第3話 守 銭 奴
桂庵、人宿、口入屋ともいう。外神田のその店の前に喜市は立っていた。
もうずいぶん長い間立っている。
その肩をポンと叩かれ、喜市は夢から覚めたように振り向いた。
「何をなさってるんで、小頭」
お目付け役の源兄ぃだった。
「あ、あのさ、源兄ぃ」
喜市は源兄ぃを近くの天水桶の陰に引っ張っていった。
ちなみにこの源兄ぃ、木更津の源次という二つ名を持つ、れっきとした渡世人だ。
何故かは知らぬが観音屋に草鞋を脱ぎ、以来もう十年近くも香具師の仕切りを手伝っている。喜市が神田明神の仕切りを任されたとき、真っ先にその手下になると手を挙げたのが源次だった。
「おいら気が付いたんだよ」
「気が付いた、何を」
「うん、おいらまともに金稼いだことねえなって。ちゃんとした仕事ってぇか、したことねえなって」
「ああ、それで人宿・・」
源兄ぃはにやりと笑った。
確かに、観音屋の親父から正月や大祭、節季ごとに相応の金が渡され、これで仕切れと命じられる。足りなければ言え、余れば皆でわけろ・・・だからいつも懐はそこそこ潤沢だったが、それは己が稼いだ金ではない。小遣いか、駄賃だ。
「考えてみたらこの年までぼうっと生きてたなあって。」
「ははあ」
「この世の中、いろんな仕事があるのは知ってる。香具師のみんなだって、大道芸に宮地芝居、物売り口上、どこでそんな仕事見つけてきて、腕を磨いているのか、考えたこともなかったんだ」
「なるほど、確かにそうですねえ。今日思いついて明日からってぇわけにゃいきませんよね」
「棒手ふりでも、町の鋳掛屋でも、屑ひろいだって、取り仕切る元締めがいて、何がしか上前をはねられて、元締めは町の顔役に上納金を差し出す・・」
「そうそう、その顔役はお目こぼしを願って役人に賄賂を渡し、役人はそのまた上役に賄賂を使う・・と」
「うん、そういうこと何にも考えずに、親父の言うままに神田明神を見回ってた。まるでガキの使いだなって」
源兄ぃは深く二度ばかり肯いた。
「それで・・」
「親父に、明神様の仕切りは当分できねえって、断り入れてきた。とにかく一人で金稼いでみようって」
「ここら辺りじゃまだ無理でしょう?」
「そうなんだ。人宿に入ったら、小頭何人必要ですって聞かれるし・・」
源兄ぃはぷっと吹き出した。
「でしょうね。ここらじゃ小頭は雇われる側じゃなくて、雇うがわだ」
「いっそ、御府内を出て、知らねえ土地に行ってみようか、なんて・・」
「思案してなすったんですね」
「うん・・」
源兄ぃは腕組みをして、しばらく考えていたが、やがてポンと手を打った。
「やっぱり八方出だな」
「八方出?」
「変装ってやつで、まぁ任しといておくんなさい」
連れて行かれたのは明神下の裏路地を抜けた先にある小体な仕舞屋。周囲を背の低い生垣が囲み、粋な感じのする引き違いの格子戸の脇に『常磐津指南』と女文字で記された看板が揺れていた。
訪ないもいれず、いきなり格子戸を引き開けた源兄ぃは、
「おう、小頭がお見えだ。」
と、奥に声をかけ、
「ささ、上がっておくんなさい」
すると奥から、あらあらとかまあまあとかいう声と共に、地味だが垢抜けた着こなしの年増が現れた。
「えっと、あのこんにちわ、お邪魔します」
喜市が生真面目にぺこりと頭を下げると、年増はぷーっと吹き出して、源兄ぃの肩をどんどんと音のするほど叩いた。
「やめろ、こら。小頭の前だ。こいつ、笑い上戸で・・おみちで・・」
「みちです。ようこそ」
挨拶も笑いの中だった。
「あ、あの、喜市です。と、突然おじゃましまして。」
喜市が膝を畳んで頭を下げると、おみちはもう我慢できないとばかり、袖で源兄ぃを叩きながら、
「か、可愛い・・」
と笑い転げた。
「変装なんて、大層なことはできないけど、幇間の梅さんがこう眉毛の形を色々変えて威張ったお殿様や、極悪人の盗人や、情けない若旦那やら演じ分ける芸をやってたのね」
