清虚の灯火 5/5



 Darkダーク Seaシー(暗い海)と、日本の海が呼ばれていたことを知っているだろうか?


 江戸時代の末、近代化を果たした欧米諸国は大型船を造り日本を目指していた。


 しかし、清虚せいきょが火を灯していた頃から明治にかけて、幾つもの船が事故に遭っている。


 それは日本近海が暗礁あんしょうの多い場所であることに加え、この頃の日本が灯台の文明にとぼしかったからだ。


 念仏埼ねんぶつさきと同じように、暗く光の無い海に、海外の船乗りたちは恐れを抱いていた。


 この時代に一応は、灯明台とうみょうだいと呼ばれる灯台に当たるものも存在していた。


 しかし、その数は少なく明かりも弱い。


 故郷の近くの島に灯明台があった清虚や知識人ならばその存在と役割を知ってはいただろうが、本当の意味でその価値を知っていただろうか?



「清虚様、たいへんだよ!」


「お役人が! お役人が!」


 清虚が火をき続けて十年が過ぎると、その噂ははんにまで知れ渡った。


「小笠原様もいたく感心なされてな。ぜひにしっかりした火焚台ひたきだいを作って協力したいと……」


 そう、村を治める小倉藩が協力を申し出て来たのだ。


 だがそれはより火を焚きやすく、より海から見やすいように、石造りの火焚台を築こうと言う内容で、やはり灯台という文明に乏しかったことがわかる。


 本当の意味で清虚の灯火の価値を知るものは、実際に夜の海を渡る船乗りたちだけなのだ。



 ――役人が訪ねて来た夜のこと。


 清虚がいつものように火を焚き経を詠んでいたら、髭面の男がやってきた。清虚の住む小屋の元あるじであるきこりの男だ。


 樵は何も言わず清虚の横に座り、夜の海を眺め始めた。


 清虚は経を止め、木樵に話し掛ける。


「このあいだの山桃は美味かった、ありがとう。」


「――知らん。」


 帰宅すると時折、果物などが清虚の住む小屋に置いてある。――この樵が持ってきてくれているのだと、清虚はずっと知っていた。


「本当にいつもありがとうの。よそ者だったわしに小屋を売ってくれて、まきも助けてくれて、色々と本当に世話になった。」


「知らん。」


「知らん」としか答えない樵を見て清虚は笑い、樵は遠くの海に舟の明かりを眺めていた。


 そこから二人は黙り込み……ただちりちりと鳴る火の音を聞いていた。


「……藩が協力してくれるらしいな。」


 黙っていたら樵からしゃべり出した。清虚は嬉しく思い会話を進める。


「ああ、火焚台を作ってくれるらしい。ありがたいことじゃ。」


「山がうるさくなる。」


「それはすまんのぉ、わしがこんなことを始めたばっかりに……」


 清虚はそう言いながら考えていた。この樵は最初から協力してくれた。「なぜなのだろうか」と……


「お前様はなぜにわしを助けてくれる?」


「知らん。」


「まぁ、そう答えると思うとったよ。お前様も薪屋も助けてくれた。その内に村の者も、皆が皆、助けてくれて……」


「そう言えば、薪屋はあの舟に乗っとるかもな。」


 唐突に樵がそう言うので、「薪屋が?」と清虚は短く尋ねて、木樵と同じように遠くの明かりを眺めた。


 暗い海を、小さな光が進んでいる。


「薪屋は廻船問屋かいせんどんやに雇われて舟に乗っとるぞ。」


「廻船問屋に? どうしたんじゃ?」


「口実を作ってもろうて旅をしとるのさ。まだ若い内にやりたいことやらねばと、かしておったわ。」


 清虚は薪屋の顔を思い出す。そして繋がるように、ここまでの、幾つもの出来事が頭をぎった。


 ――それを見透かすように、樵が問い掛けた。


「もうあんたもとしやろ。修行をめてここに来たと聞いておる。もう一度、修行に出直さんで良いのか?」


 清虚は樵の方を向いた。樵は清虚の方を見ずに、自ら持ってきた木を火にくべている。


「修行か……何のための修行か知っておるか?」


「知らん。」


「仏になるためよ。仏とは何か知っておるか?」


「知らん。」


「わしもようわからんが、仏のように語り仏のように考え、仏のように行えば人は生きながらに仏となれるらしい……仏とは何じゃ?」


「知らん。」


 清虚はそこで一度ため息をつき、話を続ける。


きょうにはその道が示されているらしい。だが、わしは何千回、何万回と唱えたが、わからなかったよ。

 仏になどなれん。わしはいつもわしだったし、わしはいつも人だった……」


 ――そこからは火を眺めた。


 火を眺めていると、遥か昔の事さえも思い起こされて、清虚にため息のような言葉を放たせるのだ。


「――わしに奇跡は起こせない。

 御大師様おだいしさまのようにはなれんし、御仏みほとけにはなれはせんさ。

 皆に助けられて、わし自身が奇跡のようなさちたまわり、こうやって火を焚き続けられただけでも良しとしよう。もう、修行はせんよ。」


 その後はまた、二人は黙り込む。


 夜の中で火を囲み、薪のぜる音だけを聞く――夜の海にはまた舟の明かりが通ってゆく。


 清虚は遠くの小さな光を眺めながら、ゆっくりと静かに語り出した。


「暗い中にでもどこかに小さな灯火がある。それは温かな光じゃ。わしはせめてそんな光を灯したかった……

 生きていれば続けていれば、奇跡は起こる。誰にでも……たがらこの念仏埼で生きたいと願う念仏を聞いた時、生きていることを喜ぶ笑顔を見た時に、せめて力になりたかった。」


