第7話    堀 普 請

 空梅雨だったとはいえ、それなりのお湿りがあって、浜町の堀も少し増水していた。

喜市たちは観音屋の法被でぴしりと決めて、源兄ぃと蘇芳色の手拭を山と積んだ三方を持たせた若い衆二人を伴って、堀の両側に並ぶ商家を一軒一軒訪ねた。

明日から堀の普請をすること、出入りの舟にはなるべくっ迷惑にならないよう気を付けるということ、

そして、普請に先立って本日八つ半、近所の神社から宮司を招いて普請の成功と事故の無いことを祈念してもらうのでよかったら、立ち会っていただきたいと口上をのべたのである。

これまでの普請現場では、俗にいう向こう三軒両隣。現場のごく近くの家に挨拶はあったが、こんなことは珍しい。しかし、考えてみると、普請はこの堀を利用する全ての人たちに関わることである、挨拶があってもおかしくはない。

商家の習いで、お捻りを差し出す店もあったが、源兄ぃがこれをきちんと書き留めているのを知る者は少なかった。


そして八つ。どんな祈祷をするのかと野次馬気分で見物に行った小僧や手代は大慌てで帰ってきた。

すごいことになってます、という報告に、慌てて羽織を羽織った旦那衆がいってみると、堀際に設けられた祭壇脇に普請方の武士が四名いかめしい面持ちで座り、それと差し向かいで喜の字組の面々、そして正面に旦那衆の席が設けられていた。また土手に沿って、通行の邪魔にならないよう二列に並んだ人足たちが居並んでいる。

若い衆に案内されて祭壇前に向かうと、祝詞を終えた宮司がおもむろに御幣を振る先には薦被りの樽酒。|

鏡割りをした樽から真新しい柄杓で酒を汲んだ宮司が、それを川へ注ぐと人足達が拍手した。

喜市が土器を武士に手渡し、あらかじめ備えてあった祭壇から徳利を下げてきて土器に注ぐと武士たちは祭壇に一礼して飲み干した。

喜市は土器を見物に来た旦那衆にも手渡し酒を注いでいく。

一方、蓋の開いた薦被りは土手に持ち出され、人足達に振る舞われているようだ。

だが、旦那衆の目が釘付けになっていたのは、薦被りの収められていた上に張られた注連縄で、それには[御祝儀 ○○屋様]などと書かれた短冊が下がっていたのである。

祝儀として出した店もあったのだろうが、中には駄賃や挨拶代わりとして十文、八文(四文銭というのがあり、これが二枚。およそ百円)で済ませた店もあった。

慌てて懐紙に包んだ金を差し出す旦那衆もいたが、喜市はそれを一旦断って、

「ありがとうございます、勝手ながら御祝儀は文銭か小粒銀でお願えしてえんでさ」

大阪は銀、江戸は金と言われるように、小判の一両も、その四分の一の一分金も、更にその四分の一の一朱金もすべて金である。ところが庶民にはこれが使いづらい。文銭は四千枚で一両であり、穴開き銭であることから紐を通して持ち歩いたが重いし嵩張るしで、これも使いづらい。

そこで生まれたのが小粒銀。銀は変動相場制で、街角で銭売りが文銭に変えてくれたが、だいたい一両の六十分の一。六十五文から八十五文くらいだったらしい。

何しろ・・と喜市は説明する。

こういう現場に怪我は付き物、万一に備えて医者代や薬代は見積もりに組み込んでいるが、怪我人に家族がいた場合の生活費までは想定していない。そこで・・

「皆さんから頂いたご祝儀をこの宮司さんに一旦お預けして、怪我人が出た場合の家族の食い扶持に充ててえんでさ。で、もし怪我人が出なくて余ったら、神社と喜の字組で山分けにしようと・・」

「なるほど、それで宮司さん、気を入れて祝詞をあげなすったわけか」

旦那衆の一人が茶々を入れると、集まった人々からどっと笑い声があがった。


 喜の字組の普請場はそれまでよく見聞きしたものとはちょっと違っていた。

まず、空地に厠が三棟建った。それまでは小便は空地で、大きい方は近所の長屋のそれを借りるか、酷いのは野糞というのが普通だった。

簡単な板囲いとはいえ、人足専用の厠ができたのは珍しかった。

糞尿は肥料として売れたから、それは空地を貸してくれた大家さんへの賃料のおまけになった。

また人足専用の休憩所も作られた。梅雨明けすぐだが、これから陽射しがつよくなる。夕立もあるだろう。柱とちょっとした板囲いと屋根だけの小屋だが、日射しをよけて、中に茣蓙を敷いて横になることもできる。

