第28話 籠の中の鳥
目が覚めたのはチャイムの音でだった。時間は十八時を回ったところだ。
誰かが訪ねてくるにしては遅い時間だ。
起き上がろうとして布団がかけてあることに気がついた。
布団から抜け出そうと曲げた足に何かがぶつかる。同時に痛っ、と声をあげた。
千里が足元にもたれかかって眠っていたらしい。
寝ぼけた顔で怒っている千里を無視して受話器を取った。
「はい、どちらさまでしょうか」
「私よ、開けて。荷物がいっぱいあるの。手伝いなさい」
聞きなれた声。
母さんだ。瞬時に冷や汗がでた。
こっちを見ている千里に向けて、静かにしろとジェスチャーを送った。
「今行くよ。ちょっと待ってて」
受話器をかける。
不測の事態だ。
まず目の前で不思議そうな顔をしているこの子をどうにかしなければならない。
「千里、母さんがきた」
「ええっ。どうしよう。ねえ、川俣さんどうしよう」
「しー声がでかい。とにかく、クローゼットにでも隠れてて。こっちは僕がどうにかするから。頼んだよ」
「わかった」
千里は忍び足で走っていった。
居間には千里の痕跡はない。
急いで玄関へ向かった。千里の靴を靴箱に放り込む。またチャイムがなった。
後ろを振り返って千里がいないことを確認し、ドアノブに手をかけた。
久しぶりに会った母は、両手に荷物を抱えて仁王立ちしていた。
「早く開けないさいよ。ほら、これ持って!」
「ごめん、寝てたんだ」
そう言って僕は、母の荷物を受け取った。どうにも悪い予感しかしない。というより、悪い雰囲気をヒシヒシと感じる。
「か、母さん、どうしたの急に?」
「私が私の家に帰ってきちゃ悪い?」
靴紐をときながら母は言った。
顔が見えないだけに不安が増大する。怒っているのはまず間違いない。
「……悪くないけど」
立ち上がった母の後ろを無言でついていった。
母はドアを開けるなり居間をぐるっと見回した。
「思ったより綺麗にしてるじゃない」
「ま、まあね」
千里が掃除をしているのだから当たり前だ。
母は疲れた様子で食卓の椅子に腰をかけた。
「さて、話があるわ。座りなさい」
座りなさい。と言われても座りたくはない。
母が千里に気づいた様子は無かった。つまり、残っているのは、あれについての話だけだ。
逃げ場もない僕は、仕方がなしに母と向き合って座った。
「なんの話かわかるわよね?」
「うん、まあ」
「先生から連絡来たわよ。なんで暴力なんてふるったの」
イジメられていた。いや、イジメなんて大それたものではない。
第一、イジメられていたなんて言いたくもない。
馬鹿を懲らしめた。嫌がらせをされたから殴った。ムカついたから殴った。とにもかくにも増田が悪い。
どう言っても悪いほうに転ぶ。
僕は言葉につまった。
「……はあ。だいたいの事情は先生から聞いてるわ。事情がどうであれ、あんたのしたことは悪いことよ。わかってるの?」
母が何をどう聞いたのか知らないが、少なくとも一方的な加害者ではないことを理解しているらしい。
「やりすぎたとは思ってる。けど、悪いとは思ってない」
正直な気持ちだった。
暴力に罪悪感を感じているが、増田に悪いと思ったことはない。
ただ、暴力という行為が良心に反しただけだ。
「あのね、暴力を振るった時点であんたが悪いの。過程なんて関係ないの。私や先生がなんのためにいると思ってるの?相談すればよかったでしょ」
「相談したところでどうにもならない。学校ってのはそういう場所だろ」
「そういうことは相談してから言いなさい。今日、増田君のお母さんが来るからね。きちんと謝るのよ。いい?」
「ああ」
「本当にわかってるの?」
「わかってるよ」
話はそこで、一旦終わった。
母があまり僕を責めないのは、やはりイジメられていたと思われているからだろう。
同情されているのだ。
そう考えると、少し惨めな気持ちになった。
母は溜め息混じりに立ち上がって、台所へ行った。
目の前の重石が消えると、途端に千里が気になった。いつまでもクローゼットに押し込んでおくわけにはいかない。
かと言って母がいる限りどうしようもない。泊まると言いだしたらどうしようか。増田の親が来たらどうしようか。
僕の精神的なキャパシティーは限界に近かった。
母がコーヒーを手に戻ってきたとき、丁度チャイムが鳴った。
僕にはその音がクラシック音楽の最後の一音のように、虚しく響いた。
急かす母の後ろについて、玄関へ向かう。
ドアを開くと、ムスっとした顔の女性が立っていた。その後ろでは、包帯を巻いた増田が怯えた目で俯いていた。
母はなんども申し訳ありませんと繰り返し、頭を下げた。
「あんたも謝りなさい」
そう言って母は僕の頭を押した。
「すみませんでした」
誠意を込めなくとも誠意があるような声をだすことはできる。
「謝る相手をわかってるのかしら」
呆れたように増田の母は言った。
僕は増田のほうに向きなおして、じっと彼を見た。一瞬目を合わせてすぐに伏せる。
俯いているのは恐怖心からではなく罪悪感からだろう。誰が一番悪いのか、誰よりもわかっているのは増田自身のはずだ。それが分かるだけの頭は持っていたのだ。
「ごめんなさい」
僕はそう言って淡々と頭を下げた。
増田は何も答えなかった。
増田の母はその後十分ほど文句を言って帰っていった。終わったあとの母の顔は疲れきっていた。
治療費をこちらでもつ。
それだけで事はすんだ。思ったよりも、めんどくさい事態にはならなかった。
「もう、馬鹿なことはしないでちょうだいね」
母は心底うんざりした様子でそう言った。
「あんたが全部悪いとは言わないわ。お母さんはあんたの味方だから。でも、社会じゃ通用しないこともあるの。よくわかったでしょ」
「はい」
「お弁当買ってきたからご飯食べましょう。私最終の電車で帰るからね」
食卓では、あまり話すことが無かった。学校の話題はお互いに避けた。残された話題は、父親の様子や世間話だけだ。
父は相変わらず元気にしているとか、最近は地震が増えたとかそんなことを話た。
夕飯を食べ終えると、母は身支度を始めた。
「これ、おばあちゃんからもらった野菜だから食べなさい。そっちにはお菓子が入ってるから」
袋の中身を次々に取り出す。
持ってきた荷物の九割は食料品だった。
母の説明を聞きながら、この内何割を腐らせるだろうか、そんなことを考えていた。
ようやく説明を終えた母は、それじゃあ行くわね、と言って玄関へ向かった。
僕は見送りについて行った。
靴を履く母の背中を見て、そこはかとなく寂しさを感じた。
久しぶりに構ってもらった籠の鳥みたいなものだ。また一人になる。
「彼女……今度帰ったとき紹介しなさいよ」
立ち上がった母は、振り向いてそう言った。
「え、なんのこと?」
「とぼけなくていいわよ。それくらい分かるわ」
「……いや、彼女というか、その」
困惑する僕を見て、母は笑った。そして、そのまま、じゃあね、と言い残し出ていった。
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