あむ・らび 番外編

井守ひろみ

あむ・らび 番外編 First Contact(加筆修正済み)

 僕は明先みょうせん隆紫りゅうじ

 この日本を代表する大企業『明先』の嫡子だ。

 跡取りとして相応しい器にならなければならない。

 その一環として、あるところへお邪魔している。

 明先の取引先である儀同ぎどうグループの嫡子にして副社長が住むタワーマンションの一室で経営のノウハウを教えてもらっていた。

 タワーマンションの最上階にその部屋はある。

「今日もよろしくお願いします」

「ようこそ、隆紫くん」

 副社長の儀同氏はお互いの親父同士で交流があり、手広く事業を手掛ける明先と微妙に事業的な面でぶつかるところがある。

 しかし対立こそすれど、敵対するような幼稚さはない。

 あくまでもビジネスの成果として競う立場を一度たりとも崩したことはない。

 それゆえに、こうして仕事の外においてはノウハウを教えてくれる器の大きさがあった。それだけに将来、明先を上回って今の立場が逆転する可能性すらある。

 すっきりした部屋に置かれているソファに腰をかける。

「すまない、コーヒーを出そうと思ったんだが、豆を切らしてしまったようだ。5分ほどで戻るから待っててくれるかな」

「わかりました」

 儀同さんは外に出ていく。

 このマンション向かいには人気の珈琲豆店があって、僕はこのコーヒーが気に入っている。

 だが目的はあくまでも勉強だ。


 儀同はマンションの一階へ降りていき、向かいの珈琲店に姿を消す。

 同じ頃…。


「それじゃあかね、そっちはお願いね」

「うん。最上階だね。さくらお姉ちゃん」

 くぬぎ託送便と書かれたトラックの荷台から配達物を降ろして、トラックに書かれた文字と同じ字がプリントされたジャンパーを着た一人の女の子がタワーマンションに駆け込む。

 偶然にも自動ドアの奥から出てくる人がいて、その開いた自動ドアをそのまま通り過ぎた。それが配達先の儀同副社長であることを知るのはしばらく先のこと。


 ピンポーン

「誰だ?儀同さんじゃないな」

 僕はコーヒー豆を買いに行ってる彼の帰りじゃないことは分かっていた。

 オートロックの扉をすり抜けて来た人がいることは明白。

 用心しながら、ドア向こうの人をモニターで確認する。

「なんだ。配送屋か」

 一人の女の子が最近よく見かける運送業のジャンパーを着てダンボール箱を持っている姿を見て、判断した。

「儀同さん宛の配達物です。こちらにハンコをお願いします」

 配達しに来た女の子は少し違和感を覚えた。以前にどこかで見たような顔だったから。けど、誰だったかはよく思い出せず、それ以上考えるのをやめた。

「はいよ」

 僕は何度かこういう代理対応をしていた。故にハンコのある場所も把握している。

「ありがとうございました」

 満面の笑みを向けられて、ドキッとする。

 お辞儀して立ち去る彼女の背には「櫟託送便」という文字が刻まれていた。

 頬を染めて、ポーッとその後姿を見送る。

「櫟…託送便…櫟…?まさかな」


「茜、今日はありがとう。後はお留守番しててね」

「うん、行ってらっしゃい。桜お姉ちゃん」

 茜と呼ばれた女の子は自宅の前でトラックから降ろされ、家に入った。

 トラックのハンドルを握る凛とした女性は次の配達場所へ向かう。

 トラックは大きなお屋敷の前で止まり、配達物を抱えて呼び鈴を押す。

 白を貴重にしたドレスに身を包んだ女性が出てきて、何事もなく配達物は荷受人が受け取る。

「配達中恐れ入ります。少々、よろしいでしょうか?」

 ドレスを着た女性が配達人に声をかける。

「はい?」

「わたくし、明先みょうせん麗白ましろと申します」

「それは存じております。伝票に書かれていますので」

「あ、そうでしたね」

 ふふふ、と笑って続ける。

「ご存じないと思いますので自己紹介しますと、わたくしは明先みょうせん物流ロジスティクスの責任者を拝命しております。ビジネスの話として、櫟託送便の責任者とお話したいと思っておりますが、この問い合わせ先に電話すれば取り次いでいただけるものでしょうか?」

