、偽りの人生を、本物の人生として生きることにしたのだ。

 男は銃を握りしめる。

 仕事なのか私怨なのか、わからないまま、男は葛藤する。


 まるで救いようのない話だ。


 丁度ページをめくった時、千里が居間に現れた。


 「ごめんね。寝ちゃった」

 「いいよ。お腹空いたろ。なにか食べる?」

 「うん。お母さんは?」

 「もう帰ったよ」

 「そうなの」


 僕は立ち上がって台所へ向かった。

 今日は食材が豊富だ。

 ジャガイモの皮を剥いて、四角く切る。

 八千に触発されて味噌汁を作りたくなったのだ。

 ついでに新しい味噌も試してみる。

 私も手伝う、と言って千里が隣にきた。


 「お母さん、どうしたの?」

 「増田のことだよ。あとは世間話」

 「そっか」

 「うん」

 「……」

 「千里のことバレてるみたいだったよ」

 「え!?どうして」

 「母親の感ってやつじゃないかな」

 「そんなあ、どうしよう」

 「今度紹介しろってさ。彼女だと思ってるんだよ」

 「……彼女!?」

 「違うって言っておいたよ」

 「……そうだよね」


 会話が途切れた。

 お互い台所に向かっているから、顔は見えない。

 鍋の沸く音が場を紛らわせた。


 「これ運んで」


 盛りつけた料理を千里に渡して、自分ように味噌汁を用意する。

 千里が戻ってきた。


 「川俣さんのぶんは?」

 「僕はもう食べたからいいよ」

 「なに食べたの?」

 「母さんが買ってきたお弁当」

 「わたしも一緒に食べたかったな」


 千里は残念そうに言った。

 心なしか口数が多い。


 「いただきます」

 「いただきます」


 千里は料理に箸をつけた。

 僕は味噌汁の熱さに耐えかねて、しばらく待つことにした。


 「美味しいね、これ」

 「そう、よかった」


 独りだけ食事をしているというのは少し気まずいものがある。

 テレビをつけた。


 「今更だけどさ、千里はどうして僕に会いにきたの?」

 「秘密です」

 「いつまで秘密なの?」

 「ずっとです」

 「僕は、千里のこと何も知らない気がする」

 「お父さんは公務員。お母さんは専業主婦。お姉ちゃんはこの前会ったでしょ。わたしは高校三年生で、今夏休み。誕生日は10月7日のA型。好きな食べ物はカレーだよ」

 「へえ、A型なんだ。ってそうじゃなくて」

 「そうじゃなくて?」

 「いまいちわからないんだよ。千里がどうして僕といるのか」

 「わたしは川俣さんのこといっぱい知ってますよ。掃除が苦手で料理が得意。見た目によらず繊細で、いつも本を読んでるかネットばかりしてて、引きこもり気味で、たまに優しい。そんな川俣さんだから一緒に居るの。わたしが川俣さんといるのは、川俣さんと同じ気持ちだからだと思うよ」


 僕が千里といる理由。

 そんなものは考えたこともなかった。

 居るから居る。それだけではなかったのか。

 たしかに追い出すチャンスはいくらでもあった。なのに、それをしなかったのは……千里と一緒にいたいと思ったからだ。

 それは事実に違いない。

 だけど、それを認めてしまったら。


 「そ、そんなに考え込まないでよ」

 「……え?ああ。そうだね。まあいいか」


 そう言って笑ったものの、やはりどこか腑に落ちなかった。

 千里が立ち上がって食器を台所へ運んでいくのを見ながら考え続けた。

 しかし、答えはでなかった。

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