Fact 悲劇


雨の日だった。

その日は雪解けの二月はまだ寒かった気がする。

当時、赤子だった僕は無力だったと今でも思う。あと少し早く、アンプルの力が解放されたら姉は死ななかった。

「ねぇ!ねぇったら聞いてるの!?」

母は携帯電話で誰かと電話している。ただ表情も声のトーンも怒りに満ち溢れていた。

母は長い髪を乱雑に掻いてる。詳しく分からないけど、僕は母よりの顔立ちらしい。古びたボロアパートの一室で散らかった衣類は、高級感を台無しにするドレスだった。そう僕は身体で覚えている。

「おかーさん、ごはんまだー?」

ショートヘアと目元が母似の姉が、母の服の切れ端を引っ張っている。母は姉の行動に対し、ピキッと顔をこわばらせて八歳の姉の腹に鋭い蹴りを入れた。

「うるさい!由莉」

姉は蹴られたお腹を両手で押さえながら、壁側に倒れている。声もあげられないほど、肉体的だけでなく精神的にも苦しんでいる。

「で、私たちを置いていくの?ふざけないでよっ!今どこにいるの?って上海」

この後、母は何か思い詰めた表情をして、家から出ていった。

狭くてボロいワンルームに、全身に痣と打撲だらけの姉と声を上げることしかできない僕は、この終わらない惨劇を繰り返し続けると思ったんだろう。


時刻は十五時、あれから四時間経った。

姉は僕のオムツや粉ミルクなど一通りの作業を終えて、僕はすやすやと眠っていた。


ドンっと大きな物音がした。

今思えば、母が乱暴にドアが開いた音だ。

目が覚めた僕はぎゃーぎゃー泣き叫ぶしかなかった。

「ただいま由莉」

「お、おかえりお母さん。」

姉はビクビク身体を震わせながら返事する。

視界に映った母は、ボサボサな髪とシワシワな真っ白のTシャツにジーンズと不潔まみれだった。母の左手には、もう片方の手には刃渡り二十センチほどの包丁を持っていた。

「なによ? まだ死んでなかったの」

「お、お母さん。なに言ってるの!?」

「まあいっか。よく考えてみたら、あの人が私たちを捨てたのは、アンタのせいよ? 何も出来ない赤ちゃんのくせに、アンタなんか産まなきゃよかった」

母は僕に向かって襲いにかかった。散らかった衣類を踏みつけ、赤子の僕の元に近づいた。

そして母の左手のアンプルを僕に打つ。

「ああああああっ!?」

「はぁはぁはぁ、この時のために奪っておいたのが、役に立ったわね」

姉の悲鳴と狂気に満ちた母の顔は、今でも夢に出てくる。あの気持ち悪い怪物も

「どうして・・・こんなことしたの!?」

「見えないからよ。私が十七の時に由莉を産んだ時、由莉のお父さんは。そして両親には家を出て行けって、怒鳴られたわよ」

その時だったと思う。僕の体内に沸々と身体が溶けるような感触があった。身体が覚えている。

「必死だったわよ。新卒の兄貴には殴られたはしたけど、二百万円も渡してくれたし感謝でしかなかった。通信制の高校に通って、パートも転々としたわ。決して身体は売らなかった」

母が苦しそうに自身の身に起きた過去を話した。母は新しく再婚したい夫にも捨てられた。最期まで救われない人だった。

「あとはアンプルを打ち、この子を殺せば完成するのよね」

「やめてっ!」

母が僕に向かって包丁を振り下ろそうとする。

しかしその瞬間、姉は母に向かって必死に抵抗した。包丁を持つ母と必死に格闘した。危険な状態だったけど、僕を守りたい姉の表情は記憶に残っている。そして姉は右腹部に包丁が刺さっていた。

「ごぼっ・・・・・・ら、ら」

母は娘に刺した包丁を身体から引き剥がし、口から血がドボドボと出ていった。

ワンルームの床には大量の血が吐かれた。

姉は最後の力で僕の頬をさすって、笑顔でこう言った。

「蘭、ごめ・・・んね。おねぇちゃん・・・・・・失格ね」

そう言い残して、姉は幼い僕を抱えてこの世を去った。

僕は姉に抱えられ倒れていた。不思議なことに姉の温もりは次第に冷たくなった。死後硬直が始まったのだと思う。

母は無情にも姉を踏みつけ、僕を姉の身体から引き剥がした。

「ふん、どいつもこいつも私に逆らうなんて・・・まあいいアンプルを打ったし、はぁはぁもう大丈夫でしょ」

ここまでが僕の記憶だった。ここからは・・・

次に覚えているのは、警察官数名と無機質な赤ちゃん用のベッドだった。

僕は助かった。姉を殺され、母は警察に逮捕され数日後に亡くなった。父は上海へ逃亡して行方不明。


これは一人の天才美少女中学生、海野うみのラム。

芝浦蘭しばうららんに起きた悲劇である。

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