 驚いた顔をした桜は、同社の代表取締役という位置にいた。

 他にも両親二人が代表取締役を務めている。便宜上、社長の位置にいるのは父だけ。ただ、社長という役職は法的に存在しない。社の実権を握る最高責任者が誰であるかを外部へ明示するために存在する架空の肩書に過ぎない。

「偶然でしょうか。わたしは櫟社に三名いる代表取締役の一人です。一時的に人手が足りないため、自らこうして配達に出ています」

「まあ、それは本当ですか!?」

 ぱあっと顔を綻ばせる麗白。

「はい。本当です。名刺をお渡しします。それでビジネスの話というのはどういうことでしょうか?」

「実は…」

 明先みょうせん物流ロジスティクスでは、グループ会社間での物流網はあるものの、こうした宅配便事業が存在しない。そこで新規に宅配事業へ手を広げようとしたが、役員の同意が得られず頓挫していること。全国展開済みか全国展開間近の物流会社を買い上げてサービスを開始しようと計画していることを話した。

「それは素晴らしい話です!実は今、国内の拠点拡充にあたって資金繰りが難航していまして、どうしようかと頭を抱えていたところなんです!国内の一部地域は遠くの拠点から配達しているので、時間がかかる課題を抱えています。正式に全国展開と発表するのは、拠点の拡充を終えてからというのが社内での共通見解としています」

「そうでしたか。その点についてはお互いに補いあえると思います。詳しい話は日を改めましょう。お仕事の邪魔をしてはいけませんので」

「はい。こちらこそどうぞよろしくお願いします」

 お互いに深々と頭を下げて、それぞれの場所へ戻っていった。

 去り際に名刺を交換する。


 後日…。

「ようこそいらっしゃいました。狭いところですがどうぞ」

「ありがとうございます。お邪魔致します」

 麗白本人の意向により、櫟家の自宅に麗白が訪問してきた。

「お姉ちゃん、お客さん?」

 一人の女の子が奥からとたとたと駆けてくる。

「茜、お姉ちゃんは大事なお話があるから、リビングに入ってこないでね」

「うん。わかったわ」

 白が貴重のドレスに身を包んだその女性は、さながらお嬢様のそれだった。

 茜がその目を奪われるほど美しい佇まいのお客さんは、茜に目線を送る。

「茜様とおっしゃるのですね。ご両親から素敵なお名前を授かったのですね。長いお付き合いになると思いますが、今後ともどうぞよろしくお願い致します。茜様」

「は…はい…」

 柔らかながらも芯を感じさせるその佇まいに、茜は圧倒される。

「なんて…素敵な人なんだろう…」

 リビングに入っていったその姿を見送り、しばし呆然となりながらその場に立ち尽くしていた。


「やはり…あの櫟だったか…」

 儀同のお宅で配達物を代理受理した数日後、麗白が櫟家にお邪魔して帰ってきた日。

 屋敷に帰ってから、書庫でクラス名簿を開いてみたらその名前があった。

 確かに見覚えがある。

 あまり気にかけていなかったが、あの眩しいほどの笑顔にやられた。

「隆紫、前から話をしていた物流部門の事業拡大が具体的に進むかもしれません」

 ふとかかった声は麗白姉だった。

「財閥を継ぐ者として今後の参考になるでしょう。学校が終わってからで構いません。先方との打ち合わせに参加してもらいます。いいですね?」

「わかった。それで、どこと協業するんだ?」

「櫟託送便です」

「なっ!?」

「まずいことでもありますか?」

「いや、儀同のところで代わりに荷物を受け取ったばかりだったから驚いただけだ」

「そう。仮にも肩書は取締役なんだから、学生でもしっかりやってもらうわよ」

「分かってるよ、麗白姉。仕事なら一切妥協しない」


 それから何度も学校帰りに本社ビルへ足を運び、麗白姉と桜さんの三人で打ち合わせをしていた。

「桜さん、その素敵なイヤリングが似合いますね」

「ふふ、ありがとう。これはお気に入りなの」

 それは三日月のような形をした曲線が美しいチャームの小さなイヤリングだった。

「隆紫はそっち方面も上達したみたいね」

 麗白姉はからかうような口調で冷やかしてくる。

 打ち合わせが終わると、桜さんとは学校での出来事の話もした。

 茜のことも話題にしたけど、一目惚れしたことは隠したつもりだった。

 しかし隠し通せた、と思っていたのは僕だけで、麗白と桜は茜に気があることを的確に見抜いていたが、それは胸の奥にしまった。


「麗白姉、本気かよ?急すぎるぞ」

 ある日、僕は麗白姉からの連絡をうけて、桜さんの発表会議プレゼンテーションへ参加するように連絡があった。

 参加した経営セミナーが終わって、参加者同士で名刺交換をしている最中に麗白姉からかかってきた電話。

「スケジュールが厳しいことはわかっています。ですが実際の仕事ではこういうケースも出てくるでしょう。財閥を継ぐものとして、最初からできないと決めつけずにできることを見つけてみなさい」

