ショパンケークス

矢口今奴

ショパンケークス

 一本の木が映っている。細く伸びた大きな落葉樹である。黒い樹皮はほとんど焼かれた後に近く、一枚の葉も纏わない姿は木をより瘦身に見せている。視点は木の全体を捉えた位置に固定されたままである。辺りは深い霧で覆われており、木の他に視認できるようなものは存在していないようだ。ほとんど静止画に近いこの光景は、長い間確かに静寂が支配してきたように思える。どこからともなく一羽のカラスがやってきて、梢にとまる。カラスは何かを確かめるようにステップを踏んだあと、小気味よく鳴きだす。薄紫の空気中にカラスの嗄れた声が響く。静寂は不意の闖入者ちんにゅうしゃに戸惑っているようだ。しばらくすると別のカラスがやってきて、先ほどのカラスとは別の枝にとまる。一羽、また一羽と、カラスはどこからともなくやってきて、黒い落葉樹は一瞬にして稠密ちゅうみつにカラスで埋め尽くされる。カラスたちは枝にとまった途端、雷に打たれたかのように鳴きだす。辺りにカラスの合唱が響く。静寂は少し前に逃げ出したようだ。空気が振動し、霧が慌ただしく変形するおかげで、木は踊っているように見える。カラスは各々、我を忘れて歌い続ける。

 突然、一本の枝が大きくしなる。須臾しゅゆとして、その梢に赤いリンゴがひとつ、丸々と実るのが分かった。一羽のカラスがすかさずそのリンゴを攫み、息を切らして飛び去っていった。残されたカラスは全身の力が抜けたようで、、次々と枝から落ちていった。落葉樹の根元は累々と落ちたカラスに埋まってしまった。再び辺りは静寂の手に治まった。





「特技、か。睡眠、ですかねぇ」

「睡眠?寝るくらいだったら俺にもできるけど」と先輩は怪訝な顔をして言った。

「私の場合、睡眠の質が普通とは違ってるんです。質というか原則というか」

「睡眠の原則?」と先ほどとは違う、ギャルっぽい見た目をした先輩(年は彼女よりも下に見える)が言った。

「普通、睡眠時間は人によってある程度決まっていますよね。ばらつきはあっても、睡眠は毎日行うものですから、六時間なり八時間なり、その人に会った睡眠時間は必ず形成されます。日本人の平均睡眠時間は七・四時間だから、大体の人は七、八時間かけて一日を更新するわけです」

 彼女は確かめるように周りを見渡した。

「私の場合、決まった睡眠時間というものはありません。というより、自分で自分の睡眠時間を決めることができるんです。八時間って決めたらちょうど八時間寝ることができるし、二十四時間って決めたらその通りぐっすり眠って、ぴったり二十四時間後に目覚めることができます。目覚まし時計なしに、睡眠をある程度コントロールできるんです」

「二十四時間?それってかなり長い眠りだと思うけど」とまた別の先輩(きついパーマがかかっている)は言った。

「眠ろうと思えば二十四時間でも百時間でも眠り続けることができます。睡眠というよりほとんど昏睡に近いような長い時間でも、問題なく目覚められるし、眠っている間はもちろん夢も見ます。普通の睡眠と何も変わりません」

「睡眠時間をコントロールできる、かぁ。一種のパラドックスに思えるけど、ユニークな特技だね。寝つきが悪いおじさんには相当うらやましいよ」とその場の年長者らしい中年の先輩フリーターは言った。

「なに一種のパラドックスなんて言ってかっこつけてるんすかぁ。普段そんな言葉使わないでしょ」

 パーマの先輩が茶化すと、言われた中年の先輩は人差し指を唇に当て、うるさいっ、のジェスチャーをした。

「ねぇねぇ、その特技はさ、いつからできるようになったの?」とギャルの先輩は二人のじゃれあいを無視して言った。

「二年前からです」

「へぇ、割かし最近じゃん。何かきっかけ的なものがあったわけ?」

「うーん」と彼女は間を空け、ためらいがちに言った。「少し長い話で、そして自分語りの格好になってしまうんですけど、構いませんか?」

「うん。全然オッケー」とギャルの先輩は答えた。

「詳しく聞きたいね。それにしてもさ、話し口調といい、君は必要以上に丁寧な子だね」と気を取り直した中年の先輩が言うと、周りも肯いた。

「丁寧に育てられたんです。必要以上に」と彼女はどこか悲しみを帯びた笑いを浮かべて言った。

「まず、睡眠がコントロールできるというのは、私の家系に見られる遺伝的なものなんです。まぁこれは後から知ったことですけど。家族はこのことを呪いのような悪いものと考えていたみたいで、一緒に住んでいたころにはおくびにも出されませんでした。睡眠制御の発現は、がトリガーとなるからです」

