後日談:この胸を抉りたくなる程に、貴方が好きだから

 今日の日差しは温かい。春の気配は過ぎ去ろうとしていて、夏の気配が近づいている。

 そんな日の光に目を細めながら、私はベランダへと視線を移した。


「真珠、暑くない?」


 リラックスチェアに座って、何をする訳でもなく外の景色を眺めている真珠に私は声をかけた。

 真っ白に染まってしまった彼女は相変わらず返事をしてくれない。


「日焼けしたら大変だよ」


 色素まで抜け落ちてしまったのじゃないかと思う真珠が日の光に当たっていると、思わずそんな心配をしてしまう。

 日傘を差してあげて、日光を遮っておく。それでも真珠は反応を示すことはない。


「リュコス、真珠をお願いね」

「ばう!」


 私の影からずるりと這い出たリュコスが任せろ、と言わんばかりに胸を張って鳴いた。

 そのまま真珠の足下に進んだリュコスは、そこで丸くなるように身を伏せた。これで真珠を見てもらうことが出来るだろう。それを見届けて、私は部屋の中に戻る。


「今日は大分暑くなってきたから、昼食はどうしようかな……」


 今日の昼食は自分たちだけで取るつもりだったから、自分で用意しなければならない。


「暑くなってきたからそうめんでも茹でようかな」


 フォークで巻いてあげれば真珠も食べやすいだろうし。そんなことを考えながら昼食の準備を始める。

 最近、食事を用意するとなると真珠のことばかり考えてしまう。まぁ、食事に限った話ではないのだけれど。


 真珠は今、自分から動くということがほとんどない。

 最低限、自分で起きてどこかに座ったりする程度しか出来ない。

 まるで陽の当たる場所を探すようにベランダに向かうことが多いのは真珠を観察していてわかったことだ。

 自分で食事を用意出来る訳でもないし、お風呂なども私が補助してあげなければいけない。だからどうしても生活の中心が真珠になってしまう。


(……それに幸せだな、って思っちゃう私は本当に歪んでるなぁ)


