清虚の灯火

清虚の灯火 1/5


「――教会よりも、灯台の方が役に立つ。」


 それはアメリカで建国の父の一人と讃えられ百ドル札にも描かれる、ベンジャミン•フランクリンの言葉だ。


 だが現在では教会どころか灯台すらも、その役割は希薄になってきている。


 人工衛星が飛び回るこの時代に、自らの位置を知る方法は灯台の光よりもGPSに変わってきた。


 フランクリンが生きていたならばスマートフォンやカーナビにより誰もが進む道を知るこの時代に、何を比較に出してどんな言葉を残すだろうか?


 九州の最北、北九州市のとある場所に明治の始めに建てられた小さな灯台が残っている。


 へんぴな場所にあるその灯台へ向かうには狭い海沿いの道を進むことになるが、向かってみればそこには青い空と青い海があり、その青いキャンパスに白い雲と白い波が描かれた美しい景色を、目的である小さな白い灯台と合わせて楽しむことができるだろう。


 その灯台に纏わる話として、清虚という一人の人物の話もまた残されている。


 それはフランクリンが海の向こうで無神論的な言葉を発したのと同じ時代、日本ではいまだに神も仏も信じられているような江戸時代の末の出来事だった……




 紺色の空と紺色の海、それは夕刻を迎える前のやや暗い時間の色だ。


 その空と海の間に一そうの、木造りの舟が進んでいた……


 空に太陽は見当たらない。照らす光の無い四角の帆が、薄暗い白をしてなびいている。


 帆が一つだけの小さな舟の上には、三十人余りの人々がたたずんで静かに一方を見つめていた。


 彼らが見つめる先には影がある。西の方角となるそこには太陽を隠した崖があり、逆光を浴びて影としてそこに立ち並んでいたのだ。


「――おかが見えたの。小倉こくらに近づいたんじゃ。崖が並んどるしきっとここがあの場所じゃ……」


 そんな、誰かの小声がした。


 舟は下関しものせきに向かっていた。そこに乗る一人の僧清虚せいきょもまたそうであり、小倉と聞こえて安堵する。


 風任せの船旅では順風と逆風とでその航行時間に倍以上の差が出るという。着くのは夜になるか明日になるか?だがここが小倉ならば下関はすぐ近くのはずだ。


『この分なら、夜の浅い内には下関に……』


 そんなことを思い清虚は胸を撫で下ろしたが、その安堵はすぐに不安へと変えられてしまう。


 女がぼそりと、念仏を唱え始めた。それをきっかけに幾人もが念仏を唱え始める……それは乗客のみならず船乗りたちにまで及び、舟はその声で溢れたのだ。


 静かに揺れる舟。そこに波の音や木のきしむ音が聞こえていて、それらに混じってあらゆる方向から、ぶつぶつと念仏が聞こえてくる。


 目の前には暗い青を背後にした影が並び、それが見上げるほどに近づいてきて……そんな状況と光景が清虚を不安にさせたのだ。


 清虚にとっては僧の自分ではなく他の者たちが念仏を唱えているというのもまた奇怪な様子だっただろう。


 清虚は驚きいぶかしみ、近くの者にその理由を尋ねた。――だが返ってきた答えもまた奇怪なものだった。


「ここは、念仏埼ねんぶつさきというのでございます……」


 念仏埼と、そう教えられてもわけがわからず清虚はもう少しと話を聴いた。そうしている内に舟は陸に近づいてゆき、中は段々と慌しくなってゆく。


「――近づき過ぎとる! 少し離すぞ!」


いではおるが、良い風が吹かん!」


 船乗りたちの動きがせわしくなって、唱えられる念仏も早口になる。各々の声は不安の色を増してゆく。


 清虚が薄暗い海に目を凝らせば、見上げる大きな影の下に小さな影があり、その上に木片を、壊れた舟の残骸を見つけられた。


 ここから先で関門海峡へと入る。海峡の流れは強く速く、また時ごとにその向きを変える。


 その強い流れに引かれたり戻されたり……そうするのがこの場所らしいのだが、ここには暗礁あんしょう(海の中に見えない岩)が隠れていて事故の多い場所らしい。


 ここで死んだ者をとむらう念仏は絶えず、通る者は無事を祈り念仏を唱える……ゆえに念仏埼と呼ぶそうだ。


「あんたは徳の高いお坊様だと聞いておる。御大師様おだいしさまの聖地へ、巡礼の旅の途中だとか……

 どうかお坊様も念仏を唱えてくだされ。お坊様が唱えてくだされば、きっときっと……」


 よほど状況が悪いのか?焦り不安がる船乗りに頼まれて清虚は座を正した。その頼みを聞いて、自分もきょうを唱えることにしたのだ。


