23:歪み、捩れて、願いは堕ちてゆく

 ――本の世界が好きだった。

 本の中の世界は、私を虐める人がいないから。


 灰本 文恵が私の名前。色々な本を読んで賢い人になってくれますように、と両親は期待を込めて私にその名を贈ってくれた。

 昔からたくさんの絵本を読んでくれた両親が大好きで、自然と本を読むことも好きになった。


 けれど、私は幼稚園に入ってから格好の虐めの対象になってしまった。

 見たことがない本が好きで、幼稚園に入ってからも本ばかり手に取っていたから。

 ある日、乱暴な子に本を取り上げられるようになったのが全ての始まりだった。


『本ばっか読んでると頭でっかちになっちゃうぞ! 頭でっかちの女は可愛くなくなるって父ちゃんが言ってた! お前、ブスになっちゃうぞー!』


 ブスなんて、そんなの一度も言われたこともなくて。

 その子は身体も声も大きいから、皆の先頭になって他の子が付いていくようなことがあった。

 その子がブスだと言えば、私はブスだ。ブスはブスだから、ブスって言って良い。いつしかそうなってしまった。


 本ばかり読んでいるから俺たちとは遊びたくないんだ。お高く止まっていて生意気だ。

 思っていないことも全部決めつけられて、捲し立てられるように悪口を言われて身体が竦んでしまう。

 酷い時には、自分の身体よりも大きな犬を嗾けられたこともあった。そのせいで犬全般が苦手になってしまった程だ。


 そんな経験したせいで、人と接することが怖くなってしまった。それは大きくなっても変わることはなくて。

 私は何も意見も言えず、ただ本の世界に逃げ込むことで自分に殻に篭もることしか出来なかった。


 親には心配させたくないから、勉強だけは一生懸命頑張った。

 運動は他の子と触れ合うかもしれないのが怖くてダメだったけれど、勉強だけは自分と向き合えば良かったから。


 目立たない、綺麗でもなくて、存在感もないただのガリ勉女。

 それが私だった。鏡を見る度に幼い頃に言われた言葉が正しかったと、そう思った。



『――それは間違ってると思うよ』



 ずっと俯いて、殻に篭もっていた私に手を差し伸べてくれたのは彼女だった。

 あの子が私を外に連れ出してくれた。私に希望を与えてくれた。私の世界を広げてくれた。

 本が好きでいいと、たくさんのことを知っていて凄いと、そうやって認めてくれたのはあの子だった。


『大丈夫だよ、文恵ちゃん。一緒に行こう!』


 白久しろひさ 真珠しんじゅ。頑なに閉ざしていた心を開いてくれた、世界で一番大好きな私の親友。

 私が救ってくれたように、私も真珠を助けたかった。恩を返したかった。



『――君にも才能があるんだ。真珠と一緒にこの世界を守るために戦って欲しいの!』



 それが真珠のためになるなら、やるよ。

 どんなに空想のような世界の出来事だとしても、真珠がこの世界を守るって言うなら。

 貴方の力になれるなら、どんな私にだってなれるから。

 そうして私はエルユラナスとして真珠と、エルクロノスと一緒に魔法少女を始めた。

 少ししてからエルユピテルも加わって、三人で一緒に悪の組織と戦ってきた。

 ――それが全部、正しいことだと思っていたのに。


『肉体があって、世界があって、住んでいる国が違って、それぞれ信仰する神も違う。その違いが争いの理由を生んでしまう。お腹が空くから食料を求めて他国を侵略する。相手が自分より上だと嫉妬することで争いに繋がる。それらを全て悪として世界を消し去り、魂だけの楽園を築き上げた。何も変わらない、何の差も生まれない、誰もが望むままに満たされて、ずっと幸福でいられる世界。それが女神イヴリース様が実現し、彼女が平和だと言う世界の真相です』

『――それの何が悪いの? 何が悪かったって言うの?』


 もう何が正しかったのか、私にはわからない。

 もう私たちは一切の非もない正義だとは思えなくなってしまった。

 この道を進むことは本当に正しいの? わからない、わからない!