向島で昔芸者をしていたというおみちは。眉墨でちょいちょいと喜市の眉を書き足し、ついでに頬の上にも黒子だかあばただかを点々と散らして鏡を見せた。
「おお、喜市っちゃんがおっさんに見える」
源兄ぃは大喜びだ。
「これで頬被りして、着物も小汚いのに変えたら、まず観音屋の喜市っちゃんには見えないね」
おみちは自信満々だが、喜市はちょっと意気阻喪していだ。もう少しいい男にはできなかったのか、と。
「あっしのお手伝いはここまでで。神田明神の仕切りと親方への報告は任せておくんなさい。半年、取りあえず半年、その体一つで生きてみなせえ」
おみちの用意した古い単衣に履き古した雪駄を身に着けた喜市は源兄ぃに深々と頭をさげた。
「弱音は吐かないつもりだよ」
「観音屋の連中には道ですれ違っても声をかけるなと言っときまさ。それでも何か、とことん困り果てたときはこのおみちンところをつなぎにしておくんなさい。」
そこへおみちが小さな風呂敷包みを持って出てきた。
「寝巻用の浴衣と下帯、それに頬かぶり用の手拭ね。それと昼餉・・」
「おい」
「甘やかしてるんじゃないよ。おみち姐さんの家に来て、茶の一杯も出さなかったと言われたら恥ずかしいだろ」
背中に斜め掛けがいいか、腰に巻いた方が粋か、とあれこれ世話をやいた挙句、おみちは小さな守り袋を喜市の首にかけてくれた。
「じゃ。がんばって、こが・・あん、何て呼べばいいのかねえ」
喜市は答えず、もう一度二人に深々とお辞儀をすると、背を向けて歩き出した。
花も散り終えて、空気がどことなく湿り気を帯びたような四月半ばのことだった。
≪ 算 学 志 ≫
筆書指南処・一心庵の武藤はやたら忙しくなっていた。算盤や暗算を習いたいという手習い子たちが一気に増えたのだ。一部屋に収まりきれず、午前と午後の二部制にした。
薬種問屋。高麗屋の隠居久左衛門と、大海屋の四番番頭宗太郎の仲介も、はじめは武藤がするはずだったのだが、下手をすると飯も食い損ねるほど忙しいので、お圭の妹のお糸と末の弟の浩太を雇うことにした。
もともと、一心庵の雑用をして代わりに読み書き算盤を教わるというのをお圭が始めたのだが、それは忠太、お糸、浩太と弟妹達に受け継がれていた。おかげで、忠太はめでたく小間物商いの老舗に奉公が決まり、今はお糸と浩太が姉や兄の後を継いでいる。
算学志の会合は、〈五〉のつく日、つまり五日、十五日、二十五日の月三回行われるので、
会合の翌日、隠居所の爺やさんが大事そうに封書を届けてくる。もちろん、今回出された問題の写しである。
武藤はそれを目立たぬように包みなおし、宗助に届けるのだが、その届け役にお糸と浩太を雇ったのである。
宗助は番頭見習いとはいえ、まだ身分は手代である。商いの最中に余計なことをしてはならない。頭の中で考えているだけだとしても、それで『ついうっかり』や『まちがい』をしてしまってはならないのである。
文使いが武藤のような大人でしかも一応は武士となれば目を引くが、これが子供なら「おや、付文かい、お安くないね」で済むだろうというのが、武藤の読みだった。
そもそもが、地方の神社仏閣に奉納された算学絵馬を解いてみよう、ということから始まった会合だったが、そう都合よく絵馬が見つかるとは限らない。そこで、最近「精要算法」という書を表した藤田貞資という先生の門下である山根何某を招いて、問題を出してもらうことにしたらしい。
所詮は金持ちの道楽である。が、武藤が封書を包みなおす時にちらと見た問題は、丸や三角の組み合わさった、所謂幾何の問題で、一朝一夕に解けるようなものではなかった。
最初の問題を宗太郎は十日で解けなかった。
次の問題は期限ぎりぎりに答えを寄越したが、これが正解だったかどうか、武藤は知らされていない。
三問目は四日で、四問目は三日、五問目は問題を届けた翌日、答えを飛脚が届けてきた。
