第12話  そ れ か ら

  二年前の六月、浦賀に黒船がやってきた。

瓦版や錦絵が出て、物見高い人は弁当持ちで見物に行った。

開国か、攘夷かと声高に論じる人たちもいた。

しかし、江戸の庶民は飽きっぽい。

というか、そんなことより今日明日の生計の方が大事なのだ。

黒船が去ると、普段の日常が江戸の町に戻ってきていた。


 内神田は岩本町にある喜の字屋は、それほど大きくないが二階家である。

裏に、棟梁たちがそれぞれ家を構えているので、本部と言うか、仕事を受けたり物を発注したり、人足の手配をしたりするのに、それほど大きな家を必要としなかったからである。

地揺るぎの後の火事で焼け跡になった一角に小さな家を借り、看板を上げて、早いもので十一年になる。看板にも相応の年季が表れていた。


二才ばかりの男の子の手を引いた若女将が外から戻ってくるなり、くすくすと笑い始めた。

正面座敷の長火鉢の前に座っているのは喜市。やや貫録のついた体だが顔つきはまだ若々しい。

「どうした、お糸。中里様の奥様はお達者だったかい」

「それがお前さん、お多恵様が急な御用だとおっしゃるから、小僧蕎麦の二階に部屋をとったんですけどね」

お糸は堪えきれずに、吹き出した。

「またいつもの悋気かい?」

「そうなの、旦那様の手文庫に、女物の櫛が大事そうに隠してあったって」

「そいつは、あれだろう・・」

言いながら喜市はちょっと遠い目をする。

「宗助は、まだお多恵様に打ち明けてねえのかな」

「宗助なんて呼び捨てにして、叱られますよ」

「中里紋太夫なんて、かったるくて呼べるかよ」

「ほんと、お姉ちゃんだって、だあれ、それって、吹き出すね」

その時、ごめんなすって、と声がかかり、源兄いが顔を出した。

「小頭、普請方の松宮さまがお出でで」

「わかった、すぐ行く」

腰がるに立った喜市がお糸が抱き上げた男の子の頭をちょいと撫でて奥の座敷に向かう。

「宗助さん、じゃなくて中里様はお忙しいんですかい?このところ、お顔をお見せになりゃせんが」

源兄いがお糸に尋ねる。

「何だか難しいお仕事のお手伝いをなさってるそうでね。韮山のお代官様と打ち合わせをなさったり、天文方で図面を書いたりなさってるんですって」

源兄いはにっこり笑った。渋く、粋に年を取った貫録の笑顔だ。

喜の字屋の大番頭として、一家を取り仕切っている。

もっとも、喜市とはいまだに”小頭””源兄ぃ”だが・・。

ちなみに、中里というのは宗助が婿入りした百八十石の旗本で、お多恵様と言うのはその中里家の一人娘だった。

鮮やかな転身だった。お圭と二人で商いを始めるという夢が潰えてすぐ、宗助は近江屋を辞し。中里家の入り婿になると宣言したのだ。

前々からその話はあったらしい。和算の輪という、異国の算用を学びつつ、我が国の算用も大切にしようという会に出入りするうち、天文方や測量方のお歴々と親密になり、その才を生かすには武士になったほうが良いと勧められたのだそうだ。

お多恵様というお方がまた、おっとりなさっているくせに、おっちょこちょいで、泣いたり笑ったり、賑やかなことこの上ない。お圭にはなかった品の良さと可愛さを兼ね備えている。

そして、喜市である。組み分けをして、それぞれの棟梁の元、普請を行う傍ら技術を身に付け、継承していくという方式は、お上の推奨するところとなり、喜の字組はいまやその道の第一人者になっている。組も九つに増えた。

最近では、お上の御用だけでなく、商人が己の使う掘割を普請してくれと、直接喜の字組を訪ねてくることもある。また、応分の費用を負担するから是非喜の字屋でと、お上を動かす商人もいる。

しかし、喜市が所帯を持つのは遅かった。宗助が早々と中里家に四人の子{男二人と女二人}を設けたのに比して、お糸を娶ったのは三年前。子供もまだ二歳の圭太一人である。


お糸は密かに喜市を好いていたらしい。喜市と一緒になれないのなら、一生独り身で通そうと心に決めていた。そのため、鼻緒作りを学び、近所のおかみさん連中の内職仕事として斡旋するなどして、それなりに稼いでいた。

そんな折、下駄を買いに来た粋筋の女が、

”下駄は雨が降ると鼻緒が濡れるし、冬は足先が冷たくていけない”

