第18話 楽しいわが家
家に帰ってほっとした僕は、荷物をテーブルに置いて一息ついた。
八千は、煙たがる千里を執拗に構っている。仲のよい姉妹だ。
いつもなら静まり返っているはずの我が家が、急に賑やかになった。家も喜んでいる気がした。
それなのに、あまり心地の良いものではかった。
僕はこの家に根を張ったカビみたいなものだ。人間とカビ、住人としてどちらが優先されるかなんて比べるまでもない。
テーブルの脇に置いてあるプミラの葉に、指先で軽く触れてみた。
少し乾いてる気がしたので水をやった。暖房をつけると部屋が乾燥する。こまめに様子を見てやらないと枯れてしまう。
千里を構っていた八千がこちらにきて袋からビールを取りだした。
「さて、飲もうかな。ごめんね、私だけ飲んじゃって」
そう言った八千の顔にはむしろ優越感が漂っていた。
「いいですよ別に。千里さんも何か飲む?」
「わたしは牛乳がいい」
そして三人で卓を囲んだ。
「ねえ川俣君、飯田一正って知ってる?」
「知ってますよ。知らない人の方が少ないでしょ」
邦画界で演技派だと絶賛されている若手俳優だ。僕には今一どこら辺が演技派なのかわからなかった。
「飯田一正って誰?」
「この時代の俳優さん。かっこいいんだから。見たら千里もきっとファンになるよ」
「ふーん、あまり興味ない。お姉ちゃんそんなんだから彼氏できないんだよ」
「私が悪いんじゃなくて皆が見る目ないの。別に彼氏なんていなくても困らないし」
ビールを手でくるくる回しながら八千は言った。
すでに顔が赤くなり始めてる。あまり酒に強くないのかもしれない。
「そういえば川俣君、彼女はいるの?」
「あっ、それわたしも興味ある」
千里は身を乗り出して目を輝かせた。
突然話を振られた僕は、しばらく固まっていた。
「いませんよ」
「ええ?けど年頃の男の子だもの、仲のいい子の一人や二人いるんでしょ?例えば放課後の教室で語り合ったりとか、一緒に下校したりとか」
「一人も二人もいませんし、そんな相手もいません。第一僕は友達すらいないし女性にモテるようなタイプでもありません」
言って千代のことを思い出した。
少しギクリとした。
「そうかな。川俣君、顔はそんなに悪くないと思うけどね。きっと君は他人を受け入れようとしてないんだよ。だから川俣君と仲良くなりたいと思ってる人がいても近づけないの……なんて月並みな意見だけどね」
「そうだよ。川俣さんは心まで引きこもりなんだから」
なんだか酷い言われようだった。話の矛先が自分に向いていることを危惧した僕は、そのまま千里に話を降った。
千里は慌てて否定した。
「あら、もうこんな時間。千里そろそろ寝なさい。川俣君の相手はお姉ちゃんがしておくから」
「うん、そうしようかな。お姉ちゃんあまり川俣さんに無理させちゃダメだよ。明日学校なんだから。川俣さんも無理してお姉ちゃんにつき合わなくていいからね。それじゃ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
千里の言葉で、明日学校だということを思い出した。
遅刻したところでとくに困りはしないのだが。
「そういえば八千さんは、明日仕事ないんですか?」
「勿論あるわよ。仕事なんて行きたくないけどそういう訳にもいかないしね。働かないとお酒も飲めなくなっちゃうし」
そう言って八千は退屈そうな目で僕を見た。
仕事をした事がない僕には彼女の気持ちがわからない。気の利いた言葉すら持ち合わせていなかった僕は、気まずくなって目をそらした。
伏せた目の前に八千の白い手が現れて、僕の前髪をそっと持ち上げた。
丸裸にされた目は、逃げ場を失って八千を視界におさめた。彼女は身を乗り出して、僕を見ていた。
顔が近い。
酔っているせいか目が潤んでいる。
白い肌に、紅潮した頬がなまめかしかった。
どうしてこうなっているのかわからない。
ただ、彼女が何を望むにしても、僕はそれを受け入れてしまうということだけがわかっていた。
「いいこと思いついちゃった。ハサミある?」
「え?」
思わず気の抜けた返事をしてしまった。
どういうわけか、八千が僕の髪を切ることになったのだ。
僕はポリ袋を被って照る照る坊主のような格好で座らさせられた。
「本当に切るんですか?」
「大丈夫。いつも千里の髪切ってあげてるのも私なんだから。安心して」
酔っ払いの言葉ほど信用できないものはない。
千里はいつもこんな調子の姉につき合わされているのかと考えると気の毒になった。
「わかりました。けど変にしないでくださいよ」
「だいじょうぶだいじょうぶ」
八千は嬉しそうに言って、躊躇せずざっくりと髪に刃を入れ始めた。
パラパラ落ちる髪を見て、何か別の、大切なものまで切られているような気がした。
「はい、できた。随分男前になったよ。鏡見ておいで」
「……行ってきます」
廊下にでた。不安が募る。
やっぱり止めれば良かったと後悔した。
どちらにしろ、ご機嫌な八千に止めろと言える気がしない。これは運命なのだと受け入れて、脱衣所の鏡をのぞき込んだ。
案外、普通だった。念のため鏡を合わせて後ろを確認してみる。
後ろも普通だ。
安心するのと同時に、身軽になったような気さえした。
居間に戻ると八千はソファに倒れ込んで眠っていた。
部屋の中は、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静まりかえって、八千の寝息だけが響いていた。
短くなった頭に手をやる。これからの季節にはちょっと寒そうだ。
落ちた髪を箒で集めてゴミ箱に放り込んだ。八千に毛布をかけて、音を立てないように自分の部屋へ戻った。
なかなか寝つけそうになかった。
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