泥沼


「今から十三年ほど前の話です。生後半年はんとしのラムは、包丁を持った実母じつぼに襲われたのです。幸い、現場にいた警察官と娘を庇って刺されたお姉さんによって、命を失わずにすみました。ですが、色々と不可解なことがありまして・・・」

「不可解とは?」

「順にお話しします」

ラム母は自身の娘の過去を丁寧に話してくれた。

その表情は時々暗くなっていたが、おそらく娘を思ってのことだと俺は信じることにした。

「一つは娘を刺そうとした動機です。包丁で襲われる前にラムの腕には細い針のような跡がありました。ただ注射を刺した後に、なぜ娘を殺そうとしたのかが分からないのです」

「確かにそうですね。犯人はなんと言ったのですか?」

「はい、犯行の動機はだとか・・・ただ夫の名前は判明したのですが、娘を捨てて中国へ飛び去ったみたいです」

酷いな。確かにラムさんは当時、赤ちゃんだったけど、それでも実の家族に大切にされなかったと思うと同情せざるえない。

「それ以来、調査しているのですが、依然として音沙汰ない状態です」

「中国での捜査は厳しいですからね。国外逃亡が成功すれば、あとは潜伏も難しくはないですし」

「そうです。私も夫ともに上海の方の探偵に依頼しているのですが、手がかりもなく。行方も定かではないの」

「いつ、その人は中国に行かれたんですか?」

「事件が起きる半年前よ」

ラム母の表情が暗くなる理由は、この父親の存在だろう。姉の女の子が映った写真を撮ったのは誰だか分からないが、もし父親であれば9年前までは日本にいたことになる。

何が真実かは定かではないけど、おそらく鍵を握っているのは実の父親だろう。

「その後、犯人の母は犯行翌日に留置所内で首吊り自殺、ラムのお姉さんは意識不明の容態のまま息を引き取りました」

「なっ!?自殺って」

「信じられないでしょうが、本当のことです。事件後、母親は逮捕され取り調べから数日後に自殺したのです」

「じゃあ動機も分からずってことじゃないですか!そんなのあまりにも酷すぎですよ」

「っ・・・落ち着きなさいカイリさん。あなたが娘を思ってくれるのは、心の底から嬉しいの。でもね

「ぐっ・・・で、でも・・・・・・ぐすんっ」

俺がテーブルを思いっきりバンッと叩き、感情を吐露する。

隣に座っていた川上さんも、俺の顔をみて目を見開いていた。

ラム母も俺をみて、何かを諭すような目を向けてくる。

目尻から流れる水滴を感じたのは、そのあと直ぐのことだった。

「少し落ち着きましょうか?二人ともあちらの部屋で休んでて」

ラム母が指を指したドアの奥には、難しい本ばかりが置かれた書斎があった。

書斎には古い本だけでなく、文学や歴史、経済や経営などの本も様々あった。その奥にはピンクのハートが貼ってあるネームプレートにと書かれていた。

「ここは・・・ラムさんの部屋だよね?」

「ううん、正確にはラムちゃんの本棚よ。私は入ったことがあるけど、カイリさん入ってみる?」

「いや、本人がいないならやめとくよ」

「そっか、さっき泣いてくれたよね?あれってラムちゃんを思ってですよね?」

「うん」

あの時の涙はラムさんが過ごした生い立ちを知ったからだ。

人前で涙を流すのは俺にとっても恥ずかしいこと思う。ただそれでも感傷的になることは悪いことだろうか?

「ありがとね」

川上さんが耳元で囁くと、書斎から去っていった。多分俺は目だけでなく、頬にも赤い絵の具が混じった顔になったと思う。


「それでは続きを聞かせてくださいっ!」

さっきの部屋に戻り、ラム母に頭を下げる。

ラム母の目にも涙痕が残っていた。彼女は首をこくりと頷き話を続けた。

「結局、母親のこともあって、親戚も生後半年のラムを引き取ることもせず、児童養護施設が育てることになりました」

そのあと、ラム母は間髪入れず、感情を抑え込むように話をする。

「あとは養護施設で里親募集のとこを調べて、私たちがラムを引き取りました。夫も当初は男の子がいいって言ってたのですが、施設内でひたすらルービックキューブをやるラムのことに目がいってしまってね。それで私が反対しても、結局迎え入れることにしたのよ」

「そうだったのか。それでラムさんの居場所はもう分かってますよね? 」

「はい、ラムはお姉さんの墓に行っていると思います。あの子を誘拐するような方はたくさんいますが、それでもあの子は絶対に負けません。ただ・・・少し心配なんです」

「心配とは?」

「ラムが私のことをどう思っているのか?と時々不安になるんです」

ラム母が俯き、美人の顔がピキッと崩れていった。娘を想う何かからきたんだろうか。それが娘を想う愛なのか、娘に想われているか不安なのか、それとも何か別な感情があるのか。

それでも10年以上も血が繋がってない娘を育てて、心配していることはラムさんにも伝わっていると思う。

あんなに人を振り回して、人の努力を褒めてくれて、大切な友達がいるのは全て、目の前にいる彼女の育て方のおかげだ。

川上さんが口を開きかけた瞬間、俺の方が発していた。

「それは大丈夫ですよ」


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