『……ごめん、文恵ちゃん。私はまだ信じたいし、それに知りたいと思うの。だからまだ魔法少女は辞められない』



 どうして? どうして? どうして、どうして、どうしてどうしてどうして!?

 真珠は何も悪くない。真珠は正しいことをしようとしていた。真珠に何の責任もないのに!

 何をすれば良い? どうしたら良かったの? どうすれば真珠を助けてあげられるのだろう?


『文恵、貴方はどうするつもりですか?』

『どうするって……真珠を説得しないと! こんなの本当に続けていいことなの!?』

『……まだわかりません。だから真珠も知りたいと言ってるのです。まずは情報を集めるべきです。決めるのはそれからでも』

『それで手遅れだったら!?』


 エルユピテル―― 青柳あおやなぎ 瑪瑙めのうはただ冷静だった。

 いつも慎重になろうとする私と、思い切りが良くて時には踏み込みすぎる真珠の間に立ってくれていた。

 でも、今は……自分の意見も持たないで、ただ流れに身を任せているだけの人にしか思えなかった。


『人の意見ばっかり聞いてないで、たまには自分の意見を言ってみなさいよ!』

『文恵……今、貴方は冷静じゃないですわ』

『冷静になれる訳ないでしょ!? こんな事実を隠されて世界の平和だなんて言われてもおかしな話じゃない!』

『それは、あくまで立場の違いもあります。確かに受け入れがたい事ですが、私たちの世界とは別の世界で起きたことで……』

『――そんな事実だけ並べて何になるって言ってるのよ!! それが、意味ないって言ってるでしょ!!』


 どうしてわかってくれないのだろう。こんなに心配しているのに、こんなに不安なのに。

 あんな得体の知れないものを、どうしてまだ信じられるの?

 助けないと。どうにかしないと。何か起きてからではもう遅いんだ!!



『私が、どうにかしないと――!!』



   * * *



「……なるほど」


 私はそっと息を吐いて、夢現を彷徨っているように眠たげな目をしている文恵さんを見つめた。

 彼女に暗示をかけ、緊張と警戒を解かせて彼女の生い立ちと一番大事なものは何かと問いかけた。そうして得られた証言から、私は確信を得るに至った。


「エルクロノス、白久 真珠ですか。彼女の心の支えとなっているのは」

「普段はもうちょっと慎重な子なのかもね。でも、流石にミトラの話を聞いて冷静じゃいられなかったのかな……」

「本来、そこまで芯の強い子じゃないんでしょう。恐らくだけど彼女一人では魔法少女に選ばれることはなかった。先に白久 真珠という存在が選ばれていたからこそ、その補助役として選ばれたように思えるわ」

