七色唐辛子

@ikedaya-okami

第2話    品  川

 女衒らしき男二人がやってきたのは、六つの鐘が鳴り始める前だった。

菅笠を被った年寄りと、頬かむりの若い男である。二人とも尻端折りで脚絆に草鞋履きの脚拵え。お圭の希望どおり、少し遠くへ行くのだろう。

男たちが腰高障子の前に立っても、お圭の家の灯りは点かなかった。そろりと戸を開けてお圭が抜け出すように出てくる。眠っている弟妹たちを起こさないようにという配慮だろうか。

いつもの、色も柄もわからなくなった洗いざらしの着物ではなく、紺がすりを裾短かに着て、水色の脚絆に草鞋履きだった。

少し離れた稲荷の境内に身を潜めていた宗助が身じろぎした。喜市がその左腕をつかんでいる。武藤がわざとらしく深呼吸した。

石段を五段ばかり上がった境内からは、植え込みと路地を隔ててお圭の長屋がよく見える。じんわり物の影が見えるようになってきた薄明の中、お圭と二人の男が出てきた。

長屋の木戸の前で、お圭は振り向き、自分の家に向かって深々とお辞儀をした。

ひくっと、宗助が呻いた。

聞こえるはずはなかったが、お圭はこちらに顔を向け、笑ったのだろう白い歯を見せた。そして、歩き出した男たちの後を追って、向こうを向いたまま大きく手を振った。

「チクショウ、気付いてやがった。ったく、感のいい奴だぜ」

喜市が小声で言った。小声でなくとも、もう聞こえないほど、三人の姿は小さくなっていた。

「お・・追いかけよう」

宗助の声は少し震えていた。

「よし、行こうか」

三人は五段の石段を下りて、お圭たちの去った方を目指した。

「荷物が無かったところを見ると、日帰りできるほどの距離・・だな」

武藤は、今日はたっつけ袴に刀を落し差しにしている。こうしてみるとやはり侍である。

喜市と宗助は股引に尻はしょり、宗助も借り物の観音屋の半纏を羽織っている。どこにでもいるアンちゃん風である。

昨夜、一旦酔いつぶれた宗助が、寝入りばなの喜市を揺り起した。

「明日、お圭の後を尾けます。ど、どこの岡場所の、何という店にい・・行くのか、調べないと」

しょぼしょぼと目を開けた喜市は、いきなり宗助に抱きつき、首根っこを押さえて自分の懐巻の中へ連れ込んだ。

「うわっ、喜市ちゃん、なにを・・」

「だから、明日は早起きすんだろ?大人しく寝ろ」

「う。うん」

そのまま眠ってしまったのだが、朝になって喜市が騒いだ。

「何だ何だ、宗ちゃん。いくら寂しいってもおいら、その気はねえぜ」

「自分で引きずり込んどいて、よく言う」

「なんだと?」

「やるか・・」

と、ひと騒動あったのだ。

そんなこんなで今日の追跡行である。武藤は

「お前ら二人にしたら、何を仕出かすかわからんからな」

と、附いてきたのだ。

お圭たちの一行は神田川に出た。和泉橋を渡っていく。喜市は橋の下に舫ってあった猪牙船にちょいと頭を下げて橋を渡った。

「知り合いか」

と武藤。

「源兄いが気付いてくれたようで、お圭のおとっつあんから事情もきいたんでしょう。追っかけるなら手を打っておきましょうって」

「なるほど、ここから船に乗られちゃ手も足も出んわな」

「無駄足させちまった」

「いい兄ぃだな」

去っていく猪牙船を見送りながら、武藤がそういうと喜市は(はい)と返事した。

ウンでもヘイでもないその返事に、喜市の兄ぃを敬う心根が感じられて、武藤は微笑んだ。


お圭たちとそれを追う三人は、日本橋から東海道に出た。

「まさか・・いきなり品川か?」

武藤が驚いたような声をあげた。

同じ女郎屋でも吉原を筆頭に上中下、それなりの格付けがある。夜鷹や舟饅頭と呼ばれる女たちのように、路傍や河原で春をひさぐのではなく、一応宿を構えて、その宿がいくつか寄り集まっているのが所謂岡場所で、櫓下とか、お土井下とか呼ばれる格下の岡場所でも、御府内にあるというだけでそれなりの矜持を持っていたりする。

