眠りにつく前に

@rabbit090

第1話

 ふっと瞼を閉じた。

 この瞬間がきっとおしまいの合図なのだ。

 「さようなら、また明日ね。」

 「先生、さようなら。」

 子供たちが口々にするのは学童保育所で習わしとなっている挨拶だ。

 小学生の私はいつも出遅れていた。

 「さよう…ら。」

 かすれた声で囁いているようだった。だから大人から聞くともどかしくて仕方ないらしい。

 「ちょっと声小さいわよ。蚊が鳴いているの?」

 愕然とした。ひどい絶望の底に突き落とされた。そんなような出来事だったと思う。幼い私の心では、理解が追い付かなかった。

 でも。

 「気にするな。あのババアはいつもイラついててちょっとおかしいやつだからな。」

 「そうだよ。気にしないで。」

 里穂ちゃんとげん君が言う。

 ほかの子も私のことを慰めてくれた。だから私は学童保育所のことは嫌いだったけれど、仲間は好きだった。居心地が良くて、温かい。人生の中で、最も。

 家に帰ると夜勤へ向かう母がいた。

 「ただいま。」

 私は慎重に一言を発する。様子を窺いながらこのタイミングだと決めて母に抱きついた。

 母は機嫌のいい時は喜んでくれる。だけどそうじゃない時は、無視をするのだ。この世の中で一番辛いことは、もしかしたら無視のような存在を軽視するような行動なのかもしれない、と毎回その度に思っている。

 今日は、

 「はは。甘えん坊ね。お母さんお仕事行くから、お留守番しててね。ごめんね。」

 良かった、機嫌のいい日だった。

 私はでも思っていた。ほかの子の家に遊びに行くと平気で私の見ている目の前でだっこだのおんぶだのと口にする姿を知っていた。だからそれが普通なのだということも知っている。

 そして大人になった彼らはきっと忘れてしまうのだろう。

 無意識が許された、無意識で無邪気であることが許容された、自分たちの過去を。

 だけど私は覚えている、はっきりと。

 あの子達と、私は違うのだということを。


 「食っていいよ。お前、好きだもんな。」

 「別に。要らない。」

 すねた口調で甘える。

 隣のカップルの会話だった。私はそれを冷めた気持ちで盗み聞く。

 「……。何でこの前私のこと放っておいたの?教えてよ。」

 「悪い悪い。」

 「ちょっと、逃げないでよ。」

 男の方が立ち上がり、会計を済ませた。女は必至で追いかけている。顔は非常に不安そうで、眉間にしわが寄っていた。

 それを聞いて思う。

 何で放っておいただのなんだだの、ドラマの中のセリフを口にするのか、分からない。現実の世界でドラマのような真理の追及は公然と行われてはいないはずで、それを許すような環境は全くないように感じる。

 だって人はきっとそうやって本音をむき出しにしないことでバランスをとっているのだと思うから。

 私は、相変わらず一人になっていた。

 だけど一人で部屋に閉じこもっていると頭がおかしくなりそうだから、いや一度おかしくなってしまったのだから、意識的に外へと赴く。

 母は、ずっと家にこもっている。

 29歳になった私は今とても不安定だった。周りを見渡すとなぜだか皆私より幸せなのだろうと錯覚する。本当は辛い事情を抱えている人などたくさんいるはずなのに、やっぱり私はおかしいのだと決めつける。決めつけて、逃げるのだ。

 「久しぶり。」

 あ、彼は。

 「玄君。久しぶり。どうしたの?何か地方へ行ったって聞いたけど、ここに戻って来たの?」

 「まあ、そうだね。」

 玄君は少し言葉を濁しながらうなずいた。

 私たちが幼いころから住んでいた町は東京の郊外だ。買い物、趣味、その他全てがこの町で事足りる。わざわざ都会まで出向いて何かをする、そんなことが不必要な程便利な町だった。

 だから、この町の便利さと質素な様子に反発心を持った人間は大人になるとこの町から立ち去る。玄君もその一人だったのだ。

 「駅で会うなんて偶然だね。最近知り合いに会ってないからさ。すごく懐かしいって思った。」

 そうなのだ。私は29歳を迎え新しい人間関係を築くこともできず、地元の店で働いている。周りは主婦ばかりで、同じ年ごろの女の子ももう主婦になっていた。

 結婚すれば?

 この問いを投げかけられて最近の私はうずくまっている。

 だって、私に結婚などという行いをする資格はないと思っているのだから、仕方ない。なのに、

 「あれ、そういえば羽田はたって結婚してないの?」

 玄君は無邪気な笑顔を浮かべて尋ねてきた。

 だけど私の表情は委縮している。こわばって、手の付けようがなかったのだ。そうしたら、

 「ごめん。俺無神経なんだ。いつも口だけがベラベラと動いてお前失礼な奴だなって怒られる。」

 「いや、いいよ。全然平気だから…。」

 「良かった。ごめんな。」

 分かっていた。玄君は昔から失礼な奴だった。

 小さい頃はまだ無邪気で許されていたのだけれども、だんだんと成長していく内にその様子が目に付くようになっていた。

 私にとってはもう無邪気じゃなくて、迷惑にすり替わっていたのだ。

 だが幼いころから見知っていて仲の良い玄君に対してこのような悪意を抱くことをひどく羞恥していた。恥ずかしい、恥ずかしくて仕方ない。

 だから何も感じないようにすればいいのだと思い次第に彼とは距離を置くようになった。

 「……。」

 玄君はもじもじとして何か言いたそうだった。だから、

 「どうしたの?何かあったの?」と質問をした。

 玄君はハンサムで人から好かれる男の子だった。でも私は、正直に言ってしまったらもう嫌いに近い存在だった。

 嫌いだった…。

 「なあ、お前…。」何をもったいぶっているんだ、そう叫びたいような気持になっていたが、こらえていた。

 なぜこうも間を置くのだろう、何か言いにくいことでもあるのだろうか。

 「里穂のこと覚えてるよな?」

 「…え?」

 「覚えているよ。」

 「まあ、そりゃそうだよな。俺たちずっと仲が良かったもんな。」 

 里穂は、弱い子だった。いつも大人でも先輩でも同級生でもはたまた下級生でさえ彼女を見下していた。

 「…ね、ねえ。今日、遊ばない?」

 いつもおどおどと私に付きまとっては遊びの誘いを吹っ掛けてきていた。自称だが、私は他人に対して嫌悪感を態度で表すということをしたくないと思っていたので、しょうがなく里穂とは仲良くしていたのだった。

 だが、ある日。中学校を卒業するころだっただろうか、里穂は彼氏ができたらしく、私にまとわりつくことは無くなっていた。

 ありがたいとも思ったけれども、里穂以外の人間と関係を築くことをしていなかったのでしばらくは孤立してしまい、大変だった。その位里穂は私を独占して、離すまいと心に決めてしまったような、そんな態度をしていたのだった。

 そんなあの子のこと、一体何だっていうのだろう。そう思いながら玄君の顔を見るとそこには表情のない目と引き結ばれた口元と私を見下す雰囲気が全身からあふれていた。

 そこで気づく。

 ああ、この人は偶然街中で合ったなんてことではなく、計画的に、意図的に私に接近してきていたのだ。

 不遜な私はだから思いっきり不服そうな顔で聞き返す。

 「つまり、里穂に何かあったってこと?」

 あまりにも玄君が私を軽蔑する目で見ているのでより一層不機嫌な声が出てしまった。玄君はでもひるまないといった様子でまだ私のことを強く見下してくる。それはもう、意識的に物理的に、上から見るということに執着しているのでは?と感じる程冷たい視線だった。私は正直、恐ろしくなっていた。だから震えまいと体を強張らせて玄君を睨む。

 「ああ、そうだよ。お前ら、仲が良かったはずなのに、何でそんなことも知らないんだよ。お前、里穂に対してちょっとひどかったよな?」

 「…は?」

 素っ頓狂な問いに私が返せる言葉はそれだけだった。何だっていうんだよ、私があの子に苦しめられたこと以外に、何があるっていうんだよ。それが体から湧き出てくる正直な本音だった。

 ふう、と息を吐きながら玄君は続ける。

 「お前、里穂に冷たかっただろ?あいつが話しかけても適当にいなしたり、結構傷ついてたんだぞ?俺は中学は違うクラスだったから分からなかったけど、お前にくっつくお邪魔ムシ、なんていうあだ名をクラスの奴らにつけられてたんだってな、あいつ。俺ら昔から仲が良かったはずなのに、やっぱりおかしいだろ?」

 そう言われても、実際に里穂はしがみつくように私の元を離れなかったのだし、私はそんな里穂をぞんざいに扱うことはできなかったのだし、それだけだったのだし、クラスの人が話していることなんて、私が考えたことではないのだから関係ないのでは?とも思うし、ああ、頭の中がグズグズする。

 「だから、何?そんなの中学の頃だったらみんなよくあることだよね?私別に里穂に冷たく突き放したりなんかしてないし、ずっと一緒にいたもの。それに玄君だってあの子のこと別に気にかけてなかったんじゃないの?」

 つい追い込まれたような状況だったものだから、打開したくて口が荒くなってしまった。でも言いたいことの全てはこういうことなのかもしれない、と思いながらぼんやりと立ちすくんでいた。

 玄君は私の目の前でなぜだか強くこぶしを握る。私はこんな態度をされる程、玄君に恨まれていたのだっけ?そんなことを思いながら、無表情で玄君の全体を捉える。

 そうしたら気づいてしまった。玄君は昔は何とも思っていなかったけれど、今見てみると身長も高くかなり整った顔をしている。いわゆる、イケメンに分類されるのだろう。中学生の頃もあの狭い世界ではハンサムで通用していたが、やっぱりどう考えてもそれ以上だ。はっきりとした際立つイケメンに成長していた。

 その彼が口にした、私に。

 しかめていた顔の筋肉がふっと緩んだような気がしたら玄君は言い放った。

 「だから、お前知らないんだろ?何も聞かされていないんだよな、分かってるよ。」

 そんなにもったいぶって一体私が何を知らないというのだろうか、もう早く教えてほしい。

 「里穂は、いなくなった。」

 え?