そしてなんと、小屋脇には屋台の蕎麦屋が出た。蕎麦と言えば夜、というのが相場だがここは早朝から売っている、

暖簾には『小僧蕎麦』。そう、あの竹やシゲやトラが営む蕎麦屋なのだ。

器が色々いる笊は出さない。薬味はネギだけのぶっかけ蕎麦。しかし、普通一杯十六文の二八蕎麦が喜の字組の人足なら半額の八文で食える。

前の晩、呑みすぎて朝飯も食わずにやってきた人足達には有難い蕎麦だった。


「旨そうな匂いですなあ」

近所の暇な旦那が普請見物にやってくる。

「ガキが見よう見真似で打った蕎麦で、お味見なさいやすか?」

話しかけられた源兄いがトラに声をかける。

「おぉいトラ、一杯持って来い」

へーいと声がして、盆に載せた丼をトラが運んでくる。

昨日の菰樽の空いたのを椅子代わりに蕎麦を差し出した。

「私は人足さんじゃないので、ちゃんとお払いしますよ」

旦那が差し出した十六文を受け取ったトラ、小声で源兄いに聞いた。

「あ、あのさ、シジミ売りの子がさ、売れ残ったから引き取ってもらえないかって」

と屋台の方に顔を向ける。天秤棒に盥を吊るした少年が、遠くからぺこりと頭を下げた。

「シゲに言ってやんな。お前えの店だ。お前えの裁量でやれって」

頷いて屋台へ駆け戻るトラに、追いうちの一言

「ちゃんと買い叩くんだぞ」

「シジミ蕎麦ですか、旨そうですね。いや、このままでも美味しいですけど」

旦那がお世辞を言う。

「ほどほどでいいんです。あまり旨すぎて、近所の長屋の衆に押しかけられても困るんですよ。ガキなもんで大量の蕎麦は打てやせんから」

ああ、なるほど・・と得心した旦那、ところで・・と見回して、

「今日は親方、どこかへお出かけで?」

「小頭のことですかい。親方なんぞとふんぞり返るのはおこがましいってね、あそこにいますよ」

指さしたのは堀の中、水を堰き止めた浅瀬に尻端折りに上半身裸になって掛矢を振り上げている。傍らの大男と何やら言い合っているようだ。

「ヤンチャなもんで・・」

呟いた眼が愛おしそうだった。

蕎麦を食いながら思わず見惚れていると、袖に手を通しながら、土手の上に戻ってきた。ぷんぷんしている。

「もうっ、鶴次郎の兄貴、どうしてあんなに頑固なんだろ。見損なったね」

「頑固なのは小頭もおなじでしょうに」

「だって・・」

そこで源兄い、蕎麦を食い終わった旦那がいると喜市に目で教える。

「あ、い、いやちょっと掛矢のね、軽めの物もいいんじゃないかって、初心者向けに」

「鶴さんだって解ってまさぁ、ほら・・」

指さすと、鶴次郎が、喜市が置いて行った掛矢を取り上げた。喜市が両手で持ち上げていた物を片手で軽々と振り上げている。そして背中を向けたまま、ちょいと振ってみせた。

「す、凄え」

喜市は土手際で叫んだ。

「やっぱり鶴の兄貴、最高。日本一」

普請現場が暖かい空気に包まれた。


 鶴組、亀組など各組ごとに棟梁がいて、組ごとに仕事をするという、これまでにないやり方に初めはぎごちなかった普請現場も,日を追うごとに慣れ、いっそ楽しそうに仕事に励む人足達の姿が見られるようになった。