「……相良さん」

「誰もが貴方のように一人で何でもこなしてしまえるような子じゃないのよ、エルシャイン」

「エルシャインが優秀なのは認めますが、あくまで出来るだけです。だからといって楽な訳でもないでしょう」

「あれれ? クリスタルナちゃん、もしかして怒った? 怒っちゃった?」

「てい」

「目潰しは淑女協定違反ッ!!」


 両目を押さえてのたうち回る相良さんを見下した後、彼女の存在をなかったことにしてぼんやりしたままの文恵さんを見つめる。

 未だ彼女の頭の上にはネクロシードの獣が乗っかったままだ。そこが気に入ったのだろうか。


「何か良い方法でも思い付いたの?」

「えぇ、試してみようと思ったことが一つ。実験も兼ねてやってみましょう。ちょっとそこの人が邪魔なので下げてもらって良いですか?」

「わかったよ」


 エルシャインはのたうち回っていた相良さんの首根っこを掴み、ズルズルと引き摺っていく。

 もっと優しくして! という戯言が聞こえたような気がしたけれど、きっと空耳でしょう。


「……さて」


 私は一息吐いてから、改めて文恵さんと向き直る。

 軽く音が鳴るように手を打ち合わせると、文恵さんの意識が少しずつ覚醒していく。


「……ん、わた、し……?」

「お目覚めになりましたか、文恵さん」

「……ッ、クリスタルナッ!?」

「落ち着いて。もしかして、意識がまだ朦朧としていますか?」

「え? あ、ぅ、え?」

「まず、ゆっくりと深呼吸をしてください。はい、吸って、吐いて。吸って、吐いて」


 私の指示に合わせるように深呼吸をし始める文恵さん。彼女は一体何が起きているのかわからないといった様子で呼吸を整えている。


「落ち着きましたか?」

「……あの……?」

「処置の影響で記憶が朦朧としているかもしれませんが、貴方と私たちは協力関係を結びました。今、その処置が終わったところです」

「……そう、でしたっけ?」

「はい、そうなんですよ」


 彼女にかけた魔法は完全には解けきっていない。今、彼女は半分夢を見ているような状態だ。その意識に刷り込むように、私は彼女の味方だと繰り返す。


「処置の影響で頭がぼんやりしているかもしれませんが、もう大丈夫ですよ」

「……そう、なんですか?」

「はい、よく頑張りましたね」

「……あ」


 軽く頭を撫でてあげると、文恵さんはびくりと身体を震わせた。

 すると頭の上に乗っていたネクロシードの獣が転がり落ちそうになったので、それを両手で捕まえて彼女の前に差し出す。


「はい、どうぞ」

「え……?」

「抱いてあげてください」

「はぁ……?」


 私に言われるまま、ネクロシードの獣を抱き上げる文恵さん。

 自分が抱いているものが何なのか、それすらもわかっていないのだろう。ただ困惑したようにネクロシードの獣を見つめる。

 ネクロシードの獣も、ジッと彼女を見つめているかのように頭らしき部分を上に上げている。


「では、処置の仕上げをしましょう。これが終われば貴方の望みは叶いますよ」

「……私の、望み……」

「ご友人を助けたいのでしょう? さぁ、時間がありませんよ。急がないとお友達に危険が迫るかもしれません」

「……ッ! ど、どうすれば良いんですか!?」

「その子と心を通わせてください。貴方なら出来る筈です。その子が貴方の力になってくれるのですよ」

「えぇ……?」


 私とネクロシードの獣を交互に見ながら文恵さんは困惑しきっている。

 ネクロシードの獣はただジッと文恵さんを見上げたまま動かない。文恵さんはペタペタとネクロシードの獣に触れているけれど、どうしたらいいのかわからずに涙目になってきている。


