第4話   黒  子

 観音屋の若い衆が身なりの良い小柄な中年男を一心庵に案内してきたのは、木枯らしが吹き荒れた翌日。

広いとは言えない一心堂の庭が落ち葉で埋まってしまったので、手習い子たちにも手伝わせて井戸の脇に落ち葉の山を作ったところだった。

「棒手降りの八百屋が来たら呼び止めろ。芋を山ほど買って、焼き芋をな・・」

「せんせーい」

「おう、来たか、野菜売り」

「ちがうよ、お客さん・・」

で、顔を出したのが観音屋の半纏を着た顔見知りの、確か源次という名の若い衆だった。

「御無沙汰しておりやす、今日はちょいと道案内を・・:」

と。後ろから物珍しげに入ってきた中年男の後ろに回る。

「これは浜屋の旦那ではござらぬか。その節は宗助や喜市ともども馳走にあいなった」

「はは、まぁまあ。宗助さんに土下座までされて頼まれたのに、なしのつぶてで怒っておいでかもしれんと、恐る恐る出てまいりましたよ」

「いや、勝手なお願いをしたのはこちらで」

「武藤先生、立ち話も何でございますから、あがっていただいては」

朋絵殿が寄ってきて、浜屋と源次に挨拶する。

「おっ、こちらが噂のおなご先生でいらっしゃる。へい、源次と申しやす。先生、子供らと焼き芋はあっしが引き受けましたから、ごゆっくり」

さすがに香具師の仕切りに慣れた源次は手際がいい。野菜売りを見つけて芋を買ってくる組、焚火を囲み落ち葉が飛ばぬように置く石を集める組、火事にならぬよう水を汲む組などと、子供たちを分け、動かしていく。

見惚れていた朋絵殿が「あ、お茶を・・」などと口ばしって勝手に向かう間に、武藤と浜屋は教場脇の座敷に腰を据えた。

「それで、早速だがお圭は元気にしておりましょうかな」

「それが、あなた・・」

浜屋は口元を押さえて何とも言えぬ笑いを浮かべた。

「女郎の売り口上?」

頓狂な声で聴き返した武藤に、

「武藤先生、子供たちが・・」

朋絵殿が声が大きいと咎める。まして、女郎などと。

浜屋も声を潜めた。

何でもきっかけは仲良くなった『小豆さん』という姉さん女郎が、黒子が多いために客がつかず、もっと格下の安女郎屋に売られそうになったことらしい。

「客がつかないことを、お茶を挽く、と言うらしいですな。一日お茶を挽いた女郎は飯抜きだそうでしてね」

まあと朋絵殿が顔を顰める。

「飯抜きで痩せ細った上に黒子ですからな」

主が売り払おうと思うのも無理はなかった。

「そこへ土筆が・・ああ、土筆というのが店でのお圭さんの名前ですが、乗り込みましてね、売るのを五日待ってくれと・・」

三日目のお昼を過ぎた時分、お圭は、いや土筆は店表に立った。頭は赤い手拭で姉さんかぶり、赤い襷をしていた。

店表には妓夫(ぎゆう)と呼ばれる客引き兼用心棒がいる。その客引きを尻目に、あのちょいと掠れたよく響く低音を発したのだ。

『さあお立ち合い。美人ぞろいで有名な於福屋だ。まず売れっ妓は○○さん。色白もち肌でこリや文句なし。次にこの品川沖で捕れる魚みたいにぴちぴち生きのいいのが××さん、まだ乳離れできてないお兄さんには△△さんだ。甘えさせてくれるよ』

物珍しさにたちまち人だかりができたのは言うまでもない。で、最後に言ったね。

『最後はお客さんとあたい達との勝負だ。この小豆さん、顔にも首筋にも黒子があるだろう?何と体中黒子だらけなんだよ。昨日と一昨日、二日かけて仲間で黒子を数えたね』

とここで懐から折畳んだ紙を取り出す。

「間違いの無いよう、四度も数えなおしたんだ。その数がここに書いてある。お客さんが数えて、ここに書いてある数とぴたり一緒ならお代はいらない上に百文さしあげようじゃないか。どうだい?やってみるかい?」