「うわ、なんか俺そういう映画見たことあるわ」とパーマの先輩が言った。

「ねぇうるさい。話してる途中でしょ」とギャルの先輩が苛立って言った。

「過大な負担を伴う感情の変化?」

 中年の先輩は、興味津々という様子で前傾姿勢をとっていた。

「はい。具体的に言えば、絶望とか悲劇とか、人生を変えてしまうほどの挫折のことです。私の場合、それはピアノでした」

 彼女はそこで少し間を空けた。

「私は子供の頃、ある日本人ピアニストのドキュメンタリー番組を見て、ピアノの道を志しました。その番組は、言ってしまえば私の人生の目覚ましのようなものでした。テレビの中の日本人ピアニストは、子供の私に夢と人生の目標を与えてくれたんです。両親は喜んで一人っ子の私の夢をサポートしてくれました。家庭教師をつけてもらい、6歳の誕生日にグランドピアノを買ってもらった私は、毎日毎日ピアノを弾いて、たくさんのコンクールで賞をもらいました。ピアノ人生を順風満帆に送っていた私は、そのまま一流の音楽大学に合格することができて、入学に伴い上京してきました。

 でも、ここ東京で、夢に向かって一点の曇りもなかった私を待っていたのは、容赦のない絶望でした。入学して早々、私は周りと自分の差に気づきました。私の周りは、楽譜と会話する人、ピアノで返答する人、ピアノの為に指を整形した人、とても個性的でクラシックを偏愛する人であふれかえっていました。もちろんみんなピアノはプロ級に上手くて、なんだか私は今までのピアノ人生がぴしゃりと否定されたように感じました。自分はおそろしく平凡で、ただ甘やかされた世界で生きてきただけなんじゃないか、と。周りとの違いを素直に受け止められなかった私は、徐々にピアノが弾けなくなっていきました。弾こうとしても、リズムが狂って、指が動かなくなってしまったんです。ピアノは決して競うものではないのに、情けない話ですよね。失意に打ちひしがれた私は、半年も経たずして音大を辞めました。私は深く絶望し、塞ぎ込みました。部屋に引きこもってろくに食事もとらず、毎日のピアノも弾かなくなって、ゴムボールから空気が抜けていくような、全くの無気力状態に陥りました」     

 彼女はそこで音を立てて息を吸い込んだ。先輩たちはみな黙って話に聞き入っていた。

「引きこもりの生活は、およそ人間の営みから外れていました。食事も風呂も排泄もおざなりにして、私はただベッドに横たわっていました。初めのうちはいろいろなことを考えました。具体的に何を考えていたのかは思い出せませんが、おそらくは家族のことや人生のこと、あとはできるだけ現実離れした妄想なんかをしていた気がします。ですが、次第に考え事をするのもできなくなっていきました。頭の通信ケーブルがぷつりと切れてしまったかのように、思考を試みても何かに阻害されて中断してしまうのです。私は考えることも止め、長い時間をかけてゆっくりベッドに沈んでいきました。そしてそのまま気を失うように眠り込みました。

 目を覚ました私は、携帯のカレンダーを見て、自分が丸二週間眠り続けていたことを知りました。何が何だか分かりませんでした。その眠りが、睡眠の能力が発現したタイミングでした。なぜだかその時の私は、睡眠のコントロールができるようになったことだけは自然と理解できました。携帯を見ると、親からのメッセージが一件入っていました。一応音大を辞めたことを伝えた私への返信メールでした。親は音大を辞めた私に、〈Time will tell時に身を任せ〉とだけメッセージを送っていました。能力の発現を自覚していた私は、このメッセージが意味することをなんとなく理解できました。やはり私の家系は、良いか悪いか宿命のようなものを背負っていたのです。

