清虚の灯火 4/5


 友人と遊ぶのが何よりも楽しかった。時間があれば、遊びに出かけた。そんな誰もが懐かしむ青春の時。


 清虚せいきょにもそんな時代があって……そこには若い友人たちがいて、若い日常が存在していた。


 清虚は――その頃はまだ太兵衛たへえという名で、その名に相応ふさわしく大柄な青年だった。


 太兵衛は相撲を好み、仕事が終わり空が明るいと見るや神社へと駆けてゆく。


 境内けいだいでは友人たちが集まり、相撲を取って遊んでいた。


 まわしも付けず……だが衣もあまり汚せないと、その場に立ってただ手だけで押し合う稽古相撲。


 だけど友人たちといれば、それだけで楽しい。


 友と押し合い、勝ったり、負けたり……


 今度の相手はきよしだ。にかりと不適に笑う美丈夫は、細身だが相撲が上手くあなどれない。


 太兵衛が押そうとすれば、清がそこでさっと体を引く。太兵衛はよろける体をなんとか止めて、清の手の平を……ぽんと押した。


 押す力なら太兵衛が上だ。清がぱたんと倒れ込み、軍配は太兵衛に上がったのだ。


「さあ、もう一番!」


 そうしてまた起き上がった清と相撲をもう一度……


 ――そうやって時は過ぎるはずだった。


「どうした清、早くもういっちょ!」


 まるで時間が止まったように、清はぴくりとも動かない。それを見る太兵衛の思考も、この時、止まっていたことだろう。


「清、どうした? ……おい。おい、清! どうした! ――誰か! 誰か来てくれ!」


 清は目を閉じたまま、一向に起き上がってこなかった。

 太兵衛が必死に叫び周りの者たちも駆けつけたが……しかし、打ち所が悪かったのだろう。


 彼はそのまま起き上がらずに、帰らぬ人となったのだ。





 ――それからの記憶は曖昧あいまいだ。


 不慮の事故として太兵衛にとがめは無かったが、太兵衛はしばらく家に伏してしまう。


 それでも太兵衛は立ち上がった。


 死なせてしまった清へ――清の父母へ、詫びを入れるために清の家へと出向いたのだ。


 葬儀はもう終わってしまったようで家には清の両親だけが……だけど太兵衛は、その家に入るのを躊躇ためらってしまう。


 母親はまだ泣いているようだ。父親はそれをなぐさめるように、母親の肩をさすっている。


 それを見て、太兵衛は悩んだ。どんな言葉を掛ければいいのか悩んだ。どう謝ればいいのかを悩んだ。


 謝って許されるのかと……いな、許されることなどなく、もしかしたら殺されるかもしれない。――殺されても仕方がないと、考えた。


『――それでも、それでも謝らなければ!』


 覚悟を決めた太兵衛が家に足を踏み入れると、父親が先に太兵衛に気づく。


「母ちゃん、太兵衛が来たぞ。」


「太兵衛……、太兵衛、来てくれたか!」


 二人が太兵衛を見る。


 その瞳はともに潤んでいて、その瞳にも、その声にも怒気は無く、そのことに太兵衛は戸惑った。


「あ、あの……」


 声を出そうとする太兵衛を、二人は取り囲み涙を流す。――そして言ってくるのだ。


「太兵衛、よお来た。よお来てくれた。

 さあ、さあ清に手を合わせてやってくれ。」


「謝らんでいい。謝らんでいい。仲のいい友達やったやないか。清は……わしらの息子は、お前を恨んだりしとらんよ。さあさあ、手を合わせてやってくれ。」


 ――太兵衛はもう、声が出ない。


 促されるまま中に入れば、簡素な台の上に花と木の位牌いはいが置かれている。


 太兵衛は座って位牌を見るが、それが清だとは思わない。


 だけど、そこに書かれた文字の中に「清」とあるのを見ると、思わず手を合わせ……そして大声で泣いたのだ。


「う、わああ、ああっ、ああ! ああ、ああ!」


 ――言葉にならなかった。


 犯した罪、帰らぬ日常、失った友。その両親へ顔を出す時の覚悟と、彼らのその言葉……


 あまりにも複雑な感情が渦巻いて、太兵衛はその数の分だけ泣き続ける。


 清へも、清の父母へも、詫びの言葉は出なかった。出なくとも誰も、太兵衛を責めることはしなかった……





 ――それからは、日常に戻っていった。


 だけど、太兵衛の心には穴があいていて、太兵衛はぼんやりとすることが多くなる。


 毎日の仕事で失敗することが増える。


 そこで意識を戻し周りを見渡せば、皆はそっと沈黙をもって、自分を気遣ってくれている……日常は、前とは少し違っていた。


 太兵衛はある日突然に、僧になることを決める。


 それは表向き、殺めた友人を供養するためだったが、心の奥底では違っていた。


 ――太兵衛は、救いを求めたのだ。


 心にあいた穴は、穴なのにひたすらに重く、それを抱えて生きることに太兵衛は耐えかねた。


 仏門に入れば、友を供養すれば……自分でもよくわからない理屈に流されて、太兵衛は僧の道を歩むことになる――それが、僧清虚の始まりだ。


 だが仏門に入った太兵衛の心は、町人だった頃よりもずっと深い闇に落ちてゆく。


 慣れぬ生活、僧としての修行の日々……


 きょうは、文字もまともに読めない太兵衛には覚えることは至難だった。下働きも、なかなかにつらい。なにより、瞑想めいそうが苦しかった。


 御仏みほとけの心となれと言われるが、太兵衛にはそれどころじゃない。