 「え?」

 心の中で思ったセリフが口をついて出ていた。里穂がいなくなったって、どういうことだ?

 「里穂は、中学を卒業した日に失踪した。あいつは身寄りがなかったから世間にも知らされることは無かった。だからお前みたいな他人が知らなくても当然なんだ。」

 歯がゆいといったように口を歪ませそのまま私を睨みつける玄君がそこにはいて、でも私は本当にそこまでの感情をぶつけられる程の何かをした覚えがないのでただうろたえるしかなかった。

 でも、「そんなの、知らないよ。第一玄君はなんでそんなに里穂のことにこだわっているの?訳わかんないよ。教えてよ。」

 ハッと鼻で笑った様に見えたが、彼は私と目を合わせ何も言わなかった。

 「何で黙ってるの?おかしいじゃん、里穂どこへ行っちゃたの?」一番聞きたいことはこれだ、すべての元凶じゃないか、なぜ里穂はいなくなったというのだろうか。それに里穂が身寄りがないって?そんな馬鹿な、あの子は裕福な両親に愛情を受けて育ったはずだ。私は知っている。知っているはずなんだ。

 「お前、何も知らないんだな。里穂がお前のこと心底信用していなかったって分かったよ。何も話していない、大事なことは、隠していた。」

 ドキッとする。

 胸がざわつく、何か良くないものに巻き込まれた、そのような感覚だった。

 「じゃあ、全部教えてよ。私の知らないこと、全部、教えればいいじゃない。」つい強気な言葉が口を出る。

 「……。」黙ったまま私を見据えた玄君は、言う。

 「嫌だ、お前みたいなやつに教えることは無い。だが一つだけ、言っておいてやるよ。里穂はお前のせいで失踪した、それは間違いないんだ。」

 愕然とした。反応もうまくできなかった。圧倒的な私への悪意と敵意に為す術などなかった。

 そしてそのまま玄君は去っていった。人ごみに紛れて、見えなくなっていった。

 私は、少し目の前がくらくらして、でも今起こったことは全て幻だったのではないか、と思い始めていた。

 そうだ、幻だったのだから、見なかったことにしてまた日常に戻ろう。そうやって考えていると私の目の前は明るくなっているような気がした。

 そのまま家へ向かって私はまた現実へ引き戻される。

 いたのは、玄君だった。

 「何でいるの?もう勝手に帰っていったんだから、来ないでよ。」

 私は焦った。無かったことにしたはずの現実がひゅっと日常に入り込んできてふっと寒気を催す。

 止めてよ、何なのよ。私が一体何か知ったていうの?

 「おかえり。」

 「母さん。立って平気なの?」

 ずっと体調が悪かった母が久しぶりに起き上がっていた。目には笑顔が浮かんでいて、玄君を見つめながらお茶を出している。

 何でよ母さん。その人にお茶なんか何で出してるのよ。

 混乱した頭が浮かばせるのは私をまっすぐにするための言い訳だったのだ。

 だから、「え…?うん。」昔に戻ったようだった。どもっていて声がうまく出せなくなる瞬間があって、弱かった頃の私に、立ち返っていた。

 「おい…。」

 戻りたくない過去に引き戻された私を玄君が見下ろす。

 ヒューヒューと呼吸が荒くなっていく様を私は感じている。

 ああ、早く終わらないかな。何で今日はこんなに長いのだろう。

 見せたくないから涙だけはこらえようと思ったけれど、それも持たなくなってきていた。

 ヤバい、泣く。

 そう思っていたら、彼が私の手を掴んでいた。

 「平気か?」

 ぶっきら棒に言葉を吐いて目を見ない。でも確かに幼い頃私を心配してかばってくれた玄君がそのままそこにいるようだった。

 「今日はもういいよ。里穂のこと聞きたかっただけだから。俺が知っていることと、お前が知っていること、ちゃんとお互いの話を聞いてないもんな。だからさっきは勝手に帰ったけど悪いと思っている。気が急いていたんだ、ごめん。でも今度話をさせてくれ。頼む。」

 そう言って玄君は連絡先を私に渡し、帰っていった。

 「あの子、昔お前とよく遊んでたよね。すごく格好よくなっているじゃん。最近も会ってるの?」

 母は新しい刺激が心地よいのかいつもよりはつらつとしていた。

 そうだ、お母さんがこうやってしっかりしてくれていれば、きっと私はこんなに苦しまなくていい。そんなことを思いながら、出来事の多かった一日と、まだ収まらない呼吸の荒さ、この息苦しさを飲み込みながら私は床へとついた。


 平日のファミレスはひどく混雑していた。

 お昼時で主婦層が多いのもそうだが、最近はテレワークとやらで会社員風の男性の姿も目に付く。

 以前この時間帯に来ていた時はひどく空いていたので対照的だ。間違ってしまったと少し思ったが、でももうその店には彼の姿があった。

 神地玄かみじげん

 私の幼馴染だ。

 「こんにちは。」

 「ああ、今日は…。」

 先日の痛々しい一件があったのだから、私は神地玄とは距離を置いて関わるようにしていた。だって、そうじゃないか。あれだけ人のことを一方的にののしっておいて、そんな都合よく悪かっただのと一言言い放っただけで元に戻る物は何もないはずだ。

 よそよそしい姿を取り繕って私は席へと座る。

 玄君はそんな私を少しおどおどした様子で窺っている。

 「…なあ、この前は悪かった。俺が勝手に早とちりしていた部分があったことは謝るから、だから…。」

 玄君はおろおろとうろたえていて、昔の少しなよなよとした彼を思い出させた。

 だけど私の心はすでにもう、激しく傷つけられて立ち直りはしない。この人に昔の態度のまま向き合おうなどという意欲は湧かないのだ。

 「いいよ。何か理由があるんでしょ?今日は私、それを聞きに来たの。それだけだから。」

 突き放すように言葉を出す。彼は、

 「ああ、分かった。」少し気を取り直したのかまっすぐとこの前の威圧的な空気をまとい始めていた。

 何が彼にここまでのことをさせるのだろう、私はただそれが気になって仕方なかったのだし、その矛先が私に向いているということがとても怖かったのだ。

 「里穂のこと、お前は全然知らないだろ?でもそれはおかしいんだ。だってあいつの身に起こったのはただの失踪じゃない、何か事件に巻き込まれたようなんだ。」

 は…?私は何も知らない。里穂がいなくなったことも、玄君が言うように事件に巻き込まれたらしいなんて言うことも、全部。

 「中学を卒業する頃にお前らは疎遠になっていたってことだよな。そうじゃなかったらあいつが失踪したこと、お前は知ってるはずだろ?」

 すがるような目と噛みしめる様な口元が歪で、不気味で対照的で、怖いのだ。玄君からあふれる憎しみのようなものが、痛む。

 「待って。確かに私たちは疎遠だった。でもそれは里穂が彼氏ができてそれでそうなったんだよ?だからその後のことは正直分からない。私は知らない。」

 本音をぶつけるしかなかった。それしか私にはできない。

 「知ってる。お前が里穂とは疎遠で何も知らないってこと。でもあいつは悩んでいたんだ。残していたんだ。失踪する前に、俺に話してくれたんだ…。」

 その玄君のセリフは何かこの今を闇の中へ引きずり込むような錯覚を抱かせた。

 どうか、これ以上足元に広がるつたない足場を、崩さないで欲しいと祈りながら、私は玄君から目をそらす。

 そんな私の様子を見ていたのか、圧迫を強めたような顔をして彼はさらに言い続ける。

 「里穂。俺は正直に言うよ。あいつに好意を持っていた。」

 「え…?」何の話だ、そんなことは知らない。

 「俺、ずっと里穂のことが好きだったけど、あいつ可愛いだろ?だから昔みたいに気兼ねなく話しかけることができなかったんだ。なんか緊張しちゃって、攻撃的な態度をとってしまうんだ。だから避けてた。」

 全く知らなかった事実を、目の前の彼は言い募る。

 「だけどある時、卒業式だった。中学校の卒業式、俺は里穂に会いに行った。そしたらあいつは一人ぽつんと椅子に座っていた。その時羽田、お前は別の奴と楽しそうに笑っていたよ。」

 「だから…何?そんな一場面だけを切り取って、私があの子をいじめでもしていた様に思っているの?」

 きっときつい眼差しが私に注がれた。玄君は、どうやら怒っている。

 「そうなのか?俺はただ漫然と見ただけでもクラスの中で、しかも卒業式のざわめきの中で、あいつは一人異様だった。周りから疎外されているようにはっきりと見えていた。」

 「……そうよ。」

 そうなんだ。

 「あの子は確かにクラスで浮いてた。可愛いから憎んでいた子もいるし、とろいから嫌煙している子も、からかっている子もいた。でも私は別に、あの子をいじめてなんかない。」

 「だから、そういうことじゃないんだよ。話には続きがあって、聞いてくれ。」

 静かに玄君は顔を歪める。何だかドラマの中に入り込んだような気持になっていた。彼は何をそんなに酔っているのか、私には分からなかった。

 「あの日、教室から出たいって里穂が言うから、俺あいつを外に連れてったんだ。そこで堰を切ったように話してくれた。色々なことを。」

 「それって、どんなこと?」

 そうだ、私はそれが知りたいのだ。

 「そもそもな…あいつに彼氏はいない。お前が里穂のこと鬱陶しいって思ってるってクラスの奴から聞かされて、あいつわざと自分から嘘ついてお前を遠ざけたんだ。」

 「は…?何のこと?」

 里穂の言うことは、本当なのだろうか。でもよく考えてみれば、私は里穂の彼氏に会ったことも見たこともないのだった。

 「それに、あいつは俺らの知らない間に親を二人とも失っていて、でも施設には入らず親戚にペットでも飼うように接せられていたらしい。食事も家政婦が、身の回りのことも全部、だから一人ぼっちで毎日一日を過ごすしか無かったって、言ってた。」