 以上が、私が特技を身に着けた大まかな経緯です」

 彼女は話し終わると、飲みかけのペットボトルを乾した。先輩たちはかけるべき言葉を探っているようであった。

「・・・なんだか信じられない話だな。俺が見た映画よりずっとフィクションじみてるよ」

 パーマの先輩が口を開くと、どこか緊張した空気は解れ、周りの先輩は息をついた。

「それで、音大を辞めてさ、どうやって生きてきたの?」とギャルの先輩が訊いた。

「二週間の眠りから覚めた後は、特に生きる希望が見つかったわけではないんですけど、死ぬ気力も無くなってて、取り敢えず今みたいにアルバイトをして生活してきました。リハビリってわけじゃないんですけど、ピアノもたまに触るようになって・・」

「えっ、じゃぁ今ここで弾いてみてよ!」

「別にいいですけど」

「弾くって言っても、ここにピアノなんてないじゃない」と中年の先輩が言った。

「スマホにピアノのアプリがあるんですぅ。おじさんには分かんないでしょーけど」

 ギャルの先輩はアイドルの顔が大きくプリントされた、ピンクケースのiPadを取り出した。「そもそもうちらさぁ、特技の話をしてたわけじゃん?てっきり歌とか言うと思ったのにさ、睡眠なんて言われても、反応ムズかったんだよねぇ。まぁ面白い話聞けたからいいけど。やっぱ特技は即興で披露できるものでなきゃ。ほら、準備できたよ。あとは調整して」

 少し興奮気味のギャルの先輩は、彼女の前にiPadを置いた。彼女は音と鍵盤の位置を確かめると、ふっと息を吐いて、ショパンの《幻想ポロネーズ》を弾き始めた。かつてこの曲で賞を獲得したこともある彼女の演奏は、薄い液晶を叩いているだけにもかかわらず見事だった。その場を夢幻的な雰囲気が支配し、時々覗かせる悲愴と憂愁の調べに、先輩たちは圧倒されていた。全員が聴き入る中、彼女も夢中で演奏を続けた。⦅甘い誘惑に負けちゃダメ!Zジムはあなたのダイエットを全力でサポートします!⦆三十二小節目を弾いていたところで、画面に広告がカットインした。ピアノとダイエット。かなり限定されたターゲットを想定した広告だった。

「おいー」

「最近のピアノは鍵盤がマッチョに変わっちゃうのか。そりゃ知らなんだ」と中年の  先輩はギャルの先輩を横目で見ながら言った。

「これ課金要るやつだったかぁ。でも、すごかったよ、今の演奏」

「ありがとうございます」

 彼女はぎこちない照れを浮かべた。

「さて、そろそろ休憩終わりだよね。うちはもう上がりだから、また今度シフトが被ったら話そうね。んじゃ、おつかれー」



 その日の帰り、彼女はコンビニに寄り道をした。いつもなら直行で帰宅して、軽く晩飯を食べると即刻眠り(コントロールされた)に就く彼女だったが、この日はそうしない理由が二つあった。一つは明日が休日であること。バイトのない日の前日は、遅くまで音楽を聴くことが彼女の決まりごとの一つであった。もう一つは、今日の休憩中のことである。先輩とはいえ、初対面の人に自分のことを話しすぎてしまった。彼女の新しいバイト先は大きめの飲食店で、休憩室も広く、休憩の被る人数も多い。そのため、新人が入ると休憩時間を使って、先輩たちが質問攻めにするというのがここの習わしとなっているらしかった。彼女もこの三日間、毎日違う先輩に質問攻めを食らっていた。最初の二日間は出身や趣味などの当たり障りない質問に、当たり障りない回答をするだけで済んでいたのだが、三日目にしてなぜかピアノの話をしてしまった。半ば意思に反して身の上話を打ち明けたことを、今になって激しく後悔していた。未だにあの挫折は、思い出すだけで苦しいのだ。そういうわけで彼女は、最寄りのコンビニでありったけの酒とつまみを買った。記憶を飛ばすほど飲んで、倒れこむように寝るつもりだ(彼女にもコントロールされていない睡眠をとることはできる)。

 はちきれんばかりのマイバッグを提げて深夜のコンビニを出た。猫一匹見えない、静かで暗い帰り道の途上、彼女は子供の頃を回顧していた。今までで最も輝いていた日々。毎日毎日ピアノのことだけを考え、将来を案ずる必要もなかった日々。私も両親も、これ以上ないくらい幸せだった。大好きなピアノを、飽きることなく弾き続けるだけで良かったのだ。しかし、そんな日々が戻ることはもう二度とない。彼女はたばこの吸い殻を踏んだ。靴の裏からぎゅじっ、という虚しい音がした。たばこはジョイントが破れ、中身が無残に散らばっていた。深夜の都会はどこか煙臭く感じる。私の人生は最初からしけっていたのだろう。至福の時間は燃え尽きる前に終わったんだ・・。

