第11話 境遇
<エステル視点>
(あの子猫、かわいそうに……)
この【癒しの母乳】なら救えるだろうか、と考える。傷だったら癒せると思う。空腹も、もしかしたらある程度は。
だけど、流石に失った前足までは……。
(食べ物でもあげてこようかな?)
踏み出しかけた足を、止める。フードの奥から、そっと周囲を窺う。
手を差し伸べる人こそ居ないが、あの子猫をちらちらと見ている人は多い。
あまり目立つことをして、私の存在を記憶に留める人が出てきたら……
(私、今、逃げている途中なんだ)
デリグラッセに着くまで、まだ安心はできない。
ロブの、おぞましい笑顔が脳裏によぎる。まさかとは思うけど、私を追ってこの村に向かってきているとも限らないのだ。
覚えている人は、少ないほうがいい。
だから……今の私は、あの子猫を見捨てるしかない。
(情けでちょっとぐらいご飯をあげたって、明日になれば、またお腹を空かせるんだもの)
浮き出たあばら骨が目に入る。
ずっとご飯にありつけていないのが見て取れる。
(そ、それに、あれぐらいの子猫に何を食べさせたらいいかなんて、分からないし)
母乳の力を思い出す。これを飲ませれば、きっと元気になる。だけど。
……あんなにぼろぼろの子猫が、突然、元気になれば――衆目を集めてしまう。
一体何を飲ませたんだ、と詮索される。この町の人に、私の行動が知られる。
(そんな目立つこと、絶対できない!)
だから、そう、仕方がない。
(家があれば……、連れ帰って面倒を見ることもできるけど)
だけど、今の私には帰る家がない。
考えている間にも、私を追って、ロブがもうこの村にいるかもしれない。
目立つ行為をすれば見つけれくれと言っているようなものだ。
母乳の力を使うわけにはいかない。あからさまに目立ってしまう。
だから、仕方ない。
子猫が座り込んで、か細く鳴いた……ように見えた。声は聞こえない。小さすぎて、ここまで響かない。
足を失っているから、獲物を捕ることもできないだろう。
頼れるものもいない。自分でやるしかない。
けれど、あの子に、ひとりで生きていく力なんてあるんだろうか。
――それは私も同じ
あの子猫はまるで、未来の私――
「では、定刻となりましたので、出発します」
御者のお爺さんが、馬に鞭を入れる。
ずっと子猫を見ていて気が付かなかったけど、いつの間にか辻馬車には私以外にもお客さんが沢山乗り込んでいた。
顔が分からないように、フードを目深に被りなおす。
最後に子猫を見る。
流れる景色と共に、日時計の傍にうずくまった小さな影はどんどん遠ざかり、やがて土の色に同化して見えなくなった。
(ごめんね)
何もしてあげられない私でごめんね。
ぎゅっと胸が締め付けられる。
(……全部、言い訳だ)
できない理由を並べて、何もしなかった。何もしてあげられなかったのではない。
『何もしない』を、私自信が選んだ。
あの子猫が死んでしまったら――もう死んでしまったかもしれない――それは私のせいだ。
私が子猫に手を差し伸べなかったように、私も……誰からも手を差し伸べられることもなく飢えて死んでいくのかもしれない。
街に行ったからといって、叔母が見つかるとは限らない。
都合良く、私にできる仕事があるとは限らない。
逃げるのに必死で、敢えて深く考えないようにしてきたことが次々と浮かんでくる。
街に着いて、それから……明るい展望を描くことができない。
途中、街道脇にあった広場で一泊した。
女性陣はまとめて馬車の中で寝かせてもらえた。
早朝に再び馬車が動き出し、ほぼ1日の旅路を経て、翌日の昼にデリグラッセの街の手前に到着した。
馬車に揺られる間、子猫のこと、自分のこれからのことばかり考えていた。
沈み切った気持ちで外を眺めていたら、馬車に残っている客は私ひとりになっていた。溜息をついて、重い腰を上げる。
「なぁ、お嬢さん」
降りたところで、御者のお爺さんに呼び止められた。
「な、何でしょう?」
荷物を抱えた手を握りしめ、強張った声で応じてしまう。男の人は怖い、信用できない。
お爺さんは御者台から降りて、私の前に立った。何の用事があるんだろう。
(誘拐でもされるんじゃ……)
身構える。見たところかなり年配そうだし、私の足でも走って逃げられるだろうか。でも、仲間が出てきたら――
お爺さんが、懐から何かを出した。
「これは保存食なんじゃが、余っておってな。良かったら貰ってくれんか」
「え?」
どうしてそんな物を……見返りに、何か求められてしまうのだろうか?
「まぁ、わしはこの仕事が長いからの。いろんな客を見ておる……お嬢さん、訳ありじゃろ?」
言い当てられ、ドキンと胸が震える。
言葉が出てこない私を見て、御者のお爺さんは少し慌てた様子で首を振った。
「いやいや、詮索するつもりはないんじゃ。あんたがこの馬車を使ったことは誰にも言わんから、安心しな。……訳ありのもんは大抵、着の身着のままじゃ。こんな物しかないが、足しにしておくれ」
戸惑う私に小袋を渡して、御者のお爺さんは馬車に乗り込んだ。
「あ、えっと、あの……」
「それじゃぁの」
言い淀んでいる間に、お爺さんはピシりと馬に鞭を入れ、馬車が動き出す。
「あ、ありがとうございます!」
私は慌てて大きな声で感謝を伝えた。
お爺さんは振り返らず、片手を上げて応じた。
どうやら純粋な好意だったようだ。
手に残された小袋を見つめる。洗いざらしの布地の表面が、不意にぼやけた。ぽたぽたと水滴が落ちる。
私は子猫を見捨てたのに……、御者のお爺さんに食べ物を貰ってしまった。
子猫を助ける力があったのに……。
何もしなかったのに……。
(ごめん……なさい……)
涙が止まらない。
私には、優しさをくれる人がいた。助けてもらえた。
あの子猫は救えなかった。救わなかった。だけど、こんな気持ちになるのなら。
(もう二度と、あんな選択はしたくない!)
目元を拭って、前を向いた。
デリグラッセの街を囲む壁に、穏やかな陽光が降り注いでいた。
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