第8話 閑話休題 神 田 祭
神田明神の御祭礼は日枝神社の山王祭とともに天下祭りと言われている。
何しろ神輿や山車の行列がお城にまで入り込み、将軍様や御台様をはじめ、普段なら名を聞くだけでも畏れ多い偉い方々の御上覧を賜るからである。
神田明神という神社自体は古くからあったようで、権現様、つまり家康様が数々の戦勝祈願をなさったらしい。その挙句、彼の関が原で勝利を収めた日がこの神田明神の御祭礼の日、つまり九月十五日であったことから、これを鎮守として社を現在の地に移した上、祭を絶やしてはならぬと命じられたとか{ただし後年の明治時代、台風で死者が出る被害が出たため、現在は五月に行われている}
喜の字組が初めての普請を成功裏に終えたころ、すでに街は祭の支度が始っていた
一年おきの本祭り。去年の陰祭は色々あってほとんど手伝わなかった喜市だが、今年は喜の字組を率いて手を貸すことになっている。
ふた月も前からお囃子や踊り手の稽古は始まっていて、各町内が趣向を凝らす山車の制作も行われている。町役人や町年寄り、今年の世話役に選ばれた連中が忙しげに走り回る。
街の人たちには楽しみな祭りだが、香具師の元締めには二年に一度の大きな≪仕事≫なのである。
まず境内の整備。危険な場所はないか、見苦しい場所はないか、点検する。木々の張りすぎた枝や雑草の除去、飾り付ける提灯の支度や補修、御祝儀棚の設置や名札などの用意と、これまた忙しい。
ちなみに、喜の字組の旗揚げと成功を見届けた親父は、長兄の弥市に名跡を譲り、側近の数人と伊勢参りに出かけてしまった。ついでに京・大坂も見物してくると言うから、当分帰る気はないのだろう。
鬼の居ぬ間、と思ったのか、珍しく絵描きになった次兄が顔を出した。
「私の絵が珍しく再版になってね」
画名を歌川忠成という次兄は、懐からあの、日本橋船頭之図を取り出して見せた。
「広重先生のような風景画を描く修業の旅に出てたんだけどさ、」
江の島までの画行を終えて、やれやれやっと帰ってきたとほっとしていたら
「娘さんが見惚れてるじゃないか。それが何と我が弟よ。あの馬鹿、何を粋狂に船頭の真似なんそしてやがるってね」
後で冷かしてやろうと書き留めた。
それが、師匠のところに絵の催促にきていた版元の目に留まり、五十枚限定で並べてみたところ、店先で娘たちが奪い合いになるほど売れた。再版は二百で、江戸中の絵草子屋で売るという。
「喜の字組の小頭も今、娘さんたちの噂になってるんだよ。描かせてくれないかな」
というので、丁重に
「兄ちゃんの馬鹿。もう迷惑したんだから」と、お断りした。
さて、神田祭である。親父の名跡を継いだ長兄・新弥兵衛はこれを喜の字組の披露目にしろと、右襟に小さく観音屋、左襟に大きく喜の字組と入れた法被を作ってくれた。シゲ達小僧蕎麦の連中も着られるように、小さな子供用もある。竹は相変わらずの仏頂面で、
「おいら達、喜の字組に入ったつもりはねえけどな」
とぶちあげたが、嬉しそうに着方をあれこれ試していた。
長年祭を取り仕切っていると、あの角が危ないとか、ここいらで渡御の行列が乱れてくるとか解るようで。喜の字組は神輿と町内神輿、踊り屋台などが合流するところ等、数か所の警備を受け持った。
天下祭りである。間違っても事故や喧嘩やいざこざを起こしてならない。
そのための観音屋として、各町から少なからぬ御祝儀をいただいているのだ。
「厄介なのは見物衆だね。ありゃあ水を堰き止めるより難しいぜ」
と、五人衆も音を上げたが、持ち前の力技で何とか役目をこなした。
新元締め・弥兵衛も舌を巻く活躍を見せたのは、意外にも『小僧蕎麦』の子供たちだった。
喜市から、迷子がいたら面倒見てやってくれと言われたシゲと竹、人ごみの中で迷子を見つけると、頭上に大きな白い布を広げて見せたのだ。三尺ばかりの二本の細い竹の棒に縫い付けた布には、太筆で《まよひこ》と大書してあった。何でも、宮司さんに頼んで書いてもらったというから、ずうずうしい。
この竹の棒、二本束ねて、縫い付けた布を巻きつけて持ち歩き、迷子を見つけると、すかさず広げて頭上にかざす。ここに迷子がいますよという目印だ。
これを掲げた途端、「よし坊」とか「けんちゃん」とかいう声と共に、親が人ごみを掻き分けてやってくる。
「ちゃんと数えてないけど、十二・三人はいたよね」
ということになった。また、親の方が先に寄ってきて、目印の処に子供が連れてこられるのを待つといったこともあったらしい。
もう一つ、喜市の発案で、船頭の粂爺ぃを祭の間雇い入れ、粂爺ぃの知り合いだという元小石川療養所の介添え人をしていた老人を乗せて待機させ、怪我人が出た時の応急処置をさせたり、怪我がひどい時は、そのまま猪牙舟で近所の医者に運んだりもした。
実は町のあちこちに、世話人たちが設けた迷子や怪我人の救護所があったのだが、紋付羽織はかまといういかめしい恰好の世話人たちが並んでいては、何だか叱られそうで気軽に立ち寄れず、何より、機動性において喜の字組の連中の活躍は見事だった。
『小僧蕎麦』の五人は観音屋の大広間で元締めから金一封をもらい、粂爺ぃと元介添え人の爺さんも、過分の駄賃をもらった。
「祭りは見物するもんだと思ってたがよう。内側から見るのはもっと面白れえ」
打ち上げの酒を酌み交わしながら、喜の字組もより一層の結束を固めた。
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