 「………。」

 私も玄君もしばらく思考が鈍っていた。

 お互いが沈黙を享受していた。

 私たちの幼馴染は、私たちの知らないところで想像を絶する苦しみを感じていたらしい。

 そんなこと、知らなかったじゃ、済まない。

 ごめん、里穂。

 何も知らなくて、いや、あなたが様子がおかしいってことは知っていたのに、見ないふりをして本当にごめん。

 心の中で謝って、私は玄君と目を合わせた。

 「じゃあ、その後里穂は失踪したってこと?」

 「そう。そしてその事実はスッと溶けるように誰にも知られることは無かった。そんなこと、やっぱりおかしいと思うんだ。」

 「里穂は俺と話した後、泣いてた。泣いて、家に帰りたくないって、言ってた。」

 そう言って玄君は苦しそうな顔をして見せた。

 「だから俺、でもどうしようもできなくてそのまま別れて、それっきりなんだ。」

 また沈黙が広がっていく。

 現実の中に存在する、確かに存在している、でも見えていない側面。いや、裏側なのかもしれない。

 里穂は、私たちの知らない所で、苦しんでいた。

 そんなあの子を私は、無遠慮に遠ざけてしまった。ただ、謝るしかないと思っていた。

 どんよりとした日になってしまった。

 私は、後悔している。


 今日は蒸し暑い日だ。

 こんな気候、どう考えたって人間が生息するには適していないと思う。

 だって、呼吸が苦しくて、息ができないのだから。

 「助けて…。」

 帰りの道をグダグダと坂を上がりながら私は呟く。もう、誰かに聞かれても良かった。そのくらい私は今疲弊しているのだ。

 頭の中にもやがあって、晴らそうとしても晴れない、晴れ切らない。それがこの蒸し暑い感覚と連動して、ひどく嫌な不快感を覚えさせる。

 「おかえり。」

 母さんがぼんやりと台所に立ち尽くしている。

 久しぶりに立ち上がった母の姿を見た。それは嬉しくもあるけれど、やっぱりこの状態の母を見ると私はなぜかいら立ちを拭い去れない。それがなぜなのかは、だけど分からない。

 二年前、母が言った。

 「ゆう。お母さん、仕事辞める。」

 突然の一言だった。私にとってはだから、人生の中で初めて青天の霹靂というものを味わったのだと思う。

 辞めないで、そう思った。

 お母さんが仕事を辞めたらどうするの?私が一人で支えるの?どうして?ねえ、何で?

 そんなことを口にしていたと思う、だがその時の母の顔は青ざめていて、生気を失っているようだった。

 「…ごめん。でもお母さん、仕事続けるの、辛いの。ごめんね。」

 そう言って私の方は向かず母は下を向いていた。

 そう言えば、そうだ。母は最近、何も口にしていなかった。

 仕事から帰ってきたら、食べないの?と聞いても要らない、その一言が返ってくるだけだったのだ。

 ずっと仕事人間で、子供より仕事を大事にしていて、でもそれも本当は私を育てるためで、でも、でも私はずっと母にかまって欲しくて、やっぱりもどかしいのだ。

 そんな母がもう仕事を辞めるという、だからそれは、私には理解が難しかったのだ。

 「ねえ、母さん。」

 そうだ、だって二年前からずっと、私の母は何もしていない。

 あなたがしっかりしてくれれば、私は自由になれるのに。そんなことを心の中で呟いて、繰り返して、ただ泣いているような心地になっていた。

 「母さん。母さん。」

 少しづつ鼓動が早くなってしまう。私は何かをしでかしたいのかもしれない。でも、一体何を?

 「母さん!」

 気付いたら、叫んでいた。

 普段からぼんやりとしている母は、いつもよりぼんやりとしたような目で、なぜだか自分が名前を呼ばれているということも全く分からないという様な顔で、私を見た。

 だからつい、私は言ってしまった。

 母を傷つけないように、飲み込んでいたセリフを、だから一気に吐き出してしまったみたいだ。

 「何で、何もしないの?具合なんて本当は悪くないじゃない。ただ外に出たくないからって、外が怖いからって、居心地のいい場所にこもっているだけなんでしょ?私…もう限界だよ。」

 母は黙っていた。

 他人事のような顔をしてまた自分の部屋へと帰って行った。

 やってしまったのかもしれない、取り返しのつかないことを、しでかしてしまったのかもしれない。でもそう思っても私は、ずっとため込んでいた吐き出せない思いをその対象にぶつけたのだから、何だか少し心が晴れ晴れとしてしまっていた。

 母を傷つけて心が明るくなるなんて、私はきっと悪い人間なのだろう。

 悪い人間だから、もう何も良い出来事なんて起こらないのだと決めつけていた。

 一日の中で起こった事なんて、すっからかんにして私は布団の中へと向かい夢の中へと落ちて行った。

………

 「夕。どうしたんだ?」

 男の人の声だ。妙に声が高くて変な奴だと私は思っていた。だけどその人は、私の実の父親だった。

 「ごめん、俺が変なこと言ったからだよな。母さんにまた悪いことしちまった。夕にもだよな。」

 母は父が好きだった。でも父は母のことを利用していたのだと思う。あの人は本当に生きる力というものを自分では持っていなくて、誰かに頼っていくしかなかったのだ。

 だから寂しかった母は父にすがっていた。どうか、行かないで。私を捨てないで、なんて女の元へ遊びに行く父に酔ったような顔をしながら言っていた。

 繊細な母はやっぱりひどくあの最低な男に傷つけられていたのだと思う。そう思うと私は自分を育ててくれた母を傷つけたというあの男を憎むべきなのかもしれないが、憎めない。

 憎もうと思っても、やっぱり私には優しくてただ頼りのないどうしようもない人でしかなかったのだから。

 そして、父と出会えるのは夢の中だけなのだ。

 あの独特な人を引き付ける声で私の名前を呼んでくれるのは、たった短いこの幻の時間だけだった。

 朝、目覚めた私はいつもその懐かしい感覚に浸り、こんなことをぼんやりと考えて、ただ現実から逃げ出したいのだと思う。


 はあ、真夏のこの暑さはいつ収まるというのだろう。

 耐え難い湿度に私はまた呼吸が少し苦しい。

 でも、

 「久しぶり、夕さん。」

 「ああ、うん。久しぶり。菜種なたね。」

 中学時代の後輩だ。前から会う約束をしていた。別にこれといって仲が良かったわけではないのだけど、たまたま大人になってから街で会って、それ以来地味な交流を続けている。

 多分、この子とは気が合うのだ。

 「いや…なんか夕さん疲れてるなって思ってたんですよ。でも最近大変だって聞いたから…納得しました。」

 「うん。」

 菜種には私は自分のことをよく語る。

 大変だったことも、何か楽しくて伝えたいことも、いっぱい。菜種も私には遠慮をしないで何でも語ってくれているみたいだから、私はとても気が楽だった。

 正直、人生で初めて女友達がいて良かったなあ、と思っていた。

 ここしばらく玄君に合ったり母と揉めていたり何かと疲れていたから菜種と会うこの日を私は楽しみにしていた。

 「ねえ、このお店良いね。すごく。」

 菜種が笑顔で私に言う。菜種が行きたいと言っていた定食屋だ。一人で行くのは嫌だけどどうしても行ってみたいというから私もいっしょに行くことにした。

 「最近仕事忙しいの?また海外に行くの?」

 「いや、もう全然。ずーっと会社に籠ってデスクワークばかり、しょうに合わないのよね。体中が凍ったようにカチコチしてる!」

 「そうね、菜種には多分そう言うの向いてないのかも。」

 菜種は大企業に勤めるキャリアウーマンだ。本当に本当のキャリアを積む女性なのだし、男性が多い建設会社の中で彼女はひときわ目立っていた。

 美しい容姿はもちろんのことで、とにかく頭の回転が速いのだ。

 おっとりとした口調と話すペースからはあまり想像ができない程、的確に行動ができる。そんな女性なのだった。

 だから今日は、ただの何もない日を菜種と過ごすつもりで来ていたのに、彼女は言い放った。

 「私、もう会社辞めようと思うの。それでね、だから私…」

 いつもはおっとりとしながらもずっしりと言葉を放つことのできる菜種が言い淀んだ。一体、何だろう。

 「先輩の所で雇ってもらえない?」

 「え…?」

 どうしたというのだ、私は店を開いているわけでもない、ただ雇われ店長として半ばブラック労働をさせられている小さいパスタ屋の店長というだけだ。

 それに人手がそんなに足りていないということは無いし、そのことを菜種も分かっているはずだ。だから、

 「どうしたの?菜種、何か会社で辛いことでもあったの?」

 率直な疑問だった。菜種、どうしたの?

