第7話 野良猫

 そろそろ家に帰ろうかと腰を上げたそのとき、大きな石を水面に叩きつけたような音が響いた。


 咄嗟に、嫌な予感が頭をよぎる。

 自殺か、事故か。


 草木を掻き分けて川縁に走り寄ると、僅かに赤くなった中洲が見えた。

 茫然と立ち尽くす人の姿が、燃える枯れ草に照らし出されていた。

 そして、糸の切れた人形のように倒れた。


 目の前で人が死ぬ。そんなことは絶対に避けたい。


 躊躇せず上着を脱ぎ捨てて、川に飛び込んだ。

 十月の水は酷く冷たかった。

 ぬかるんだ石に足を取られ、何度も転びそうになった。

 腰かさまである水が行く手を阻み、真っ直ぐ進むことができない。


 ようやく中洲にたどり着いた頃には、火は収まりちらちらと赤く余韻を残すだけだった。

 中洲の外れで半分水に浸かりながら、少女は眠るように倒れていた。


 見たところ火傷も外傷もない。

 少しだけ安心した。

 しかし、外傷が無いからといって無事なのかは分からない。

 女の子を背負い、急いで岸に戻った。


 岸にたどり着くと、芝生の上に寝かせて脈をはかった。

 冷たい腕に触れると、指先に確かな鼓動が伝わる。

 安堵した瞬間、寒さと激痛に襲われた。


 あっちこっち擦りむいているし、服はずぶ濡れだった。

 濡れたシャツを絞り、また着込む。

 脱ぎ捨てた上着を探して少女にかけた。


 ズボンのポケットに入れていた携帯電話は壊れていた。

 救急車を呼んでこの場を離れようと思ったのに、面倒なことになってしまった。

 目を瞑ったままの少女は、まだあどけない顔をしている。

 僕より少し若いか、同じくらいの年頃かもしれない。

 こんな子が、自殺なんて考えるのだろうか。


 彼女を見つけた時、中洲は燃えていた。川の真ん中に火の気などあるはずがない。

 橋を見上げてみても、事故が起きたような様子はない。

 あたりは相変わらず静寂に包まれていた。


 自殺だとするなら、助けて良かったのだろうか。

 もしかすると余計なことをしてしまったのかもしれない。


 彼女には相応の決意があったはずなのに、僕がそれを邪魔した。

 助けられたところで、現実は変わらない。

 生きるのが辛ければ、死んだほうが幸せな人もいるのかもしれない。

 バカな考えだと思うが、他人が人生をどう捉えているかなんて、知りようがないのだ。


 救急車を呼んで、この子が自殺に失敗したという事実を世間に知らしめてしまえば、もう二度と、普通に生活するのは無理だろう。

 本人が気にしなくとも、周りがそういう風に扱ってしまう。

 どうしたら良いものか、迷った挙句に少女の頬を叩いた。


 どうせほっておけば川に流れて死んでいただろう。

 ちょっとほっぺを叩くくらいは許してくれるはずだ。

 ペチンッという音と共に、少女はハッと目を覚ました。


 「警察は呼ばないで!病院もダメなの!」


 僕の顔を見るなり、少女は叫んだ。


 「いや、常識的に考えてよ。大丈夫なの君?どこか痛くない?」

 「大丈夫だから……本当に大丈夫だから……」


 パニックになっているのか、マトモな返事は期待できそうになかったが、とりあえず無事そうではある。

 

 「大丈夫なら僕は帰るよ。いいね?」

 「それもダメ。その……お願い、ちょっとでいいからどこか休めるところに連れて行って……」

 「そんなこと言われても……」


 とにかく、僕はなんにしても一度家に帰りたかった。

 寒いし、この訳が分からない少女に付き合うのもうんざりしてきた。


 「それじゃあ家でいい?ちょっと休んだらすぐに出て行ってもらうよ」

 「ありがとう……」

 「自分で歩ける?」

 「うん。あれ……腰が抜けちゃってダメみたい」


 僕はあからさまな溜息をついて、彼女に背を向けて屈んだ。

 そして腕をとり、背中に背負いあげた。


 歩いている間、一言も話さなかった。

 そのせいか、いつの間にか眠ってしまったらしい。


 いくら軽いとはいえ、トレーニングの後に人を背負って歩くのは骨が折れた。


 少女をソファーに寝かせてタオルで頭を拭う。身体に触れる気にはなれなかったので、暖房を目一杯利かせて毛布をかけた。


 どうしたものか、考えが纏まらなかった。

 とにかく、目を覚ましたら、事情を聞かなければならない。


 明るい場所で見ると、少女は真っ白な髪をしていた。

 脱色しているのかと思ったが、根元から白い。

 どこか現実味のない雰囲気だった。


 幸せそうな顔ですうすう寝息を立てている彼女は、気絶しているというよりも、疲れて眠っているように見えた。

 色々と考えているうちに眠気襲われた。


 めまぐるしい一日で疲れたのか、すぐにでも眠ってしまいたかった。

 しかし眠ってしまう訳にもいかない。


 命に別状は無さそうだといっても、拾ってきた責任がある。

 頭を打っていたりしたら、すぐには影響がでないかもしれない。

 もう少し様子を見ていたかった。


 幸いにも明日は土曜日だ。

 僕はコーヒーを淹れて、一気に飲み干した。

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