第25話 歪み
しばらくドアの前に立っていた。
開けるべきか迷った。しかし、他に行く宛もない。
鍵を差し込んでゆっくり回すと、今日に限って、すんなりと開いた。
「ただいま」
呟くような声で言った。
千里は出迎えに来なかった。居間から音が聞こえる。
千里は寝そべってテレビを見ながらシンクロ選手のように脚をパタパタさせていた。
「……なにやってるの?」
「……う、運動?それよりどうしたの川俣さん、学校は?」
「まあ、色々あって。ちょっと疲れたから部屋で寝る。鍵ここに置いておくから、出かけるなら戸締まり忘れないで」
「うん、わかった。あの……大丈夫?」
「大丈夫。おやすみ」
「おやすみなさい……」
千里は心配そうに僕を目で追った。
今すぐにでも逃げだしたかった。しかし、家の中に逃げる場所などない。
部屋へ入って寝間着に着替えベットに潜り込んだ。眠れそうになかった。
ただ、目を閉じてじっとしていた。
楓先生、須藤、増田のごめんなさいという言葉が頭の中で何度も繰り返される。
なにか情報が欲しかったが、パソコンを起動する気にもなれなかった。
心臓の鼓動だけに神経を集中させた。
ドクンドクンと波打つ音が、やがて静まって、起きているのか寝ているのかさえもわからなくなった。
かなりの時間、夢と現実の狭間をさ迷っていると、千里が部屋に起こしにきた。
「川俣さん、起きて。お客さんだよ」
「客?誰」
「千代さんと佳菜子さん」
「八尾さん?……わかった。あがって待っててもらって」
体を半分起こして千里の顔を見ると、どうも不機嫌そうな気配が漂っていた。
「もうあがってもらってますよ。早くしてね」
そう言って千里は部屋を出ていった。
千代はともかく、八尾さんは何をしに来たのだろうか。
上着を着て居間へ向かった。
千里達はテーブルを占領して談笑していた。
席は一つ残っている。けど、そこに座る気になれなかった僕は、いらっしゃいと声をかけてソファーに腰をおろした。
「川俣君、一人暮らしだったんだ。羨ましいな」
八尾が言った。
「二月に一度くらい、母親が帰ってくる。一応ここが家だから」
「そう。ご両親はどこに?」
「父親が単身赴任で出て行って、母親も仕事でそっちに行ったよ」
「そうだったの?」
なぜか千里が驚いていた。
そういえば、千里には両親のことをなにも話していない。
一緒に住んでいて気にならなかったのだろうか。
「それより、どうしたの二人して?」
「佳菜子が川俣君に用があるって言うから、案内ついでに二人で来たんだ。ごめんね、急に押しかけて」
「いいよ。気にしないで」
気まずい空気が流れた。
僕は立ち上がって台所へ行き、コーヒーメーカーの蓋を開けた。
フィルターをセットして挽いた豆を盛る。水を注いで、蓋を閉じた。
スイッチを入れると、水が沸騰して蒸気をあげる。
滴り落ちて底に溜まっていく黒い液体をじっと見つめた。
氷を入れたグラスを用意して、淹れ終わるのを待った。熱いコーヒーは苦手だ。
グラスにコーヒーを注ぐと、ピシッと音を立てて氷が割れた。氷に熱いお湯をかければ、当然の結末だ。
ソファーに戻ると千里が口を開いた。
「川俣さん、聞きましたよ。停学になるなんて。乱暴はダメです。よくないことです」
「うん、ごめん」
「わたしに謝られても困ります」
千里は頬を真っ赤にして怒っていた。
千里の話が終わるのを待っていたかのように、八尾が口を開いた。
「千代が増田君のことを少し川俣君に話したって言うから、もしかしてそのせいかと思って」
「違うよ。僕はただ増田が気にくわなかっただけで八尾さんは関係ない」
突き放すように言い捨てた。
実際あれは、僕と増田の問題だ。
「関係あるよ。私、増田君とつきあってたんだ。一年生のとき声をかけられて、それから……。好きな人は他にいたの。けど、その人は気づいてくれなかった。遊ばれてるだけだってわかってたけど、増田君とつきあったわ。酷い人だけど、最近ようやく好きになれそうだった。増田君、鼻にひびがはいって、しばらく休むって。もう学校にも行きたくないって言ってる。私、川俣君を許せそうにないよ」
八尾が語気を強めて言った。
どうして、そんなことをわざわざ僕に言いに来たのかわからなかった。
恨みたいなら勝手に恨めばいいんだ。
「増田が僕にしてたこと知ってるんだろ。八尾さんに悪意があって増田を殴ったわけじゃない」
「そんな話をしてるんじゃないの。川俣君はいつもそう。弱いふりをして面倒事を避けてる。臆病なふりをして人を拒絶してる。俯いたふりをして人を見てる。分からないふりをして分かってる。君は、本当は強くて、孤独なんか苦にもしてないでしょ。人を助けるだけの力を持っているのに、誰も助けようとしない。私は、ずっと一人が嫌だった。川俣君に助けて欲しかった。それなのに、どうして今頃。今更助けるなら、最初からほっておいてよ……」
そう言って俯いた八尾の目から何かがこぼれ落ちた。それが脇から抜けた西日を受けて一瞬だけキラっと光った。
泣いているのかもしれない。
僕の場所からは、逆光でよくわからなかった。明るい部屋とは対象的に、暗い八尾の姿だけが見えていた。
沈黙が続いた。
遠くを、車が走っている音が聞こえる。
千里も千代も口を開こうとはしなかった。
何か言ってやりたかった。
それでも、言葉は出てこなかった。
「ごめん、私帰るね」
八尾は立ち上がって言った。
送ろうかと声をかけたが、いいと言って八尾は出ていった。
追いかけるように千代が出ていき、僕はまた千里と二人きりになった。
「佳菜子さん、泣いてたよ。いいの?」
「いいのって、何が?」
「それは……わからないけど、このままじゃよくないよ」
「どうしたらいいのかわからない。だから、このままでいい」
言い捨てて、部屋に戻った。
友達を一人失った。それだけのことだ。
どんなに理屈をこねたって、事実は変わらない。
パソコンと向き合ったまま、一日が終わろうとしていた。
千里がドアの前に置いていった夕飯には、コーヒーゼリーが添えられていた。
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