そして隠居が、小躍りしながら武藤をたずねてきたのである。
「やりました。今回、私が一番早い正解者になれました。宗助さんには何とお礼を言ったらよいものやら」
「ははあ、やっぱりばれておりましたか」
「そりゃあもう、私、我慢できず、近江屋さんに伺って、噂の番頭見習いさんを紹介してもらいましたよ」
武藤は腹の内で舌打ちした。迷惑な御仁だ、
「それで私の道楽を洗いざらい打ち明けました。ええ、近江屋の旦那さんにです。あのお方の道楽は有名でしてな。え?それが新内なんですよ。そうそう、三味線方と夜の街を流して歩く、あの新内です。声自慢でね、普段はお座敷で歌われるんですが、たまに衣装を着けて流していらっしゃるそうで。私の道楽にも御理解をいただきました。」
「すると、宗助のことが公に・・」
「いや、私が一番を取るなどありえぬことだと、何を隠しているのかと責められまして。私もつい自慢を・・」
「しかし、それでは約束が・・」
「近江屋さんにお願いして、たまーに算学志の会合に出してもらうことにしました。お商売の忙しい時に無理は申せませんからな」
かなりの無理を言ってるぞと、武藤は吐息をついた。これだから金持ちは信用ならん。
「山根先生が是非にと申されましてな。これからの算学界に有能な士が欲しいのだとか。ああ、山根先生は幕府の天文方とか測量方とか、とにかく算学を用いるお役目についておられるのだが、これが使えるお方が少ないのだとか」
「ほう、それで宗助のような町方の者を登用しようと?」
「いや、さあ、そこまでは・・」
「私としては、あまり騒がず、そっとしておいてやりたいのだが」
「ごもっとも。私も実は宗助さんを才をひけらかす嫌味なお人ではないかと思っておったのですよ。それがあなた、優しそうで控えめで、市松人形みたいな可愛らしい御仁でびっくりしました。うちの孫が若かったら是非婿にと言いたいところですが、みな子持ちの年増になっておりまして・・」
「いや、学問は学問。お商売とは別物でしょうからな」
「とにかく、私は自慢なのですよ。宗助さんと知り合いになれて。武藤先生にもお礼を申し上げねばなりません」
ここで、久右衛門は懐紙に包んだモノを差し出した。厚みからして恐らく三両。武藤は固辞した。そして、代わりに前から喜市に頼まれていた件を持ち出してみた。
「心安い下駄屋はありませんか?」
足の悪いお圭の父親が座ってできる仕事、鑿や鉋はそこそこ使えるから、仕事上のあれこれや仕入れの事を教えてくれる親切な下駄屋を探してほしいと頼まれていた。
老舗の薬種問屋である高麗屋なら奉公人も多いだろうし、その奉公人が履く履物も節季ごとに買い入れるのではないか。武藤はそう考えたのだ。
始めは宗助のいる近江屋で聞いてもたおうと思ったのだが、近江屋は日本橋。履物も近所で贖うにちがいない。するとここから遠くなって、お糸や浩太が一心庵に通えなくなる。
そこへいくと高麗屋は神田川の向こうだが、内神田の相生町、近い。
この二月ばかりだが、宗助との文使いをしてくれた子供らの一家のことだと言うと、久右衛門は心当たりがあると言って帰って行った。
神田川沿いの昌平橋に近い料理屋の二階、八畳間を二間、間の襖を取り払った座敷が算学志の会合の場だった。
襖際で膝をついた宗助が、お辞儀の頭を上げると、中に居並ぶ旦那衆から「おうっ」と一斉に声があがった。
奥の座敷の床の間を背にしてお武家が一人。
四十がらみの眉毛のやたら濃い痩せたお人だ。
その前にずらずらと迎え合わせに小机が並んでいる。酒肴はまだのようだ。
なるほど、と宗助は思った。爺ぃの寺子屋だ。
「近江屋の手代、宗助と申します。本日はお招きにあずかりありがとう存じます。若輩者ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。」
もう一度深くお辞儀をすると、
「これはなかなかの男っぷり・・」
