第5話 喜 の 字 組
開闢以前の江戸は湿地帯だったそうだ。そこに街を作り、人が住めるようにするためには河川の整備改修が欠かせない。また人口が百万人を超すようになると、飲み水だけでなく、物資を運ぶためにも川が重要になる。
町中では馬に乗るか、歩くより他に移動手段のなかった時代、川とそこを行き来する船は。大量の人や物を運ぶ血の管のようなもので、自然の川だけでなく、網の目のように掘割が掘られた。
自然の川の護岸工事も人工の掘割の石垣も毎年の台風や、最近とみに多い地揺るぎで痛むことが多い。大掛かりな改修工事も行われるが、比較的小さな工事は、江戸の町のどこかで毎日のように行われていた。
「喜の字組というんですってね」
源兄ぃが振り向いて言った・
「え。ああ、仮の名だよ。名前がないと不便だってえから・・」
「良い名じゃありやせんか。元締めも・・」
「え?親父にも言ったのかい?」
「申し上げやしたよ。町名主さまやらお役人様方にお願いするにも、入れ札するにも名前がないと困りますからね」
「じゃあもっと威勢のいい粋な名前にすりゃよかった」
源兄ぃはくすくす笑っている、
二人は神田川の橋下近く、船宿の桟橋に向かっていた。喜市が江戸中の川や掘割を見てみたいと言い出して、それならついでに船頭修行をすればいいと、源兄いが同郷の粂二という老船頭に引き合わせてくれることになったのだ、
「粂さん、来てるかな?おお、来てる来てる。粂さあん」
呼びかけると、四段ほどの石段に腰を下ろして煙草を吸っていた爺さんが立ち上って右手をあげた。
漁を生業にしている人は別にして、川を上り下りする船頭はみな、舟問屋か船宿に雇われているのだと喜市は思っていた。しかし粂爺さんは自前の舟を持ち気ままに仕事をする。気に入らない仕事は幾ら船賃を出そうがしないという、頑固者なのだそうだ。
おまけに小柄で痩せっぽち。筋骨たくましい船頭が多い中、陽には焼けているがとても船頭にはみえない。
その粂爺さん、ふうん・・と喜市をじろじろ眺めまわして、源兄ぃに肯いた。
「がたいはよさそうだ」
「へい、無駄にでかいと言われてたんですがちょいと鍛えました。喜市と申しやす。よろしくお願えいたしやす」
と喜市は頭を下げた。
粂爺さんは懐から真新しい草鞋を取り出すと差し出した。
「あれに乗る時、履き替えな」
しゃくった顎の先に、磨かれて渋く光った猪牙舟が舫ってあった。
“今日は見てろ”と言われた喜市は、舳先の方に座って粂爺ぃの動きを観察した。
所々、馴染みの船宿があるようで、そこで客待ちをしたり、迎えを頼まれたり、きままに仕事をしているようでいて、実はしっかり顧客を持っていると見た。
行きつけらしい一善飯屋でも、昼時をほんの少しずらすだけで、ゆっくり食べられる。
粂爺ぃは寡黙だ。ぽつりぽつりとしか話さない。飯を食いながら“どうでえ”と聞いた。
「船が揺れねえ。よその舟とすれ違って横波喰らっても全く揺れねえ。それに桟橋や杭や石垣にぶつかるどころか、かすりもしねえ」
喜市がそう言うと、粂爺いが鼻でかすかに笑った。
驚いたのは仕事の後の舟の手入れだ。まだ陽のある内に、水道橋手前のちょっと広くなっている川岸に舟を寄せると、川の中から突き出た杭に舫いをかけ、桟橋とはとても見えない板切れにひょいと飛び降りた。
土手に上がる板階段の脇に掘っ建て小屋があり、爺さん、その中から桶を持って出てきた。中には藁を束ねた物や縄を巻いた物、ぼろきれ等が入っている。
舟底に引いてあった茣蓙はゴミを払って小屋の屋根で干す。それから船底に這いつくばって内側を、船を岸へ引っ張り上げて裏側を、傷一つ、虫一匹見逃さない勢いで磨き上げるのだ。
「こいつが俺っちの全財産で、飯のタネだからよ」
呟くようにそう言うと、
「明日は早え。五つには出発する、起きられたら来い」
とさっさと小屋に戻ろうとする。
ここが物置ではなく、爺さんの家というか巣だったかと気がついた。
