第4話 優しくされると惨めだね

 予鈴がなり、午後の授業が終了した。


 やっと学校という閉鎖空間から解放され、僕は僕としての時間を生きることができる。

 最悪の一日は終わった。

 例え最悪の明日が近づいているとしてもだ。


 家に帰れば部屋に籠もれると思うと、ついつい足取りも軽くなり鼻歌なんて歌いながら帰路につこうというものだ。


 しかし、そうは問屋が卸さない。

 玄関に千代が待ち受けていた。

 玄関に千代がいることは、何ら不自然なことではない。


 むしろ玄関を通らない生徒などいないのだから、玄関にいる千代はたまたま帰るところで偶然僕に遭遇したにすぎない。

 彼女が立っている場所が、僕の下駄箱の前でなければ絶対に偶然のはずなのだ。


 一度彼女に定めた目線を足元に落として、どうか干渉してこないでくださいと神頼みしながら下駄箱へと向かった。


 「ねえ」


 何も聞こえなかった。


 「どうして無視するの」


 周りには他に誰もいない。

 これ以上誤魔化すのは小心者の僕には無理だった。

 僕は諦めて考え事でもしていたかのように装い言ってみた。


 「あ、千代。いたんだ。何か用?」

 「……久しぶりに一緒に帰ろうと思って」


 わかっているからあえて触れない。

 彼女はそういう人だ。


 「それは良い提案だけど、実は今日忙しいんだ。またの日にしようよ」

 「嘘」

 「嘘じゃないよ」

 「川俣君嘘つくの下手だよね」

 「……そうかもしれない。なんだって急に」

 「どうせ方向は同じなんだからいいでしょ」

 「……わかったよ」


 結局千代に押し通される流れになった。

 彼女が金魚に見えるのは、あくまでも学校の中でだけだ。

 一歩外にでれば誰だって同じ、ただの人でしかない。


 それに、女性と一緒に帰るというのは、どうもギクシャクして嫌だった。

 普段石ころのような僕が、女を連れて歩いているというだけで、ポストモダンの仲間入りするのだ。

 日陰から引っ張り出された虫のような気分になる。


 「機嫌悪そうですね」


 校門を出てから100メートル程無言で歩いた僕への評価だった。


 「なんで敬語」

 「なんとなく」

 「悪くないですよ」

 「左様ですか」


 自分から一緒に帰ろうと言ってきたのだから、せめて何か話題を振って欲しかった。

 これじゃまるで、僕がつんけんとしているせいで彼女を困らせているみたいじゃないか。


 「中学生の頃、この河川敷でよく遊んだよね」

 「あ、うん。そうだね」

 「あの頃の川俣君は元気だったね」

 「そのせいで溺れて死にかけたけどね」

 「高校に入ってから君の様子がおかしくて、私少し心配してるんだよ」

 「ごめん、けど大丈夫だよ。僕は元々こういう性格だったんだろ」

 「大丈夫ならいいんだけど。何かあったなら言ってよ。いつでも話しくらい聞くから」


 そう言った千代の目は、真剣だった。

 彼女は優しい。

 その優しさの裏に、何が隠されているとしても、僕なんかの心配をして実際に行動に移してしまう彼女は優しい。


 しかし、実のところ僕は、心配されることがとても嫌いだ。

 心配されているということは、つまり僕が、端から見て惨めな存在だということだからだ。

 僕自身は、自分が惨めな存在だと思ったことがない。

 これからもそう思うことはないだろう。


 自分という人間を考慮すれば、今の状態は満足すぎるくらいに充実している。

 一般的な人達のように、あれが欲しいだとか、これがしたいだとか思うこともほとんどないのだから、向上心を持つ必要もない。

 生命の根源的な欲求すら覆す、そんな僕が生きていること自体、奇跡に近いのだ。


 あえて言えば、僕は両親によって生かされている。

 そして、その事実が僕自身の命を僕だけの所有物にできない唯一の理由であり、僕が自分の人生に対して無関心になってしまう理由だった。

 それは、僕が社会的に子供である以上仕方がないことだ。


 だから、惨めに思うこともないし、無理に現状をどうにかしようとも思わない。

 ましてや、そんな事を彼女に相談などするわけがない。


 そのはずなのに、こうして彼女に心配されるだけで、僕は他人によって惨めな存在だと決めつけられてしまう。

 それがとても嫌なことだった。


 いや、これが千代以外の人ならば、つまらない言葉に心を揺さぶられることもないかもしれない。

 あまり認めたくないけども、僕はほんの少しだけ彼女のことが好きだ。

 好きだからこそ、心配させたくないと思ってしまうのだ。

 好きだからこそ、彼女を好きになる資格のない自分を、惨めだと感じてしまうのかもしれない。


 俯いた目線の先に落ちていた影を辿ると、千代の脚が見えた。

 華奢な脚だ。

 まだ午後の三時なのに長くのびた影が、冬の訪れを感じさせた。

 年頃の女子にしては短めの髪を揺らしながら、静かに歩いている千代の後ろ姿は、小さな子供のようだった。


 僕は彼女の背中を眺めながら、ここから逃げ出したいと思った。


 「どうしてそんなに離れて歩くの。こっちきなよ」


 そんな僕の気持ちに釘を刺すかのように、千代は振り向いて言った。


 「……うん」


 彼女は今、僕の影に触れている。

 僕は少しだけ身体を横に反らしてから、千代の隣に並んだ。

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