我慢強い男

石花うめ

我慢強い男

 ああ、意識が遠くなっていく。

 俺はもうすぐ死ぬらしい。

 病院の天井を見ながら、俺は今までの人生を振り返る。



 俺が小学生だった頃、学習塾に行きたくないと駄々をこねたとき、母は決まってこう言った。

「今は我慢しなさい。あなたがいい中学に入れたら、これからもいい人生が続いていくんだから」

 人生なんてまだ何も考えたことがなかった当時の俺は、ひとまず母が言った通りに嫌々ながらも熟に通った。



 受験に成功して入学した中学校。

 勉強に嫌気が差していた俺に、担任の先生は言った。

「今勉強しておけば、いい高校に入学できます。あなたの成績ならもっと上を目指せます。今は勉強なんて嫌だと思うかもしれませんが、後々役に立つので、今は我慢です」

 勉強は嫌だったが、これから先の選択肢を広げておくのはいいことだと思ったので、担任の言う通り勉強して、偏差値の高い高校を受験した。



 またしても受験に成功して入学した高校。

 絶対に部活動に所属しなければいけない決まりがあったため、俺はなんとなくテニス部に入った。だがそこは、とんでもなくスパルタだった。

 俺はテニスに執着があるわけではないし、このままキツいテニスをしていても楽しくない。続けてもいいことはなさそうだ。

 そう思った俺は、顧問に辞めると言いに行った。そうしたら顧問はこう言った。

「今はキツいと思うかもしれないが、ここで鍛えた精神力は今後の人生に必ず役に立つぞ。今は我慢するんだ」

 仕方がないので、部活を辞めないことにした。

 ただがむしゃらにテニスをしていたら、いつの間にかインターハイで優勝していた。

周りの人は祝ってくれたが、それでも俺はテニスが楽しいとは思わなかった。

 インターハイに優勝したことがきっかけで、いい大学から推薦を貰うことができた。



 推薦で入学した大学。

 テニスは続けなかったが、四年間のうちにスポーツインストラクターになるという目標を見つけた。

 就職活動のとき、親や教授に進路を相談したら、こう言われた。

「せっかくいい大学に入れたのだから、大企業にいきなさい。インストラクターになるという目標も素敵だけど、そのやりたいことは一旦我慢して、将来のことを考えた方がいい。大企業に入ることができれば、安泰だから」

 たしかに、今後の人生において仕事選びは重要だと思った。

 俺はひとまず会社員になり、独学でインストラクターを目指そうと決めた。


 なんとなくで入った会社は、日本でも有数の大企業だった。

 しかし、残業が多く、上司も厳しい人ばかり。インストラクターの勉強をする時間も無い。嫌になった俺は、仲のいい同僚に転職をするべきか否か相談した。すると同僚はこう言った。

「何言ってるの。厳しいのはいいことじゃん。それに、厳しくしてもらった方が僕たちも成長できるでしょ? これからの人生ほとんどの時間を仕事に費やすわけだから、どれだけ大変でも我慢して、一緒に成長していこうよ」

 これが普通なのかと思った俺は、引き続き仕事を頑張ることにした。

 ちなみに、俺を励ましてくれたその同僚は精神を病み、いつの間にか会社を辞めていた。

 成長した先に何があるかなんて、そんなことは分からなかった。それに、仕事も特に楽しくなかった。だが、仕事を続けていけば何かいいことがあるのだと信じて、どんな理不尽にも耐えた。すると、いつの間にか勝手に役職が上がって、給料も増えた。



 ある程度仕事に慣れて生活が安定してきた俺は、女性に言い寄られるようになった。

 仕事とデートで忙しい日々になり、無事に一人の女性と結婚することができた。

 ところが同居し始めてすぐ、妻の態度が変わった。妻は今まで猫を被っていたみたいで、俺とは価値観が合わなそうだった。

 離婚しようかと思い始めた俺は上司に相談してみた。上司はこう言った。

「俺もそんな頃があったよ。でも、赤の他人同士が付き合っているんだから、それは当然と言えば当然だな。今は我慢するんだ。そうすれば、夫婦の仲は深まっていくから。それに今の時代、結婚したくてもできない人も多いんだから、結婚しているお前は幸せ者だよ」