「美少年、いや美青年かな」
「天は二物を与えてしもうたか」
と、口々に言い立てた。
「さあさ、ま、入って、今日は山根先生のお隣に席を用意しましたんで」
高麗屋久右衛門が立ってきて、宗助を奥の座敷まで案内する。
「そんな畏れ多い」
一応の遠慮も慣れたものだ。近江屋の旦那様も宗助をこんな風に見せびらかすのだ。
「早速じゃが、お前さん算盤使わないで算盤置くんですってな?」
「はい、けど旦那様方も番頭さん方も皆、知らずやっておいでのことです。私はいちいち算盤出すのが面倒だったというだけで・・」
「やってもらおうじゃありませんか」
遠くから野太い声がする。
この辺の展開も、いつもの通りだ。
「では恵比寿屋さん、読み上げをお願いいたします」
そう言うと、旦那衆は一斉に懐から算盤を取り出し、ざざっと御破算の音をさせる。
宗助は気を散らさないよう半眼にこそなるが特に構えることもなく、机の上のものを片寄せたりしている。
「願いましては、四十七万六千三百・・」
いきなり有り得ないほど大きい数字から始まるのも、いつものことだ。
旦那衆の算盤が鳴り始める。
「・・二十二文では」
まだ旦那衆の算盤は鳴りやまないが、宗助は筆を取り上げ、すぐさま数字を記し、隣の久右衛門に手渡した。
隣のお武家が面白そうな顔で眺めている、
久右衛門が立ち上り、幾度かの咳払いの後宗助の記した答えを読み上げる。
「あれ?」「おっと」と旦那衆が騒然となる中、問題を読み上げた一際大声の旦那が
「うーむ、御明算」
宗助は静かに頭を下げた。
次は引き算混じりの問題、さらに掛け算や割り算を交えた問題をするころには旦那衆はもう算盤を懐にしまっていた。そもそも算盤などは番頭や手代にまかせているのが大店の旦那というものである。
「いや、噂には聞いていたが、大したものですなぁ」
「一生懸命、怖い顔して身じろぎもせず集中するのかと思ったが、墨を擦ったり、紙を畳んだり。他所事をしながらでもできるのですからな、これはすごい」
褒められている間は、殊勝な顔をして頭を下げ続ける。余計な言葉を発してはならない。
近江屋の旦那様に言いつけられた約束事だ。
「それでは」と世話役らしい大声の旦那が一同を見渡して、宗助を算学志の仲間に加えることの賛否を問うた。
すると、今まで黙って眺めていた隣のお武家が、小さな咳払いをして立ち上がった。
「初めに言うておく。わしはこんな若造を加えるのは反対じゃ。この会はそも算学を楽しもうという道楽の会ではなかったのか?道楽というから、わしは解くのが楽しい問題や、普段の役に立ちそうな問題を考えてきたのだ。
それをこんな半端な暗算野郎にひっかきまわされるなど、言語道断。」
はったと宗助を睨みつけたが。下を向いた時にやっと顔が笑っているのが、宗助には見えた。
「や、山根先生が一度会うてみたいと仰せでしたので、連れて参ったのでござりますが、なるほど、我らは算学を楽しむ道楽の会。算盤の技を競うような集まりではござりませなんだ。この高麗屋の早とちり、どうそお許しくださりませ」
久衛門が頭を下げ、世話役やら何やら揃って山根というお武家をなだめにかかるが、
「今宵の分の問題はここに置いておく。後はよしなに、高麗屋、後は頼むぞ。」
帰りかけて、じろりと振り返り、
「小僧、言うて聞かせることがある。ついてまいれ」
と、宗助に命じた。
悲鳴のように久衛門がとりなし、謝りしたが
山根は取り合わず、宗助も久衛門に大丈夫だと耳打ちして、座敷を出た。
女将に送られて料理屋を出ると、山根のいかめしげな顰め面がほどけた。
「いやぁ一度こうやって、座を蹴るというのをやってみたかったのよ。お主を巻き込んでしもうてすまなかったな」
「いえ、笑みが見えておりましたので」
「ふふ、目ざといな。ところでお主、腹がへっておろう。お互い料理屋の馳走を食い損ねたからな」
「はい、たしかに」
