清虚の灯火 2/5


『わしに奇跡はおこせはせん。奇跡どころかできるのは誰にでもできることだけだ。それなのにまた一からになってしもうた……

 字もまともに読めんできょうを何度も間違えたわしが、四十年掛けて「清虚せいきょ」なんて名まで貰えるほどに偉くなった。

 だがその道も捨ててしもうた。また一からやり直しだ。また一から修行なんぞよりよっぽど厳しい道を……まあそれも、誰もが歩く道じゃがの。』



 清虚は一人、夜の山を歩いていた。


 空には大きな月が昇っていて、暗い中でも木々はぼんやりと見えている。そんな中を清虚はゆっくりと、木の幹に触れ落ち葉や小枝を踏みながら、ゆっくりと進んでいた。


 清虚は海を感じながら歩いていた。


 暗い海は夜の木々に隠れることもあったが、潮の匂いや波の音は届いていて、いつでもその方角を感じることができたのだ。


 舟を降りた後、清虚は東の山に分け入った。船乗りたちは「西に港町がある」と教えてはくれてうが、清虚が目指すのはそこでは無い。


 清虚が登る山は小高く降りた浜からはなだらかであったが、登るにつれて海に落ち込む崖が現れ始める。清虚はそれを確かめながら上へ上へと登ってゆき……そして朝方には山の終わり、海を望む岬に立ってその下に見える海面を眺めていた。


 海には白波が立っていて、その間から黒い岩が見えている。――沈んだ舟の残骸も見つけられた……。


『ここが昨日の……、念仏埼ねんぶつさきじゃ。』


 清虚は探した場所を見つけ出して微笑むと、それから近くを回り歩く。


 山の中に住めそうな山小屋を見つけ出し、そこから続いていた山道を下れば小さな村も見つけられた。


 山を下りてすぐのところには薪屋まきやがあって、その伝手つてで山小屋のあるじであるきこりとも顔を合わせる。


 聖地に向かう予定だった路銀で樵からは小屋を買い、薪屋からは一度に運べぬほどのまきを仕入れた。


 そうして買った薪を小屋へと運び込んで……そうこうする内に夜が近づくと、岬よりやや高い山の中腹に登り、薪をくべて火をいたのだ。


 そこは海が良く見える場所であり、海からも良く見える場所だった。


 焚いた火は人がだんを取るには大き過ぎるほのおだが、夜の海を照らすにはあまりに小さ過ぎるでしかない。


 清虚はその火の前に座って、経を唱え始める……。


「もったいのうございます。もったいのうございます。今日もわしなんぞに良いことが起こりました。

 星月のおかげでここにたどり着き、怪しげなよそ者に小屋を譲ってもいただけまして、住む場所さえ頂けたのです。

 身に余る幸運をたまわれたと存じておりますが、どうか願いをお聞きくだされ。

 ここは舟には危険な場所らしく、ここを通る者は不安で念仏を唱えておるのです。どうかここを舟が安全に通れるように……

 生きていれば良いことも起こる。どうかここで死ぬ者が出ないように、どうか、どうか……」


 それから一晩中、清虚は火を焚き経を唱え続けた。


 清虚の焚いた火は海から見れば星程度の光。清虚の願いはあの時、念仏を唱えていた誰もが願っていたことだろう……。


 清虚はただこれだけのことをするために、舟を降りここまでやって来たのだった。





「――なんだ、あの坊主ぼうずは? 乞食こじきか?」


「坊主の乞食……乞食坊主こじきぼうずか。」



 清虚は朝が来ると少し眠って、昼からは山を下り村に托鉢たくはつへと出かけた。


 そこは海と山に囲まれた美しい場所……だがそれだけに細く狭く土地の無い小さな村であり、村の者は清虚を見ると、よそ者だ、乞食ではないかと警戒をした。


 托鉢ははちを持ってほどこしを願う修行ではあるが、それはまさに乞食と変わらない。


 清虚も重々それは承知していて、村の者に煙たがれ結局は一日回っても成果は無かったのだが、たいして気にはしなかった。


 清虚は帰りの山道で薪代わりになりそうな枝を拾いながら昔を懐かしんでいた。若かった頃を思い出していた……


『――最初はいつもこんなものだった。

 職人をしていた頃も最初は何度も失敗して、毎日親方おやかたにどやされたものだ。

 坊主を始めた頃も経を何度も詠み間違えては怒られ、先輩方に愛想を尽かされんかと怯えたな……

 最初からうまくはいかないのだ。だが続けていればいつか……生きていればいつか……』


 夜にはまた同じ場所で、同じように火を焚く。


 そうして一晩火を焚いて経を詠み、昼には托鉢へと村を周る。


 そんなことを静虚は繰り返す。

 次の日も次の日も、その次の日も……





「あの乞食坊主、毎日山で火を焚いとるぞ。」


「何のためにか?」


「念仏埼で死んだ者の供養かの?」


「まあその内、らんなるだろう……」



 村の者たちには清虚はすぐになくなるだろうと思われていた。


 結局、清虚がここに来て七日が過ぎたが、村からは拒絶されたままであり、さすがの清虚も気が滅入っていた。


 経を唱えつつ家々を回っても、戸は閉められて顔を合わせることは無い。畑や浜には働く人の姿はあったが、そこに声を掛けることを清虚はやろうとはしなかった……


 托鉢は施す心を促し、施した側にとくを積んでもらうための行いでもある。だから僧は礼すら言わず、経を詠むのに徹するが……そんな決まり以外にも清虚の中の苦い思い出が、その口から経以外の言葉を発するのを嫌がらせた。


