二度目の袴は雨に濡れる

羽間慧

二度目の袴は雨に濡れる

「袴を着るのは一生あるかどうかだよね」


 隣の椅子に座っていた女の子が、誇らしげに袂を見ていた。数ある卒業袴の中で選んだ、とっておきの一着。式の日程が決まるよりも前に決めたデザインは、今風の鮮やかなものだった。コロナによって式は縮小されたが、憧れの袴を身にまとう嬉しさで表情は晴れやかそうに見えた。


 今年もマスク着用の卒業式か。

 私の脳裏に、二年前の卒業式の光景が浮かぶ。


 卒業論文発表会の二ヵ月後に蔓延したコロナウイルス。

 つつがなく行われるはずだった卒業式と謝恩会は中止になった。学位記の授与は学科ごとに行われ、保護者の参列は許されなかった。座席の間隔を保って座り、三十分程度の短い時間を過ごした。


 代表者が学位記をもらった後で、学科主任と学長の挨拶を聴いた。予測不能の現代社会を生きる上で、大学での学びを活かしていってほしい。その言葉が胸に残った。


 同期がいなくなったキャンパスで、私は大学院での学びをスタートさせた。一人きりの大学院生活。話し相手は、先生と図書館のお姉さま方だった。学食のスタッフさんとは、休業のせいでほとんど会えなかった。


 幾度となく休校と遠隔授業を繰り返し、授業料を払った分だけ指導が行き届いていたかどうかは定かではない。


 修士の二年間のうち、図書館を利用できない日も多かった。先行研究を集める手段は、CiNiiや他大学のリポジトリで閲覧できる論文。そして、学部時代に買った書籍だった。特に、古本屋でコツコツ集めた学術雑誌『国文学 解釈と鑑賞』『国文学 解釈と教材の研究』が役に立った。


 大学院を修了するときは、コロナが収まっていてほしいと願っていた。だが、現実はうまくいかない。二度目の門出の日も、両親の参列は叶わなかった。


 袴に浮かれる学部生に混じり、私は過去を振り返っていた。大学卒業のときは四月から大学院に進むことが決まっていたため、寂しさは湧かなかった。学友の面影を記憶に刻むことに、神経を使っていた。

 今も、寂しいと思う気持ちが希薄だった。修了するという実感は、前日も湧かなかった。


 朝から雨が降り止まないのは、泣けない私の代わりに涙を流してくれるのだろうと思った。二つ下の学部生と同じ会場。たくさん人がいる中で、気軽に話せる人はいない。後で写真を撮ろうねと盛り上がる声を聞き、気分が沈んでいった。


 喜びを分かち合いたい人は、この場にいない。式が始まっても、嬉しさは見つからなかった。学部のときに購入した袴だけが、自分の心に寄り添ってくれた。



 ☔☔☔



 先生との集合写真の後で、私は会場を後にした。カメラマンが撮るのは、卒業アルバムに載せる学部生の姿。院生の自分がいても仕方がない。就職先に提出する、修了証明書と成績証明書を発行しに行った。


 ボーっと突っ立っていれば昼を過ぎる。学位記が一人ずつ渡されたのは想定外だった。発券機が混まないうちに用事を済ませた。


 お世話になった事務の方に挨拶しながら、再び会場に戻る。忘れ物を取りに来たのではなく、最後に訪れたい気持ちが芽生えたのだった。


 講義室の灯りは消え、誰もいなくなっていた。入口前の手すりに寄りかかると、ようやく感傷に浸れる気がした。


 この講義室は、オリエンテーションのときによく利用していた。六年前、入学式の後に行われた学科別オリエンテーションもこの場所で行われた。自分にとって、始まりを感じさせる場所。学部のときに書いた小説「硝子にくるまれて」の講義室のモデルにした場所でもあった。


 暗い入口を見ていると、記憶の扉が開いていく。

 同期のみんなの顔と、聞こえないはずのざわめきを感じた。


 帰ろう。ここにいても、本当に会いたい人が駆けつけてくれる訳ではないのだから。


 外へ向かおうとすると、こちらへ近付いてくる人がいた。スーツからラフな服装に着替えた指導教官だ。


 チューター、ゼミ、大学院。六年間ずっと指導を受けていた。

 私がもう一度戻ってきたことに対し、訝しむ様子はなかった。


「この講義室はオリエンテーションでよく使ったよね。みんな、学生便覧を持ってきたかなって」


 式が終わっても、名残惜しい気持ちは湧かなかった。なのに、視界がにじんでいく。先生が在りし日を運んで来てくれたからだろうか。


 ご専門は横光利一と川端康成です。そんな紹介とともに、壇上に上がっていた。先生との出会いによって、卒業論文と修士論文で扱う作家が固まった。もともと日本文学全般が好きだったけれど、大正から昭和初期の作家に多く触れたのは先生の影響が大きい。


 この大学を選んだ一番の理由は、創作論のカリキュラムがあるから。少なくとも入学したてのときは、文学研究にのめり込むとは思ってもみなかった。チューターの面子にも恵まれたけれど、恩師にも恵まれていたのかもしれない。


「また会いに来て」


 先生の言葉を噛み締めながら頷いた。社交辞令にはしたくなった。


「最初のころは、国語を教えようとしたら駄目だよ。雑談をしてもいいから、高校生と信頼を築いていってね」


 かつて高校の教師をしていた先輩から、最後にエールをかけてもらった。


 六年間お世話になりました。四月から頑張ります。


 慣れ親しんだキャンパスを去った。傘を差していても、雨は激しく降りかかる。振袖の赤い亀甲文は、ひときわ華やかに映った。


 濡れた袖を抱きしめて、ゆっくりと坂を降りていった。

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