 そうしたら、菜種は、あの強い菜種が大粒の涙を流していた。

 理由を聞くと、会社の上司と不倫していて、バレて居心地がもう最悪になり、いじめのようなことが連日起こっているということだった。

 私は、友達の少ない私は、身近に不倫などという経験をした人物を知らなかったし、ましてやあの菜種がそんなことに巻き込まれているなんて、驚きが隠せず私はただしかめた顔をすることしかできなかった。

 菜種はその後少し落ち着いてから家に帰ったけど、結局何も解決はしていなくて、また私は頭を悩ませなくてはいけないのかとぼんやりと体が、体から感覚が薄くなっていくことを感じてしまっていた。

 また、今日も疲れてしまっていた。いつまで続くのだろう、何がいつまでか、ぼんやりとまとまらない思考を繰り返しながら私は帰路を歩んでいた。


 「菜種さん。」

 子気味のいいテンポで私に語りかけてくるのは、不倫相手のそうだった。総は先輩で、上司に当たる。男社会の中でぐったりと毎日重荷を背負い続けていた私に、安らぎをくれたのだから、もう恋に落ちるしかなかったのだと思う。

 「総。」

 「今日、疲れてるみたいだね。一杯やっていこうか。」

 お前には妻がいるだろう、と心の中で毒づきながらも私は目の前にぶら下がるただの甘いだけのえさに食いついていた。

 「分かった。」

 「よし、行こう。」

 総は、柏総かしわそうという変な名前を持っている奇妙な男だった。この名前を付けた親の考えも分からないが、だから一度顔を見てみたいなんて思ったりもするのだが、何にしても私は全てが面倒クサくてしょうがなかった。

 そうやって頭の中で総のことを考えるのは嫌だった。

 だって彼は多分私のことなど愛していないのだから。

 総と呼んでいいと彼が言うから、じゃあそうすると言って私はただ返事をしていた。

 中学生の頃だった。

 私はいつも一人ぼっちで、でもどうしようもできなくて、ただ仕方なく現実をやり過ごしていたのだけれど、そういう時にこそ救いはやってくるのかなあ、と今は思っている。

 彼も一人ぼっち…ではなくて割と友人の多いタイプでモテていた。

 影で彼のことが好きかもしれないとこそこそと話をしている女子を見かけた。

 だが彼は私のことが好きだったのだ。

 突然だった。

 たまたま同じ委員会で隣の席に座っていた。でかい男だなと思っていたら目が合ってしまった。そうしたら何だかお互いがお互いのことを意識し始めたのか、知らない内に惹かれあっていった。

 私たちの間には甘い言葉など一切なく、ただ照れて何も喋らない中学生同士のような朴訥ぼくとつな関係を築いていた。

 ただはっきりとした自覚があるのは、これはまがい物ではない恋だということだ。

 だからきっとこれは愛なのかもしれないと思っていた。

 確信はないけれど、そのような手触りを感じていたのだと思う。

 しかしやっぱりはっきりと付き合っているわけじゃないから、自然と高校が違い疎遠になっていった。

 だから、私は断言できるのだ。

 私は総を愛してなどいないってこと、はっきりと分かっているから。

 でも私はいつも空っぽで、むなしくてひどく苦しいから手近な癒しだと認識して掴んでいるのだと思っている。

 多分、彼もそうなのだろう。

 私は彼から本物の愛情をもらったことなどないように感じる。それが真実なのだと思う。

 「菜種。」

 ハッとする。夕さんは私の唯一の友人だ。それは誰にも言っていないことだし、もちろん夕さんも知らないが、私には友達と呼べる人間が彼女しかいない。

 「夕さん、だ!」

 だからいつも夕さんと一緒にいると心地が良くてしょうがない。夕さん、夕さん。

 あのね、私ね。

 言いたいことがいっぱいあって、全く時間が足りていなかった。

 夕さんは何でもないような顔をしているけれど、家族のことやお店のこと、頭を占領していることが多くあるという人なのだった。

 多分もっと裕福な家庭で大事に育てられていたら、彼女は自然とキャリアウーマンになっていたのだろうと思う。

 私は、家が恵まれていただけの偽物のキャリアウーマンなのだから、これも私だけが知っている事実だ。

 会社の中では一応昇進はしているが、そもそも女性の少ない会社なので男女平等、女性の社会進出促進などという名目でコネ入社のお嬢様である私がそこに引っかかり今に至っただけなのだ。

 能力のない、もろい、私。

 「菜種、また会社で昇進したんだってね。すごいね。やっぱり菜種はデキル子だから、正当に評価されてるんだね。」

 そう言われても、困る。だが私の大事な夕さんの前でそんな顔をするわけにはいかない。

 だって、勘違いしているんだもの。夕さんは私がどんどん昇進しているっていう話を鵜吞みにして、菜種は優秀だからとか、何だとか、勝手に理由をつけているみたいだった。

 でもそれが仕方のないことだって分かってる。夕さんは私とは違う社会で生きているのだし、分かりようがない。

 唯一の友人にそのような誤解をされたままでやっぱりひどく苦しいのだった。

 「夕さん…。」

 そう思っていたらつい口に出てしまっていた。

 いけない、どうしよう。強い私のままでいなくちゃ、私は夕さんの中でそう認識されているのだから、夕さんに嫌われたくない。

 「ちょっと、菜種どうしたの?顔色悪いよ。うち来る?母さん居るけど、多分女の子だと気にしないから。」

 はあ、本当に優しい人だ。

 みんな、会社の人も学生時代の友人も、私を変な人間だと決めつけて離れていくのに、どうしてこの人は私を構ってくれるのだろう。

 そこがどうしても、私の頭では理解できないことなのだった。


 菜種が仕事を辞めたいと言っていた。

 だが、今日はそんなことを意識しないようにして、玄君と一緒に食事に行くことになっていた。

 この前はやっぱり悪かったから、おごらせてくれ、ということだ。

 私は正直もう玄君には会いたくなどあまり無かったのだが、昔なじみの男がわざわざ足を運んでそう伝えに来たのだから、しょうがない、一度だけは付き合ってやろうか、という気持ちになっていたのだった。

 「ああ。」

 何だか力の腑抜けた声を出して私を出迎えた玄君は、昔のように頼りなさげな雰囲気を出していて、私は懐かしいと思ったし瞬間親しみを感じ始めた。

 「玄君、今日は何も考えずに食事だけしようって言ってたよね。私もそれには同意するよ。だって考えたって仕方ないことばかりじゃない、世の中。私はそう思うから。」

 励ますつもりだった。この人は里穂を助けてあげられなかったという事実をずっと抱えてきたのだし、どうしようもないことをもどかしく抱き続けてきたのだから、私はただ優しくしてあげなくては、という気持ちになっていた。

 「私もね、最近色々あって、でもどれも解決のしようがないんだ。こんなことばっかり、大人になって大変なことばっかり、でも私には楽しいことなんかなくて、それが一番つらいのかもしれない。」

 懐かしさと親しみを感じた過去の友人に私は漏らすように愚痴をこぼしていた。

 私は多分、こうやって人との関係を築く人間なのだと思う。

 「羽田さ、今日は俺がおごるから、お前の話ちゃんと聞くよ。昔からそうだっただろ?お前、いつも何かを抱えて苦しそうな顔をしてたじゃないか。」

 ただでさえ元気のない玄君が私を気遣って言葉を掛けてくれた。この前の罵倒の嵐とじりじりと迫る嫌味の恐怖を思い浮かべると少し嫌な心地もしたが、その感じはただありがたかった。

 「まあ、どうしようもないことばかりだから、俺が聞いたって何の解決になるとも限らないけどさ。俺、でも実はさ。里穂の失踪があって同級生の他の奴らとつるむこと、あんまりないんだ。だからお前の近況とか、悪いけどあんまり知らない。ただ店やっててずっと地元に残っているってことだけ、噂で聞いた。」

 「まあそうだよ。おおむねその通り。やっぱりずっと地元に残ってるし店なんかやってると自然と噂が立つんだよね。」

 私は玄君にそう言った。

 そしたら玄君は笑い始めた。

 「はは、やっぱりこの前は悪かった。俺、ずっと里穂のこと頭から離れなくて、お前のこと逆恨みしてたみたいだ。だって里穂の失踪にはお前関係ないのにさ。」

 そうだ。その通りだ。私ははっきりとそう口にしてやりたかった。

 「探しても見つからないんでしょ?里穂。」

 私は少しだけあの後、図書館へ行って地元の新聞を読み漁った。

 確かに里穂のことは小さな記事になっていて、でもすぐにその事件は何事もなかったかのように消えて行っていた。

 「ああ。俺はずっと引っかかっていたから時間があるときにあいつのこと調べたりしてたんだ。でも全く、あいつの両親はもういないし、親戚とやらもロクな奴じゃないからな。だから里穂のこと、本気で心配してくれる奴がこの世にいないっていう嫌な事実だけを叩きつけられた。最悪だろ?」

 この人の言っていることはもっともだ。

 客観的に考えても、里穂は不当な程虐げられている。それは誰からか、世間からか、人間からか、多分すべてなのだと思う。彼女の周りには優しさという防御が一つもなく、それは私が彼女にしてしまったことなのだとも思う。

 少しでも手を差し伸べられていたら、いやそんなおこがましい言い方じゃなく、少しでも私が人を見下すようなダメな奴じゃなかったら、思考はまた自分を責める方向へと向かっていた。

 一度うつ病を経験した私はそれがいけないのだということを分かっているのに。

 「おい、大丈夫か?」

 「あ、うん。私考え込む癖があって、ちょっと周りが見えなくなる時があるんだって。だからお店のバイトの子にそうなったら教えてねって言ってるんだ。」

 「そうなのか、知らなかった。じゃあ俺もそういう時は声をかけた方がいいのか?」

 「うん、まあ話しかけたい時とかだけでいいけど…気づいたらそうしてよ。」

 「分かった。」

 もう玄君とは打ち解けてきているようだった。

 玄君も初対面で再開したあの日より幾分か表情が柔らかいような気もする。

 「じゃあ、これからもまた誘うよ。いいよな?」

 ちょっと困った表情でおどけているから私は少し意地悪がしたくなってそっぽを向きかけたけれど、そのあとちゃんとまっすぐ前を向いていいよといった。

 久しぶりに心地の良い後味があって、私は結構満足していた。

 

 「はあ…。」

 体がだるい。

 ああ、大学に行かなくてはいけないのに、手がうまく動かない。

 どうしよう。どうすればいいのだろう。

 顔がどんどん引きつっていくような感覚を覚えて、私はただ恐くなっていた。

 投げやりな人生を生きていることは分かっていた。人生が短いということも分かっている。だってもう大学生になっているのに、私は何もできなくて、もどかしくてどうにかなってしまいそうだった。