 目を閉じれば、起き上がらぬ清が見え……清の笑顔が見え、その父母の泣く顔が……全てが鮮明に浮かび上がってくる。


 太兵衛が思わず目を開ければ、空気は歪み、まるで酔っているようで倒れてしまいそうだった。


 そうして狂い始めた太兵衛は、ありえない失敗を繰り返す。寺で物を壊し、洗い物を破り、葬儀で経を間違え、怒られ、叱られた。


 ――だが、誰かが手を差し伸べる。


 叱られる太兵衛をかばう先輩、罰の仕事を、一緒にこなしてくれる後輩、経を間違えたのにも関わらず、笑い庇う檀家だんけの者。


 和尚おしょうはいつも厳しい言葉を掛けたが、それはずっと変わらずに、あきれて手を離すことは決して無い。


 すると、太兵衛の心の穴に、何かが入り込んでくる。


 それは、爽やかな風のようなもの。清らかな水のようなもの……だが元あった闇よりも、さらにさらに重いもの。


 太兵衛は前よりも苦しんだ。得体の知れないものが心にまり続け、それに押し潰されてしまいそうだったのだ。


『――なんだ! なんなのだ、これは!』





 ――そこは寺の中か? 夢の中か?


 太兵衛はうつろな表情で、夜にかわやにでも向かうように、闇の中を歩いていた。


 胸か、腹か? その辺りを押さえて、苦しさを抱えながら、太兵衛はゆっくりと歩いてゆく。


 蝋燭ろうそくの明かりだろうか……小さな灯火ともしびが闇の中に輝いている。


 吸い寄せられるように、太兵衛がそちらに向かえば……やはりそこには小さな火が灯っていた。


 壁はその光を映して、ぼんやりと輝いている。


 壁は薄い黄色にぼんやりと輝いて、その周りには太陽の傘のように、丸い虹が見えていた。


 そこには誰もいない。だがそこに誰かが居るかのように、太兵衛は泣きながら、それに向かって問いを投げ掛ける。


「どうしたら、どうしたら……わしの罪は許されるのですか?」


 ――もちろん、誰も答えはしない。


「どうしたら清に詫びができる? どうしたらわしの罪は許される……」


 太兵衛は一人で、答えを見つける。


「――違う! 違う、そうやない……わしは、わしはゆるされた。最初から誰一人、わしを責めなかった……命を奪ったわしを、誰も……」


 そう言いながら太兵衛は壁に映る光の中に、そこに誰かがいるかのように、そこに向かい叫ぶのだ。


「どうして人は! あなたはわしを赦すのか! なぜ? どうして……、どうして……」


 どんなに叫ぼうとも答えなど返るはずもない。


 叫び疲れたように太兵衛はがくりと、灯火の前にひざまずいたのだ……









 ――あれから、十年が過ぎた。


 清虚は念仏崎ねんぶつさきで火をき続け、よわいは七十を超えていた。


 火を焚き続けられたのは商人たちの助けが大きい。念仏埼を通る舟の数は年を追うごとに増してゆき、その交易で儲けた商人たちが手を貸したいと薪を贈ってくれたのだ。


 商人や商人たちの使いが訪れれば、清虚の焚く火がいかに役立っているかが村々に伝わってゆく。


 すると清虚は尊敬を集め、托鉢たくはつでの施しも年々多くなっていった。


『ありがたいことじゃ……』


 そんな風に清虚は感謝を感じながら夕暮れの帰り道を歩いていた。栗の木の前で立ち止まったのはあの老婆が最近調子を崩していて、心配だったから……


 少しだけ、久しぶりの訪問になる。清虚が家に入ろうとすると、いつもと様子が違っていた。


「清虚様! ばあちゃんが、ばあちゃんが!」


 孫のあわてた様子を見て、清虚も慌てて中に入る――入ると、老婆が布団に伏している。


 脈はあるようだが、家族の者が声を掛けても返事が無いらしい。


「清虚様、念仏を唱えてくだされ!」


「ばあちゃんを、ばあちゃんを!」


 清虚は頼まれ経を唱えた。


 「奇跡よ起れ」と思いながら、清虚が必死に経を詠むと、老婆がふっと目を開けた。


 そして潤んだ瞳で清虚の方を見ると、優しく微笑み……目を閉じて永遠とわの眠りについたのだ。


「ばあちゃん! ばあちゃん!」


「おっかあ! おっかあ!」


 息を引き取った老婆に、泣きじゃくる家族たち。清虚はその姿を見て、自分の力の無さをやむ。


『やはり、わしに奇跡は起こせない……』



 そして、そのまま通夜へと入った。清虚は残り、経を詠んでいた……夜に入り暗くなると、清虚は火を焚くのを忘れたことを思い出し、経を止めて外を見た。


「清虚様、火は焚いとるよ。」


「今夜は村のもんで火を焚くから、もう少しおっかあに念仏を聞かせてやってくれんか?」


「ばあちゃん、清虚様の念仏が好きでなあ。清虚様に、これを渡していいか、これを渡していいかと、念仏を聞くために家の中をようあさっておったんじゃ……」


 清虚は大きな声で経を詠んだ。それは、自分の声が乱れているのを隠すため……雑念を払うため……


『わしはいつも、貰ってばかりじゃ……』


 死者が無事に仏の元へ。それを祈らねばならないのに、ありがとう、ありがとう、ありがとうと、そう叫びたくなる。――雑念が払えない。


 だから清虚は必死に声を張り、経を唱え続けたのだ。


 その夜、村には清虚の経が、いつまでもいつまでも聞こえていた……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る