 ふと、前方に人影を見つけた。華奢な体格だが、背丈からして男であろう。男はトレンチコートに両手を突っ込んだまま、彼女に近づいてきた。

 「君、ショパンを弾いてた子だよね?」

 彼女は街灯に照らされた目の前の男に見覚えがあった。今日の休憩中、テーブルの隅に座っていた先輩である。始終携帯を触っていて、時々水を口にする以外はほとんど動いているところを見なかった。彼女が憶えている限りでは、一言も発していなかったはずだ。改めて近くで顔を見ると、先輩はかなり整った顔立ちをしていた。瀟洒で大人びた顔に、悪戯なかわいらしさを持ち合わせ、若々しい活力を感じさせながらも、しっかり地に足が着いている、そんな完璧に近い印象を彼女は一目で抱いた。この男が衣服を脱着するところ、ましてやくしゃみ一つするところなど想像できないほど、隙がなく、今まで出会った人間とは全てが異なっているように感じた。おまけに蹌踉けるほどの甘い匂いがした。

 「はい。そうですけど・・」


 その夜、彼女は先輩と寝た。なぜ寝ることになったのか、なぜろくに会話もしていない先輩が彼女の家に上がり込むことになったのか、とにかく行為に至るまでのあらゆるプロセスが、なぜか彼女の記憶から抜けていた。それでも、彼女は先輩とセックスをした。彼女は処女でもなかったし、男にモテないわけでもなかった。どちらかと言えばかわいらしい見た目をしているし、その時こそいなかったが、今まで彼氏に困ったこともなかった。彼女は仲良くなるまでには時間がかかるが、男から猛アタックを受けて、徐々に心を交わらせていく性質たちであった。そんな彼女が、その夜は自ら先輩を激しく求めていた。まるで彼女のリビドーが暴発し、砂漠の仙人掌が朝露の一滴を取り込むように彼女は抱かれた。先輩はそんな彼女を、華奢な指とペニスで優しく解放した。彼女はそのまま、ぐったりと眠りに就いた。午前二時であった。

 朝目覚めると、部屋に先輩はいなかった。彼女は必死に起きた出来事を思い出そうとしたが、うまく思い出すことができなかった。彼女は少なからず混乱していた。断片的にしか記憶がないのに、先輩に抱かれたことだけははっきり身体が憶えていた。取り敢えず気持ちを落ち着かせるためにスピーカーで『美しく青きドナウ』をかけた。コンビニで買ったものはマイバッグに入ったまま玄関に丁寧に置かれていた。彼女は他にやることが思いつかなかったので、マイバッグに入った酒類を冷蔵庫にしまうことにした。ふと、冷蔵庫の扉にマグネットで貼られた二つ折りの紙に気が付いた。見ると先輩からの置手紙であった。


君のメモ帳とペンを拝借した。勝手ですまない。僕はスマホを持ってい

なくてね。君は僕と連絡先を交換したがっていたけど、僕にはその術が

なかったんだ。置手紙という古臭い手法を取らせてもらうよ。さて、君

がどこまで憶えているのか分からないが、安心してくれ。君に危害を加

えるようなことは何もしていない。君と僕は寝た。それは間違いないこ

とだ。混乱していたのだろう。もしくはひどく疲れていたのか、君は絶

頂に達すると気を失うように眠ってしまった。君は過去にも同じような

経験をしたことがあるのかもしれないが、気を失うというのは決して悪

いことではない。精神科学的にも、生物学的にも、むしろ健常な反応な

んだ、心配することはない。ただ、気を失った君はこのまま永遠に眠り

続けるように見えた。だから、君が目を覚ましてこの手紙を読んでいる

のがいつ頃なのか僕には分らない。ただ、どんなに長い眠りでも、必ず

君は目覚める。眠っている間の君のシフトやその他の些細な面倒毎は僕

が何とかしておく。僕は決して誰とでも寝るプレイボーイではない。だ

からはっきり言っておくが、僕が君に近づいた理由は君を知りたかった

からだ。君を知って、確かめるために僕は君と寝た。目を覚まして、自

分の記憶の曖昧さに君は少なからず混乱しているだろう。気持ちが落ち

着いたら、来てほしい場所がある。僕が掛け持ちで働かせてもらってい

るカフェだ。店は毎週水曜日と日曜日を除いて、十一時¦十九時で営業

している。必ず一人で来てほしい。

住所は下に書いておく。

  