 厳しい物言いをされて、僕は言葉を失った。

 仕事に妥協しないと心に決めているから、麗白姉の言うことを否定するのは僕自身の仕事に対する姿勢の否定になると思い、それ以上言い返さなかった。

「わかった。僕なりにできることをやる。何が何でも間に合わせて吠え面かかせてやるよ」

 時間を見ると、その会議開始まで20分を切っていた。

 電車は論外。徒歩は問題外。

 猿楽さるがくが来ていれば車を使って間に合わせることもできるだろう。

 しかし今日は親父に付き添っている彼を呼び寄せても時間がかかって無理。

 ならば…。

 会場を出てすぐの大通りに出て、見つけたタクシーに向かって手を挙げる。

「明先本社ビルだ!急げ!」

 タクシーに乗り込み、苛立ちながら行き先を告げる。

「はい。明先本社ビルですね。発進します。シートベルトをお着けください」

 タクシーは走り出すものの、法定速度を守ったペースだった。

「遅い!これじゃ間に合わない!もっと急げ!」

 さっきよりも声を荒げて叱咤する。

「そう申されましても…」

 運転手は困った声で返す。

「遅刻するわけにはいかない!あと10分で着け!」

「ここからだとおよそ20分はかかります。速度超過すると会社から…」

 困った声で返す運転手を黙らせようと、あまりやりたくない方法が閃いた。

「よく聞け。僕は明先代表の子だ。大事な会議が14分後に始まる。遅刻は許されない。もし遅刻するようなら、僕は可能なすべての手を使ってあなたの人生を陥れてやる!ありとあらゆる手段を使ってだ!あなたの名前はダッシュボードに書いてあるものを覚えた!逃げられると思うな!家庭があるなら、崩壊は免れないと断言する!!代わりに遅刻なく到着すれば、僕はあなたがどんな責任を問われようとも決して見捨てない!決してだ!!」

