第六話 兄を見舞う
「それでは、わたしはあちらでお待ちしております。何かございましたら、すぐに駆けつけますゆえ」
エリファレットは生真面目な表情を崩さずに控えの間に下がった。
彼は相当自分を心配してくれているらしい。無理もない。母との一件があって以来、アウリールとエリファレットは彼女とシュツェルツができるだけ接触しなくてすむよう、気をつけている節があった。
あれから二年がたち、シュツェルツは少し大人になった。母に何かを言われたからといって、もう打ちひしがれたりはしないだろう。問題があるとすれば……。
(兄上との会話だな……)
シュツェルツは母を独占している兄が昔から大嫌いだった。斜に構えたところのある自分と違い、兄は性格がよい。その兄が常に優しく、好意的に働きかけてくる度、シュツェルツは惨めな気分になるのだった。
これから兄に会い、自分はどんな反応を示すのだろう。
シュツェルツはもやついた気持ちのまま、覚悟を決めて兄の部屋に通じる扉を叩く。
「シュツェルツでございます」
「……お入りなさい」
母の声だった。懐かしさを感じると同時に苦いものが込み上げてきて、シュツェルツはわずかに逡巡した。
警衛している近衛騎士が両開きの扉を片側だけ開ける。シュツェルツは急き立てられるように室内に入った。
奥の寝台脇にある椅子に母のマルガレーテが座り、こちらを見ている。シュツェルツは恭しくお辞儀をした。
「ただ今帰りました。お久しゅうございます、母上」
「ええ、久しぶりね。シュツェルツ、アルトゥルとの面会は手短にすませなさい」
自分は父だけでなく母にも嫌われているな。諦めに似た気持ちを隠しつつ、シュツェルツは真紅と金の錦のカーテンで覆われた、天蓋付きの寝台に向け歩き出した。
左右にまとめられたカーテンの内側に、兄のアルトゥルが仰向けに寝ていた。青い瞳が動き、こちらを認めると、血の気のない顔に弱々しい笑みが浮かぶ。
「シュツェルツ……久しぶり。待っていたよ」
シュツェルツは息を呑んだ。兄はこんなにも生気のない顔をしていただろうか。
「すまない。本当は起き上がって話をしたいところなのだけれど、侍医から止められていて……」
アルトゥルは本当に申し訳なさそうに言葉を継ぐ。
二年前までは熱を出している時以外なら上半身を起こして話し、調子がよければ起き上がって歩き回れたはずなのに。
「──いえ、兄上、どうかお気になさらず」
シュツェルツはそう応じるのがやっとだった。母が神経質になるはずだ。アウリールであれば正確な診立てができるのだろうが、兄が緩やかに死後の世界である神界へ旅立とうとしていることは自分にも分かる。
こういう時はどんな風に話しかけ、表情を作るべきなのだろう。今まで、アルトゥルに対しては常に仮面のような笑顔で接してきたのでよく分からない。
シュツェルツの戸惑いを読み取ったかのように、母が口を挟んだ。
「アルトゥル、やはりこれ以上会話するのはよくないわ。シュツェルツには帰ってもらいましょう」
「母上、わたしはもう少し、シュツェルツと話したいのです」
アルトゥルはしっかりとした口調で返答した。再び視線をこちらに向ける。
「シュツェルツ、シーラムで二年も過ごしたのだろう? おばあさまの国はどんなところだった?」
母が仕方なさそうに隣に置かれた椅子を目で指し示しながら、シュツェルツに声をかける。
「シュツェルツ、隣に座りなさい」
「はい……」
シュツェルツは座り心地のよい椅子に腰かけると、口を開いた。
「シーラムはとても美しい国でした。以前、僕の近衛騎士のエリファレット・シュタムが話していた通り、マレにはいない女性の騎士がおりました。彼はシーラムの血を引いているので、かの国に詳しいのです。マレとは違い、王宮の女官は女性の王族にしか仕えないというのも驚きでした。友人になった次期女王のマルヴィナ・クロティルダ殿下はとても美しい女性で……」
なんだか女性の話ばかりしているような気がしたが、アルトゥルはやつれた目元を楽しげにほころばせて聞き入ってくれた。
「そうか。マルヴィナ殿下は素晴らしい女性なのだね。それにとても可愛らしい。婚約者とお幸せになって欲しいね」
「はい。兄上がそうおっしゃっていたとお知りになったら、彼女もお喜びになると思います」
初めてできた友人を褒められたせいもあり、シュツェルツの胸に温かな光に似たものが灯っていく。兄と話をしていてこんな気分になったのは初めてだった。
どれくらい時間がたっただろう。扉を叩く音が響き、アルトゥルの侍医が現れたので、話は中断された。母が言い聞かせるようにアルトゥルに告げる。
「アルトゥル、今日はこのくらいにしておきましょう。シュツェルツにはまた来てもらえばいいわ」
「……はい」
アルトゥルは頷いたあとで、名残惜しそうにシュツェルツに目線を向ける。
「シュツェルツ、また来てくれ」
シュツェルツは考える間もなく答えていた。
「はい、兄上がお望みならば」
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