第一章 5
「アルジャナン……!」
懸命な彼女の叫びが通じたのか、ようやくアルジャナンは上半身を起き上がらせた。床に座り込んだままではあるが、額に手を当て、顔を顰めて長いため息を吐く。軽く頭を振ると、栗色の髪から窓ガラスの破片がばらばらと音を立てて床に落ちた。
「アルジャナン、ねぇ早くきて」
父親とアルジャナンを交互に見ながら、メルローズは一生懸命手招きをした。
「お父様の魂を呼び戻さないと、このままでは死んでしまうわ」
「――魂を、呼び戻す?」
腹の底から吐き出したような低い
「アルジャナン?」
彼はこんな声で喋る人だっただろうか、という疑問が一瞬脳裏をかすめた。
「魂が抜けてしまっても、すぐに蘇生術を施せば呼び戻せるって、前にお父様が言っていたじゃないの。あれはどんな魔術だったかしら? なにで魔法陣を描けば良かったのかしら?」
混乱していたメルローズは、普段ならすぐに頭に浮かぶ陣を描くための材料が咄嗟に思い浮かばなかった。
「
思い出そうにも、父親の死で錯乱しているメルローズは、それ以上なにも浮かんでこなかった。気持ちばかりが
「もう! この肝心なときに思い出せないなんて……。わたし、お父様の書斎に行って調べてくるわ。薬剤の材料なら、全部揃っているはずだし」
どんな魔法陣でもすぐに描けるよう、クラレンスは常にあらゆる魔術の材料を集めていた。一度も使ったこともない物もたくさんあったし、草花や鉱物、怪しげな動物の骨だの死骸だのもある。材料室と呼ぶ部屋にはメルローズも掃除に入ることがないため、どこになにがあるのかはいまとなってはアルジャナンしかわからないが、書斎の中なら彼女でもわかる。書棚の整理は彼女の仕事なのだ。
「――無理だ」
ぼそり、と低い声が囁くように告げた。
「どのような術を使おうとも、その男の魂を取り戻すことはできない」
「え?」
立ち上がりかけていたメルローズは、アルジャナンの発言に驚き、中腰のまま動きを止めた。
「そこの男の魂であれば、俺が喰らった」
「――アルジャナン? なにを言っているの!?」
思わず素っ頓狂な声を上げ、メルローズは訊ねた。
ゆっくりとした動作で顔を上げたアルジャナンは、いつになく鉛色の瞳が陰鬱に輝いている。
メルローズがランプをかざすと、彼の影が壁に映し出され、ゆらゆらと揺れた。
乱れた髪を片手で掻き上げ、床に腰を落としたままのアルジャナンが緩慢な動作で振り向く。室内で沸き起こった暴風のせいか、頬に擦り傷ができていた。服装も乱れており、シャツのあちらこちらが破れている。タイは結び目がほどけており、襟首から垂れている。眉間に皺を寄せ、切れ長の目は焦点が合っていないのか、虚ろに周囲を見渡していた。
腕まくりをした袖口からは、ほどよく鍛えられた二の腕が出ている。その両方の肌に、見慣れぬ白い紋様が描かれていた。
その図案には見覚えがあり、メルローズは我が目を疑った。
「アルジャナン! それ、どうしたの!?」
この辺境の地へ移って以来、アルジャナンは魔術師の弟子としてだけではなく、家事の多くも手伝っていた。薪割りや泥炭運び、畑仕事や屋敷の修繕。研究に没頭しているクラメンスに代わって、力仕事はすべてアルジャナンが担っていた。屋外での雑役も多いため、一年の半分以上は雨雲に覆われているこの土地で暮らしていても、ほどほどに日焼けしていた。
そのアルジャナンの腕に、さきほどまではなかった
おもわず父親から手を離したメルローズは、アルジャナンに駆け寄った。
「なに、これ? まるで魔法陣の一部のような柄じゃないの」
アルジャナンの腕を掴むと、手首から肘まで描かれている紋様をランプで照らした。
白い線は魔法陣を描いた塗料と同じような色だが、あの独特な異臭はしない。指で擦ってみても、肌に染みついているのか、まったく消える気配がなかった。
意匠は魔神カイロスを召喚する魔法陣とよく似ていた。
「離せ」
強い口調で告げると、アルジャナンはメルローズの手を乱暴に振り払う。
「アルジャナン?」
目を大きく見開き、メルローズは父親の弟子である青年を凝視した。
普段の彼であればどんなことがあってもメルローズに対して乱暴な言葉を吐いたりしないのに、まるで別人のようだ。
「――お父様の魂を食べたって……どういうこと?」
声を震わせ、メルローズはおそるおそる訊ねた。できれば自分の思い過ごしであって欲しい、と一縷の望みをかける。
彼だって、機嫌が悪いことはあるのだ。どうしても我慢ならないこともあるはずだ。なにしろこの惨状だ。これまでずっと優しかった彼が豹変したからといって裏切られたと考えるのは間違っている、と自分に言い聞かせた。
「言葉どおりだ。俺が、そこの魔術師の魂を喰らった。契約の代償だ」
「……契約?」
首を傾げたメルローズは、すがるようにアルジャナンのシャツを掴んだ。
痛々しいくらいに腕に浮かび上がる模様が、目に焼き付いて離れない。厭な予感に、激しい耳鳴りがして胸が苦しくなる。
「俺を召喚しておきながら、まさか無償で契約を結べると考えていたのか?」
冗談だろう、とアルジャナンが吐き捨てた。
その瞬間、メルローズは自分の全身の血が凍り付くのを感じた。
「――あなた……誰?」
にわかには自分の推測が到底信じられず、メルローズはこわごわと問い質した。
「わからないのか? 自分たちが呼び寄せておきながら」
冷ややかな眼差しをメルローズに向け、アルジャナンは酷薄な口振りで告げた。
「俺の名はカイロス。おまえたちが召喚した神だ」
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