「そんなの、合ってても間違いだって言えばズルできるよな、という声には、たまたま通りかかった宿の顔役さんに数を書いた紙を預かってもらうことになりました」

「ほう、まさに香具師の手口ですな」

「さようさよう。これが当たりました。我も我もと男が押しかけ、小豆さんはお茶を挽くどころか、お茶を飲む暇もないほどに売れたのでございますよ」

「なるほど・・」

「土筆の口上は昼八つ過ぎ。それを目当てにやってくる客も増えましてな。私もわざわざ見に行きましたよ。あの子の上手いのは、毎日口上が少しずつ変わることです。小豆を売るための勝負ですが、毎日だと飽きてくる。すると、今日は特別・・なんぞと言って、他のお人には内緒だよ、小豆さんの左の耳の穴のすぐ横に、楊枝の先で突いたほどの黒子があるのさ、なんて秘密めかして言うのですよ。おかげで於福屋は笑いが止まらないそうです」

「赤い襷がけで・・頑張っておりましたか」

「いくら教え子でも先生のようなお武家といい若い者が二人、身売り先まで追いかけてくるなんぞ、どんな娘だと思っておりましたが、いやいや、面白い。面白くていっそ愉快だ。私も惚れてしまいそうです」

「あ、いやそれは・・」

「わかっております。喜市に言われました。きっと二人で金を稼いで身請けしにくる。それまで、誰のものにもならないよう、見張っていてくれ、とね」

「しかし、そんな目立ったことをすれば・・」

「今のところは大丈夫でしょう。今や土筆は於福屋の看板です。いや、土筆のおかげで品川宿全体が活気づいてるんです。まあ、商売敵の店にとっては、邪魔者でしょうが、この私が目配りしておりますのでご心配なく」

武藤は一膝下がると、深々と頭を下げた。

「あの二人のためにもよしなに、この通り」

庭から芋の焼ける香ばしい匂いがしてきて。子供たちの嬉しげな声が聞こえてきた。



           ≪ 川 人 足 ≫

 師走に入って間なし、昼間は晴れていても夜になると寒風が吹きぬけた。気のせいか、白い物が待っているような気もする。

明神下の路地裏を、やけにかさ高い男が、人目を避けるように駆けていた。

「もうすぐそこだ。気を確かにもつんだぜ」

どうやら背中にもう一人、それを壊巻布団で包んでいるようだ。

男はちらりと後ろを気にしたが、附いてくる足音は聞こえなかった。

男は一軒の仕舞屋の戸をそろりと叩いた。

「おみち姐さん、夜分にすまねえ」

潜めた声を二度ばかり繰り返すと、戸の内に灯りがつき、そろりと戸が開いた。

「俺です、喜市です」

「まあ小頭、どうしなすった。ご病人?」

「へえ、ちょいと訳ありで・・」

「とにかくお入り。おお,寒い」

戸が閉められ心張棒がかけられたが、灯りは一晩中つけられていた。


医者と薬籠持ちの弟子を連れた源兄ぃが駆けつけてきたのは翌朝だった。

病人は五十歳近い貧相な男で、風邪をこじらせて肺炎になりかけていたらしい。

一通りの手当てを終えて医者が引き揚げ、おみちが処方された薬草を煎じにかかると、源兄ぃが、さて・・と喜市に向き合った。

「一年は帰らねえつもりだったんだよ。けど他に頼るところがなくって、面目ねえ」

「それはいいんです、小頭。それより・・」

源兄ぃは病人を顎で指す。

「堀普請の人足仲間で亀之助さん、俺たちゃあ亀の親父っさんと呼んでる」

喜市の言葉に源兄ぃは眉ひとつ動かさない。言わずとも、月代が伸び無精ひげもむさ苦しい喜市は、変装などしなくとも観音屋の小頭には見えなかったし、どこの普請場で人足をしているのか、それとなく目配りしていたようだった。

「それで・・」

「うん、今度の普請は酷くてさ、人足を使い捨てにしてるんだ。怪我しても手当てもろくにしねえで放り出す。亀の親父っさんが文句を言って、お上に訴えるなんて口走ったもんだから、寄ってたかって殴る蹴る。揚句、熱が出しても医者にも見せねえ。それどころか逃げ出さないよう見張ってやがる。このままじゃ死んじまうと思って・・」