 勉強はやればいいだけだし、でも私はやっぱり何もできなくて、何ができないのかもわからなくて、苦しいからフッと顔をそむけたくなっていた。

 うつ病になったのはいつだったのだろう。

 でも医師によると精神病というものは、診断があいまいだと言う。

 だから私の症状は本当にうつ病なのかどうかも定かではなくて、処方された薬を飲むとどんどん自分がすり減らされて行っているような心地になっている。

 多分、一度この沼に陥ると、もう抜け出すことはできないような気がしていた。

 「羽田さん。」

 あ、ゼミの先生だ。丸いショートボブが似合う綺麗なミセスだった。

 「どう、最近は調子大丈夫?今日は学校にこれたみたいだけど、無理しないでね。私もきちんと卒業できるように配慮するから。ね。」

 「はい、ありがとうございます。」

 「じゃあね。」

 すごくいい人なのだ。だから私は彼女をゼミの先生として選んだ、というか彼女が担当するゼミを志望した。

 他の教授たちは偏屈で、とてもじゃないけど私は続けられそうになかった。現役でぎりぎり滑り込んだ公立大学。学費が安く私でもなんとかやっていけている。

 でも本当は早く卒業して社会に出たかったのだから、ゼミとか研究とか、私にはどうでもいいことだったのだ。

 そんな私を一々気にかけてくれるこの先生は、本当に幸せになってほしいなどと上から目線なことを動かない体を机に張り付けながら私は思っていた。

 「きっかけは無かったんです。うつ病になったのは突然で、気づいた時にはもう重傷で、手のつけようがないというか、もう家でぐったりするしかなかった。」

 ぼんやりと手のひらを見つめながら私は進路を担当するという職員に呼び出されていた。呼び出されたのだから行かないわけにはいかず、大学で友人すらできなかった私は暇を持て余していたしただ直行した。

 「そう…。」

 深刻そうな表情で、何かを理解したといった顔で私から視線を逸らす。

 逸らすのなら、逸らすのなら…。

 もどかしいが言葉にしにくくて私は気持ちを飲み込んでいた。

 「まあ、就職がすべてじゃないからね。羽田さんが希望しないんだったらそれでもいいんだよ。」

 良くない。私は喉から手が出るほど就職したいのだ。

 普通になりたい。普通に生きていきたいのだから、お願い、見捨てないでください。

 「あ…。」

 うつ病になってから人との会話が取りづらくなった。相手の気持ちとかは分かるのに反応が取れないのだ。どう、私は仕草を返せばこの場を上手く収められるのか、そんな単純なことが複雑で、私には理解することができなくなっていた。

 だんだんと泣きそうになっていて、目の前でただ資料を覗き込んでいる大学の職員は私の様子に気付きオロオロと他の職員を探すために席を立った。

 私は何だかもうすべてが馬鹿らしくなって立ち上がって逃げ出したくなったけれど、これからの人生を思うと逃げ出すということは許されないような気がして、でも本当はこんな小さなことで許されないなんて言うことは無くて、そんなことを思いながらじっと椅子にへばりついていたと思う。

 それからしばらくして、見事に就職は出来ず、だがゼミの先生のおかげで卒業は出来たから本当に良かった。

 私は近くのパスタ屋でアルバイトを始め、公立大学を出ているということやまじめすぎる勤務態度が評価され私はしばらくして雇われ店長として身を置くことになっていた。

 やってみると案外私には店長と言う仕事が向いているようで、特に誰からも激しく嫌われることもなく、うまくやっていけていたのだと思う。多分この店のオーナーも私からそのような傾向を感じ取って店を任せてくれたのかもしれない。

 そして知らない間にうつ病は軽快していて、私にとっては有り余る時間を漫然と消費する大学生活より、少しの刺激が一日中続く勤務生活の方がどうやら性に合っているようだった。

 良かった、思い返してみるとやっぱり本当に良かったと感じている。

 ふと眠りにつく前にぼうっと、布団の中で思い描く。苦しかった過去の自分を、思い出す。そうすると、本当につらかったことばかりが思い起こされて、どうしてあの地獄からこのような安泰へと抜け出すことができたのか不思議でならない。

 うん、良かったのだ。

 

 玄君。

 玄君…。

 菜種さん?

 何だろう、薄暗いぼんやりとした闇が目前に広がっていて、私はでもなぜだか心地いいような不思議な感覚を抱いていた。

 私は、どうしたのだっけ。

 あれ、思い出そうとしても記憶が混乱していて、何だかどれもいまいち現実感がない。

 そうだ、私は確か卒業式に出席していて、でも卒業証書は受け取れなくて…。そんなことあるのだろうか、あれ?私…。

 「里穂。」

 あ、私の名前だ。

 誰?

 女性の声だろうか、少し高くてでもねっとりと籠った様な感じを出していた。

 「あなた、誰ですか?」

 なんだろう、おかしいな。何だか今まで経験したことのないような発声をしているような気がする。なんだかすごく重くて、はっきりとしていて、そう、年を取ってしまったかのような…。

 そこで、気づいた。

 気付いてしまった。

 目を開けると、目の前には鏡があり、私は見たこともない髪の長いお姉さんを目撃した。そして数秒後、理解する。

 その人は、私だ。

 私はもう中学生ではない、記憶がすっ飛んでしまったのだろうか、中学生までの自分しか思い起こすことができず、でも目の前にいるのははっきりと私だという感覚があり、そうだ、だから私は記憶がない状態で今大人になってしまった、ということなのだと思う。

 混乱は絶頂を極めていて、私は少し吐きそうになってしまった。

 吐くな。吐いてはいけない。

 私はひどく緊張していた。ひどく、ひどく。

 だって、だって。この人は、羽田の、夕の母親じゃないか。

 周りの保護者と違って、私はキャリアウーマンなのだと喧伝けんでんしているような雰囲気を彼女には昔から感じていた。

 夕は小さい頃は縮こまっていて、私はただ仲良くしたいと単純に考えていた。

 でもだんだん、夕に対する気持ちが依存心へ変化してしまったのか、距離を置かれるようになっていた。

 でも、それはそれ、そういうことは仕方ないと私は妙に納得していた。

 私は夕に守られているようだったが、本当に弱いのはあの子で、でもそれは確かなことなのだと思う。

 だって、やっぱり小さかった頃の夕は…。

 すると目の前の女が、夕の母がのっそりと近づいてくる。

 そう、この人のせいでいつも顔をしかめて、少し恥ずかしそうな顔をしていた。いつも抑圧されていて、だから普通の社会ではうまく溶け込めなくなっていて、そんなあの子を私は、なぜだか構ってあげたくなってしまったのだ。

 それは、なぜだかは分からないけれど、私を私の機嫌だけいいようにとっていて後は手を掛けないあの両親に育てられたからなのかもしれない。でもその両親ももう死んでしまって、私は一人ぼっちになって、まあ元から一人ぼっちだったけれど、それでどうしようもなくなって今に至るのだろうか。

 とにかくあの子を見て、私はハッと思い当たるような胸のざわつきを感じ声をかけた。整ったその顔をこちらに向けて、だがおでこにしわを寄せためらっていた。だからそのまま強気に声をかけていて、次第に夕は笑顔を見せるようになっていた。

 思えば私もどこかおかしかったのかも知れない、そしてそのような部分が反応してあの子を放っておけなかったのかもしれない。

 「ねえ、何考えてるの?里穂、分かってるわよね。私は夕の母親よ。」

 「もちろん知ってます。何度もお会いしています。」

 「………。」

 夕の母はしばらく黙ってしまった。

 私は非常に混乱していて、なぜ私は記憶がないまま大人になっているのか、それもそうだし、なぜ私はこの人に話しかけられていて、なぜ私の両手足は縛られているのか、とてつもなく緊張を要する場面であることには変わりがなかった。

 目だけ動かし黙りこくっている夕の母に気付かれないように部屋の様子を窺った。

 部屋は広く、賃貸であったなら相当な収入を得ていないと住めないような豪邸のようだった。でも、夕の母親はしっかりと働いている着実な人だが、こんなすっ飛んだような部屋に住めるような収入は得ていないと思う。

 あくまで、いち会社員という枠内に収まっているはずなのだから。

 すると、「あなた、動揺してるはず。だって状況が全く分かっていないでしょ?でもね、この状況にもしっかりとした理由があって、あなたもきっと、その内理解できるはずよ。」

 そう言っていた。

 「…私は監禁されているんですか?」

 疑問だった。一番疑問になっていて、どうしてもやっぱり知りたいことなのだった。私は自由を奪われて今ここに存在しているのか、ということだ。

 「そうねえ、でも思い返してみたらいいんじゃない?あなた、中学校の卒業式の後、何があったか覚えていないの?」

 私がまだ体の自由が利かないことを分かっているのか、ゆったりとした顔をしながらコーヒーのような飲み物をすすり彼女は冷徹な顔をして言い放った。

 そうだ。でも、そうだ。

 私は確か中学校の卒業式には出ていて、それでその後抜け出したのだ。卒業証書をまだもらっていないけど、どうしても行かなくてはいけないと思い走った様な気がする。

 何だったのだっけ?