つまり、品川や千住が江戸から来る客でどんなに盛っていても、墨引き外の女郎は(馬糞臭い田舎者)なのである。

「御府内は最近、取り締まりが厳しいから。ケイドウとかいうんですよね。いきなり役人がやってきて、女郎も客も一緒くたに捕まるって・・」

知ったかぶりの喜市である。

「うむ、吉原以外はご法度だからな」

「それで、はなっから品川なんですかね」

「そうかもしれん」

暢気そうに喜市と武藤が言葉を交わしている横で、宗助は口を真一文字に引き結んで、はるか前を行くお圭を睨み据えていた。肩に力が入っている。

喜市は腕をぐるぐる振り回しながら言った。

「傍から見れば、我々変な一行ですよね。身売りした娘を大の男が三人も追っかけてる。一文にもならないのに」

「三人いれば、足抜けもさせられるか」

武藤もまぜっかえす。

宗助が足を止めた。

「やっと休ませてくれるみたいだ」

右手の山道を登った先に、お寺か神社があるのだろうか、石碑と灯篭が立っている。その向かいに茶店が幟を揺らしていた。

日本橋から品川の善福寺辺りまでで二里と聞いている。男の足なら一刻(二時間)と少しで着く。東海道の一番目の宿場だが、品川は江戸の町奉行所の管轄である。

「昼には早いし、厠だろう」

武藤はこともなげに言う。

確かに、床几で茶を飲んでいるのは男二人だけ。しばらくして奥からお圭が出てきた。

男たちが銭を置いて先に立つ。お圭は草鞋の紐を締めるふうに屈みこみ、そのまま尻を持ち上げ、股の間から顔を出す。。両手の指で口を左右に引いて舌を出した。

「何やってんだ、あの馬鹿」

喜市が吐き捨てると、宗助が

「ふざけてないとやりきれないんだよ」

「ただの馬鹿にしか見えねえけどな」

「喜市っちゃんは意地悪だ。売られるお圭が辛くないはずないだろう」

「そんなまともな玉かよ。追い借りしてんだそ。追い借り」

「そ、それは・・後のことを考えて・・」

「おいら達が束になっても適わねえほど強えんだよ、お圭は・・」

「そんなこと言って、気が付かなかったのをごまかそうってのか」

喜市はぐっと詰まった。

宗助もはっとした。

武藤が、そろそろ行こうかと促した。


 しばらく好天続きで、花見の話が出る頃だというのに、今日は気の早い花曇りか、厚い雲が空を覆っている。

「一雨、きますかね」

喜市は空を見上げて暢気に言った。

「久々のおしめりはよいが、濡れるのはかなわんなあ」

武藤の口調ものんびりしたものだ。黙りがちな宗助を気遣っている。

行く先はもう間違いない、品川だ。。

「飯盛り女・・」

ぽつりと宗助が呟いた。

品川では、女郎が表向き飯盛り女と呼ばれることは周知の事実だ。

はじめは一つの旅籠に二人まで、とかお定めがあったらしいが、そんなものは糞喰らえとばかり、外見からあからさまな女郎屋も増えているという。

