第19話 一旦さようなら

 学校を休むつもりだった。

 休むつもりだったのに千里に起こされた。

 時計の針は七時を指していた。

 居間へ行くと八千が朝食を作って待っていた。ここ何日か、ろくに自分で料理を作っていない。

 八千は僕の頭に視線をやり、昨日のお詫びだと言って笑った。


 「さっぱりしたね川俣さん。こっちのほうが断然いいよ」


 千里が言った。

 一瞬なんのことか理解できなかったが、すぐに髪を切ったことを思い出した。


 「ああ、うん。ありがとう」

 「ついでに髭も剃ったら?」

 「そうしようかな」


 髪や髭のことなんて眠たさに比べればどうでもいいことだった。

 機嫌が悪いと勘違いしたのか、千里はやけに口数が多かった。

 遮るように八千が料理を運んできた。

 卵焼きと焼き魚に味噌汁。

 なんだか家庭的だ。


 「ごめんなさい川俣君、怒ってる?」

 「いや、全然気にしてないですよ。むしろさっぱりしました」


 酔いが抜けた八千はしおらしくなっていた。


 「ならいいんだけど。さあ食べて」

 「いただきます」


 卵焼きをつまんだ。

 結構いける。

 八千に彼氏が出来ないのはきっとこの料理のせいだ。食べると家庭に縛られるという気が起こる。

 結婚したくて彼女をつくる男なんて存在すると思えない。


 「僕は今日学校だけど、千里さんどうする?」

 「うーん、お姉ちゃんからお小遣いもらったし、観光してこようかな」

 「一人で大丈夫?」

 「大丈夫だよ。私の住んでる頃とそんなに街並みは変わってないし」

 「八千さんは?」

 「私は川俣君と一緒にでてそのまま仕事に行くよ」


 正直ほっとした。

 八千まで居座られると身が持ちそうにない。

 ごちそうさまを言って洗面所で顔を洗った。ついでに髭もあたると、鏡に映った自分が知らない人のように見えた。


 制服を着て居間へ戻る。

 二人とも支度ができていた。千里が立ち上がるのを待って、三人一緒に家をでた。 千里が駅の方へ向かうというので、僕は八千と二人きりになった。

 昨日のこともあって、少し気まずい。

 お互いに黙ったまま、黄色くなった銀杏の葉の上を並んで歩いた。


 「昨日は久しぶりに楽しかったなあ」


 語りかけるともなく、八千が先に口を開いた。


 「結構飲んでましたね。八千さんの職場こっちなんですか?」

 「職場はどこからでも行けるのよ。あっちに戻る前に川俣君にお別れの挨拶しようと思って」

 「羨ましい職場ですね。また暇なときにでも遊びにきてください」

 「うん。川俣君、千里のことよろしくね。あの子といれば君にとってもきっといい未来になると思う」

 「はあ、わかりました。まあ千里さんはしっかりしているし心配ないですよ」

 「そうだね。心配なのは君くらいか。いくら若いからって間違いだけはおかさないようにね。若さは言い訳にならないわよ」

 「……はは、だいじょうぶですよ」


 しっかりと釘を刺された。

 最初からそんな気はないにしても、釘を刺されてしまった以上、それは曖昧な未来ではなく確定されてしまった未来だ。

 昨夜のあの一瞬を経て、少し認識を改めたのか、ようやく僕が男だということを理解してくれたらしい。


 「それじゃ行くね。さようなら川俣君」


 隣にいた八千の気配がふいに消えた。

 顔を上げて辺りを見回す。

 電柱に銀杏、自動販売機と子供の声。

 そして、八千の香だけが残っていた。

 僕は背筋に冷たいものを感じながら、その場を離れた。

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