 強い口調で脅迫して、鋭い視線をバックミラー越しに送る。

 ハンドルを握る手が震える運転手は黙り込み、それでもペースを変えない。

「いいんだな?なら覚悟しておけよ。ここで判断ミスしたことを後悔しても遅い。あなたにはどん底のさらに奥まで見せてやる。一生後悔するがいい」

 苛立ちを隠さず、しかし静かな口調にすることで、大声よりも強い重圧をかける。

「…わ…わかりました…!」

 アクセルを踏み込む運転手に、僕はホッと胸を撫で下ろす。

 幸いというか、道路はかなり空いていて、出したら出しただけの速度を阻むものはない。

「それでいい。これならなんとか間に合いそうだ」

 急ぐ気になったことで、運転は少々粗さが出ている。しかし間に合わせるという意思が伝わってきた。


「いけない…資料の見直しをしてたら遅くなっちゃった。急がないと」

 電車を降りた桜は、バッグを抱えながら駆け足で道を急ぐ。

 幸い道路が空いてるから、赤信号でも左右を確認して渡ってしまう。

「ギリギリ間に合いそうね」

 カツカツと小走りで進む彼女は、レディースビジネスの服に身を包んでいる。

 仕事のシーンでも邪魔になりにくいお気に入りのイヤリングが耳で揺れていた。

 腕時計を見ながら、送った視線の先にある明先本社ビルが大きく見えてくる。

「ああもう!横断歩道すらないの!?」

 見上げると首が痛くなるほど大きく見えている本社ビル手前で、桜は声を上げた。

 向こうにあるビルへの行く手を阻むのは、左右のどちらも見える範囲に横断歩道がない道路だった。

 向かって左手側は大きく曲がっていて、道路は奥へ消えている。

 いつもは大通り沿いに歩いているから交差点を通っている。しかし遅刻しそうにな時間という焦りから、細い道で最短ルートを選んだ。

 左右を確認すると、見える範囲に車は通っていない。

「仕方ないわね。社運を左右する会議で遅刻するわけにはいかないわ」

 桜はガードレールの切れ目からすり抜けて道路に飛び出す。

「あと少し!まだ2分ある!」

 10分前行動を心がけている桜にとって、これはもう遅刻と同じ。

 中央の線を超えた瞬間…。

「っ!!?」

 桜は息を呑んだ。

 左から、この道じゃありえない速度で迫ってきているタクシーの存在に気づいた。


「あと2分!これなら間に合う!よくやった!」

 隆紫はタクシー会社からの処分覚悟でスピードを出して急いだ運転手に労いの言葉をかける。

「間に合えば、本当に見捨てず救ってくれるんでしょうね!?」

「当たり前だ!僕の都合で不都合が発生したなら、司法以外の処分はいくらでもひっくり返せる!仮にあなたが会社から解雇されても、僕の権限を使って明先のどこかにあなたの席を用意する!!」

 横の窓ガラス越しに前から後ろへ、目まぐるしく景色が流れている。

 ここを大きく左へ曲がった先の途中に明先本社ビルがある。

 見通しが悪く、ここは制限速度が他より低く設定されていた。

 しかし間に合わせようと、制限速度を倍以上超過したまま左へハンドルを切る。

 左に曲がることで、ぐいっと右へ体が引っ張られる。


「なっ…!!」

 隆紫が道路を横断している人の存在に気づき

「うわっ!!!」

 運転手が声をあげた瞬間…


 ドガッ!!!!


 鈍い音を立てて、タクシーの車体を揺らす。

 とっさにブレーキを踏んでいたが、大きく速度超過していたから、減速が間に合わない。

 隆紫が声を上げてからこの瞬間まで、約0.5秒。

 しかし、やけにこの0.5秒が長く感じた。

 ここだけ時の流れが狂ってしまったかのような錯覚に陥る。


 キキッ!!


 やっと止まったが、状況が飲み込めずワナワナと震える二人。

「…やってしまった…なんてことを…」

 運転手の声が震えている。

「もうここまででいい!ビルはすぐそこだから後は走る!よく間に合わせてくれた!名刺とお金を置いていく!責任を追求されたら漏らさずその内容を教えてくれ!僕は決してあなたを見捨てない!!明先においてできるすべての権限を使ってあなたを救うと約束する!!」