「あ、あの飯は?」
「朝炊いたのが残ってる、酒もあるから心配いらねえ」
爺さん、喜市を拒むようにがたがたと戸の代わりの板を立ててしまった。
春になったとはいえ、まだ底冷えのする季節、吹きっ晒しの小屋で寒くはないのかと思ったが、まだ遠慮がある。
「ありがとうございました。明日またよろしくお願えしやす」
声をかけて、土手に上がった。
翌朝、粂爺ぃは味噌のいい香りに目が覚めた。
小屋から首を出してみると、船からも小屋からも離れた岸辺に小さな焚火があり、傍らで喜市が木の枝に突き刺した餅を焼いていた。
「お早うございやす。遅れちゃならねえと思って早めに来たら寒くって。門前町の茶屋で餅が余ったってえから小腹が減ったら一緒に食おうと持ってきたんですが、朝飯代わりにどうですか?味噌塗って焼いたら結構いけやす」
焚火が、小屋や舟よりも風下の水際であるのを確認すると、粂爺ぃ冷たい川水で顔を洗い口を漱いでから焚火に寄ってきた。
「いい匂いだ、一つもらおう」
朝一の仕事は、板橋まで行って生花とそれを届ける若い娘を運ぶことだった、
「いつもの順番でいいのかい?お涼ちゃん」
粂爺ぃにしては優しい聞き方だが、喜市はそっぽを向いていた。お圭より一つか二つ年上だろう、若い娘の匂いや物腰が痛かった。
「あ、今日から”山善“さんにもお届けすることになって、えーと順番からすると・・」
「一番が“越乃家”次が”平清“で、”山善“に寄って、“常葉楼” ”風舞“か」
どれも喜市でも知っている、名の通った料理屋や船宿だ。
「“山善”さん、初めてなんで、ちょっと時がかかるかもしれません。ご挨拶やら何やら」
そう言いながら、お涼は舟一杯に積んだ大量の生花を手際よく分けていく。見ていると、花だけではなく、若松や喜市の知らない木の枝や竹、葉っぱなども沢山ある。それらをああでもない、こうでもないと思案しながら分けていく。
一軒目の“腰乃家”。花を運んでやれと粂爺ぃに言われて、蓆に包んだ大きな花の束を井戸端に運ぶ。お涼が挨拶をすませてやってくると、女中や仲居が沢山の手桶を持ってきた。
花を分けるのだなと思った喜市は、黙って水を汲み、手桶に移す。
お涼は荷を広げ、腰に下げた巾着から小さな火皿と竹筒に入った油を出して火芯に火をつけた。そして、よく切れる鋏で切った花の切り口を火で炙ってから手桶に分けていく。
「水揚げがよくなるんです」
恥かしそうに俯いたまま、お涼が言った、
喜市は聞こえなかったふりをして、切り屑を集めるため、箒と塵取りを取りに行った。
二軒目、三軒目、ここでは確かに少し手間取った。手桶が足りなくて、大きな盥が持ち出されてきたからだった。
全ての花を配り終えたときには、昼八つを大きく過ぎていた。
「いつものお蕎麦屋さんでいいかしら?」
お涼が聞く。
「ああ、あっしのことならご心配なく。まだ見習いなんで、飯は勝手に食ってきまさあ」
「こいつの分は・・」
横から粂爺ぃが口を挟んだ。
「あっしが払いやす。まだ修業中なんで、師匠のあっしが払うのが筋ってもんで・・」
「でも・・」
お涼は不服そうだったが、喜市は一度もお涼と目を合わさなかった。
お涼を板橋まで送っての帰り道、
「花ぁ届けるなぁ一と六のつく日だ。夏場は一と四と八のつく日になる」
「へい」
喜市が無口になってしまったので、粂爺ぃがポツリポツリと語った。
「あの娘の爺様が季節よりほんの少し早く咲く花を作ってるらしい。双親はいねえようだが、あの子の兄貴が花づくりを手伝ってるそうだ」
「へい」
「振られた女でも思い出したか?」
「いえ」
「死んだのか?」
「いえ」
「生きてんならいいじゃねえか。明日ぁ神田まで迎えに行ってやる。六つ半だ」
喜市は黙って頭を下げた。
帰り道、柳原の土手まで足を延ばして、まだ店仕舞いしていない古着屋で、赤い手拭を買った。お圭が頭を包んでいたような赤い手拭いが欲しかった。
赤い手拭を首に巻くと、何だか少し元気が出たような気がした。