何しろ、海があって山があって、景色が良いうえに食い物が美味い。墨引きの外だから少々の羽目は外しても大目に見てもらえる、

女郎目当ての客は、わざわざご府内から来てやったんだから、楽しまねばもったいないとばかり、大騒ぎする。

そういう意味では、内藤新宿や千住、板橋などよりご陽気な感じがする。

お圭には合ってるかもな、密かに喜市はひとりごちた。

それに品川には二番目の兄貴・太市がいる。


お圭たちの一行は徒歩新宿から北品川に入ってすぐの小さな女郎屋、とても旅籠には見えない店にやってきた。

年寄りの女衒が掌で店を指して何か言った。

ここだよとでも言ったのか。

お圭は頷いたが、立ちすくんでいる、足が震えているのが分かった。

宗助が足を踏み出そうとする。

喜市が止めるより先に、お圭が振り向いた。

「お見送りありがと。楽しかったよ」

声も少し掠れている。

「でさ。もう一度言っとく。あたいのことなんか忘れっちまいな。何十年かまっとうに働いて、余分な金ができたら身請けされてやるよ。いいかい、まっとうな稼ぎだよ」

そう言うと、くいと顎を上げ肩をそびやかして、足取りはまだ覚束なかったが、店に入って行った。。

「身請けされるつもりだせ、あの馬鹿」

喜市の軽口に武藤も宗助も答えなかった。

お圭たちの入っていった女郎屋は看板に“於福屋”とあった。

門口から見る限り部屋数は多くない。もしかしたら奥が深いのかもしれないが、それでもそうたいした構えではなかった。

「目黒川のそばに、於福神社ってえのがあったな」

「おお、喜市、詳しいな」

「うん、その近くにおいらの二番目の兄貴が婿入りした旅籠があるのよ」

「ほう、それはご挨拶しておかねばなるまいな」

三人は於福屋を通り過ぎた杉の木の根方に突っ立っている。宗助は震えていた。

「どうする宗助。お前がお圭の初めての客になってやるか」

宗助の身体の震えが大きくなった。

「初めての客なら祝儀をはずまにゃならねえな。何しろお圭はきむ・・」

宗助がいきなり頭突きをかませてきた。

予想していた喜市は宗助の両肩を掴んで受け止めた。

宗助はやみくもに喜市の胸をなぐる。長い腕を突っ張れば、宗助の腕は喜市の胸には届かない。が、喜市は甘んじて殴られてやった。

内働きだけだろうに、宗助の殴る力は強くて痛かった。喜市はその痛みを、宗助の心の痛みだと思った。


品川には神社仏閣が多い。街道沿いに善福寺、杉森稲荷、ちょいと外れて品川神社などなど。ついでに品川宿の本陣も北品川にある。

目黒川を越せば南品川という境に太市兄貴の旅籠、浜屋がある。

飯盛り女を置かない宿を平旅籠と呼ぶが、浜屋はその平旅籠で、大名行列の本陣に泊まりきれない御家来衆の宿泊所としても利用されている。

と言うのは名目で、江戸は目と鼻の先。多くのお大名は財政難だから。供揃いも倹約しながらやってくる。辿り着いたここ品川で、禄高にあった供揃いを整え、威風堂々江戸に入るのだ、