 何だった…。

 目の前が次第に暗くなっていく。

 また、どこか知らない場所へ落ちていくような、嫌な不快感を覚えていた。

 ただ、怖かった。


 もう秋も近いというのにクソ暑いじゃないか、家族から執拗に使うなと言われていた汚い言葉を俺は彼女に吐きかける。

 「お前、何してんだよ。俺がお前のこと、ちゃんと考えてるって分かってるよな。ッチ。ふざけんな。」

 意味のない言葉だと思う、でも喋りだしたら止まらない。

 だけど目の前の女は体を丸めて俺をもう見ていない。ぶるぶると震えて黙ってしまっていた。俺はどうしようもない罪悪感を両手いっぱいに持て余しているような心地がしていて、ひどくもどかしかった。

 ことの発端は単純だ。

 彼女が、実子みこが他の男と付き合っているという事実が発覚したからだった。実子は地味な女で絶対に俺の元から離れないと思っていたし、しかも相手の男が割とハキハキとしたイケメンで俺はそいつに見たこともない様子で甘えている彼女を見てしまったのだった。

 だが、それは俺を傷つけた。深く、深く。

 だってあいつは、実子は本当に幸せそうだったから。俺は絶対にあいつにあんな幸福そうな顔をさせてやれないということを分かっていたから、ただ現実を、事実を突きつけられたような感覚を持っていたのだった。

 ふくれっ面をした実子が好きだった。

 まだ彼女と彼氏という関係になる前に見せてくれたそれは、ただ可愛いと純粋に思った。それまでの俺はひどく汚い生き物だったのだなあ、とひどく思わされた。

 それ程キレイで何だかと尊い気持ちを抱いていたのだなあ、と思っている。

 クソほどにどうでもいい人生を歩んできた自覚があった。

 心の中は荒んでいて、誰も彼もが俺にとっては敵のようで、世界の中で一人孤独を飲んでいるような心地だった。

 「ねえ、健斗君。健斗君はさ、そういう所がいいんだよ。真面目くさって一生懸命物事を考えてる。自分が傷ついてどうしようもない程頭を働かせてる。ね?」

 実子と知り合ってしばらくした頃だった。

 実子は高校の同級生で、たまたま席が近かったから話す機会があって、知らぬ間に仲良くなってしまっていた。

 正直俺は割と目立つタイプだったからあの地味な実子とこんなに仲良くなれるなんて思わなかった。思うはずも、理由もなかった。

 ただ何かが惹かれあうように同じ空間で息をするたびに俺はあいつを意識せずにはいられなかったのだ。

 実子も、そうなのだと思う。

 眼鏡をかけていつも困ったように笑う女。なぜ、そんな顔をするのか、これは俺があいつについてずっと抱いていて聞けなかった唯一の疑問だ。

 「真面目って何?俺別に目立つ方だけど真面目なんて言葉は似合わないと思う。だって目立ってるのは悪い方なんだから。」

 「はは。」

 実子は笑う。

 そうなのだ、俺はいわゆる不良で、いやそんなものになるつもりは毛頭なかったのだが、中学高校と進学していくたびにでかすぎる見た目から勝手に担任と周りの奴らに不良だ、と決めつけられ仕立て上げられたように思っている。

 本当に、そういうことはあるのだ。

 俺も思い返してみると理不尽なような気もする。

 「健斗君。そうだよね。健斗君は見た目で判断されてしまうんだよね。辛いね。」

 ちょっと口っ足らずででも素直な表現ができる実子は存在だけで俺の癒しになっていた。

 と、なんだよ。

 やっぱり思い返してみてもきれいな思い出ばかりじゃないか。何がいけなかったんだよ。

 何が、実子を失うに値することになったんだ。

 分からない。俺には分からない。

 世界が、歪んでいくようだった。

 

 「健斗君はね、すごく好き。」

 溌溂はつらつとした顔で彼に語りかける。

 彼は大学の同級生、草深大くさみひろという。

 「知ってる。ひがしはずっとその話ばかりしてるから。」

 「そうだね。ごめんね、いつも聞いてくれてありがとう。」

 「別にいいよ。僕は東に告白して振られたんだから。東実子の心を奪っている奴について知りたいんだ。」

 「何それ?はは。」

 草深君は優しかった。

 私が彼の告白を断っても関係を続けてくれた。正直私だったら気まずいし避けるだろうと思うのに、彼は違った。大学で一人ぼっちなことが多かったから、単純にありがたいと思ってしまった。

 ごめんなさい。たまに草深君と一緒にいるとそのような気持ちがこみあげてくる。

 だが、「あのさ、気にしないで。」草深君が言うから、「何で?」と聞くと、「いっつも申し訳なさそうな顔してるだろ?分かってるよ。お前、そういうやつだし。俺も告白しておいて振られてまだ一緒にいてくれるなんて、それだけでありがたいんだからさ。」

 と言ってくれたのだ。

 「うん、でもごめんね。」

 とりあえずそれだけ言って、草深君は笑っていた。

 私は健斗君のことがすごく好きなはずだった。彼がこの世の中で絶対的な一番だと信じていた。だが、違うのかもしれない。私がそう思い込んでいただけで、愛なんてそこら中に転がっていて拾うか拾わないか、そんな程度のものなのかもしれないと思ってしまった。

 そうしたら何だかもうどうでもよくなって、そんなものに価値はないような気がして、少し滅入っていたのだった。だから、健斗君との連絡は次第に途絶えていった。

 「健斗君は何だったのかな…。」

 最近よくベッドの中で一人呟く。

 分からなかった、単純に、誰かを好きだという事実を疑っていた。事の発端は何だったのだろう、でも考えてみても分からない。私はなぜあれほど好きだった健斗君のことが何だか手持無沙汰なように感じてしまっているのだろう。

 初めての感覚で、そもそも健斗君が初めての恋人で、私には全てが不可解でどうにもしようがなかったのだ。

 そんな時だった。

 深見君と出会ったのは。

 深見君は大学の入学式で一人集団の輪の中からこぼれていた私を拾ってくれた人だった。

 何だっけ…そうだ。

 「ねえ、どこの高校出身?」

 ずっと大勢の中で楽しそうにしていた彼が私の元へ寄ってきて話しかけてきたのだ。

 「え…?」

 何で?頭の中はそういう色々な疑問でいっぱいになっていて、ごちゃ混ぜになっていて、私は本当に素っ頓狂な声を上げてしまった。

 そういう時は大概相手は驚いていぶかしがって、なんだコイツ…という不躾ぶしつけな表情で返してくるのに、彼は何かのスイッチが入ってしまったかのようにグイグイと私に近寄ってきた。

 「僕、東京の割とお金持ちの街で生まれてさ、ずっとそこに住んでいるから、この大学からも近いんだ。君は?てか、名前…教えてくれない?」

 率直に何でも語りかけることのできる人なのだなと思った。

 私の周りにはそういう人はあまりいなかったから、新鮮だったしもっと話がしたいという衝動を抱いてしまっていた。

 だから、「私、東実子。あの、彼氏はいるの。出身は一緒、東京。」端的に言葉を区切りながらヨタヨタと答えていた。でも彼は、それがすごくうれしいという様な表情をしてニッコリと優しく笑いかけてきた。

 私は、可愛いとその笑顔を見てほころんだ。

 「彼氏、いるんだ。残念。」

 初めて異性にそんな気取ったセリフを言われたような気がするし、健斗君は真面目でぶっきらぼうで不器用だったから、その分強く新鮮に感じてしまったのだと思う。

 そうなんだ。

 それで、私気付いたら深見君のことが好きになっていて、でも健斗君のことももちろん好きなのに、私という人間は同時に二人の人間を好きになることができる欠陥品なのかもしれないと、毎日、毎日すごく苦しかったのだ。

 だって何で?二人の人間を同時に好きになるなんて、おかしいじゃない。

 私、最低。本当、最低だ。

 そうやって自分を責め続けていると次第に気分が落ち込んできて、ついには家にこもるようになってしまっていた。

 うつ病、と診断された。

 その直後に健斗君に浮気のことがばれて、困らせて、傷つけて、終わった。

 大事な人との関係が、あっさりと無くなってしまったのだ。

 そんなの、だって私がおかしいから、何で二人を同時に愛してしまえるのだろう、私がおかしいから。

 こんがらがってしまった。何もかも、事実も現実も全て。

 「大丈夫?」

 病院の自販機コーナーでうずくまっている私に彼女が話しかけてきた。

 最初はその声も遠くて一体何なのだろうと思っていたけれど、でもだんだんとはっきりしてきて、分かるのは穏やかな声で私を心配してくれる誰かがいるということだった。いくら私がうろたえてもずっとそこにいてくれて、ひどく安心したしありがたいと感じていた。

 「顔、真っ青だよ?先生呼んでこようか。」

 私が落ち着いたタイミングを見計らってくれていて、その時にしっかりと言葉が入るように語りかけてくれている。

 そう感じたから、この人はひどく優しい人なのだと思った。

 そして、「ありがとうございます。ちょっと貧血で…たまにあるんです。」そう言葉を発することができたし、そしたら彼女はゆったりと笑顔になっていた。

 綺麗な人だ、と思った。

 年は私よりいくつか上で、名前は羽田さんというらしい。

 その後一緒に少しお話をさせてもらった。

 というか体調が悪くてグダグダな私が心配だって言って、ちょっとの間だからって言いながら気を使ってくれたんだと思う。

 しばらく沈黙が続いて羽田さんが口を開いた。

 「実はね、私うつ病なの。気づいたらうつになっていて、抜け出せなくなっていた。だから今すごく暇だしアナタのことも気になったしお話ししたくなったのね。」

 可愛い顔を少し曇らせて笑顔を作っていた。

 すごく魅力のある女性なように感じていた。だって彼女は笑うだけで本当に花のように美しいのだ。

 「え…そうなんですか?いや、私もそうなんです。うつ病で、この病院に通ってるんです。」

 こんな話誰だか他人に話すことではないと思っていたから、案外知らぬ人に話すだけで楽になるのだという新しい発見に驚きを持った。

 「じゃあ、一緒だね。」

 私たちは顔を見合わせて笑いあった。

 初対面なのにずいぶん仲良くなれたような気がする。

 羽田さんとはだからたまに連絡を取っていて、お互いの近況を話し合ったりしているのだ。

 私はそれからずいぶん楽になって、体調も回復した。

 だからもう、健斗君とも深見君とも連絡は取らないと決めたのだった。

 これからは、私は誰も傷つけない、傷つけたくない。そんなことを思っていたのだった。


 今日は空いてるな。

 客足がまばらで、今月の売り上げが目標に足りなくてどうしようかとしばらく頭を悩ませていた。

 はあ、パスタなんて高いから、この町じゃみんな食べに来ない。それは分かり切っていることで先代の店主も存じている。

 でも店を続けていくしかないし、私にはそれしか生き残る道がない。

 生きていくには、続けるしかないのだ。

 カランコロン。

 鐘が鳴る。

 誰か来たのだろうか、薄っすらと期待が胸をよぎった。

 「いらっしゃいませ。」

 近くの主婦だろうか、この店は店主の望みで少し高い値段に代金が設定されているのだ。

 近所には住宅街があって田園都市線の傍だから地価が高く、いわゆるマダムと呼ばれるような贅沢な人たちが住んでいる。

 そもそもこの店はそのような人たちを相手に商売をしていたのが、店主がキザな彼女たちを嫌い雑な接客をしたため、見る間に町中に噂が広まり悪い評判が立ち閑古鳥が鳴く店へと進化してしまったという算段だ。