次の日、喜市は粂爺ぃに”喜の字組“のこと、そのために江戸の川や掘割をできるだけ沢山、土手ではなく川の方から見てみたいのだと打ち明けた。
「船頭になろうってんじゃねえんだな」
ちょっとがっかりしたように、粂爺ぃは溜息をついたが、それなりの顧客やお涼のような定期的に利用する客の合間に、あちこちの川やら堀を案内してくれた。
苔むして今崩れてもおかしくない石垣や、ゆるみきった護岸など、あちこちに補修しなければならない個所がいくつもあった。
とはいえ、幕府も内情は苦しいようで、大掛かりな補修はできず、小手先の手直しを細々と行っているにすぎない。
日本橋から南へ下った桟橋で、粂爺ぃが煙草を吸う間、喜市は竿を掴んだまま見るともなく品川の空を眺めて立っていた。
どんぶり腹掛けに観音屋の腰切り半纏、その裾を櫓漕ぎの邪魔にならないよう腰帯できりりと締め、股引に草鞋履き、首に赤い手拭を巻いている。
ちょっと鯔背に見えたのか、通りかかった娘たちが立ち止まって見惚れ、それに気付いた旅装の絵師がちょちょいと書き留めた。
燕がすいと横切った。
≪ 盗 人 ≫
その帰りだった。室町辺りを通りかかると、屋敷裏の船溜まりに入って行く猪牙舟を見かけた。
荷は積んでいない。
あそこは宗助が奉公している近江屋だなと見るともなく見ていると、七つの鐘の捨て鐘が鳴り始めた。
それが合図だったかのように裏木戸を開けて、女中が姿を見せ、入り濠に汚れ水を捨てた。と、猪牙舟に乗っていた船頭が煙草入れのような物をポイと投げた。女中は素知らぬ顔で辺りを見回し、足元に落ちたそれををすばやく拾って懐に入れた。
女中が、船溜まりの入り口を通り過ぎた喜市に気付いたかどうか分からなかった。
「とっつあん、そこの入り濠から出てくる舟、見てやってくだせえ」
すると、粂爺ぃは櫓漕ぎを緩め、ちらりと横目でその舟を見た。
「見たことのねえ船頭だ」
粂爺ぃは川筋を行き来する船頭なら。大概の顔を知っている。
怪しい猪牙舟が横を追い抜いて行く。
「船宿の名を汚した上にむしろで隠してる。ありゃあ盗人舟だぜ」
「盗人舟?」
「盗人と限った訳じゃあねえが、よくねえことに使おうとしてる舟ってこった」
喜市はさっき見たことを粂爺ぃに告げた。
「代わってやるから尾行けてみな」
櫓漕ぎを代わってもらった喜市は、気付かれないほどの距離をとって、怪しい猪牙舟を追った。
暮れ六つの鐘が鳴りだすと、大店は一斉に大戸を下す。その直前、喜市が近江屋に駆け込み、宗助を呼び出した。
天水桶の陰で、耳打ちする。
「うちが盗人に狙われてるってのかい?」
「心当たりがなけりゃいいんだ。ちょいと妙な動きをする舟と女を見かけたもんでよ」
小柄な中年増で、黄色い片襷をかけていたと女の様子を教えると、
「ああ、そりゃ賄の・・あ」
言いさして宗助は顔色を変えた。
慌てて潜り戸に向かいながら、首だけで振り返り礼を言う。
「ありがと、喜市っちゃん」
「何かあったら呼べよ。今夜はこの辺りにいるから」
うんっと子供の頃のような返事が聞こえた。
それから小半時(15分から20分)、近江屋が地揺るぎのように動き出した。
まず手代が二人、三人と連れ立って、湯屋に行くような格好で勝手口から出てきて、違う方向に足早に向かった。
次に小僧が二人、走り出てきたと思ったら、提灯を燈した駕籠が二丁やってきて、若旦那と若女将がそれぞれ子供を抱いて乗り込み、どこかへ走り去った。
出かけていた手代達が帰り、しばらくすると十手持ちらしき中年男が着流しの侍と共にやってきて、潜り戸を叩いたが中には入らず、出てきた番頭らしき年寄りと天水桶の脇で何事か話していたが、さっさと帰って行った。
最後に、二本差しの明らかに用心棒が三人、庭の方に回って行った。
喜市が宗助に知らせてからここまでで、一刻半(3時間)も掛かっていない。見事な大店の緊急体制だった。