「あの、心を通わせるって、何をどうしたら?」

「おや……? おかしいですね、もしかして……」

「もしかして……? 何ですか!? どうしたら良いんですか!? 何かダメなんですか!?」

「いや、まさか、そんな……」


 私は少し大袈裟に焦り、苦しげな表情を浮かべてから口元を隠す。

 その合間に不味い、失敗、などの言葉を文恵さんに聞こえる程度の声で呟く。


「このままでは、貴方は魔法少女の力も失ってしまうかもしれません」

「え……? 嘘……?」

「……これでは、お友達を助けることは……」

「そんなぁッ!!」


 表情を悲痛に歪めた文恵さん、その目からは涙が落ち始めていた。

 彼女は自分の膝の上に座ったまま動かないネクロシードの獣を力強く掴む。


「ねぇ、ねぇ! 何か言ってよ、教えてよ! どうしたらいいの! ねぇ、ねぇってば!」


 あぁ、手に取るようにわかる。彼女の心の中に絶望が育っていくのが。

 彼女の願いは、親友を守ることだった。

 彼女の絶望は、親友を守る力を失うことだ。

 それなら、あとはそっと背中を押すだけ。


「――灰本 文恵。私の声を聞きなさい」


 びくり、と文恵さんの身体が震える。私は文恵さんの後ろに立ち、彼女の耳元で囁く。


「貴方は、私の声に逆らえない」

「……ぁ」

「貴方は、私の声を聞きたくなる」

「……ぅ」

「貴方は、私の僕」

「……は、ぃ」

「私の言うことは、貴方の真実」

「……しん、じつ」


 薄らと笑みを浮かべて、私は文恵さんの視界を隠すように手で覆う。

 そして、そっと引き金を引くように。私は最後の言葉を口にした。



「貴方が本当に欲しかった力は――守るための力?」

「……まもる」

「いいえ、いいえ。貴方が欲しかった力は――欲しいものを手に掴むための力」

「……ほしい」

「何を傷つけてでも、望みを叶える力」

「……かなえる」

「――さぁ、壊してでも、手に入れなさい? 欲しかったんでしょう? その力が」



「――力が、欲しい……! 私は、力が欲しいッ!!」



 文恵さんが掴んでいたネクロシードの獣を、まるで潰してしまいかねない力で握り締める。

 すると、ネクロシードの身体がぐにゃりと歪み、スライムのように形を変えていく。それは文恵さんの手を伝い、彼女の全身を這っていく。



「――あははは、あははハハハハ、アハハハハハハハハハハハッ!!」



 突然、文恵さんが絶叫するように笑い始めた。

 それが頂点だったかのように、全身を這っていた黒い泥のように姿を変えたネクロシードごと自分を抱き締める。


 そして彼女の前に光が現れた。弱々しくも輝く、白い光。

 文恵さんはその光に、黒い泥で汚れた手を伸ばす。黒い泥に触れた光は溶けて混ざり合うように黒い光へと変質していく。

 変質は止まらず、黒い光はそのままタロットカードのような形を象った。



「――クリファ……、フォールダウンッ!」



 口が裂けんばかりに頬を吊り上げて笑いながら、文恵さんは黒い光を引き裂くように手を振るった。

 爪で引き裂いたかのように黒い光が解け、それが文恵さんの身体を包み込んでいく。


 エルユラナスとしての彼女は、灰色のローブを纏った魔法使いと言わんばかりの姿をしていた。

 その灰色のローブはズタズタ引き裂かれたようなものとなり、もっと動きやすいものへと変わっていた。

 ブロンドに変わっていた筈の髪色は、もっとローブの色に近い灰色に。水色の瞳は更に色が薄くなって氷のように冷たくなり、その目の瞳孔が獣のものように縦に裂けていた。


 そして、以前とは違う大きな変化。――頭に耳が、背には尻尾が生えている。

 これはエルシャインの変質とも違う。どちらかと言えば変貌という言葉の方が正しいだろう。

 そして変貌しきった彼女は、ゆっくりと立ち上がって私の方を見た。笑った口元から覗いた口元には鋭く尖った犬歯が見える。  


「……気分はどう? エルユラナス」


 私は笑みを浮かべながら問いかけてみた。

 するとエルユラナスは無邪気な、それでいて凶悪な笑みを浮かべて返事をした。



「――とっても! 爽快です、ご主人様!」



 そして、彼女は地を蹴って私に飛びかかってきた。

 受け止めるも、咄嗟にふんばることが出来なくて押し倒されてしまう。

 私を押し倒しながら抱き締めたエルユラナスは、そのまま私の頬に口付けをした。


「えへへ! ご主人様! ご主人様!」

「……これは、もしや暗示が効き過ぎた……?」


 ぎゅうぎゅうと抱き締められて苦しいし、バタバタと揺れている尻尾が存在を主張していてうるさい。

 一体この変化は何なのか、暗示が一体どのようになってしまっているのか。そんな疑問が浮かぶも、すぐさま私の思考は停止してしまった。



「――何してるの? そこの駄犬」



 ――怒れる圧倒的な恐怖エルシャインが、その場に降臨していたからだった。

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