文学短編 2017〜2020年

迷いの森


 帰り道だとそう思ったのは、夜のせいかも知れないし、体の重さのせいかも知れない。


 俺は歩いていた……どこに向かえば良いのかもわからないままで、ただ歩いていたのだ。


 見上げれば、青白い満月が輝いている。


 その月光は曲げられて、夜空に映り逆さまの虹へと変わっている。


 森の空気は割れた鏡が散らばったかのように、逆さまの虹を無数に映して……


 それは夜空よりもずっと深く、澄き通った闇となって、辺りの空間を満たしていた。


 蒸し暑くも、寒くも感じない。


 足に伝わる感覚と、月夜を背景にした木々のシルエットが、今、俺は森の中にいるのだと、そう教えてくれていた。


 ――俺はふと気づく。


 俺が歩く先に、キツネが見えた。


「キツネ?」


 そう意識した瞬間に、音が生まれる。


 かん高い馬のいななきにも、鳥の声にも聞こえる無数の鳴き声が、四方八方から聞こえてくるのだ。


「ひっ!」


 引きった声を、俺は上げた。


 その俺に、悲鳴のような音たちの隙間を抜けて、キツネが力強い男の声で、その声を届かせた。


「こっちだ。」


 その声に従い、俺は走る。


 走るのに合わせて、足元の木の葉を弾いて、何かが走り抜けるのが見えた。


「う、うっわ、ああ……」


 俺は、自分でも間の抜けたと感じる声を上げた。


 そんな俺に、キツネがまた声をかける。


「よく見ろ。」


 俺は言われた通りに視線を足元へやり、意識を走り抜けたものの正体へと向けた。


 金色に光る目が、幾つか見える……。


 ネズミやリスといった小動物たちが、走る俺を恐れて逃げ去った。――ただ、それだけのことに過ぎなかった。


 それに気づいて周りに目をやれば、金色に光る目は無数に存在して、こちらを見ている。


 ただ、俺と同じ目の高さにあるその光は、決して小さな動物ではないことに俺は気づいた。


「う、わ……」


 俺は思わず、座り込んだ。


 熊や猪といった動物たちが、闇の中から俺を見ていたのだ!


 額には冷たい汗……俺がそれを感じ取ったとき、またキツネの力強い声が飛んできた。


「よく見ろ。」


 そう言われ、俺はまた意識を集中する。


 目とは向いている方向は同じでも、違う方向を向いているものだ。


 俺は一匹の熊の、俺を見ながらも下を向くその目を見て、それが不安の色を映しているのが見てとれた。


 そう気がつけば、熊にも猪にも、襲いかかる気配など見えはしない。


 俺が落ち着きを取り戻してそっと立ち上がれば、熊も猪も木々の間、闇の中へと消えていったのだ。


「こっちだ。」


 キツネの声に導かれ、再び俺は走る。


 闇がいっそう濃くなって、俺は何かに足を取られて転んでしまった。


 ――足に、何かがうのだ。


「うあっ。」


 悲鳴にもならぬうめき……俺は、どこに力を入れて良いかもわからず、ただもがいた。


 また、そんな俺にキツネの声が聞こえる。


「よく見ろ。」


 俺は意識を集中する。


 土、木の葉、枝や幹……当たり前のものが一つ一つ見えてくる。


 俺はただ木の根っこに足を取られ、つまずき転んだに過ぎなかった。


 そう俺が気づいたとき、森は夜の影から、枝や葉の集合体へと変わってゆく。


 満月はより大きく明るくなり、闇を満たしていた逆さまの虹は、今はただ一つ、夜空に浮かぶだけになっていた。


 そういえば……耳に響いていた甲高い声たちも、今は小さな虫の音に変わっている。


「こっちだ。」


 ――また、男の声だ。


 俺はいったい今まで、どこを走って来たのだろうか?


 木々の隙間、道らしい道は無かったのに、振り返れば獣道だが、なんとなく道が見えていた。


 前を向いても同じように、うっすらと道らしき道があって、その先に月光が注いでいる。


「こっちだ。」


 月明かりを背に、キツネの影が見えた。


 その方向に向かって、俺は歩く。


 すると、開けた場所……湖のほとりへと、俺は抜け出したのだ。


 月は眩しいほどに青白く、そして、見たことも無いほどに大きい。


 逆さまの虹は溶け、月光と夜空に混じり見えなくなっていたが、湖の水面みなもには、はっきりとその姿を映し出していた。


「足元の木の実を湖に投げ入れて願え。」


 もう、キツネの姿はどこにも無いが、その声が俺にそう伝える。


 俺はしゃがんで足元の木の実を拾い、その体勢のままで、それを軽く投げた。


 足元に、投げたはずの木の実が落ちる。


 今度は下手で腕を振り、木の実を飛ばす。


 だが、投げたはずの木の実は、またしても俺の足元へと落ちてきた。


「なんでだ!? どうして!?」


 嘆く俺に、男の声がかかる。


「何がしたい。」


「ただ、ただ木の実を投げ入れたいだけだ!」


「なら、そうしろ。」


 声にそう素っ気なく言われて、俺は木の実を一つ掴んで立ち上がる。


 そして、今度は体全身に力を込めて、大きく振りかぶって全力で投げた。


 小さな木の実は俺の込めた力に全く応える気など無く、ほんの少し飛んだ程度。


 だけど、それでも前には飛んでくれて、小さな水音を響かせた。


 そして、月夜に照らされた暗い湖に……


 そこに生まれた波紋に、逆さまの虹は上下左右に向きを変えて、水面みなもに揺らめき輝くのだ。


 そういえば……元々、虹はどの向きが正解だっただろうか?


 そんな疑問を抱いた俺は、闇の中にいた。


 わずかな光が見えるのは、少し見下ろす足元の先。


 そこに小さな月と逆さまの虹、揺れる水面が存在している。


「湖の中?」


 俺は、ありえない自分の居場所を意識する。


 すると、声が頭に響いた。


「願え。」


 ――何を願えば良いのだろうか?


 森に迷いたくないのか、道を知りたいのか、帰りたいのか、ただ、ここに居たくないのか?


 そんな願いになりきれない思いが、誰の声ともわからぬ声で飛び交った。



 気づくと……俺は湖の畔にいた。


 月夜に照らされた森と湖の光景は、なかなかに美しい。


 少し先に、キツネが見える。


 キツネはもう語らない。


 ただ「ついてこい」とでも言うように、俺から目を逸らし振り向いて、またどこかへと歩き出すのだ。


 俺はまた、歩いていた……どこに向かうのかもわからないまま、――それでも歩いていた。

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