喜市は見届けて、粂爺ぃの待つ猪牙舟に戻った。猪牙は古い船宿の桟橋に舫ってあり、そこからあの怪しい猪牙舟が入って行った入り濠が見通せた。
「どうだったい?」
粂爺ぃが訊いた。
「粂爺ぃのおっしゃる通り、見事な手の打ちようでした」
「だろ?」
粂爺ぃは舟底から風呂敷包みを取り上げ、二つ入っている竹の皮包みの一つを取り上げると、竹筒と一緒に渡してよこした。
「町木戸が閉まってからが勝負だ。腹ごしらえをしときな」
中身は大きな握り飯が三個と沢庵、佃煮が添えられている。竹筒には酒。
「めったに拝めねえ盗人見物だ、いや、捕り物見物か」
すでに一杯きこしめしているのか、粂爺ぃはご機嫌だった。
その時、思いがけず近場から声がかかった。
「やっぱり粂さんかい」
見ると、さっき近江屋の天水桶の脇で、着流しの侍と一緒に番頭と話していた十手持ちらしき中年男だった。
「お前さんが喜市さんだね。赤い手拭首に巻いてるってえから見てたんだが」
「すみません、近江屋さんがどういう手をうつのか、心配だったもんで」
「宗さんの友垣だってね」
「宗助の奴がお世話んなってるようで」
頭を下げると、
「よしな、袖の下ねだられるぜ」
粂爺ぃが不機嫌に言った。
「この海賊橋の平吉、誰彼構わずねだったりはしねえぜ、粂さん」
「おう、よく言った。この先俺っちの弟子の喜市から袖の下を取ろうなんてしやがったら、ただぁおかねえ」
へ・・?と呆れ顔の平吉の傍らに、着流しの侍が寄ってきた。
「平吉、何やってる?どの船宿か聞けたのか?」
「こ、こりゃ小泉の旦那。いま聞いてるとこでして・・」
粂爺いが握り飯の包みを抱えてそっぽを向いてしまったので仕方なく、喜市が怪しい猪牙舟が入って行った入り濠と、その先にある古びた船宿を教えた。
「十年も昔、名張の権蔵ってえ盗人に押し入られて一家皆殺しにあった”尾上”ってぇ船宿だ。幽霊が出るってんで買い手がつかず、空き家のままだそうだ」
粂爺がそっぽを向いたままそう言うと、
「ふむ、さすがに水澄ましの粂だ。よく調べた」
そして、すぐに小山様にお知らせして手配りを、と命じて平吉をおいやると。
「十人のボンクラ目明しより一人の粂さんって、亡くなられた横田様がよく言うておられたな」
と、粂爺さんの肩を叩いて去って行った。
舟の中は静かだった。
闇に沈んで行く街と川面が、空に残るわずかな光を奪い合うように薄い形を見せている。
「横田って同心様は立ち姿の綺麗な粋なお方でな、何流かは知らねえがヤットウの腕は御番所一ってぇ評判だった」
声の調子で、粂爺ぃの辛い話だと知れた喜市は、へいと小さく応えて少し身を寄せた。。
「そんころは俺も船宿の雇われでよ」
船頭仲間から聞いた話なんかをお知らせしたり、張り込みを頼まれたり・・大きな事件の時には、船宿に話を通して月極めで専属の御用船として働いたこともあった。
「正太が生まれたばかりで、横田様から頂く過分な礼金も嬉しかったが、何より刃引きの刀で悪党をばったばったと叩き伏せる横田様に惚れ込んでたんだ」
舟提灯に火を入れた粂爺ぃは煙管を取り出して提灯の火を移し、ふっと煙を吐いた
「梅雨の真っ最中だった」
雨では船頭仕事もあがったりだ。昼間っから飲み屋の隅でチビチビやっていると、どこかで見たような顔の男がこそっと入ってきた。
手拭で頬かぶりしているが、どこで見た顔だったかと思っていると、{大徳利でくんな、金ならある}と懐から小判の端をのぞかせた。
「小汚いなりの男が小判なんか持ってるわけはねえ。で、ピンときた」
”山嵐“という盗人一味の似面絵で見た顔だと気付いたのだ。
雨の中、男の後をつけ塒を確かめると横田様に急報した。横田様は(捕り物)にせず、たまたま悪党を見つけた態で捉えることにして粂爺ぃに案内を頼んだ。
「手札もらってる本職の目明しにもできなかったことをやったっていい気ンなって、帰ったら、おかつも正太もいねえのよ」
近所を探し回って、ふいに思い出した。
「出がけに言ったんだ。時々は舟が無事か見てくれって」