 手紙の下端に小さく住所が書いてあった。彼女はそこを切り抜き、手紙をもう一度読み返して捨てた。こんなに説明の足りない手紙は初めてだ。心がぼうっとしていた。彼女は寝起きの霞んだままの目でスマホの日付を確認した。そして、自分が丸二週間眠っていたことを知った。彼女の中から何かが奪われている気がした。分からない、だがカフェに行くしかない。彼女は音楽を止めて身支度をした。



 手紙に書かれた住所は彼女の家からさほど離れていなかった。昼前には教えられた住所の辺りに着いて周りを探したが、彼女はしばらくカフェを見つけることができなかった。とある影の薄い一本の路地に入った瞬間、目の眩むほどの甘い匂いが彼女の鼻腔を刺激した。この匂いがなければおそらく一生たどり着くことはなかっただろう。匂いを辿った先の建物は、カフェとは思えないほど古く薄汚れていた。隙間に無理やりねじ込んだような歪な形をしており、黒い煉瓦造りの外壁と真っ黒に塗られた扉は、怪物があんぐり口を開けているように見えた。装飾はほとんど無いに等しく、入り口前に懐中時計を持ったウサギの置物だけがぽつんと置かれていた。彼女はスマホのマップを確認したが、この場所にカフェがあるという情報はどこにも載っていなかった。よほど隠れ家的な店なのかもしれない。

 スマホから目を上げて、突如現れた眼前の光景に彼女は思わず声を出した。さっきまで人の気配すらなかったこの建物に行列ができていた。そして行列を確かに視認しているのにもかかわらず、辺りには生き物の気配をまるで感じなかった。よく見ると、列をなしているのは皆倒れんばかりの老婆であった。老婆らは一言も発することなく、憑りつかれたようにカフェの方角を虚ろな目でまっすぐ見つめて並んでいた。彼女はこの異様な光景に心から恐怖を覚えた。彼女を特に怖がらせたのは無音であった。現実から乖離した空間では、音という存在、ひいては若さという概念が限りなく場違いであるように感じた。息苦しくなった彼女は、来た方向に向けて懸命に駆けた。しかし、匂いという強大な膂力りょりょくに引かれて再び戻ってきてしまった。戻ると老婆の列は消えていた。いったいなんだったのだろう。彼女は少し時間をかけて気持ちを落ち着かせ、入り口の前に立った。扉には「SHOPIN’SCAKES《ショパンケークス》」と書かれていた。このカフェの名前のようだ。彼女は勇気を出して扉を開けた。

 「いらっしゃい」

 若い清潔な男が出迎えた。先輩だった。あいかわらず非の打ちどころと隙のない完璧な顔立ちは、もはや彼女が脳で作り出した偶像のように思えた。前と違ったところは、いかにもカフェの店員らしいカジュアルな格好をしていたことと、よく整えられた顎髭を生やしているところだった。先輩は彼女を見て微笑し、手紙や夜のことについては一切触れることなく、奥のテーブルへと彼女を案内した。彼女の方もひとまず先輩のことについては深く考えず、一人の新規の客として振る舞うことにした。聞きたいことや分からないことが多すぎて、うまく伝えられる気がしなかったからだ。店内は古びた外観から想像がつかないほど、綺麗で落ち着いた雰囲気だった。モノトーンを基調とした内装は間接照明と程よいバランスを保って、暗い印象を与えることなく居心地よい空間を創出していた。調度にも拘りがあるらしく、音符型のコースターや楽譜風のメニュー表など、店のあちらこちらで音楽的な趣向が見て取れた。店の名前にしても、店主はよほど音楽好きな人なのだろう。店内BGM も彼女の好みに合ったクラシックミュージックだった。ぼんやりと流れるフィールドの夜想曲『真昼』を聴きながら、彼女はどこか懐かしいような、温かみのある気分になっていた。