 座した清虚は手でくうを斬ると、目をつぶり経を唱え始める。清虚はこの時、既に還暦かんれきを迎えた老爺ろうやではあったが、がしりとした体格でその声は力強かった。


 唱える経もまた力強く、それは南無阿弥陀仏なむあみだぶつと繰り返すだけのものとは違い難しいものだったが、それがすらすらと、すらすらと詠み上げられてゆく。


 そんな清虚の経に誰もが聴き入った。目をつむり必死に念仏を唱えていた者も念仏をめ目を開き、船乗りたちも操船の手を止め、ついつい目をやってしまったほどだ。


 そんな時に風が吹いた。その風を帆に受け舟は沖へと流れ始める。


 人々が風上となる陸の方を向けば、遠ざかる影の後ろから橙色だいだいいろの光が差し始めていた。


 陸の影は段々と小さくなる。その影の周りには黄金色こがねいろの光が輝いて、紺色の空を一度青へと戻していった。もう小さくなった影の後ろには夕陽が輝いていたのだ。


 黄昏時たそがれどきを迎え空と海は暗くなっていったのだが、その空と海の間には、黄色と朱色の輝きが重ねられている。


 太陽を讃えてだろうか?人々は影の向こうの光に手を合わせ、あるいは涙して祈るように見つめていた。


 そこには清虚の経を詠む声だけが、ただ聞こえているのだった…………





「ありがとうございます。ありがとうございます。おかげで無事念仏埼を越えられました。」


 舟は無事に難所を越えたらしく、人々は皆清虚に感謝する。――だが、清虚はその礼を受け取らない。


「わしは単に皆と一緒に経を唱えただけじゃ。礼など言われる筋合いは無いぞ。」


「いやいや、お坊様が念仏を唱え出してから風も変わりました。奇跡ですよ。まるで御大師様のようだ!」


「別にわしの力では無いわ。わしにそんな力など無い。皆に徳のあってのことだろう。」


 清虚はそう答えるが船乗りは言う。


「いえいえ。お坊様の念仏はあっしらの念仏とは全くちごうとりました。――力があったとです!」


「お前様は何年船乗りをやっておる?わしは四十年も経を唱えておるのだ。それはその違いじゃよ。

 わしに奇跡は起こせはせん。だがな、皆懸命に生きて来た。だから奇跡のようなことも時には起こるものなのだよ。」


 その清虚の言葉は真実だ。人に奇跡は起こせない。清虚はずっと知っていた。――思っていたのだ。


『わしに奇跡など起こせはせん。例えこれから聖地に赴き修行しようともそれは変わらぬ。御大師様は数々の奇跡を起こしたというが、わしには無理なことなのだ……

 だが、わし自身には奇跡は起こる。これまで生きてきて何度も奇跡のような出来事に救われてきた。今もまたそうなのだろう。

 それは誰であってもそうなのだろう。生きていれば奇跡は起こる。さちは巡ってくる。だから良い風が吹いたのであろう。』


 そう思う清虚は薄闇の中で皆の顔を見渡す。見渡せば彼らは無事に念仏埼を通れたことを喜び合い笑っていた……生きていることを喜ぶ笑顔が見えて――夜が近づく時間の中で――その笑顔が遠くから順番に黒い影へと変わってゆく。


 この時、清虚はそれを見て誓った。これを絶やしてはならないと……





「――修行の旅、どうかご無事で。

 お坊様なら御大師様のような立派な大師様になられましょう。」


 そんな言葉を掛けられた時だった。清虚はある決意を固める。そしてそれから船頭に驚くようなことを言い放った。


「すまぬが、この近くに降ろしてくれぬか。」


「え?」


「どこでも良い、この近くに降ろしてくれ。」


「こ、この近くにですか?」


「ああ、この近くにだ。」


「あの……修行の旅はどうなさるのです?」


 突飛なことに船頭は驚く。立ち上がり頼んでくる清虚の顔を船頭が、のみならず舟に乗る皆が注目した。


 だが、禍時まがどきの暗さにその顔は見えない……誰かが提灯ちょうちんの明かりを灯すと、そこには大柄な老爺が立っていて皆を優しいみで見つめている。


 ――そして、笑い飛ばすように言い放つのだ!


「やめたやめた! 修行はやめた! 修行したところでなんにもならん。そんなことよりやりたいことができた。――ここで降ろしてくれ。」


 清虚の頼みに皆は驚いたが、恩を感じている相手の頼み……断ることはしなかった。舟は海峡に入る手前、小さな砂利浜じゃりはまに着けられる。


 そして暗い夜に清虚は一人舟を降り、皆にはそこで別れを告げたのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る