舟の置き場に走った。そこは地獄に変わっていた。
「川雪崩、鉄砲水だ。根っこのついた大木や大きな岩がごろごろと・・」
暗くなって,風が出てきた。冷たい風である。粂爺ぃの声が風に飛ばされる。
喜市は黙って粂爺ぃに身を寄せ、風除けにもならないが、粂爺ぃの背中に手を廻した。
「おかつが正太を負ぶって岸に下りていくのをみた人がいた。鉄砲水はそのすぐ後だったそうだ」
喜市は粂爺いの背中をそっとさすった。
粂爺ぃはしばらく懐から出した古手拭に顔を埋めていたが、やがて、高らかに鼻をかむと
「だからよ川ぁ仇なんだ。仇で、命の親で」と呟いた。
「へい」
「この船は、横田様がお奉行に掛け合って作ってくださった、けど、横田様が亡くなるまで、御番所仕事は二度とやらなかった」
「へい」
「行くか、そろそろ」
「へい。あっしに漕がせて下せえ。夜の川ぁまだ漕いだことがねえんで」
頷いた粂爺ぃは喜市と櫓を交代すると、
「つまんねえ話聞かせて悪かったな」
と小さい声で呟いた。
四つ半{十一時}を過ぎてから始まった捕り物は、あっという間に終わった。
近江屋に忍び込んだ盗人七人と手引きした女一人、二艘の荷足舟は小半刻もしないうちに、役人と小者に抑えられ。引き上げられていった。
宗助が二階の窓から顔を出して、きょろきょろしていたので、赤い手拭を振ってやると、身を乗り出して大きく手を振ってきた。
近江屋への押し込み騒動は、しばらく町の噂になった。瓦版も出た。
それによると、あの日近江屋の蔵には二万両という途轍もない金額の小判が一時的に保管されていたらしい。もとより預り金なので、翌日には運び出す算段で、このことを知っているのは主と頭取番頭の二人だけ。それが、漏れていた。
どこから漏れたのかは一時幕閣を揺るがすほどの大騒動になり、しかし、例のごとくどこかの誰かが切腹し、どこかのお家が改易になって、ようよう静かになったのは一月の余も過ぎてのことだった。
実行犯である盗賊は“世直し狐”を名乗る凶悪犯で、世直しに犠牲は付きものとばかり女・子供まで手にかける残虐非道な悪党だった、らしい。
余罪も数々あったらしく、頭目と主だった手下二人が斬首に、手引きの女を含む残りは遠島と、お裁きも早々とすんだ、らしい。
そして、すっかり忘れ果てたころ、近江屋主より粂爺と喜市に丁重な招待状が届いた。
とはいえ、届けに来たのが宗助では胡散臭くはある。
「今さら料理屋に招待なんて、間が抜けてるとしか言いようがない」
このところ忙しい喜市は憮然として言った。
粂爺もそっぽを向いて煙草を吹かしている。
「そう言わないで、受けておくれよ。これでも御番所の方々や用心棒の先生方より早いんだよ。まず一番はお二人だって」
「お気持ちだけで十分だ」
すると宗助、喜市の耳元で呪文を唱える。
「守銭奴、守銭奴・・。お礼金が出るんだ」
そして、パット両手を広げる。
「十文ってこたあねえな。十朱・・は二分半か。十分は二両半、ってえと十両か?」
思わず声が大きくなった。
宗助がもっともらしく頷く。
「粂爺ぃ、五両ありゃ正坊とおっかさんの墓、建ててやれるぜ」
粂爺がぎょっとして振り返った。
「お前え・・」
「石の位牌もいいが、ちゃんとした墓ぁ作って、回向もしてもらおう」
そ、そんな・・粂爺が呟いて立ち上がろうとして珍しく舟が揺れた。
舟の手入れを手伝ううち、粂爺ぃの塒を覗いた喜市は、小屋の隅に小さな盆に大切そうに載せた黒い大きな石と半分ほどの小さな白い石を見ていた。
粂爺ぃがその石に手を合わせているのも知っている。
喜市が竿で揺れを抑えながら宗助に聞く。
「永代供養ってのは幾らぐらいするんだ、宗ちゃん、知ってるか?」
粂爺ぃは舟底にべったり座ってしまった。
守銭奴の誓い。その経緯を粂爺ぃに打ち明けると、宴席に出るのを嫌がっていた粂爺ぃも、渋々同行してくれることになった。