 「でも、私は。」

 「私はこのお店をもう少し変わった様にしたいんです。」

 たまにこうやって店主に電話をして状況について掛け合っている。だって、このままじゃつぶれてしまうから。でも説得するのは大変で、やっと商品の単価を下げることに合意してもらったけど、それには一年という期間を要したのだから。

 で、来たお客様は、あれ、この子。

 「お久しぶりです。実子です。」

 「実子ちゃん…。」

 「へへ、すみません。急に来ちゃいました。羽田さんに会いたくて。」

 実子ちゃんは泣いていた。

 いや、正確には泣き出してしまった。

 どうしたのだろう、ずいぶん久しぶりだった。しばらく会っていなかったし、彼女は私より若く大学を卒業してからもまともな企業に総合職として入ったのだからもう私などには用がないと思っていた。

 だから、「どうしたの?泣かないで。」そういうしか無かった。私は久しぶりに再会した妹のような存在で、同じうつ病を経験した者として同士でもある実子ちゃんになぜそんなに悲しんでいるのか、ちゃんと知ってあげなきゃいけないのだと思っていた。

 しばらくして泣き止んだ実子ちゃんは告げた。

 「あの、私の好きな人が捕まってしまったんです。警察に。私のせいで…。」

 グズグズと鼻をすすりながらしゃべるから本当に子供をあやしているような気分になっていた。どうしたの?どうして泣いているの?そう、問いただしたくて仕方が無かった。

 でも、男か。しかも捕まったって、もしかして警察に、ということか?そう言っていたのだからそうだろうけれど、こんなおしとやかな女の子にやっぱり警察という単語が全くしっくりこない。

 「大丈夫?ゆっくりでいいから、話してみて。」

 できるだけ優しい口調を心掛けながら妹のような存在に私は疑問を投げかける。

 「私の好きな人が…。」

 泣いてヒックヒックとしゃっくりが止まらないらしい。

 大丈夫だよ、実子ちゃん。私はアナタのこと、嫌いにならないから。

 落ち着いて…大丈夫。

 うつ病を患った時に私は人とのコミュニケーションが取りづらくなってしまっていた。非常に困ったし、でも誰にも理解などされないからより一層困り果てていた。

 その時に感じたのだ、私は私を好いていない人間には言葉が出てこないのだと。その証拠に菜種とは気が合うしその状態でもしっかりと会話ができていた。

 やっぱりあの子には感謝をしなくては、そう改めて思ったのだ。

 だから、私は誰かを受け止める時にはまず敵意がないことを示すようにしている。

 「……。」

 泣き疲れたのか、私が出したコーヒーをちびちびと飲み始めた。

 こういう時はミルクを少し入れたやつがいいのだから、飲みやすいように温度をだいたい60度くらいに冷ましてあげた。

 「ありがとう。」

 実子ちゃんは少しかしこまった様な顔をして、でも最初に来た時のように動転した様子は少し無くなっていて、良かったと思った。だって本当にこちらがびっくりするくらい動転していたから、驚いたのだ。

 「あの、私がうつ病になったのって、恋人のせいだって前に言いましたよね。」

 「そうだね、そうだったと思う。」

 そうだ。実子ちゃんは好きな人との関係がもつれてうつ病になったのだと言っていた。それは、恋人のせいというか、その時はずっと自分を責め続けていて実子ちゃんが悪いからすべてがうまくいかなくなったのだと思い込んでいた。だから今、その過去の事態をちゃんと現実として受け止めて語ることのできている彼女を見て、ああ、この子はもうだ丈夫だし、しっかりと変わることができたのだなあ、と思った。

 「もともと好きだった、健斗君というんですけど…。健斗君がしばらく居所が掴めないって同級生から聞いたから心配していて、でも私はもう彼とは関わる権利を持っていないんだと思っていたんです。だからなんとなく気にはなっていたけれど、気にしないようにして過ごしていたんです。でも…。」

 そう言いながら実子ちゃんは言葉を切った。

 きっと何かこの先に言いづらいことがあるのだろうと私は感じていた。

 「だから、現実って、私が思っていたよりももったりとしていて、切れていると思っていた縁なんて実はずっとはびこって残っていて、そうやって今、襲ってきているんだなって感じたから…。」

 ひどく抽象的なことを口にして、どうしたのだろう。

 何だか、嫌な予感が胸を走る。

 「健斗君と深見君、一緒にいなくなってしまったんです。近くの駅で二人を目撃したっていう人がいて、その後二人の消息は分かっていないって…。」

 「え…?」

 それって、事件じゃないのだろうか。

 それに、

 「それに、二人の共通項は私だからそういう事情で警察に呼ばれてそれっきりなんです。ひどく詰め寄られました。何か、知らないのかって。でも私は何も知らないから答えられないんです。でも、私二人のことが気になって仕方ないんです。だって、やっぱり二人をつないでいるのは多分私なのだから。」

 ぜえ、ぜえと息を吐きながら言葉を吐き出す。

 彼女は非常に混乱していて、それ程の圧迫を警察から受けたのだろうか。

 でも何の疑いもないただの知り合いという女性にそこまでの圧迫をかけるのだろうか。

 分からない。

 分からないけれど、でも。

 「それって、実子ちゃん。もしかして何か心当たりがあったりするの?思い当たることとか。」

 実子ちゃんは少し目を泳がせた。

 でももう逃げられないと観念したのだろう。

 私の目を、しっかりと見つめ、語ったのだ。

 「私は二人を断ち切ったはずだったんです。もう関わらないで、忘れてしまえば物事は落ち着くと決めてかかってしまっていたんです。でも実際は…。」

 実子ちゃんは言いずらそうに唇を嚙み始める。普段そのような仕草をする子ではないから、無意識なのだろう。多分、相当追い詰められているのだろうと思えた。

 「うつ病が落ち着いてからしばらくした時、深見君に会ったんです。体調、どう?って。だから私、もう良くなったから大丈夫って強めに笑いました。だって深見君を見ると抑えていた彼に対する感情が溢れてきたから、一生懸命閉じ込めて押さえてきたのだと分かっているから私、もう深見君の目を見ないようにしていました。でも。」

 きっとその後に何かがあったのだろう。

 実子ちゃんは濁った目を泳がせ心を少しどこか遠くへ飛ばしているようだった。

 「そしたら、深見君が待ってって。そういうから、何?って振り返ったら、泣いていたんです。冷静で理知的な深見君がそんな風に感情をあらわにすることを私は知らなかったからひどく驚いてしまって…、結局そのまま深見君の家まで付き添ってあげました。それで長居はしない方がいいと思ったから、深見君にもう大丈夫だよねって聞いて足早に帰ろうとしていたんです。でも、でも。深見君が帰らないでって泣くから私、もうすがり付いてくる彼を放っておけなくて帰らなかったんです。」

 恋愛ドラマのような、そんなことがあったんだ。

 私は呆けた顔でその話を飲み下そうと努めた。

 だから、「そうなんだ。」とのんきな言葉しか口から出なくて、感情の高まっている実子ちゃんに申し訳が無かった。

 「はい…。」

 実子ちゃんは感情が高まったことを恥じるように少しうつむいてしまったので、私はああ、悪いことをしてしまったなあと思っていた。

 「それで、次の日になって気づいたんです。深見君がおかしいってこと。私はずっと優しかった深見君のことしか頭の中になかったから、彼が辛いって思っていることとか、そういうこと全然知らなかったのだなって感じました。で、起きた彼がのっそりと言ったんです。忘れられなかったって、私のこと。だってすごくつらそうに顔を歪めて言うから、ごめんねって謝りました。その後はお互い意識を通わせてしまったというか、私もうつ病が治っていたし、付き合うことにしました。正直すごくうれしかったし、深見君も喜んでいるようでした。」

 何だ、ハッピーエンドじゃないか。でも実子ちゃんを泣かせるようなバッドエンドがきっとこの後に待ち受けていて、私はそれを耳にするのが怖い。

 何が、あったのだろう。

 「ねえ、その後だよね。何かあったのって。話せたら、話してみて。」

 穏やかな口調で彼女に問いかけた。

 聞かなくては、何も解決などしないのだから。

 「そうです。私、深見君としばらく付き合っていて、偶然街中で健斗君に見られてたんです。それ知ったの近くの同級生が教えてくれたからで、ああ、どうしよう。健斗君には悪いことをしたし、その見たっていう子によると立ち尽くしてたって言うから、ちょっと怖いって思うくらい驚きました。だってそれって健斗君がまだ私のこと感情の中から消えてなくて、残っているってことだと思うから。」

 「うん、そうかもしれないね。」

 「はい…。はあ、それでモヤモヤしてるとある日、深見君に言われたんです。急に、突然。別れようって。私は理解ができなかったし、え、どうしてって彼に詰め寄りました。でも深見君はもう意思を変えるつもりはないみたいで、連絡を絶ちました。」