ふむ・・と応じて、源兄ぃはじろじろと喜市を眺めまわした。

「あ、おみち姐さんの座敷を汚しちまって、申しわけねえ」

「なあに、そんなこと。こういう時のためにこっ恥ずかしいが女の家を教えたんだ。俺が見てるなあ小頭の面つき、体つきですよ。逞しくおなんなすった。どんと腰が入って、腕も足も一回り、いや二回りは太くなって」

「良い男っぷりですよ。お前さんなんか足元にも寄れやしない」

おみちが茶々をいれる。

「てやんでぇ。んなこたぁとっくに承知の助よ。おいらが見込んだ喜市っちゃんだぜ。」

「そんなことより、おいらこれから普請場に戻らなくちゃならねえ。今でもぎりぎりでやってんだ。おいらと亀の親父っさん、二人抜けたらまた怪我人が出る。頼んます、亀の親父っさん、助けてください。普請場には欠かせない大切な人なんです」

源兄ぃが口を開く前におみちが胸を叩いた。

「まかせときな。病を押して田舎から出てきた遠縁の叔父さん、このおみち姐さんが引きうけた。大船に乗った気でいていいよ」


喜市が携わっていた堀普請は、工期が延びに伸びて師走も押し迫った暮れの二十九日にようやく終わった。

恩着せがましく『お年玉』の一分銀を上乗せしてやったという給金で、土産の鰻を買っておみちの仕舞屋を訪れると、亀の親父っさんはいなかった。

「具合、また悪くなったんじゃ」

案じる喜市に、おみちは肩をすくめてみせた。

「うちの人にくっついてる若い衆が寄ってきてね、まるで手妻だ、もっと見せてくれって」

五人も六人も連れて、神田川の上流まで出かけているという。

「まあ帰りに焚きつけの枝やなんか集めてきてくれるから助かるんだけどさ」

「ははあ」

喜市は満足そうに微笑んだ。

「何が手妻なんだか」

おみちは分からないようだ。

「亀の親父っさん、石の目を見るんですよ」

「石の目?」

堀の普請は、底浚いもあるが主に石垣の補修である。形も材質も違う歪な石を積むと、当然隙間ができる。小石などで隙間を埋めるが大きすぎたり小さすぎたり、ぴったりの小石はなかなか見つからない。ところが、あの亀の親父、大きな石の角をちょいと欠いてぴったりの小石をつくるのだという。

「この石のここを叩けば、このくらいの大きさの平たい石が取れる、とか。こっちの石のここを割ればあっちの下に入れるのにちょうどいい石になるとか、あれはホント、手妻です。おいらが力任せにぶっ叩いても欠片が飛び散るだけなのに、親父っさんが軽くコンとやると見事にわ割れるんですよ」

「へえ、卵を割るのは下手くそだけどね」

二人して大笑いしているところに、源兄ぃがやってきた。

「あっ源兄ぃ。亀の親父っさんがお世話になりやした。すっかり元気になったって、姐さんに聞いてたとこです」

「普請の方は終わったんですかい?」

「なんとか・・」

「ちょいと調べてみたんですがね、あの普請を請け負った小桜組、ありゃあ赤不動の寅蔵ってぇ博打打ちの隠れ蓑でさあ」

聞き飽きてしまって、今さら畏れ入ることもないが、またもやの御改革で、賭場の取り締まりも厳しくなった。

赤不動の寅蔵はこれを見越して、小普請組の旗本家に取り入り、中間長屋や離れの隠居所などで賭場を開いている。

ちなみに、どっちもどっちと思われがちだが、博徒と香具師の元締めとは、根本的にここが違う。つまり、博徒が賭場や岡場所など法的根拠のないところから金を吸い上げるのを生業にしているのに対して、露天商や芸人、宮地芝居など寺社仏閣の境内で商いをする人たちから場所代を取るのが香具師の元締めなのである、

似たようなものではないかと言う人もいるだろうが、違法な金を稼いでいる博徒は殺しも辞さぬ荒事に走ることも多く、一方、境内でのもめ事を収めるだけの香具師の元締めは、門前町の世話役兼顔役だったりする。

