第23話 罪

 翌日学校へ行くと、机のうえに濡れた雑巾が置いてあった。

 増田はニヤニヤ笑いながら僕を見ていた。いい加減にうんざりした。

 どうしてこうなるんだ。

 僕を追い込んで誰が得をするのだろう。些細ないたずら、クラスに馴染まない者へのちょっとした嫌がらせ。

 子供が虫を踏み潰すような真似だとしても、他人に敵意を向けたなら殴られても仕方がない。

 それなのにどうして、こいつは、檻の中の動物を相手にしているみたいに、平然と僕を見ているのだ。

 つまらない満足感を得るために、自分の身を危険に晒している自覚はないのだろうか。

 ルールに守られているせいで、暴力がこの世に存在しないものだと思い込んでいるのだろうか。

 罰を受ける覚悟さえあれば、誰にだって暴力を行使することができるのだ。


 僕は増田の席へ歩み寄った。

 増田が仲間と目を見合わせて、笑い声をあげる。


 「なんだよ。俺が何かしたか?」


 増田はのけぞってそう言った。


 ワックスで固めた髪、甘ったるい香水の臭い、全てに反吐がでる。

 肋の浮きでそうな細い体で虚勢をはる姿は滑稽でしかない。こんな奴のために、罪を背負うのかと思うと涙がでそうだ。


 僕は、増田のブレザーの襟首を後ろから掴むと全身の筋肉に力を込めた。

 血液が巡りすぐさま筋肉に送り込まれる。

 体重はおよそ六十キロ。

 普段扱っているトレーニング器具よりもはるかに軽い。

 一息に腕を引くと、増田は二メートル程飛んで、机にぶつかりながら床を転がっていった。

 誰もが唖然としていた。

 千代が駆けつけてきて僕の前に立ちふさがった。


 「ちょっと川俣君、何してるの!」

 「千代、どいて」


 そう言って僕は千代を払いのけた。

 全身の筋肉が喜んでいるのを感じる。興奮が一気に高まる。

 止められる訳がなかった。

 僕はそのまま増田の髪を掴んで廊下に引きずりだした。

 手を離すと、増田は蛙のように跳ね起きた。

 何が起きたのかわからない、という顔をしている。


 「僕が憎いなら殴れよ。僕は、お前に屈しないために、お前を殴るから」


 言って僕は身構えた。


 「ふざけんな、てめえ」


 そう言って増田は、僕を睨みつけた。

 増田は、まだ心が折れていない。

 心の底で、自分は悪くないと思っている顔だ。クラスの異物を排除しようとした。それの何が悪いのかと考えているに違いない。

 何も悪くはないが、排除される方にだって抵抗する権利はあるのだ。


 増田が叫声をあげて殴りかかってきた。それをそのまま顔で受け止めた。

 鼻血がでた。痛くはない。

 子供みたいな拳だ。

 増田は身構えたまま固まっていた。人を殴ったことなんて無いのだろう。


 「なんだ、殴れるじゃないか。それでいいんだよ。それがお前のやるべきことだろ。気に入らないやつは殴れよ。人を傷つける罪悪感というのはいい気分だろ。そいつがいつか、お前をダメにするんだ」


 増田は、キチガイを見るような目で僕を見ていた。

 脅えが表に現れて体を震わせている。

 狂っているのはこいつの方だ。

 狂った人間には、それがわからない。

 顎を狙って短く掌蹄を突き上げた。

 一瞬、動きが止まったところに横から肘を叩き込む。

 増田は受け身もとらず倒れ、ヒュッと息を吐いた。嫌な感触だった。

 

 「どうした、君にとって僕は虫けらも同然だろ。今までみたいにやればいいんだよ。そうじゃないと、僕が君を気持ちよく殴れないだろ」


 増田は呻き声をもらして鼻血を吐き出した。

 床にできた血溜まりの上に、這いずった跡が残る。

 時折、豚のような声をあげて血を吐き出す。血が喉を塞いでいるのだろう。


 「立てよ増田。お前が正しいと思うなら、そいつを押し通せ」


 立ち上がった増田は目に涙を浮かべていた。

 興が削がれると同時に興奮が冷めた。

 もう罪悪感しか感じることができない。

 泣きながら向かってくる増田をローで牽制する。崩れ落ちたところに膝を入れた。


 手加減はした。まだ立てるはずだ。

 それなのに、増田は立たなかった。

 顔を手で抑えながら、ごめんなさいと言った。

 憂鬱だった。

 何も考えず、嗚咽を漏らす増田を見下ろしていた。

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