第5話 トレーニング中毒

 「ただいま」


 いつも通り返事はない。


 薄暗い玄関を手探りで歩み、電灯のスイッチを押した。

 鞄をおろすと、今日一日の出来事まで下ろした気分になる。

 気分爽快とはまさにこのことだ。


 冷蔵庫からコーヒーを取り出して、颯爽と部屋に滑り込みパソコンに向かった。

 巡回先を一通り巡ると、すぐにやることが無くなったので、ニュースサイトを開いた。


 ニュースを読むと気分が滅入る。

 事件というものは、基本的に人の不幸帳だ。

 毎日毎日記事のネタが尽きない程に、世界は不幸で満ち溢れている。

 それを分かっていてもニュースを見るのは、情報を頭に詰め込むためだ。

 情報を頭に詰め込んでいる間は、この無駄によくから回る頭が回らないですむ。

 情報なら何でもいいのだから、ある意味で情報中毒なのだろう。


 幸いなことに、インターネットには、悪食の僕を満足させるだけの情報が溢れている。

 それも無料でだ。

 僕が得ている情報量をお金に換算すれば、両親が破産するハメになるだろう。

 しかし、広告の事を考えれば、搾取されているのはむしろ自分の方なのかもしれない。


 ニュースの読み方には拘りがあった。

 まずは最初に地域ニュースを見る。

 次に国内ニュース。海外ニュースを見て、口直しにテクノロジーニュースだ。

 見たくないものから見ることにしている。

 テクノロジーに不幸はない。

 あるのは失敗とそれに伴う人類の進歩だけだ。


 一つ面白そうな記事が目に留まった。

 読み出しには『タイムマシンの可能性』と書いてある。


 読んでみても内容はあまり理解できなかった。

 光とは関係ない別のアプローチが見つかったとか、そういう話なのだろう。


 過去を変える、もしもそんなことができるとするなら、僕はどうするだろうか。

 嫌な記憶が戻りそうになるのを、コーヒーと一緒に飲み込んだ。


 油断するとすぐにこれだ。

 心の奥底に閉まっておいた記憶が、ひょいと顔をだす。

 自制できないという意味で心は、僕の物であって僕の物ではない。


 なにか別の生き物のように、悪意を持って腹の底を這いずり回っている。

 こいつを殺すことができるなら、僕はどんな手段もいとわないだろう。

 いっそのこと出来るならば脳を切り取ってしまいたくなる。

 心というものはどうしてこんなにも厄介なのだろうか。


 再び余計なことを考えないように、情報の詰め込み作業を再開するため、雑談フォーラムを開いた。


 ここは長い歴史を持つ情報の墓場だ。

 気を紛らわすにはうってつけの場所だった。

 しかし、ここでも僕は、安心して気を休めることができない。

 姿の見えない幾万人という人々が残していった情報の跡には、僕の知っている誰かが書き残したことを予感させる言葉も含まれているからだ。


 そういう人とモニター越しに繋がったとき、時として死者が語りかけてきたような錯覚に陥ることがある。

 二年前に自殺してしまった友の記憶。

 決して消し去ることの出来ない記憶。


 それは僕にとって、とても危ういことだった。


 危険な臭いを避けながら、ネットを見ていると、一時間程で目新しい情報は尽きた。

 平日の夕方ということもあり、更新もない。

 ネットが賑わうのはもう少し遅い時間になってからだ。


 手持ち無沙汰になった僕は、ちょっと早めに市民体育館へ向かうことにした。

 ジャージに着替えて、上履きをリュックサックに詰める。

 忘れ物がないか確かめて家をでた。


 なんとなく始めたウエイトトレーニングだが長く続いている。

 オマケに始めたキックボクシング部も、部員一人で気楽なものだった。

 サンドバックとウエイト器具に向かっている間は、全てを忘れられた。


 それに、日頃から感情の起伏なく生きているせいなのか、身体を動かすときの血湧き肉踊る感覚が、欠乏していた興奮物質が脳に巡る感覚が、なんとも言い難く魅力的だった。

 完全に、トレーニング中毒になっているという自覚がある。

 そんな不純な動機で練習に打ち込んだおかげか、地区大会では二位になれた。

 しかし、試合にでるとスパーリングの経験が無い僕が一位になるのは、到底無理なことだと気づかされた。


 対人経験の少ない僕は、守りが下手なのだ。

 鍛えあげた筋肉でごり押しすれば、お遊び程度の相手には圧倒できたが、真面目に打ち込んでいる相手には勝てなかった。

 確か、木下公平とか言う名前だったか、お手本のようなキックを打つ男で、非の打ち所のない強さだった。

 ああいう純粋な人間に、僕のように不純な人間が挑むなんてことは、多分許されない。

 それ以来、大会にでるのはやめた。


 体育館についたので、受付で金を払う。

 受付の女性は、金を受けとって事務的に案内を述べた。

 何度も顔を合わせているが、話したことはない。

 他の客と世間話なんかしてる姿を見たことがあるから、大方愛想の無い客だと思われているのだろう。


 体育館は混んでいた。

 この時間帯は近隣校の運動部の連中だとか、体育系スクールの子供でごった返す。

 夜間部は腹のでた中年が女性トレーナーを口説いているくらいなのだが。

 ストレッチをしながら、早く出たことを少し後悔した。


 ウォーミングアップに20キロダンベルでフライを2セットする。

 ダンベルの重さを味わうように、丁寧に筋肉に血を流しこむと、脳が覚醒してくるのがわかる。

 全身の筋肉を動かし終えた頃には完全に興奮状態だ。


 意気揚々とベンチプレスに向かうと、同じ年頃のチャラついた四人組がベンチプレスを占領していた。


 腰をおられた僕は、早く交代しろという意志を込めて向かいの椅子に座った。

 彼らはこちらを見てニヤニヤしながら貧相な腕に力を込めて力瘤をアピールしている。

 こういう手合いは、不良を気取るために、たまに体育館に来てはトレーニングの真似事をするのだ。

 これだから午後の部は嫌なのだ。


 四人組の一人がベンチをあげているやつに耳打ちすると、バーを戻して笑いながらその場を離れた。

 やっとトレーニングを再開することができる。


 つけたままになっていたウエイトは、50キロだった。

 使った後は重りを戻す、という当然のマナーも知らない奴ならこんなものだ。

 僕はそれに加えて20キロを二枚、5キロを二枚足してトレーニングを始めた。


 お手並み拝見といった様子で見ていた四人は、興をそがれたかのようにどこかへ行ってしまった。


 自慢じゃないが、僕は着痩せするタイプだ。

 それに、とても強そうには見えない顔をしているからこういう輩に絡まれることが後を絶たない。

 さらに10キロを二枚追加してベンチを終えた。


 満足した僕は、更衣室で着替えて体育館を後にした。

 外に出ると、火照った体に風がひやりとして気持ち良い。


 この瞬間が最高に幸せだった。

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