もちろん、まっとうに商う者がいれば、裏で博徒の真似をする者もいるから、賭場も開帳している香具師の元締めがいるのも事実だ。

それはともかく、近頃貧乏旗本や御家人の中間部屋が賭場になっているとよく聞く。

武士が受け取る禄は相も変わらず年三度の米で、減りはしないが増えもしない。

一方、米以外の物の値段は年々上がっていく。だからと言って貧乏たらしい真似はできない。武士としての体面を守るため、大方の武家は借金まみれで困窮にあえいでいた。

だから、場所を貸すだけで寺銭が得られるのであれば、中間部屋が賭場になろうと、見て見ぬふりを決め込むのだと聞いている。

そうした武家との関わりの中で、堀普請や川普請のことを耳にしたのだろう、もしも中間部屋での賭場が露見するようなことがあっても、公儀御用を請け負っておけば、何かしらお目こぼしや役得があると考えたのだろうか。二足の草鞋を履くのは、昔からの彼らの常套手段だ。

「知ってるよ、でも奴らをどうこうしようってぇことじゃあねえんだ。おいらはおいらのやり方で普請をやってみてえ」

「普請を・・」

「うん、で、今日、鶴次郎ってぇお人がここを訪ねてくる。亀の親父っさんとは顔なじみだから、しばらく待っててもらいてえ」

「小頭はどうなさるんで?」

「親父・・いや観音屋の元締めに話をしてくる。そのあとで、源兄ぃにも話を聞いてもらいてえんだ。この通り・・」

喜市は頭を下げた。


鶴次郎という男はそろそろ陽も落ちようかという時分にやってきた。恐らくは相撲取り崩れだろう、六尺を超す大男で腕も足も胴回りも驚くほどの太さだった。そんな図体で、声や話し方は意外に優しい。おみち姐さんに勧められても、部屋の隅に小さくなって座っているばかり。

「鶴兄ぃ。待たせた」

と喜市が戻ってくると、ほっとしたような笑顔をようやく見せた。

(元締めにはやってみろと言われた。どうなるか、やってみないと分からねえが、みんなの話も聞きてえ)

「じゃあまずはこれだね」

おみち姐さんが皆の真ん中にどんと一升徳利を置いた。

「お前さん、お猪口はだめだよ、湯飲み茶碗を出しとくれ。小頭の土産の鰻を温めたからそれで始めてもらって、と。ちょいと買い出しに行ってくる・・」

おみち姐さんが慌ただしく出かけていくと、源兄ぃが四人の茶碗に酒を注いだ。

「それじゃあ・・」

喜市が茶碗を持ち上げると、鶴次郎が真っ赤になって口を出した。

「と・・とにかく来てくれってえから来たけど、喜八っつあん、ここはいってえ」

「喜八?」

「ああ、あの普請場ではそう名乗ってたんだよ、源兄ぃ」

「鶴次郎さんにはちゃんと話はしてねえみたいだな」

「どこに耳があるか分からねえから、あの近所で話はできねえ。遠いところ、来てもらって悪かったな、鶴次郎さん」

喜市は鶴次郎と亀の親父に向かって頭を下げ、話を継いだ。

「とりあえず、おいらの話しを聞いてくれ。そんで、話にならねえとか、まっぴら御免というんならそれでもいい。とにかく聞くだけ聞いてくれ」

手前の身一つで金を稼いでみようと思ったことから始めて、普請場でのこと、色々変だと思ったこと、理不尽だと思ったこと。そして、自分がこの普請を請け負ったら、と思ったら様々考えが浮かんできたこと、などである。

「例えば、時の鐘が鳴ったら皆一斉に川からあがるだろう?」

「昼飯食わにゃあ、ぶったおれるからな」

「人足をいくつかの組に分けて、時をずらしながら休みを取ったり飯を食ったりするってのはどうだい?」

「ややこしくならねえか?」

「組ごとに色の違う手拭をかけてもらう」

「うむ・・それなら」

「おいらね、石組を任せる亀組と、杭打ちの鶴組を作りたい。んでもって、鶴さんと亀の親父っさんがそれぞれ差配したら、もっと早く、もっとしっかりした普請ができるんじゃないかって・・どう思う?亀の親父っさん、鶴兄ぃ」