 「こちら、店主のくじさん」

 先輩の隣に女性が立っていた。艶のある黒髪を後ろで縛った、かなりの美人だ。女性が店を持つにはかなり若いように見えたが、なぜか鬮目には見た目よりも何年も長く人生を経験しているような風格があった。彼女は鬮目の顔にかなり強く惹きつけられた。鬮目は彼女を見て微笑んだ。

 「いらっしゃい。何飲む?」

 彼女はメニューを見てアイスティーを頼んだ。

 「アイスティーね。了解」

 美しく落ち着いた声だ。鬮目はキッチンへと向かって行った。どこか痛めているのだろうか、歩き方に独特の癖があった。

 飲み物を待つ間、彼女は店の隅に置いてあった黒いグランドピアノに気が付いた。彼女はピアノを弾くことが好きであったと同時に、楽器オタクでもあった。店のグランドピアノは、子供のころに『世界のピアノ図鑑』で見たことがあった。十九世紀プレイエル製、世界に三台存在すると言われているうちの一つだった。どれだけ低く見積もっても一千万円は下らない高級ピアノがこんな小さなカフェになにげなく置かれていることが、俄かには信じられなかった。興奮が抑えられなかった彼女は、先輩を呼んで尋ねた。

 「どうしてこんな高級ピアノが置いてあるんですか」

 「このピアノはね、鬮目さんに贈られたものなんだ。詳しくは分からないけど、僕がこの店で働くときにはすでにここに置いてあった」

 よく見るとピアノの側面に「寄贈 鬮目綾」と彫られていた。鬮目くじめあや。彼女はこの名前をよく知っていた。ピアノの世界において知らぬ者はいない、日本音楽界の芳名である。そして、彼女をピアノの世界に誘った、あのドキュメンタリー番組に映っていた人物こそ、紛れもない鬮目綾だった。彼女の記憶している情報によれば、鬮目は若くして世界のトップピアニストに上り詰めた(ドキュメンタリー番組はこの頃の栄光を取り上げていた)後、前人未到のアメリカ大陸縦断ツアーコンサートを敢行し、ツアーの途中だったか後だったか、体調を崩してそのまま表舞台からひっそりと姿を消してしまった。当時音楽業界では、テロ組織に襲われたとか、交通事故で死んだとか、様々な憶測が飛び交っていたが、真相は謎のまま、鬮目の名前は伝説と共に人々の記憶から消えていった。南アメリカでクラシック音楽の布教を行っているという根も葉もない噂を信じていた彼女は、東京の誰も知らない古びたカフェで鬮目綾の名を見て驚嘆した。それなら、さっきの女店主が鬮目綾本人という事なのか。それにしては見た目が若すぎるように思えた。どことなく似ていたような気もするが、彼女がテレビで見た鬮目綾本人とはあまりにも大きく雰囲気が異なっていた。彼女はどうしても気になって先輩に訊いた。

 「ここの店主さん、数年前に消息を絶ったピアニストの鬮目綾と何か関係があるんですか」

 先輩は急に畏まった顔つきになって答えた。

 「悪いけど、鬮目さんについては僕もよく知らないんだ。自分の話をするのを嫌う人でね。できれば鬮目さん本人にも何かを詮索するようなプライベートな質問をするのは避けてほしい。大丈夫かい」

 彼女は納得できなかったが渋々肯いた。

 「よし」

 先輩は彼女の席を離れて別の接客をしに向かっていった。彼女ははっきりとした回答が得られずもやもやしていたが、あまり深く考えないようにした。今の彼女には、考えても分からないことがあるということだけが分かっていた。たまたま名字が同じだけで、鬮目綾の熱烈なファンの一人が経営しているお店なのかもしれない。大体、彼女が最も憧れていた人に、こんな場所で出会えるはずがないのだ。彼女は一旦適当な結論を付けることで気持ちを落ち着かせ、注文を待つ時間つぶしとして店内を観察し始めた。

 あまりの静かさに初めはあまり気にしていなかったが、店内には彼女の他にも数人の客がいた。全員が一人客、そして彼女と同じくらいの若い女性であった。彼女は他の客に接客している先輩の様子を何気なく見ていた時、ある奇妙な確信を得た。先輩は店にいる客全員と寝ている。他の客も彼女同様、半ば拐かされるような形で先輩と肉体関係をもち、いざなわれてこのカフェにやってきている。彼女にはなぜかそれを理解することができた。みんな先輩に抱かれてカフェに集合したのだ。そう思うと彼女は少し可笑しかった。