と言うのを聞いて、考えた。

足先を包んで、濡れない物・・竹の皮はどうかしら。で、作ってみた。

足先を包むには包めたが、すぐ脱げる。穴を開けて紐を通し、下駄の後ろの歯にひっかけて止めるのはどうか。竹の皮だから、すぐ裂ける。

ああでもない、こうでもないとやっているところに、兄の忠太が小間物をもってやってきた。下駄屋の一角に小間物を並べて売っているのだ。

忠太に意見を求めたところ、「これ、面白いよ。旦那様に相談してみる」と持ち帰ってしまった。

お糸の発案した”下駄の向こう掛け”は、まず和紙に柿渋で防水加工した物が売り出された。それから、へぎと言う薄板を形にして、漆をかけた物、そして”爪皮”と名を改め、なめし皮へと次々と売り出され、忠太は一躍手代頭に抜擢された。

お糸の下駄屋も繁盛したが、そのころから父親の具合が悪くなった。

浩太も下駄作りは修業していたが、まだまだ一人前とは言えない。

いっそ、小間物商いの店にしてしまって、忠太に店を任せるかと思案しているうちに

父親は死んでしまった。肝の臓の病だった。

亡骸は、お圭の下駄を供養してもらった寺で埋葬してもらった。

その時、喜市に会ったのだ。喜市は、時折、この寺に立ち寄り、お圭の下駄を埋めた卒塔婆に手を合わせてくれていたらしい。

そして・・まあ、いろいろあって、ようやく喜市は身を固めることにしたのだった。

媒酌人はもちろん、武藤雄策、朋絵夫妻である。

この二人、地揺るぎの後、しばらく一心庵が臨時の救護所になっていた間、周囲から旦那様、奥様と呼ばれ、いちいち訂正するのもおっくうと、夫婦の名乗りをあげたのである。

しかし、これでは朋絵様の兄上、山根様が納得するわけがない。

再婚とはいえ、御旗本の妹君である。

祝言の真似事でも・・というので、喜市と宗助が音頭をとり、昔の手習い子でいまは大工になっている者。畳屋、経師屋など、腕に覚えの職人たちが集まり、地揺るぎで緩んだ瓦を直し、畳表を替え、襖を張り直し、近所のおかみさんたちが障子を洗って新しい障子紙を張るなどして、見違えるようにした教場に、損料屋で借りた金屏風と三三九度の一式を持ち込めば婚礼の場ができあがる。

そこにごく親しい者と親戚を呼び集め、酒肴は近くの料理屋から取り寄せるなどして、形ばかりの宴を執り行った。

この時、活躍したのが現と元の手習い子たちで、下町には不案内なお武家様や年配の方々をご案内し、お世話を買って出て、狭い庭いっぱいに並んでお二人を祝福したのだった。


ついでに、小僧蕎麦の面々のその後も述べておこう。

シゲはかねてより、自分たちだけが幸運にも喜市たちに出会い、良い目を見ていることに忸怩たるものがあったらしい。自分たちが塒にしていた寺社の縁の下を見回っては、”何かあったら来い”と声をかけていたようだ。

地揺るぎの後、潰れた掛小屋を譲り受けて小僧蕎麦の看板をあげたのも、彼らを受け入れるためで、もちろん喜の字組の普請が始まると、屋台での営業に駆けつけるが、

一方で、寄ってくる者の世話を怠らなかった。

つまり、門前町の水撒き隊を、観音屋や喜の字組を煩わすことなく復活させ、身寄りのない子たちに住処と食い物と仕事を斡旋している。

11年たった今、シゲは25歳。親方と呼ばれ、掛小屋だった店も二階家の堂々たる構えになった。女将さんと呼ばれているのは愛嬌のある鼻ぺちゃユキで。トラは料理屋に修業に出ている。

ショウタを背負っていたハルは、水茶屋の客で若くして妻に死に別れた葉茶屋の旦那に見初められ、ショウタを連れて後妻に入った。おかげで、喜の字組も小僧蕎麦も、お茶に不自由したことがない。

竹は、粂爺ぃの舟を譲り受けて、船頭になった。舟の手入れについては、いまだに粂爺ぃに文句を言われているそうだ。そして、粂爺ぃの目が届かなくなると、懐から赤い手拭を出して首に巻くのはご愛嬌というものである。


中里紋太夫、こと宗助はいつもふらりとやってくる。

羽織はかまに二本差し。髷も武家のそれである。

「喜市っちゃん、いる?」

そして、こっそり囁くのだ。

「今年はどこに行く?」

武士にあるまじき言葉づかい。その上、奥方さまには内緒の話である。

「そうだな、八王子はどうだ」

喜市も小声で答える。

この二人、秋祭りの季節になると泊りがけで近在の村祭りに出かけていくのである。

目的は、赤い襷をかけ、赤い手拭で頭を包んだ唐辛子売り。

居ても、居なくても、かまわない。年ごろが合わなくてもかまわない。

”探しに行く”のが目的の旅。お圭を思い出すための旅・・だった。



                      【  了  】 

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七色唐辛子 @ikedaya-okami

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