「うーん」

鶴と亀は同時に腕を組んで唸った。

「例えばモッコ運びの新米だ。腰の入れ方、歩き方、ちょいとコツを教えてやりゃあ怪我をしねえで済む。慣れた奴と組ませて、教えさせる代りに手間賃をほんの少し上乗せする、とか・・」

うーん、と鶴と亀がまた唸る。

「あと、蛇籠の扱いに長けてる人とか、飯焚きなんかも欲しい」

亀がくすっと笑った。鶴もにやにやし始めた。

「お遊びじゃねえぞ、って言いたいが、喜八っつあん、何だか面白そうだ」

「乗っていただけやすかい?」

「ほかの奴らの話も聞かなきゃならねえが、話だけでもわくわくしてくらあ。どうです?正月明けにもう少し突っ込んだ話をするってのは。それまでに、信用できそうな奴を集めときまさあ」

「信用できそうな奴ね、京の字か、鶴」

「おうよ、それに平さん・・」

「あいつぁだめだ。酔っぱらうと滅茶苦茶だ」

「おめえといい勝負だよ」

「おきゃあがれ」

おみち姐さんが帰ってきたときには、四人は二本目の一升徳利を開け。

三本目も残り僅かという有様。

さっきまでかしこまっていた鶴兄ぃの豪快な笑い声が響いていた。



         ≪ 藪入り ≫

正月の藪入りは十六日、目当てのお圭がいなくても、宗助は律義に喜市を訪ねてきた。

「足が覚えてるんだよ。他に行く処無いし」

「男二人じゃ何だか様にならねえなあ」

ぼやきながら、喜市もいつものように宗助と肩を並べて明神様の鳥居をくぐる。

石燈籠の脇には七味唐辛子の屋台が出ていて赤い手拭で鉢巻をした小太りの女が店番をしていた。

「お圭の店はよく売れてたからな、贔屓ってほどじゃねえが、唐辛子は明神様で買うってえ客も多い。あのショバは取り合いだったらしいよ」

喜市がそう言うと、宗助はふうんと鼻を鳴らして呟いた。

「唐辛子がしけってそうだ」

喜市が吹き出し宗助も笑いだして、ようやくぎごちなさがとれた。

「守銭奴に・・」

と宗助が拳を上げると。

「なってやろうじゃねえか」

と、喜市がその拳に自分の拳をふつけた。

参拝を済ませた二人は、水茶屋で団子をかじりながら近況を語り、門前町をぶらぶらしながら愚痴を言い、蕎麦屋の二階で今後の見通しを語った。

「見習いとはいえ一応番頭だろう?そうそう勝手はできないんだよね。旦那様は大目にみてくださるけど」

「そうだろうな」

「でね、山根様にお願いして、前もって問題を知らせてもらうことにしたんだよ。で、解への道、その一から三までを作って高麗屋さんに預けておくことにしたんだ」

「なんだその〈かいへの道〉って。アサリかハマグリの漁場か」

「ちがうよ、答えを導き出す道しるべって意味だ」

「あ、なるほどね。そうか、易しい順に一・二・三か」

「最後は自分で答えを見つけないと楽しくないって,山根様に言われたからね」

(解への道)の使いみちは 高麗屋のご隠居に任せていて、宗助は三つの(道)で二分。半年分を藪入りの時にまとめてもらうのだそうだ。

ほら・・と宗助は巾着から小判を数枚出して見せた。