 「おまたせ」

 鬮目がキッチンから出てきた。右手に木製のトレーを載せている。

 「アイティー。と、これ、うちの特製クッキー。よかったら食べて」

 鬮目はグラスをコースターの上に、クッキーの載った木製のプレートを彼女の前に置いた。

 「ありがとうございます」と彼女は言った。

 鬮目は隣のテーブルから椅子を持ってきて、そのまま彼女の向かいに座った。

 「ここに座ってもいいかしら」

 有無を言わさぬ鋭い口調だった。彼女は怖々と肯いた。鬮目は右手で頬杖を突き、その姿勢を保ったまま彼女を見つめた。彼女は鬮目に全身を支配される感覚に陥った。それと同時に、彼女は体の奥で何かが外れる音を聞いたような気がした。

 鬮目は近くで見ても驚くほど美人であった。不自然なほど均整の取れた顔は、彼女に緊張と、半ば畏怖の感情をもたらした。鬮目は表情を変えることなく、じっと彼女を見つめていた。たまらず彼女はアイスティーを一口飲んだ。鬮目は無言のまま微動だにしなかった。

 「あ、あの・・・」

 彼女は何かを言おうと努力したが、言葉は詰まってうまく出てこなかった。

 「いいのよ。無理に話そうとしないで」

 鬮目の言葉は彼女をさらに緊張させた。鬮目に見つめられるほど、一挙一動が制限されていくように感じた。無言の命令に従うように、彼女はクッキーを口に運んだ。クッキーは信じられないほどおいしかった。店の前に漂っていたあの甘い匂いが彼女の鼻腔を抜けていった。一瞬鬮目が笑ったような気がした。彼女は夢中になってクッキーを平らげた。そして彼女は、空になったプレートに文字が書いてあるのに気が付いた。プレートには一編の詩のようなものが刻まれていた。


   題名のない音楽会


   あなた様は我々の頭上に

   高圧的な棒を振りかざします

   我々はただ教えてほしいのです

   五体満足のピリオドの

   意味性を纏わぬ針を砕いて

   そいだらかりどきりっけんばった

   たぶるみゅけどきかってんいくさ

   我々は歌います

   いくぶんモウモクテキに

 

   あなた様はどちらにおられる

   のでしょうか

   土星のわっかに寝そべって

   耳を澄ましているのでしょうか

   どれだけ血を流して愛しても

   線で囲まれ繰り返し

   そいだらかりどきりっけんばった

   たぶるみゅけどきかってんいくさ

   我々は歌います

   ほとんどキョウシンテキに

   

 五体満足のピリオド?土星のわっか?よく分からない詩だな。

 「おいしかった?クッキー」

 鬮目が口を開く。鬮目はいつの間にか結わいていた髪を解いている。

 「はい。と、ても・・お、いし、かったです」

 あれ?うまく口が動かない。それに体が少しずつ熱を持ち始めている気がする。

 「あなた、本当においしそうな顔して食べていたものだから、見ていてすっごく嬉しくなっちゃったわ」

 鬮目は笑っている。

 「女の子ってどうして、甘いものに弱いんでしょうね。礼節も思考も放棄して無防備にさせるんだから、クッキーも侮れないわよね」

 鬮目は組んでいた足を逆にして、短い息を吐く。

「ところであなた、『ネズミとゾウの時間』の話をご存じかしら」

 知らないです、あの、それより・・彼女は懸命に答えようとする。しかし言葉はあと少しのところで声にならず、突然機能を失った口は奇妙に開閉を繰り返す。まるで時代に取り残されたくるみ割り人形のようだ。何かの前兆なのか、いつの間にか全身が、名状しがたい気怠さに憑かれている。