 それは初めて托鉢に出た時の記憶。若かった頃、清虚は成果の出ない托鉢に堪えかねて、つい町の者たちに声を掛けた。


 元は差物さしものを作る職人だった清虚が話しを合わせれば、会話はそれなりに弾んでゆく……だがそれから托鉢の件を話してみると、彼らの顔は急に変わった。皆真一文に口を閉じ、何か嫌なものを見る目で清虚をにらんだのだ。


 その時、清虚は何か裏切られたような気持ちがして、悲しさと怒りが心に湧いた。――だが、今ならば清虚にはわかっている。その時、気軽な会話から托鉢の話に変えた時、町の者たちもまた清虚に裏切られたと思い、同じ気持ちになっていたのだろう。


 ――だから清虚は声を掛けない。


 自らの心が乱れれば托鉢という修行は続かないのだと清虚は知っているからだ。


 それでも七日だ。人がいるその場所で、誰一人とも口を利かないという孤独な時間は、どんな人間の心をも闇に落とす。だから清虚は帰りに薪屋を訪ねたのだ。


「――もう薪が無くなったのかい?」


 清虚がここに来て話した相手と言えば、住んでいる小屋の主であった樵と、この薪屋くらいだ。


 この薪屋には有り金全て……とても運び切れない量の薪に値するぜにを渡しているので、こうしてたまに買った薪を貰いにかよっている。


「いくらなんでも、昨日のあの量を使い切ったってわけじゃないだろう?」


 薪屋がそう尋ねるのも当然だ。清虚は昨日もここを訪ねている。


 実は昨日で清虚はすでに気が滅入っており、托鉢を早めに切り上げて、薪を運ぶために小屋とここを何度か往復していた。


 昨日運んだ薪は二十たばは下らない。それなのに薪を貰いに来た清虚をいぶかしみ、薪屋はそう言ってくるのだ。


「いや、なに……人と話したくてな。」


 そう、清虚は正直に口にする。幾つになっても辛抱弱い自分を恥ずかしいとは思ったが、ここで甘えるのも必要だと、清虚は考えたのだ。


「ああ、村の者たちはまだ口を利いてくれんか……坊様ぼうさま、乞食やないかと疑われとるからの。」


「来たばかりで当たり前なんだがな……」


「托鉢もなんも恵んでもらえんか? ……ん? おらに頼ってもなんも出さんぞ!

 ああ……。栗の木の生えた家があったろう。あそこの婆さまなら信心深いし、なんかくれるんやないかのぉ?」


 薪屋は感じの良い男だった。明るく気さくに話をしてくれ、言葉の端に清虚を想ってくれている気持ちを感じとれる。


「なあ坊様? 舟の無事をお祈りしとるのは知っとるが、あんな火を焚いて意味があるんか?」


 帰り際に薪屋にそう尋ねられると、清虚は微笑みを浮かべて答える。


「何も光の無い真っ暗な中じゃ舟は進めん。だが小さな灯火ともしびがあるだけで違うのだ。

 それだけでもありがたいものなのだよ。」


「そんなもんかねぇ?」


 清虚の答えに薪屋は呆ける。すると清虚は深く頭を下げ、そして言うのだ。


「そんなものさ。ありがとうなぁ、話をしてくれて。」





 次の日も托鉢にと村に行った清虚は、一本の栗の木に気づく。薪屋が昨日話していた家はここだろう。


 ――そして、気づいた時に腹が鳴った。


 ここ八日ようかの内に持って来ていたいいなどの食べ物は尽き、清虚は昨日から何も口にしていない。栗はまだ青かったが、それを見て清虚は空腹を思い出した。


 腹が減ったと……そんな雑念を払おうと経を詠もうとすると、清虚は自分の声が小さくなっていることにも気づく。


 毎夜まいよ経を唱えてはめしもまともに食べない生活に、清虚の声は小さくなっていたのだ。


『こんな当たり前のことが、できていなかったのか……』


 清虚はそれを恥ずかしんだ。そんな恥や空腹を吹き飛ばすように、清虚は大きな声で経を詠む。


 すると、家から一人の老婆が出てきた。清虚がそのまま経を唱えていたら、老婆は一度家に戻って……もう一度出てきて、清虚の持つ鉢に米を入れてくれたのだ。


 清虚はさらに大きな声で経を詠んだ。


 それは、自分の声が乱れているのを隠すため……雑念を払おうとしたからだ。

 

 托鉢で施しを貰えたならば礼は言わず、その人やその家の無病息災むびょうそくさいを願って経を唱えるのが決まりだ。――だが、清虚は雑念が払えない。


『ありがとう、ありがとう、ありがとう』と……そう言いたくなる雑念が払えずに声を張ったのだ。





『明日はもう一つ先の村まで行ってみようかの……』


 そんなことを考えながら、清虚はその夜も火を起こす。そうして暗い夜に火を焚いていると、不思議と昔のことが思い出された。


『職人を始めた頃、親方に怒られ嫌になって、逃げ出そうと何度思ったものか。

 わしにさいなど無かった。何度も失敗して……だが、優しく声を掛ける者がいて、気晴らしに話ができる友がいて、その内にわしより才のある者たちは去ってゆき、わしが一番マシになったものだ。

 耐えるとも気張るとも違うんじゃ。わしの力じゃ無い。ただ続けていけるように、わしには小さなさちが与えられる。』


 その夜、真っ暗な海の上に、小さな光があった。


 一そうの舟が念仏埼のずっと遠くを通り過ぎていったのだ。その光を追いながら清虚は祈る。


「生きていれば奇跡は起こる。だからどうか人がこの暗い海に沈まぬように力を貸してくださいませ――」

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