平旅籠はそういったにわか供侍の待機場所であり、最近では商人が接待に使うことも増えているという。

喜市の兄の太市は若いころ仲間と連れ立って女郎買いに来た品川で。たまたま祭礼だった杉森神社の香具師の仕切りを手伝い、それが縁で浜屋の婿に収まったのだと聞いている。

ちなみに浜屋では代々主は豪右衛門を名乗るので、いくら兄弟でも太市兄ちゃんでは取り次いでもらえない。

「江戸は神田の喜市と申します。豪右衛門の旦那を・・」

恐る恐るそう言うと。ぷくぷくと丸っこい色白の女将さんが転がるようにやってきた。

「あ、義姉さん、ご無沙汰してます」

「まあ、まあ、喜市っちゃん、大きくなって。いい男になったじゃないかえ。お義母さんの七回忌以来だから、四年ぶりかねえ」

太市兄ちゃんは寄り合いで、すぐ近くの料亭に出かけているという。

「うちが始めた店でね、浜屋の料亭だからって浜御殿なんて大仰な名前つけたけど、目黒川沿いをちょいと遡った処にある見晴らしのいいのが取り柄の田舎臭い食い物屋だよ」

その浜御殿の手前には、庶民向けの一膳飯や蕎麦を食わせる飯屋もつくったという。こちらは浜乃家というらしい。

あまりゆっくりはしていられないと言うと、女将はその浜乃家に案内してくれた。

なるほど隣は、広い庭に手入れの行き届いた庭木を配し、江戸にもそうはなかろうと思えるほど豪奢な作りの料亭があった。

その裏口から痩せた小男が急ぎ足で出て、こちらの店の勝手口から入ってきた。

「よう来たな、喜市。大きゅうなって」

兄の太市こと浜屋豪右衛門だった。


お圭の話をかいつまんで話したのだが、豪右衛門はフムフムとにこやかに頷くばかり。それはそうだろう、男が三人、雁首揃えて品川くんだりまでやってきたのだ。

誰が聞いても遊山気分の女郎買いとしか思えない。

と、いきなり宗助が小上がりからおりて、床に土下座した。

「喜市っちゃんのお兄さん、お願いします。お圭がひどい目や怖い目に合わないように、気を付けてやっていただけませんか。お圭は、お圭はきっと私が請け出して女房にするんです。お圭のいない将来は考えられないんです。お願いします」

店には客が、五・六人いたが、一斉にこちらを注目した。

「こいつあ・・」

豪右衛門が言葉を失った。

「兄貴、聞いてくれ。宗助は真剣なんです。真剣にお圭を案じて・・」

喜市がいい、武藤が宗助を小上がりに戻して裾の土を払ってやった。

ふうむと、豪右衛門が唸って腕を組んだ。小柄ではあるが、その顔つき、佇まいに風格が滲み出ている。さすがに北品川の顔役の一人だと納得させられた。

「さっき、喜市から紹介されたときは聞き流したが、あんた、米問屋の近江屋さんの手代さんだっていったね。手代の宗助さんっていうと、いま噂の算盤なしで算盤はじくってえ、あの宗助さんかい?」

豪右衛門が声を憚ってくれて助かった。

土下座の男が噂の人だなどと知れたら、噂がどんなものか知らなくとも、ちょっとした騒ぎになっていただろう。

豪右衛門は三人を奥の座敷に誘うと、一品料理をずらりと並べて、好きに食べてくれと言った。

「ようがす、そんなすげえお人が惚れた娘さんだ。私と女房とで、しっかり目配りしておきましょう。何かあったら、喜市、お前ンとこに知らせりゃあいいんだな?」

「頼んだぜ、あんちゃん」

「おう、任しとけ」

先ほどのにやにや笑いではなく、豪右衛門がしっかりと宗助を見て、微笑んだ。


 「わたし、守銭奴になります」

品川からの帰り道、宗助は高らかにそう宣言した。

「守銭奴ってよく聞くけど、どうやったらなれるんですかね」

喜市は武藤に聞く。

“さて・・”武藤も首を傾げ、ぽつり。

「入ルを謀り、出すを控える、かな」

「つまり、ケチになるってことか」

喜市にからかわれて、宗助はうなだれた。

「わたしにはそんなことしか・・いや、いやいや、先生、相場ってのは博打ですか」

「米相場か」

「そうです。小金からでも始められると聞きました。うちは米問屋です。地方での取れ高の情報や飢饉の噂なんかも、他所よりは早く聞こえてきますし、旦那様は幕閣のお偉い方々ともお付き合いがあって、その筋の意向も・・」