“小僧蕎麦”もシジミの季節は終わったが。今度は野菜の棒手降りが売れ残りを持ち込むようになり、ついにシゲは天麩羅に挑戦すると言い出した。

とはいえ、魚や海老など高価な天麩羅ではない。野菜くずや出汁こぶの残りで作る掻揚げ天だ。

自分たちの取り分から少しづつ出し合って、油と粉を買うというので、喜市や観音屋の若い衆も幾らか銭を出してやった。

「食ってみたらよ。牛蒡と芋の天麩羅が旨えのよ。海老にも負けねえぜ」

と、シゲは胸を張った。

蕎麦八文に天麩羅五文。それでも十六文の夜泣き蕎麦よりも安い。

今日も八つ半(午後三時)には売り切って、シゲ達が引き揚げたのと入れ替わりに、目つきのよくない連中が五・六人やってきた。

ちょうど休憩に入ろうとした亀の親父さんを見つけた連中、さっそく取り囲み、

「やい亀、これまで高え給金ではたらかせてやったのを忘れたのか」

「手慣れた奴ばかり引っこ抜きやがって、喜の字組だあ?ふざけるな」

匕首でも呑んでいるのか。懐に手を入れている奴、後ろ帯に鳶口を挟んでいる奴もいる。

亀の親父さんも青ざめて、俯いた。

「大変だ、棟梁が絡まれてる。」

「小桜組の連中だ」

ただならぬ険悪な雰囲気に、近所の店も半分戸を閉めたり、暖簾の隙間からおっかなびっくりのぞいたり、気の早い店からは番屋へ人が走ったりした。

と、堀の中から声がした。

「静かにしねえか。ご近所迷惑だ」

喜市だった。梯子を使って堀からあがってくると、源兄いに頷いて見せてから、亀の親父さんを庇って、小桜組のお兄いさんたちに向き合った。

「小桜組の親方さんにゃ確かご挨拶いたしましたよね。そう、赤不動の寅蔵親分も御一緒でしたが・・」

「あんときゃお前えらが人足の引き抜きをしようたあ、思わなかったんでえ」

「手慣れた野郎ばっかり引き抜きやがって、まったくカスしか残ってねえ」

喜市はにこっと笑った。

「そう言やぁ小桜組さんも普請を請け負われたんでしたっけ。けど、亀の親父っさんや、平さん、鶴の兄いや京太兄い、それに七郎兄貴のことなら、引き抜きじゃござんせん」

と後ろに合図する。待っていた源兄いが五人に法被を配る。法被を羽織るのを待って、

「ご覧のとおり、五人はうちの・・観音屋の身内になりやしたんで。つまり、雇われる側から雇う側になってくださった、ということでござんす。文句がおありなら、赤不動の親分さんともご相談の上、出直してくだせえ」

ぐいっと一歩前へ出た。五人の棟梁を含む観音屋の若い衆が同じく一歩前に出る。

恐る恐る覗き見していた近所の店の女衆が、あの迫力と目力には惚れ惚れしたと騒いだほど、その啖呵は見事だった。

やくざ渡世で生きている者にとって、身内というのがどういうものか、身に染みて知っている。身内は家族と同様、傷つけられたりすれば、大騒動になりかねないのだ。

そこへ、番屋で知らせを聞いたのだろう、定周りの同心が十手持ちを連れて小走りにやってきた。

「どうした喜市、喧嘩か?」

同心は気安く呼びかける。

「とんでもございやせん、井上の旦那。小桜組の皆さんが、激励に来てくださったんで」

「ふーん」

井上同心にじろじろ見られて、小桜組の面々はお得意の捨て台詞も言えないまま消えた。

「ささっ、旦那方はこちらへ」

と源兄いが同心と十手持ちを奥へ誘うと、喜市は五人衆の前に頭を下げた。

「みな、勝手に観音屋の身内にしてしまって申し訳ねえ。こうするのが一番角が立たねえだろうって。法被、用意してたんだ。このまま観音屋の身内になってもいいってんなら、改めて兄貴から盃を渡すが、気に入らねえってんなら、盃は返したってことで・・」

すると、野面積みの平さんが口を挟んだ。

「俺ゃあ観音屋の身内にはなりたくねえな」

と、法被を脱いだ。俺も、おいらもと五人がみな法被を脱ぐ。

そうか・・と脱いだ法被を受け取りながら喜市がしょんぼりすると、蛇籠の七郎がどんと肩をぶつけてきた。すると残る四人も肩やら腰やらをぶつけてくる。

「俺たちゃな、喜の字組の喜市っちゃんから盃が貰いてえのよ」

そう囁いて杭打ちの京太が喜市の頭をぽんと叩くと引き上げていった、


源兄いが振り向くと、喜市は赤い手拭を握りしめて天を仰いでいた、そして、手拭で鼻をしゅんとすすって、しばらく動かなかった。

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