 僕は万札と名刺を助手席に放り、タクシーを降りる。

 走ろうと足に力を入れたが、足元を見て足を止めた。

 一瞬、目の前が真っ白になる。

 三日月の形をした小さいイヤリングチャームがそこに落ちていた。

 全身の毛穴がドッと開く。

 考えたくない可能性を目の当たりにして、恐る恐る倒れた人の方へ目線を移す。

「これは…まさか…」

 無意識の内に後ろで倒れている人の元へ駆け寄る。

「…………………っ!!?」

「お客様!ビルはすぐそこです!急がなくていいんですか!?」

 救護を行うべく、車から降りてきた運転手が走ってきた。

「…僕は…この後、重要な会議に出るべく…急いでいた…」

「はい?」

「…社外の人が…社内の人を説得するための…発表会議プレゼンテーションが予定されていた…その発表者…主役が…この人なんだ…」

「………え………?」

「櫟…桜さん…」

 悲しさ、辛さ、喪失感、自己嫌悪。

 受け止めきれる許容量を遥かに超える事態を見て、何の感情も湧いてこない。

 ただ、目の前にある存在へ目線を送る。


 事故現場からすぐのビル上層階にある会議室。

「麗白さん、櫟の責任者はまだ来ないのかね?」

「連絡しているのですが、電話に出ないようです」

 麗白は携帯電話を片手に返事する。

 ふと、呼び出し音が消えて通話状態になった。

「もしもし、桜様でしょうか?麗白でございます。明先麗白でございます」

「………」

 通話先から返事がない。

「もしもし!もしもし!?」

「…麗白姉ましろねえ…」

「隆紫!?どうしてあなたが桜様の電話に出ているの?今どこにいるの?」

「………桜さんを…いてしまった…」

「…え?どういうこと?」

「………今日の会議は…中止だ…ビルの外に出てすぐのところにいる…」

 麗白はわけがわからないながらも、尋常でない隆紫の様子を察した。

「役員の皆様、本日の会議は急遽中止とさせていただきます。参加者に不慮の事故が発生したようです」

 凛とした口調で中止を宣言され、10人の役員は無言で席を立った。


「隆紫!一体何があったのですか!?」

 慌てた様子で麗白はビルの一階に降りて、隆紫の姿を見つけて駆け寄った。

 僕の足元でぐったりと倒れている桜さんの姿を見て、麗白姉は両手で顔を覆いながら一気に青ざめる。

「…嘘…でしょう…?そんなことって…」


 数時間後、二人は病院へ移動していた。

「…僕のせいだ…遅刻してはならないと自分を追い込んで…タクシーを急がせなければ、こんなことにはならなかったんだ…」

「元はといえば、わたくしのせいです。隆紫を今日の会議に招かなければ、こんなことにはならずに済んだはず…」

 緊急搬送された桜は応急の緊急手術が行われたものの、危篤状態が続いていた。

 手術は一旦終わったものの、今日は休暇をとっている名医の手術が必要ということで、これ以上の治療は保留されている。

 無理を言って二人は桜のいる病室で面会を許された。

 喋ることもままならない桜の姿に、僕の心はひどく締め付けられるような苦しさを覚える。

 聞いているかもわからないながら、二人でただただ謝罪の意思を伝えた。

 時々うめき声を上げるものの、喋ることもままならない様子であることは一目瞭然だった。


 二人が病室を後にしてから、桜は気力を振り絞ってバッグから今日使うはずの紙資料を取り出して、裏に遺書をしたためる。

 それは隆紫に対するもの。

 意識が朦朧もうろうとしながらも、状況は全部聞いて整理がついた。


 事故の一報を受けて櫟一家が到着するより早く、桜は帰らぬ人となった。


 心を痛めながら登校したある日の朝。先生の口から決定的な一言が発せられた。

「本日、櫟さんはご家族の都合でお休みです」


 ダンッ!!


 くそっ!ダメだったのか!!

 机を思いっきり叩いた僕は注目を集めたものの、いちいち反応していられるだけの余裕はなかった。

 僕が…殺してしまったんだ…。

 櫟家を、不幸に陥れてしまった。

 よりにもよって一目惚れした女の家族を…。

 決めた。

 姉が進めていた案件は、僕が引き継ぐ!

 ここまで関わってしまった以上、責任をとってやり遂げる!

 麗白姉は譲らないだろうけど、何が何でも僕が引き取る!


 それからの日々は、まさに血反吐を吐きそうになるほど忙しい毎日だった。

 麗白姉は予想どおり一歩も引かなかったが、親父に直談判してやっと僕にお鉢が回ってきた。

 その直後に麗白姉は再建が必要なアメリカ支社へ転勤が決まり、姉が使っていた離れに僕が住み始める。


「それじゃ、元気でね。隆紫」

 麗白姉はアメリカ支社の代表が病気で急逝したことにより、代わりに代表就任のうえで再建すべく、空港で見送りする。

「それで、本当に黙っているつもりなの?隆紫が急がせたタクシーのせいで桜さんが逝ってしまったことを」

「ああ。これも黙っていたけど、僕は茜が好きだ」

「知ってたわよ。桜さんも」

「ええっ!?」

「あんな嬉しそうに話すんですもの。分かるわよ」

 あんぐりと口開けていた僕だけど、気を取り直す。

「僕は茜と両親を不幸にした。だから僕は茜に嫌われて、その上で茜が彼氏を紹介してきた時にそれを話す。徹底的に嫌われて、二度と僕に関わろうと思わなくさせる。今度は僕が不幸になる番だ。そう決めた」

『日本都市航空341便ロサンゼルス行きは搭乗受付を開始しました』

「麗白姉、それじゃ」

 僕は手をひらひらと振る。


 タクシーの運転手は、やはり重い処分を受けた。

 会社を辞めることになり、僕に連絡が来た。

 運転手が負った罰金は全額補償して、運転手の住んでいる家へ訪問する。

「僕の都合に巻き込んでしまい、大変申し訳ございません」

「それで、どうしてくれるんだ?私には妻と子供がいる。これからの生活をどうしていくか、頭を悩ませている」

 あの日とは立場が逆転していた。

 僕は予め用意していた救済策を紙にまとめていたから、それを元運転手に見せる。

「これが僕にできる精一杯の救済策です。これらはすでに確約の取れているものです。後はあなたに選んでいただきたい」

 僕はそう伝えて口を閉ざす。

 口を閉ざした僕はうつむき気味に、苦虫を噛み潰しながらも平静を装っているような顔をしている。

「…もともと私はある会社で事務の仕事をしていました。しかしその会社が解散してしまい、生活のためタクシードライバーの道を選びました」

「………」

 返す言葉が見つからない。

「ご利用いただくお客様のおかげで営業成績は上位をキープしていました。ただ、休みのサイクルが合わなくて家族サービスは減りました」

「心中…お察しします」

「それで、この待遇は事実ですか?」

 静かな口調で問いかけてくる。

「はい。先程申し上げたとおり、この条件は確約を取り付けてあります。席の用意は明先みょうせん物流ロジスティクスに限りますが、この3つのどれかを選んでいただければ、確実にお迎えする用意があります」