「博打だろうな、やはり」

武藤の言葉に、宗助はあからさまに肩を落とした。

「やはり、一攫千金は望めませんか」

「黙ってりゃいいんじゃねえの?」

「お圭に嘘つけっていうのか」

「強がってみせたけど、辛いと思うぜ、たくさんのお・・」

「言わないで、言わないで、酷いよ喜市っちゃん」

「うん、そうだな」

「一日も早く身請けしてやりたいと思ったんだ。そのために金を貯めようと」

「うん、まあおいらも乗りかかった舟で、助けてやるけど、そもそも身請け料っていくらなんだ」

若い二人はそろって武藤を振り返る。

「い、いやわしも分からぬが、売れっ子ならば高いとか、そうでもない子は安いとか、あるのではないかな」

あいつは・・と喜市。

「牛蒡だから安いか」

「色が褪めたら・・」

宗助が受けた。

「太市兄ちゃんに文を出すよ。詳しくはわからなくても、品川の相場ってのがあんだろ」

「相場・・ちくしょう、どこかに大金、落ちてないかなぁ」

「うむ、なあ宗助、大金ではないが、お前の才を生かして地道に稼ぐ道がないではない」

「先生、それは・・」

帰る道々武藤が話したのは、近頃、あちこちの神社に算額という絵馬が掲げられているという話だった。

元禄からこっち、江戸には様々な文化が花開いた。文学、絵画、俳句や詩歌、そして科学に算学。雪の結晶を研究するお殿様がいたり、時計やからくりを考案する時計師が生まれたりした。そして、その基となる算学に興味を持つ御仁も増えているのだという。

そんな人たちが問題を作り、『解けるかな』と公開しているのが算額という絵馬なのである。御府内ばかりでなく、かえって地方の神社や仏閣にも多く見られ、同好の士を求める意味合いもあるのではないかと、武藤は言った。

「江戸の金持ちの中にも酔狂な御仁がいるらしくてな、集まっては問題を囲み、ああでもない、こうでもないと頭を捻っておるそうなのだ」

会の名を『算学志』というらしい。もちろん三国志をもじったのだろう。

で、地方から取り寄せた物を含め『算額』の問題を誰が一番早く解けるかを競う。

「わしの処へ話を持ってきたのは同じ長屋の駕籠かきでな、馴染み客のご隠居が、一緒に考えてくれる人はおらんかと・・」

「ははあ、算学は好きだけど、解くのは苦手ってえ御仁かな」

「そうらしい。一緒に考えてくれたら、相応の礼はすると」

「相応の・・」

「礼・・」

「金持ちの道楽だ、五十文や百文ではないと思うぞ」

「先生は引き受けなかったんですか」

「算額に描かれている問題は丸やら三角やら図形の問題が多くてな、わしは苦手なんだ」

「宗助はどうなんだ」

「一つか二つ、やってみたことはあります。面白いとは思いましたが、得意かと言われると自信がありません」

「一つか二つはできたんだろう」

「簡単な問題でしたから」

「まぁ待て待て。わしが一旦は断った話だ。その後、適任の者が見つかったかもしれんし駕籠かきの安さんに詳しく聞かねばな」

「それに、お店勤めの合間にできることなのかどうか。お店は・・やめるつもりはねえんだろ?」

「当たり前だ、お礼奉公がまだすんでない」

「それに先生、近江屋の宗助ってぇ名前を出すのも、考えもんだぜ。品川の兄ちゃんの耳に入るほど噂ンなってる名前だ。難癖付けるやつが出てこねえとも限らねえ。用心しねえとな」

「ふむ、喜市の言う通りだな。わかった、この話、わしに任せてくれるか」

そこで、二人は顔を見合わせて、武藤に頭をさげた。

「よろしくお願いします」


日本橋には何とか日のあるうちに辿り着いた。

品川に続く道を名残惜しげに振り返る宗助の背中を、喜市はどしんと叩いて囁いた。

「守銭奴になるんだろ。守銭奴に・・」

肯いた宗助は、拳を握った。

「迎えに行くからね、お圭。待ってて」

喜市は暮れなずんでいく川面と空をみやって、大きくため息をついた。


武藤が神田明神の境内に姿を見せたのは、品川へ行った日から四日ほどが経った雨の日だった。露店も見世物も出ていない境内は物寂しい。

喜市は灯篭の見える手水舎の屋根の下で、ぼんやり柱にもたれていた。

そこへ、着流しの裾をからげ、高下駄に番傘をさした武藤がやってきたのである。

武藤は喜市の隣に並ぶと、傘を畳んだ。

「さびしいな、喜市」

「雨の日はいつもこんなもんで・・」

顔を背けながら、喜市はぶっきらぼうに言う。

その顔は、彩り豊かだ。唇が切れて晴れている。右のこめかみは青、左の頬は赤紫。

「派手にやったみたいだな」

(眠れなかったんですよ、お圭の覚悟を聞いて、おいらも得心したつもりだったんだけど、夜。一人になると。今頃お圭は・・とか、どんな野郎が・・とか、いろいろ浮かんできて、夜中むやみに歩き回ったり、棒切れ振り回したりしてみたけど、落ち着かなくて、酒でも飲もうって・・」