「おお、すげえ。立派な守銭奴だ」

喜市が手を打って喜ぶ。

「自分で持ってると物騒だから、武藤先生に預かってもらおうと思ってるんだ」

「それがいいかもな。おいらの分と合わせて・・それはそうと、身請けの値があがったらしいな」

「え。そうなのかい?前は確か三十両って」

「お圭の奴、啖呵売女郎なんて言われてよ」

ちょっと話題になり、人気も出た。手放したくないと思ったのか、於福屋が身請けの値上げを言い出したのだという。

「五十両とか吹っかけたらしいけど、太市の兄貴がそれは阿漕だろうって」

「で・・・」

「四十両」

「そんな・・」

宗助は苦虫を噛み潰したような顔になる。

この十月、頑張ってやっと四両1分だ。

「十年かかる」

「おいらが半分稼ぐから五年だな」

「稼げるのかい」

「まぁこれからだな。さっき話した人達が動いてくれたら、観音屋の新しい仕事になると思うんだけど、まだ何とも・・」

「お役人が絡むとねえ」

「そうなんだ。でもこれは金儲けのためじゃねえ、使い捨て同然の人足たちのためでもあるんだ」

「うん、うまくいくといいね。」

言いながら宗助は、旦那様や算学志の面々で、普請奉行様とか偉い人たちに口をきいてもらえる人はいないかと考えを巡らせていた。


蕎麦屋を出ると、二人は自然に別の方向に向かった。お圭が一緒だと、あっという間に一日が過ぎたが、今は時が惜しかった。

宗助は浅草片町にある天文台、頒暦所ともいう、に向かった。

元々、天体観測をし、暦を作るのは都の陰陽師の仕事だった。

徳川の世になって、幕府はこれを渋川春海と言う人物に委託した。渋川は自邸を司天台と称して観測を始めたが、低地であったり、樹木に邪魔されたりで何度も移転を繰り返し、天明二年(1782年)浅草片町へ、天保十三年(1842年)には同じ浅草だが九段坂上に天文屋敷を作っている。

宗助はすでに一度見学を許されて、大きな物干し場のような縁台に太陽と月の運行を表した天球儀や、大きな三角定規など規矩元器や分度の矩、根発{コンパス}のような道具を見せてもらっていた。

「米を全ての基礎に置いているわが国では月の満ち欠けを基にした太陰暦を用いている。一方、異国では太陽の動きを基にした太陽暦を用いておる。例えば・・」

と、説明も受けた。長崎の出島にやってくるだけでなく、あちらこちらで異国の舟がみかけられるようになった昨今、太陽暦と我が国の暦の摺合せも重要なのだと教えられた。

またここは蛮書和解御用を勤める蛮書調所でもある。鎖国しているとはいえ、異国との交流が全く無い訳ではないから、最低限ではあっても異国の政治、経済、社会情勢を知り、暦上の日時も擦り合わせる必要があったためで、八代将軍吉宗の英断だったらしい、

つまり、ここでは算学だけでなく、医学、地誌学、科学等々、堂々と海外の書物を調べることができた。ちなみに、この少し前、彼の伊能忠敬が、最新の測量法を学びに通い、後に大砲を作るための反射炉を韮山に作ることになる韮山代官の江川英龍が通ったのも、ここ浅草天文台だった。