「行き付けの肩の凝らぬ小料理屋だ、付き合え」
「はい・・」
宗助は山根というこのお武家に。手習い師匠の武藤と同じ匂いを感じていた。
連れて行かれたのは、本当にざっかけない居酒屋で、一階は樽や床几席に職人や大工、鳶といった賑やかな連中で一杯だったが、山根は馴染みなのか、奥の階段から二階に通された。
「ここはな、その昔うちで下男をしていた男が台所女中と所帯をもってな、お袋様が祝いに出してやった店だ。何しろ、融通が利く」
なるほど、外見に似合わず二階には床の間に刀駆けが置いてあった。
元台所女中だという女将が、酒と料理を運んでくると
「殿様、今日のお連れは何だか可愛い。悪さしてはいけませんよ」
と、囁いて階段を下りて行った。
「悪さとな」と呟いて、宗助に銚子を差し出した山根は、
「わしは爺ぃ共の悪さからお主を助けたつもりだったのだが・・いや、お主が爺ぃ相手に戯れておったのか」
「戯れるなど、とんでもござりませぬ。わたくしはただ、ちょっとした座興と心得ておりました」
「ふうむ、座興な」
「はい、香具師や露天商が物を売る前に面白おかしく口上を述べたり、人集めのためにちょっとした芸を見せる・・あれでございます」
言いながら、宗助は目の裏にお圭の唐辛子売りの姿を浮かべていた。この座興をやる時はいつもそうだった。
「算盤は答えを出すためだけの道具ではござりませぬし・・」
商談、つまり値の駆け引きで、あからさまに声を出さず、算盤を見せる。
「これでいかがでしょう」
「いや、それでは元値ぎりぎり。せめて」
と玉を上げ下げする。
「そこを何とか、ううん、ではこれでは」
などと、はっきり値を言い合うのではなく。
交渉できる。これが算盤の一番の役目。
「なるほどな。我らも算盤は使うが、商人の算盤使いはまた別物かもしれん。ま。飲め。今夜は遅くなっても店へ帰らねばならぬのか」
「いえ、高麗屋の旦那様の隠居所に泊めていただくことになっておりました」
「そうか、それならゆっくりできるな。なに、心配いらん。さっきの料理屋の女将に、お主はわしが預かった、と言づけておいた」
それから、山根は改めて幕府天文方の旗本、山根良助だと名乗った。
元は普請方で、測量などを手掛けるうち
「関孝和と言う先生の書かれた『塵劫記』という御本にはまってのう」
「『塵劫記』はわたくしも読みました。貧しかったので、買ってはもらえず貸本でしたが、興味深いところは書き写したりして・・」
「おう、そうか、なるほど、それでのうてはあの問題は解けぬ道理じゃ」
と、妙に話があったりした。
「望んで天文方に移ったのも、算学のためでな。なんと、天文方では異国の算学が学べるのじゃ」
「なんと、異国の・・御定法に触れるのではござりませぬか?」
「これが触れぬのよ、かの八代様・・、」
と、ここで低頭し
「吉宗候のご英断でな、天文方にかぎり異国の書物を用いても良いということになっておる」
「お・・教えていただくこと叶いませぬか」
「わしの一存ではの・・。」
“異国”というだけで目くじらを立てる役人もいる。
宗助ががっくりとうなだれると、
「ちなみに、我が国の算学を我らは和算と呼んでおる。学んでいる者はそれほど多くはないが、全国に仲間がおるでな、我らは和算の輪と名乗っておるのよ。その仲間に図ってみてからだな」
「山根様・・」
「もう一つ、よいか。道楽爺い相手にはな、答えを出してしもうてはならぬのよ。きっかけよ、答えを導く道しるべを示してやる。するとな、自分で解いたという喜びが得られる。その喜びこそが道楽と申すものであろう」
「ああ、左様でございました。若輩者の早とちりでございました」。
「うむ、まあ呑め、呑め・・」
宗助も近江屋の手代という看板をおろし、年の離れた同好の士とその夜は盛り上がった。
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