「「ああ、そういう時の酒は却って悪い」

「妙に頭のどっかが醒めてて、生酔いってえのか・・。で、初めは相手、四人だったんですけどね」

きっかけは例のごとく、肩が当たったの、足を引っかけたの、という些細な喧嘩。

「どっちも酒が入ってるから大声でわあわあ言ってたら、どうしたどうしたって、初めは仲裁、そのうち十何人かが、もみあって、敵も味方も分からなくなって、なぐり合うわ、蹴りあうわ・・最後はみな。河原に滑り落ちて、大の字ンなって、さあ殺せ、どうにでもしやがれって。おいらも大の字ンなってお星さま見上げてたら、泣けて来て・・」

「うん、そうか」

「そしたらふいに宗助の顔が浮かんだんで。あいつも眠れねえだろうなって。お圭は今頃・・とか考えたら、飯も喉を通らねえし、眠れねえだろうって。けど、あいつはお店者だから、おいらみたいに酒飲んで憂さ晴らしに喧嘩なんかできねえ。寝てなくても朝になりゃあ、前掛け締めて、目の下に隈作っても客に頭下げなきゃならねえんだ。辛えだろう、切ねえだろうなって・・」

「うむ。辛いだろうな」

しばらく二人は雨の音を聞いていた。

「先生、昼飯は?」

ようやくぽつり喜市が聞く。

「実をいうとまだだ」

くすっとわらって喜市が柱の陰から番傘を取りだす。

「あの日、お圭に約束したんですよ、宗助が泣かなかったら、鰻でも寿司でも好きなもん奢ってやるって。宗助のやつ、泣く前にぶっ倒れちまった。お圭の勝ちだけど、代わりに先生、好きなもん奢りますよ」

「そうか、うん。そうだな、蕎麦で一杯いくかな」

喜市は傘を広げて、顔を隠した。

武藤も同じように傘を広げ、二人して鳥居の方へ歩き出した。


「守銭奴の、例の話ですか」

蕎麦が来る前に酒が来たので、とりあえず注ぎ合う。無理がきく店なのか、喜市が顎で奥をさすと、小座敷に通された。

「うむ、隠居というだけで詳しくは聞いていなかったのだが、神田相生町の薬種問屋・高麗屋の隠居でな、長者町の妾宅に・・妾は死んだのか追い出したのかは知らぬが、今は一人で住んでいる」

「高麗屋の久左衛門旦那ですね。お妾さんは確か、五・六年前に亡くなってるはずです」

「おお。さすがに詳しいな」

「いえ、まあ近所っちゃあ近所ですから」

「ふむ、それで話をしてみた。わしが手跡指南所をしておって、元手習い子の中に算学に興味を持つ者がおる。ただし、かの者はお店勤め故、きままに出歩くわけにはいかぬが、どうじゃ、とな。」

「返事は?」

「構わぬとよ。爺さん、よほどに助っ人が欲しかったとみえて、こちらの条件は全て呑むといった塩梅でな、一度でよいから算学志の面々の鼻をあかすことができたら死んでもよいのだと・・」

「それはまた・・」

「で、奴の名は大海屋に奉公しておる宗太郎ということにした。年は二十歳で四番番頭」

「ばれてますよ、きっと」

「え?まさか・・」

「ばれてるけど、それで押し通すことになるんでしょうね」

「そうか、ばれてるか」

「で、相応の礼というやつは?」

「うむ、一問につき一朱、ただし誰よりも早く問題を解いたら一両」

「一両、そいつぁすげえ」

二人はもう一度酒を注ぎ合って、盃をあげた。

「守銭奴に」

「守銭奴に・・」

それから蕎麦を食ったが、武藤は食いながらしきりに首を傾げていた。

「ううむ、ばれてるか・・」

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