第9話 脱出


隣村までは徒歩で約一日。結構な距離がある。

もし辻馬車の出発時間に間に合わなかったら、少なくとももう一晩、その村に留まらないといけないわけで……あまりのんびりしていると、私の不在に気付いたロブや村長さんに、追いつかれてしまうとも限らない。

とにかく早くここを発つしかない。人目を避けるためにも、深夜に出発するしかないだろう。


私は力持ちじゃないから、荷物はなるべく少なくしないと持ち運べない。

当然、割れ物などは持っていけない。


(お母さんが好きだった絵皿は、置いていかないとな……)


思い出の品は、ほとんど諦めるしかなかった。

悔しくて悲しいけど、泣いている暇もない。

お父さんが遺してくれていた、隠し戸棚のお金は全部持っていく。

ざっと数えたら、結構な金額だ。盗難対策で、いくつかに分けて服に縫い付けたりする。


「あとは……母乳対策ね」


何がきっかけで溢れ出してくるのか謎だから、入念な対策が必要だ。

胸の辺りに染みが出来ると「興奮している」と勘違いする人がいることが分かったので、染みを作らないよう、皮を当てることにした。

皮に沿って垂れたものは、お腹の辺りで革袋に流れ込むように、調整する。

時間が無かったからうまくいくかどうかわからないけど、ひとまず胸に染みさえできなかったらそれで良しとするしかない。

それと、不自然にならない程度に厚着をしておこう。

たしかフード付きのローブがあった。

顔も隠せるし、風と雨をしのぐのにも使えるだろう。


水を用意しようとして、大事なことを思い出した。慌てて棚から、瓶に移しておいた母乳を取り出す。考え過ぎかもしれないが、これを家に残しておくのは躊躇われた。

それに、傷が治せるのだから、万が一の場合に薬として使えるだろう。

瓶から別の革袋へ移して、腰に下げる。


準備は整った。

今まで暮らしてきた家に別れを告げる。施錠し、庭先に並んでいる農具を自然に崩して、ちょっと外出している風を装う。

明日になって誰かが来ても、村のどこかで仕事をしているんだと思い込んでくれるように。


最後に両親のお墓に挨拶したかったけど、むやみに足音を立てたくないし、深夜の墓地に行くのはさすがに怖い。

村を出てしばらくしてから振り返って、祈りを捧げた。


(お父さん、お母さん、どうか見守っていてください)


暗い夜道を一人歩く。

幸いにも月明りがあり、足元がはっきりと見える。

効果があるかどうか分からないけど、魔物避けのお札もある。

以前、お父さんが隣村に行く際に使っていたものだ。

使い方を習ったのは随分昔だから自信は無いけど、淡く発光しているし、多分、効果が出ているんだろう……今にも消えてしまいそうな儚い光に不安になるが、立ち止まって考えても仕方がない。出ているってことにして、今はとにかく進むしかない。


(誰にも気付かれずに、村を出られたよね?)


ついつい後ろを振り返ってしまうのは、昼間のロブの様子が嫌でも思い起こされてしまうからだ。

あの様子なら、夜でもお構いなしに――いや、夜だからこそ押しかけてくることも、十分考えられる。私が不在だと知られたら……あのロブに全速力で追いかけられたら、足の遅い私は逃げ切れないだろう。


小さな物音一つする度に、背後に迫るものがいないか確認してしまう。

追い立てられた家畜のように、無我夢中で足を動かした。


「はぁ、はぁ、はぁ」


急き立てられるように往く。村どうしを繋ぐ道は石が多く、月が出ていても草木の影は真っ暗だから足元には気を遣う。息が上がってきた。

喉の渇きを覚え、革袋を取り出そうとして手が止まった。――水を忘れている!!

革袋に入っているのは、搾った母乳だ。


「ど、どうしよう?」


もうずいぶん進んでしまった。今更引き返せない。

というよりも、引き返すことを恐怖心が拒む。

……進むしかない。


息を荒げながら、足早に歩き続ける。

緊張も手伝ってか、喉が渇いて仕方がない。

けれど飲み物といったら……腰に下げた母乳しかない。


(の……飲んでみる?)


自分が胸から出したものを飲むのはだいぶ抵抗があるけど、背に腹は代えられない。

私は恐る恐る、母乳を口に含んだ。


(あ、甘い……)


柔らかな甘みが、口中に広がった。

その味に忌避感は特に覚えず、すんなりと喉を流れていく。


(あれ?)


気付けば喉の渇きはおろか、疲労感までもがすっと消えてしまった。


(こんな効果も! 一口しか飲んでないのに……【癒しの母乳】、凄いなぁ)


緊張がほぐれたのか、気持ちが少し落ち着いた。

行ける。これなら全力で隣村を目指せる!

私は顔を上げ、必死に足を動かし、進んだ。



そして、夜が明ける頃――

私は激しく肩を上下させながら、門に掲げられた隣村の名を見上げていた。


(着いた……私だけで、ここまで……)


遠くの山の間から、朝日が昇ってくるのが見える。早朝だというのに、忙しく歩く姿が多い。きっとここが十日毎に市が建つような、この地方でかなり発展している村だからだ。


ほっとして、その場に座り込みたくなる。そんな衝動を抑え込んで、私は足を踏み出した。

目的地はあくまでもデリグラッセ。この村で無事に、辻馬車に乗れるのかどうかもまだ分からないのだから。


朝焼けに染まる砂利道を進み、私は村の門をくぐった。



<あとがき>


エステルのステータス

Lv    1

職業  聖女

HP   10/10

MP   136/136

力    2

素早さ  2

体力   2

器用さ  3

魔力   105

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