 夫婦とは難しいものだ。だが、俺も好きで妻と結婚したわけだから誰も責めることはできない。

 自分が選んだ最愛の人と、幸せな家庭を築いていきたい思った。

 俺は幸せなはずだと自分に言い聞かせながら。



 子供が二人生まれた。

 そのころの俺は、再びスポーツインストラクターになりたいという気持ちが再燃しており、本格的に転職しようかと考えていた。年齢的にも、今を逃したら厳しいということは分かっていた。

 妻にそのことを相談したら、妻は激怒した。

「あなた、本当に子供のことを考えて言ってる? 今転職したら給料が下がっちゃうじゃん。子供を幸せにしてあげるのが親の役目でしょ? それに三十代のあなたがこれからインストラクターを目指すなんて、現実的ではないわ。せっかく大企業にいるのに。だから我慢して仕事してよ。私だってパートと家事と育児で大変なんだから」

 そうだよな。妻も大変な思いをしているんだから、俺だけ好き勝手やるわけにはいかないよな。子供の幸せが親の幸せなんだから、そのために何ができるか考えなければ。



 それから何十年も働き、迎えた定年退職の日。

 会社からもらった退職金は、俺が思っていた額の十分の一程度だった。

 俺が「これでは少なすぎる」と社長に訴えると、社長は言った。

「うちの企業規模でも、それが退職金の限界だ。むしろ退職金が出るだけありがたいと思ってほしい。世の中には退職金もまともに払わない企業なんてザラにあるんだから、君も贅沢を言わずに我慢してほしい。年金もあるじゃないか」

 そうだよな。世の中不景気だ。退職金だけで生活できるなんて考える方が甘えだよな。俺だけ特別ってわけにはいかないもんな。

 


 年金の支払額が年々減少しているというニュースを見た。

 総理大臣がその問題について説明していた。

「国の借金が年々膨れ上がっております。今生きている我々が、将来世代にツケを回すわけにはいきません。年金の額が年々減少してしまうのは申し訳ありませんが、高齢の方は、少ない年金を上手にやりくりしてください。日本国民全員、今が我慢のときです。自助でどうにかしていきましょう。今、私たちが我慢すれば、将来世代の子供たちはより良い生活ができるようになります」

 そうだよな。国全体のことを考えたら、俺たちが我慢して子供たちにツケを払わせないようにしないといけないな。そうすれば、この国は、俺たちの子孫は、俺たちの世代よりも幸せに生きられるはずだ——



 そして今。

 これまで働いてきた過労と、節約生活による免疫力の低下により病床に伏した俺は、自分の息子たちと孫に見守られている。

「もう、時間の問題です」

 医師は言った。

 そうか、俺は本当にもうすぐ死ぬんだ。

 悲しげな顔をしている子供たちを見て、ふと思う。

 俺の人生で、幸せな瞬間はあっただろうかと。

 ストレートで進学に成功して、いい会社に就職し、妻ももらって、子供たちに見守られながら死んでいく。

 たしかに傍から見たら、幸せで恵まれた人生だと思われるかもしれない。

 だが、過去の俺から見たら、果たしてそれは幸せだと言えるのだろうか。

 例えば違う学校に進学していたら、スポーツインストラクターになっていたら、結婚せずに独身生活を謳歌していたら——

 そっちの方が幸せだったのかもしれない。

 そう考えたら、綺麗な道を進んできた俺の人生が、なんだか虚しく思えてきた。

 一体、何のための人生だったんだ? 誰のための人生だったんだ?

「先の人生のために、今は我慢だ」

 そう言われ続け、この先の人生に幸せがあると信じて我慢してきた。

 しかし、その「先」とやらはどこにあったのだろう。

 死ぬ間際になっても、その「先」が分からない。

 あるのは「今」だけだというのに。

 今が幸せじゃなければ、その先に幸せなんてあるはずないのに。

「お父さん、立派だったよ。お父さんの我慢強さ、俺も受け継ぐよ」

 息子は泣きながら、俺に誓いを立てる。

 それだけはやめろ。お前は好きなように楽しく生きろ。

 我慢強く生きても楽しくない。不幸になるだけだ。

「うえーん、おじいちゃん! 死んじゃ嫌だよおお」

 泣きじゃくる孫。

「すまん。もう、迎えが来たみたいだ」


 その時、孫が言った。

「死ぬの我慢してよおお!」

 それは無理!

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