 用意した席は物流部門の運転手、倉庫の事務、そして明先本社ビル内にある明先みょうせん物流ロジスティクス所属の清掃員。

「まさか高校生が二足のわらじを履いていて、それが会社の経営層だなんて信じられないな」

「お疑いなら本社に電話していただいて結構です。そして弊社ホームページにも僕の名前は記載があります。経営層の名はすべて公開情報です。示した条件が、今の僕にできる精一杯です。これ以外を要求された場合は確約しかねます」

 後ろめたさはあるものの、疑いの目については毅然とした態度で否定した。

「いや、十分だ。これにしよう」

「承知しました。それでは手続きをしますので、本社にお越しください。今から来られますか?」

「問題ない」

 立ち上がった二人は、明先本社ビルへ足を向けた。

「一つ、注意点があります」

 僕は思い出した一つの懸念を伝えなければならない。

「何かな?」

「新しい勤務先は明先直営と、グループ配下になる予定の櫟託送部門があります」

「櫟って…まさか」

「はい。グループになった場合は事故死した桜さんの両親がいます。基本的にグループ配下との連絡や調整はない席を用意していますが、出会ってしまった場合にどう接するかは考えておいてください」

「そのグループは解消できないのか?」

「それは無理です。僕がこうしてここにいるのは、櫟を配下にすることを条件にしていますので、グループの話を白紙にした場合、僕は現職を追われて降りることになります。そうすると僕の権限が及ばなくなるため、あなたに用意した席も同時に白紙となります」

「そうか。それくらいは私自身の咎として受け止めるとするか。今後はタクシーを転がしてた頃と違って家族サービスも十分にできそうだしな」

「恐縮です」

 こうして元タクシー運転手を救うことはできた。

 しかし僕にはまだ大きな仕事が残っている。


 学校が終わってから本社に出勤して、役員を捕まえては説得に奔走する。

 何度断られようとも、粘り強く説得し続けた結果、櫟託送便をグループ会社として招き入れることに成功した。

 だがそれで終わりではない。

 この事業を軌道に乗せて発展させることが重要だ。

 拠点拡充に必要な資金融資の条件は決めていた。

 櫟茜を僕の離れ、つまり僕の使用人とすること。

 櫟家の両親には許可を取ってある。

 後は今日、僕の前に茜がやってくるのを待つだけ。惚れた女がやってくるのを。

 だが、決して好かれてはならない。でも彼女の幸せを邪魔してはならない。

 仮に茜が彼氏を作って紹介された場合、この離れを出ていってもらう。

 一家を不幸にしてしまった手前、僕が幸せになってはならない。

 だから嫌がることをして嫌ってもらう。嫌ってもらうことで今度は僕を不幸に陥れてもらう。当然の報いだ。

 そのための手段も考えてある。


「坊っちゃん、茜様をお連れしました」

「ご苦労。そのまま通してくれ」

 執事の猿楽は通信で連絡してきた。ソファでお気に入りのコーヒーを嗜みながら答えた。

 惚れた女に嫌われるよう、決して妥協はしない。これは仕事と捉えて取り組む覚悟でいる。

 一緒に住むことで、僕は彼女をもっと好きになるだろう。

 彼女と一生を共にしたいと思えるところで、彼氏を作って紹介してほしい。

 今度は僕を不幸のどん底へ突き落としてくれることを願うばかりだ。

「うわー、天井たかーい。部屋ひろーい…」

 黒のふわっとしたワンピースに、白いエプロンドレスを身に纏ったメイドが部屋に入ってきて呑気な声を上げている。

「よっ、似合ってんぜ。その服」

 ここから始まる。

 僕の罪を償う、好きな女に嫌われるための嫌がらせが。

 しかしこの判断こそ、彼女と生涯を共にする未来が待っていることなど、知る由もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あむ・らび 番外編 井守ひろみ @imorihiromi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る