近江屋も、あまり高級な料理屋では気づまりだろうと、ほどほどの店をえらんでくれていたから、形を改めることもせず気軽に出向いて行った。
一通りの礼の言葉と、三方に乗せた紫の袱紗包みを差し出すと、近江屋の主と番頭は気をきかせて一足早く退出し、後は宗助を含む三人での飲み食いになった。
「そ・・宗ちゃん、こ、これ十両だよ」
喜市が袱紗の中を覗いて頓狂な声をあげた。
「そう言ったじゃないか」
「おいら・・二人で十両だと・・」
「旦那様はそっけなくお帰りになったけど、喜市っちゃんと粂二さんには本当に感謝してらしたんだ。素早く手配りできたのも、二人のおかげだって」
「正直言うとさ、あれが宗ちゃんのお店じゃなかったら、あの女も怪しい猪牙舟も見過ごしてたな」
「へえ、そうなのかい?」
「賊が押し込んで、宗ちゃんが怪我でもしたら大変だと思ってよ」
思わず笑いが漏れた。
そして、瓦版には書かれなかった内輪の話。
「煙草入れみたいな物を受け取ったって聞いたから、毒を疑ったんだよ」
毒でなくとも眠り薬とか、しびれ薬。それで、小僧三人に言いつけて、あの女、紀代って言うんだけど、お紀代に代わる代わるまとわりつかせたんだ。結局、薬を水にもお茶にも、味噌汁にも入れることができなくて、
「いつもは優しいお姉さんを演じていたお紀代が怒り出してね」
それで番頭が確信したのだという。
そもそも雇い人の素性にはうるさい近江屋がお紀代を易々と受け入れたのは、二十年も賄を務めた女が、肩を痛めたので温泉に行くことになった、代わりに、と自分の姪と称して連れてきたのが、お紀代だった。
調べてみると姪でもなんでもなく、同じ長屋に引っ越してきたお紀代の兄・・ちょっといい男だったらしい・・が度々訪ねてきては賄い女に言いより、一緒に温泉に行こうと誘ったらしい。ほんの半月ばかり、賄いの仕事は私が代わってあげると親切ごかしに”妹”に言われ、姪だと紹介したようだ。
温泉で、兄と称する男はドロンを決め込み、置き去りにされた賄い女が這う這うの態で戻ってみると、押し込みの片棒をかつがされたことになっていた。
「可哀そうだけど奉公払いになったよ。押し込みが成功してたら、一味とみなされてお仕置きを受けたかもしれないんだからね」
「こういうのも色仕掛けって言うのかな、粂爺ぃ」
「さあな」
言いながら粂爺ぃは自分の三方から喜市の三方に袱紗包みを移そうとする。
「これで身請けの金の半分ができたぜ」
喜市と宗助は顔を見合わせて、同時にかぶりを振った。
「駄目なんだよ、粂爺ぃ。お圭がさ、言うんだよ。まっとうに稼いだ金じゃないと、身請けされてやらないって」
「そうなんですよ、人にもらったり借りたりしたお金じゃ駄目だって」
「妙な女だな」
粂爺ぃの言葉に、喜市と宗助は同時に首を縦に振った。
「そうなんです」
「変な女なんです」
またまた大笑いになった。
「だからこれは、正坊とおっかさんの永代供養につかいましょう」
「けど、俺っちは何にもしてねえ」
喜市はかぶりをふった。
「おいら一人だったら、盗人と思わなかったと思いやす。粂爺ぃがあれは悪党だと言ってくれたから、知らせに行ったんです」
すると、宗助が一膝下がって深々と頭を下げた。
「おかげさまで近江屋は誰一人命も落とさず金も、何よりも大切な信用も失くさずに済みました。主に成り代わりまして、改めてお礼申し上げます」
預かった金を奪われれば、二万両は近江屋が立て替えなければならない。金高が大きいから、いくら近江屋でもすぐには揃えられない。つまり、期限が遅れるわけで、その損料も支払わねばならない上に、信用が失墜する。
悪いのは盗みに入った盗人だと言っても、商家としては通用しない。
「成程、それじゃあ礼金が十両ってのは安いよな、もっとがっつりねだればよかった」
粂爺ぃが、そう言いながら袱紗包みを懐に入れると、再再度の大笑いになった。
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