「ある論文によるとね、自然界に存在する動物は、みんな心臓が十五億回脈拍を打つと寿命を迎えるんだって。アリもカエルもキリンもオケラも、みんな心臓の使用制限は十五億回できっかり同じなの。不思議よね、大きさも色も形も全く違うありとあらゆる動物が、誰かの一存で等しく十五億という縛りを受けて生きている。ぶんぶん飛び回るだけのコバエも、百獣の王ライオンも、そういう意味では全く対等な生物だと言えるわね。だけどね、この世界の摂理の一つで、一部を極端に平等にすると、必ずどこかで大きなひずみが生じるの。時空レヴェルの皺寄せね。例えば、ネズミの寿命が三年でゾウの寿命が七十年だとする。寿命の長さは違っても、一生のうちに打つ脈拍の回数は同じだから、ネズミは脈拍一回に0.1秒しかかからないのに対して、ゾウは3秒かけることになる。この時間のことを心周期と言って、心周期が短いと、一日の酸素消費量が多くなり、必要睡眠時間が長くなる。これがネズミのような体の小さい動物のパターン。反対に心周期の長い、ゾウのような大きな動物は、一日に消費するエネルギーはかなり少なくて済み、必要睡眠時間は短くなる。つまり、心臓の使用回数にルールを設けたおかげで、多種多様な動物の時間の流れ、もっと正確に言えば、時間の体感速度が、平等ではなくなっているの。ゾウにとっては暇のあり余る一日であっても、ネズミにとってはほんの一瞬で終わってしまったように感じる。あなたならネズミとゾウ、どっちの人生がいいと思う?」

 取り出して両手に抱えられそうなほど、硬く大きい鼓動の音がはっきりと聞こえる。体の芯の方でどろりと搵りだした熱は確かに上昇を続けている。頭が陽炎のようにぼうっとしてきた。痒みからなのか痛みからなのか、とにかく定まった姿勢をとり続けることができない。

「私は断然ゾウのように生きたいと思うわ。だって、ネズミみたいな人生、疲れるだけだし、平等にあるはずの幸福だって見逃してしまいそうじゃない。太く短くなんて言葉大嫌いよ。それに、一年に何回も誕生日があったって全然うれしくないもの。そうでしょう?」

 鬮目はそう言って物憂げに左手をさすり始める。

「私の場合は鼻の効かないゾウね。・・・確かに、左手が思うように動かせなくなったときは、果てしなく絶望したわ。私が私である信証を失って、誰にも会いたくなかった。塞ぎ込んで・・そうね、塞ぎ込むしかやることがなかった。私とピアノの夢のような関係は、あまりにも突然に、そしてあまりにも理不尽なタイミングで終わってしまった。だけどね、鼻の効かないゾウの牙が突然変異を起こすみたいに、私はある力に目覚めたの。音を受け取る力よ。音を届けることができなくなった私にとっては、なんとも皮肉な話だけど、私は音を引き出して受け取ることができるようになった。もしくはこれまで気づかなかっただけで、本当は音を受け取る力の方が長けていたのかもしれない。

 音楽は世界の始まりと共に普遍的に存在し、超自然的な力を内奥に秘めている。この世に存在する生物はみんな、偉大な作曲者であり演奏者なの。あらゆる人生はドラマで運命よ、そしてそれはあなたも同じ。さぁ、両手を前に出して」

 いつの間にか鬮目の両手を掴んでいる。張り裂けんばかりに早まる動悸を感じる。体の髄がドロドロに溶けてしまうくらいに熱い。それでいて全身は恐ろしく寒く、絶えず震えている。大きく細かい震えは強く激しく、爪、歯、髪、関節といった、身体のあらゆる部位から不気味な音が聞こえる。しかし相変わらず言葉だけは音の形になりきれず、遣る方ない舌が無様に口内をのたくっている。靄がかかるように、意識が遠のいていく。瞬間、網膜の裏に強烈なイメージが浮かび上がる。それは美しい先輩の姿である。閃光のように鮮烈な印象を与えた先輩は頭の中を駆け抜け、そのままどこかへ消えていく。同時に、子宮に抉り取られたような激痛が走る。痛みで椅子から崩れ落ちる。鬮目は両手を掴んだまま、顔を覗き込んでくる。鉛と化した瞼は視界を徐々に狭めていく。あぁ、鬮目は、鬮目は、この人はそう・・・笑っている・・・・・・



 遠くに臥待月ふしまちづきが浮かんでいる。ここは自宅前のように見えるが、いつもの光景とは何かが違う。目に映るもの全てが歪んでいて、ぼんやり霞んでいる。階段を上るだけでこんなに息が切れるなんて。部屋の扉、こんなに大きかったかな?まぁいいや。いつもより重い扉を開けて中に入る。「うわっ、びっくりした」思いがけない低い声が部屋に響く。別の誰かが代わりに発してくれているような声だ。机の上に懐中時計を持ったウサギの置物が置いてある。こんなの買ったっけ。まぁ、いいや。それより今日は何曜日だ?バイト、行かなきゃ。


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