 そんな清虚の言葉を聞き終わると、樵は立って清虚を見た。――そして軽く笑う。


「ふっ……念仏が仏に届いたか。」


「……どういう意味じゃ?」


 樵の言葉に清虚は尋ねたが、問いにはいつも通りに「知らん」と返して樵は帰っていったのだ。





 それから二年後、病をわずらった清虚は村に下され、代わりに村の者たちが火焚きを続けた。


 布団に伏す清虚に、薪屋は言う。


「坊様、なんも心配せんでゆっくり休め。

 火はおらたちが焚く。托鉢たくはつなんぞ行かんでいい。商人たちが協力してくれる。藩も協力してくれとる。村のみんなでやりゃあ簡単なことじゃ。

 あの火を絶やしはせん。絶やしはせんよ。」


 清虚は嬉しかった。どこまでも、どこまでも……自分に起こる幸運に、清虚は喜び感謝する。


「わしに奇跡は起こせない。だが、わし自身には多くの奇跡が訪れてくれた。多くの人に助けてもろうて……わしは貰ってばっかりじゃ。

 ありがとう、ありがとう、ありがとう……」



 この年に清虚は死んだ。


 仏になる修行を諦めた一人の僧は、最後にはただ火を焚くことを十三年続けて、その生涯を閉じたのだ。





 灯台の役割を語るのに、少し話をさかのぼろう。


 清虚と樵が話をしていた時に、本当に薪屋は舟に乗っていた。妻に店を任せて廻船問屋に雇われて、荷運びの仕事をしていたのだ。


 そんなことをしたのはほかでも無い。薪屋は清虚の焚く火を海の上から見てみたかった。


 どんな風に役立つものなのかを知りたかったのだ。


 薪屋はこの日初めて、夜に念仏埼の近くを通る。


 風の都合で中々夜にここを通れずに過ごしていて、やっと来たかと意気揚々と薪屋は念仏埼を見た。


 だが、薪屋の期待は裏切られる。薪屋が見た先……そこにあった灯火はあまりに小さなものだったのだ。


 星空の下、山であろう暗闇の中に、星ほどの大きさの弱々しい炎の光が見えている。


「――あんなもんか。」


 そう呟いて薪屋は船乗りに尋ねる。


「あんな小さな火が役に立つのかい?」


 尋ねられた初老の船乗りは、座った薪屋の方は見ず、立ったまま夜の中の小さな、あの灯火を見ながら答えた。


「あそこが念仏埼やとわかるからの。あれを目印に舟を操れる。」


「誰かが焚き火してても、一緒じゃないのかい?」


「誰ぞ知らん焚き火なら、まあおかがあるのじゃとわかるだろう。だが、毎晩焚いてあるからの……あそこがあの場所だと、今では誰もが知っておるんじゃ。」


 薪屋はそれに納得して、灯火を見る。


 ――そして呟いた。


「坊様はやっぱり頭がいいのお。あんな火でも、こうして役立つと知っておったんだな。」


 その呟きに船乗りは尋ねた。


「坊様というのは大柄の歳を召されたお坊様だろう。十年ほど前に念仏埼に来たのだろう?」


「おお、そうじゃ。坊様も最初は大柄だったが、最近は細うなってしもうたの。」


「――名は?」


「清虚様じゃ。」


「そうか……あの方は、清虚様と……」


 薪屋は思わず船乗りの方を見た。


 それは船乗りが清虚を知っていたことに驚いた、わけでは無く――その声が涙に濡れていたからだ。


 提灯ちょうちんの明かりにぼんやりとしか見えないが、遠くを見る船乗りの顔は泣いていた。


 震える声で、船乗りは言う。


「何も光の無い海は暗いなんてもんじゃない。黒くて呑み込まれそうじゃ……」


 弱々しく語り始めた初老の男の声は、段々と、段々と強くなる。


「あそこにいらっしゃるのだろう……

 見守っていて……くださるのだろう……

 風に流され波に流され――いつ死が待つかも知れぬこの暗い海で……変わらずにそこに在る。

 そこに在るだけで! それがわかるだけで! どれだけ! どれだけ、ありがたいことか――!」


 言い終わると、船乗りは涙を流しながら手を合わせた。船乗りが見つめる方向には、やはり変わらずに小さな灯火が灯ってる。


 薪屋はそれを見て誓った。これを絶やしてはならないと……






 ――美しい青い空と青い海。


 そんな景色の中海沿いの道に車を走らせれば、行き着いた先には丘が見え……そこには背の低い白い建物が建っている。


 目的であった、九州最古の灯台だ。清虚の死後から二十年後に、この灯台は建てられたらしい。


 エンジン技術やGPSなど科学技術が発展した現在ではあるが、ここの複雑な波や暗礁の多さは相変わらず……危険な場所であることに変わりない。


 この灯台ももう百五十年以上、その役割を果たしているそうだ。


 灯台ができるまでの期間は村の者たちによって、火は焚き続けられたらしい。清虚の始めた火焚きは計三十三年で、その役割を終えたのだ。


 灯台の建つ丘を見れば、その下、海に面したその場所に白い巨像が建っている。――清虚の像だ。


 松明たいまつを持った姿で立っているが、残念ながら海の方を向いていて、その顔は見えない。


 この海が暗く沈んだ時に、人が見えない影に呑まれないように、今でも見守っているのだろう。


 いつまでも、変わらずに……


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