 薄らと笑みを浮かべながら、私は目を細めてしまう。

 この胸を満たしているのは蕩けてしまいそうな程の幸福感と、仄暗い優越感だ。真珠の生活を独占しているという実感が私を甘く痺れさせる。

 本来、有り得てはならないことだ。自分だけでは生活もままならない真珠、そんな彼女に対して独り占めに出来ているということにこんな幸福を感じるだなんて。

 そう思ってしまう自分が残っているからこそ、この仄暗い幸福感は喜びに変わってしまう。


「……最低だね、私は。でも、今の真珠には私がいないとダメなんだから」


 それは事実で、事実だからこそ私の心に深く食い込む杭のようでもあった。

 私は真珠を救い出すことが出来なかった。結局、真珠が生き残ってくれたのは彼女自身の魂が予想を遥かに超える程に頑強だったからだ。

 けれど、だからといって無事に済んだ訳ではない。そもそも、こんなことにならないために私は力を得ようとした筈だったのに。


 自分の無力さに厭気が差すけれど、その厭気も真珠がまともに生活出来ず、私の世話を必要としていることによって感情が変質してしまう。

 今の真珠になら、私は触れられる。今の真珠になら、ずっと寄り添っていられる。今の真珠になら、ずっと求めて貰える。

 傍にいても許されるという事実だけが、今の私を支えている。


「……だから、せめて今だけは」


 いつか、真珠は戻って来る。

 そう信じながら、その日が来ることも恐れている。

 許される筈がない。……許されたいとも思っていない。

 こんな醜くて浅ましい自分が許されるだなんて、どうしても思えないから。

 だから今だけは、こうして傍にいることを許して欲しい。貴方の全てを独占することを。


 そんな思いに耽っていると、そうめんを茹ですぎてしまいそうになっていた。

 手早くそうめんを引き上げて、皿に盛り付けてテーブルへと移す。


「真珠、ご飯だよ」


 リュコスがすぴすぴと寝息を立てながら、器用に鼻提灯を作っている。

 そんな足下に転がっているリュコスを気にした様子もなく真珠はただ外を見つめている。

 私の呼びかけにも振り向いて貰えないのはいつものこと。だから私は慣れたように真珠の手を取って立ち上がらせる。


「今日はそうめんだよ。暑くなってきたから、さっぱりしてていいよね」

「……」


 真珠は私が手を引くのに抵抗することなくリビングへと戻ってくれる。目が覚めたリュコスがその足下をウロウロとするように付いて来ている。

 そして真珠を椅子に座らせて、つゆをつけたそうめんをフォークでくるりと巻いてから真珠の口元に運ぶ。


「はい、あーん」


 私がそう言うと、真珠は口を開いてくれた。そして、もむもむと噛んでから飲み込む。表情が一切動いていないけれど、その動作だけでも十分心が満たされるような気持ちになってしまう。

 どれだけ繰り返したのか、真珠が口元にそうめんを運んでも口を開いてくれなくなった。


「お腹いっぱい? そっか。いっぱい食べれて偉いね」


 真珠の口元をハンカチで拭ってあげながら、私は真珠が食べきれなかった分のそうめんを残さずに食べきった。

 少し量が足りないけれど、私の食事は栄養補給食でも構わない。いつでも真珠の面倒を見られるように大量に置いてあるから、暇を見て食べれば良い。

 そうしてリビングのソファーに移動した真珠がぼんやりし始めたのを見て、私は食器を片付ける。実質、一人分の食器しか使っていないから片付けるのは楽だ。


「……って、リュコス! 何してるの!?」

「わふんっ!?」


 食器の片付けも終わってリビングに戻ると、ソファーに座っていた筈の真珠がリュコスに押し倒されていた。

 リュコスははしゃぐように真珠の頬をベロベロと舐めていて、真珠の頬が凄いことになっていた。

 リュコスは私に気付かれると、びくりと身を震わせてからソファーの影へと隠れた。それで隠れるサイズではないので、お尻と尻尾が丸見えになっているけれど。


「まったくもう! 真珠が困るでしょ!」


 私は真珠を抱き起こして座らせながら、リュコスの涎をハンカチで拭き取っていく。

 涎でベトベトになっていても嫌な顔一つしていない真珠、良く見れば頬だけではなくて唇まで舐められていたらしい。


「もう……」


 唇もハンカチで拭っていると、思ったよりも柔らかいと思ってしまった。

 リュコスが唇を舐めたってことは、それはもうキスをしたようなものなんじゃ……。


「……」


 今の真珠は、何をしても抵抗しないなら。

 ドキドキと心臓が鼓動の速度を増している。

 胸が焼き焦げていくような背徳感と湧き上がる衝動によって、自然と手が動いた。

 思わず目を閉じてしまう。これから自分がやることがどれだけ卑怯なことか理解しているから。


 真珠の唇に自分の唇を重ねる。ただ触れただけなのに、真珠にキスをしていると思うだけで理性が弾け飛んでしまいそうになる。

 そんな弾け飛びそうな衝動を罪悪感が無理矢理繋ぎ止める。そして私は唇を離しながら、目を開くことも出来ずに呟く。


「……好き、だよ。真珠」


 私もリュコスのように衝動に従って、貴方にもっと触れてしまえたら。

 それでも良いのかもしれない。貴方に消えない傷を刻んで、私という存在を残してしまいたい。

 もし、貴方が正気に戻った時……私を軽蔑するような目で見たとしても。


「……」


 ゆっくりと目を開いて真珠を見た。

 真珠は何の感情も抱いていないような無表情で私を見つめていた。

 それに胸が引き裂かれるような痛みを覚えながらも、安堵してしまう。


「……大好き」


 たとえ、貴方がいつか私を憎んだとしても。

 その時は、この心臓を抉ってくれてもいいから。貴方になら喜んで差し出すから。

 だから待っているよ。ずっと、ずっと待っているから。貴方が戻ってくる日を。



 ――私は、まだ知らない。

 私が真珠にキスをした時、真珠も合わせるように目を閉じていたことを。

 それをリュコスが見ていたことを、この時の私は知ることはなかったのだった。

 

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