宗助は、算学志の師匠である天文方の山根様にいま一度ゆっくり見学したいと願い、今度の藪入り、すなわち今日、訪ねて来るよう言われていたのである。


一方、喜市は人足仲間の亀の親父っさんと鶴次郎に呼び出されていた。

昼は一善飯屋、夜は居酒屋という最近流行の店で、酒は売るが色は売らないからカラッとしている。

暖簾を払って腰高障子を開けると。いらっしゃーいという小女の声と、おい、こっちだこっち・・という鶴次郎の声が重なった。

結構広い土間に、樽の上に板を乗せた卓が四つ、小上がりの席がそれを囲んで、奥には障子を開け放った座敷もあり、その座敷から鶴次郎が顔を覗かせていた。

客は七分の入りというところか、ごめんなすって、と喜市は客の間を掻き分けて座敷にあがると、膝をそろえた。

「お待たせして申し訳ねえ。遅くなりやした」

ぺこりと頭を下げると。

「ガキだたぁ聞いてたが、こりゃ本物の小僧っ子だぜ」

いきなり頭上から野太い声が降ってきた。

「もう、のっけから喧嘩腰はよしねえな、京さん。小頭、こいつが俺と同じ杭打ちの京、京と・・お前え京太だっけ、京三だっけ」

「どっちでもいいや」

京さんはそっぽを向く。

「で、京さんの隣のち・・いや小柄なのが野面積みの平さん。そっちの色男が蛇籠の七郎ってんだ」

喜市は一人一人に頭を下げた。

「で。本当の処、幾つなんだい」

蛇籠の七郎が欠伸混じりに聞いた。

「ご挨拶が遅れやした、観音屋喜市と申しやす。土方人足を始めて一年にも満たねえひよっこで。年が明けて十九になりやした」

「ふうん、そのひよっこが川普請の差配をしようってえのかい?」

「とんでもねえ。普請の差配は皆さんがなすっておいでじゃありませんか」

「どういうことだい?鶴と亀の話じゃよくわからねえ。筋道立てて話してみねえ」

喜市は丹田に力を入れて座りなおした。

「あっしが始めて川普請に出たとき・・」

川に入るまでは確かに小桜組の若い衆が仕切っていた。しかし川の中に入ると、杭を打つ者、蛇籠や板で流れを遮る者、崩れかけた石垣を補修する者と見事に分かれ、自分たちのような新入りも、お前はあっちに回れとか、こいつをやってみろとか、振り分けてくれる。

「あっしは最初、杭を支える仕事をさせてもらいやした。そん時・・」

二間ほど上流で、いままさに重い掛矢が振り下ろされる、その瞬間杭を支えていた男が足を取られて尻もちをついた。

「あっしは尻もちをついた男が掛矢に叩き潰されると思わず目を瞑ったんです。でも、悲鳴も骨の折れる音もしませんでした。恐る恐る見てみると、掛矢は男のほんの二寸ばかり横にうちこまれてやした」

「時々いるんだよ、ああいうひょろひょろしたのが、危なくってしょうがねえ」

鶴次郎が嘯いた。

「名人だと思いやした。杭打ちの職人で、名人だと」

同じように、亀の親父っさんの石組の見事さにも感動した。

そういう目で見てみると、川普請は二人のような手練れを中心に動いている。小桜組が何を言おうと、川の中は彼らが差配していた。

「ところが、二人の給金を聞いて腰が抜けました。新米のおいらと百文も違わねえんですよ。そんなことってありますか?」

「あいつらは俺たちを職人だなんて思ってねえ、只の人足としか思ってねえからな」

杭打ちの京さんが悔しそうに呟いた。

「なるほど、それで鶴組・亀組か」

野面積みの平さんが吐息と共にそう言った・

「へい、初めから皆さんに普請を仕切ってもらい、人数や工期も決めてもらったら、こないだのように工期が延びるなんてことにはならねえと思いやした」

「なるほど、鶴や亀の言うように面白いとは思うが・・」

「へい、まだ海の物とも山の物ともわかりやせん。お役人には賂も絡んでるみてえだし、ややこしい手続きなんかもあると思いやす。皆さんにも“助”ってぇか手下みたいな人を幾人か見つけてもらわにゃあならねえし、給金のことも・・」

今のような一律の給金に腕によってちょいと足し前なんてケチなことはしないで、頭は幾ら、助は幾ら、腕の確かな者、ちょいと慣れた者、新米と、誰が見てもすぐ分かる給金にする。しっかり働けば給金があがるとなれば励みにもなるし、頭の技術を学ぼうとする者が出てくるかもしれない。

喜市の説明に、五人はそれぞれ考え込んだ。腕を組んで虚空を睨む者、猪口を持ったまま目を閉じて考え込む者、唸り声をあげる者。

「ややこしい計算やら何やらは、お前さんがやってくれるのかい?」

「へい、誰が見ても一目でわかるような、給金表を作ろうと思ってやす。」

喜市が生真面目にそう言うと、蛇籠の七郎が徳利を差し出した。

「人足仕事なんぞ、しんどいばかりで金にならねえと思ってたが、何かわくわくしてきやがったぜ、ま呑んで下せえ、親方」

喜市は思わず”親方“を探して目を泳がせたが、自分のことだとわかると慌てて手を振った。

「親方なんてとんでもねえ。親方は皆さんであっしはお役人や人宿や、普請場の周りの衆との使いっ走りでさあ。喜市と名前えで呼んでもらってもいいが、呼びにくいなら”小頭“と呼んで下せえ」

「いいだろう小頭。普請場を仕切るとなりゃあ今までと違う目で見直さなきゃならねえ。今日の、明日のってえ話じゃねえよな。目途は・・そうさな、四月か、五月って処か?それまでは時々打ち合わせだな。よし、今日は呑もう」

杭打ちの京太が大声で酒を追加した。

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