 「え?それってどういうこと?おかしいじゃない。だって。」

 「そうです。今思えば、深見君は健斗君が私たちの関係を知ったということをどこかから聞いたらしくて、その直後だからきっと何かが関係していると思うんです。私…。」

 ああ、これが彼女の知っている事実で、全てなのだろう。

 目の前の実子ちゃんはうつろな瞳をただもて遊んでいるように見えた。

 「じゃあ、その後にその深見君て子と健斗君って子が一緒にいるってことを聞いたんだよね?確か。」

 「そうです…。私にはなぜ深見君が健斗君と一緒にいたのか、本当のことは何も分からなくて…。でも推測することはできると思うんです、何となく。だって、二人は私のことをずっと頭の中から消さないでいてくれたのだし、それならきっと多分、私のことで二人が何か関係を持っていて、きっとそこから事件が起こってしまったのかなって…。でも何が事件なのか、何が起こったのか、それすら分からないから、すごくもどかしい。ただ二人が失踪したなんて、そんなの…。」

 「うん…。すごく不思議だよね。私もそう思う。この事、誰かに話したりした?警察以外で、頼る人とか、共通の知人とか…。警察ってはっきりとした事件じゃないとしっかり捜査できないっていうじゃない。だったらまずお互いの身近なところから調べていくと良いと思うの。」

 「そうです…ね。」

 私は漠然と思っていた。

 ああ、実子ちゃんはその不確定な事実しか掴んでいないから、消しても消しても気になって、あんなに憔悴してしまったのだろうなと。もともと繊細で優しくて細かく落ち込んでしまう子だから、きっとあんな状態になってしまったのだろう。

 気の毒だ、実子ちゃんが。

 「でもね、みんな知らないっていうんです。深見君も健斗君も最近は交流を断っていて、昔の知り合いとはあまり会っていなかったって。二人ともそんなに人と関わらない、なんて人じゃなかったからやっぱりおかしいんです。でも深見君は私のことが忘れられないって泣いていた深見君は、もしかしたら本来はそんな弱さを持った人なのかなって今は思うんです。」

 「そうかもしれないね。うん。」

 私達は静かにコーヒーをすすっていた。

 その瞬間だけはなぜだか全てを捨ててしまってもいいのかなと思える貴重な一瞬だと私達は知っているから。

 「おいしいね。」

 二人で言い合って、笑い合った。


 「定例会議を始める。」

 ああ、また始まった。私はこの時間が嫌でたまらない。いつになっても終わりが来ないのに、私は何もすることが無くて、でも眠いという動作は悪だから、できない。

 「議題は今後の経営方針についてだが、株主にも少し集まってもらって決めることになった。紹介する。今日の主役になる田路浩志たみちこうしさんだ。」

 そう言って紹介された男は私の勤める会社の株主で、ひどく冷徹な顔をして不愛想だった。

 だけど私は会を進行させる駒として彼に資料を渡していかなくてはいけなかった。その都度その都度、場面が変わるごとに、適切に。

 そんなことをぼんやりと考えていたはずだった。

 でも気づいたら私は倒れていた。

 うっかりしてしまったと思う。社会人になってから学生時代のように人間関係で深くかかわることがないから浅く上手くやっていたはずで、昔みたいに体調を崩すことがあまりなかったから油断していた。

 そうだ、私は弱いのだった。

 呆然とベッドから見える天井を見つめやらかしたことをただ恥ずかしく思っていた。

 そしたら、「ねえ、大丈夫?」男の声が聞こえた。はて、私に男の知り合いなどいたのだろうか。

 「君、俺のスピーチ中に倒れたよね。」

 なれなれしい口調で私に問いかけてくるのは三十路頃とおぼしき長身の男だった。

 あれ、コイツどっかで見たことある…。そう思っていると、ああ、やってしまった。この人はそうだ、私の会社の株主で、私が会議中に世話をしていた男だ。

 ああ…。そんな絶望的な気分になっていると、「もういいだろ?そんなに顔まじまじ見るなって…。」

 少し照れた顔でその男が言った。

 私は不躾に男の顔を見てしまっていた。それ程この男のことを微塵も警戒していなかったというか、興味が無かったのかもしれない。

 だからただ今の立場がない自分のことだけを精一杯考えていたのだと思う。

 「はい…。すみません。」

 そう言ったら男は急に真顔になって呟いた。

 お前は、悪くないだろうって。

 悪くないのに、謝るなって。そうやって自分を傷つけるなって、強く顔を歪ませながら言っていた。

 私は何だか悪いことをしたつもりはないのに、してしまったような感覚を抱いてしまったから、つい口にしてしまった。

 「すみません。」

 その瞬間男が目を見開いたが、だから私はきちんと言葉を付け足した。

 「今のは、違います。さっき無責任に謝る言葉を使ったことを、謝罪したんです。だから間違っていません。」

 私はできる限り言葉を尽くした。正直なぜこんな見知らぬ男にこのように一生懸命言葉を紡ごうと張りつめているのか分からないが、私はそうしていたのだった。

 「…ああ、分かってる。」

 急に穏やかな顔になってはにかんだ。

 あれ、思ったよりも格好いい人なのかもしれないと、ふと思った。

 そう思っていたら、彼が呟いた。

 「俺、びっくりしたんだ。目の前で倒れるから、驚いた。それにいたたまれなかったんだ。」

 急に言葉を途切れさせてその先を紡ごうとしない。

 なぜだろう、何かがあるのだろうか。

 「どうして?何か理由があるの?」

 私は無意識に言葉を発していた。それはもう本当に、自然と言葉が口をついて出ていたようだった。何かを、知りたい。

 「ああ。話してもいいかな。あなた、他人だし。」

 男はもったいぶった言い方で私との間に距離を置き語り始めた。

 「俺、殺したんだ。妻を、いや妻になる予定だった人を。」

 言い放たれた言葉は強烈で、私は目を開けたまま硬直していた。

 どのような反応を取れば解決に至るのだろう、などと救いようのない誰かの死という重さに心が少しマヒしてしまっていたのだと思う。

 「え…?」

 やっと出てきた一言は、ずいぶん軽く吐き出されていた。

 「ああ、俺が殺したし、もうあいつは死んだんだ。はっきりと俺はあいつを死に追いやった。きちんと愛していたのに…。」

 泣きそうな顔で彼は言う。はあ、もう自分の体の不調などどうでもよくなっていて、ただ私に、さっき知り合ったばかりの他人になぜだか身をゆだねて震えている彼の話を聞いてあげなくては、という感覚を強く持っていたのだった。

 「うん。」

 教えて、そう強く意思をぶつけるように私は呟いた。

 「俺、新入社員の頃浮かれてて、毎日飲み歩いてたんだ。ああ、俺は社会人でしっかりとした人間でぼやっと毎日を無駄になどしていないし、立派に生きてるって。自惚うぬぼれてた。」

 自嘲気味に笑いながら彼は続ける。

 「大学生のころから付き合っていた彼女がその人で、毎日俺にかまってくれと迫ってた。だけど俺は忙しかったから何だよ、いちいちうるせえなあ、くらいに考えていて…そしたら知らない内に取り返しがつかなくなっていた。彼女は俺の部屋に勝手に入っていて、俺はそれに怒って辟易して家を出た。でも、そしたらあいつは…酒なんかロクに飲めないのに俺が持ってる酒の中で一番濃いやつを大量に口にして、死んじまった。その事実を知った時にはもう足元が地面を蹴っていないような感覚に陥っていて、俺は自分の自惚れに気付かされたんだ。俺は、大事な人を失ったってこと、あいつが死んでから痛くて搔きむしりたくなるほど分かって、後悔していたから。」

 話は、非常に重たかった。

 私はでも、その事実を泣きながら語る彼を抱きしめて、存分に泣かせてあげたいと思ったのだった。

 その日は、よく眠れたんだと後日彼から聞いた。

 「お待たせ。」

 「やあ。」

 私達は一緒に暮らすことにした。

 誰もいない家で不安が渦巻いて寝られないという彼のことをただ単純に救ってあげたかった。私がこの世の中で、現実で目撃した中で最大級に弱い生き物だと思ったから、特別だったし守りたかった。

 その時私は、ああ、私って守られたいんじゃなくて、誰かをただ守ってあげたかったのだなあ…とそんなとりとめもないことを考えていた。

 でもあながち間違いではなくて、体の弱かった私のずっと気付かなかった本当の欲求なのだと強く思ったのだから。

 「浩志君。今日は晴れてるね。天気がいいからちょっと外に出てみる?」

 私は彼を浩志君と呼び、彼は私を…「水紀みずき。」と呼ぶ。

 「そうしようか。やっと水紀が休みとれたから、行こうよ。」

 私は忙しかった。地道に働いていたら周りの女の子が寿退社等の理由によって会社を辞めていったから、なぜか必然的に私が昇格していって役職を頂けることになっていた。でも社会人になってから気づいたのだが、私はダメダメで馴染めなかった学生時代と打って変わって、大人同士の関わり合いというものが非常に得意なようだった。だから特に浮ついたような変な感覚も抱かなかったし、当然のことだとさえ思っていた。

 「良かった。ごめんね、最近私休みとれなくて…。会社で問題があってさ、休日も行かなくちゃいけなくて…。」

 私は申し訳なさそうな顔を繕いながら浩志君の顔を窺い見た。

 浩志君はでも一点の曇りもない笑顔で、やっぱりこの人良い人なのかもしれないと感じていた。

 だが、なんて言えばいいのだろう。ここ最近は浩志君がはっきりと感情をさらけ出さなくなったし、何だか距離を感じる。

 浩志君は株を所有して音楽を作っている。曲を作っては近くのバーで披露しているらしい。私はでも恥ずかしいからと呼ばれたことは無いし、浩志君に一度バンドとかは組まないの?と聞いたらそういうのは嫌いなんだ、と言っていた。

 だから私は浩志君の日常についてあまり知っていることがない。

 でもだって、でも…大事な人だから、ただそれでいいと思っていた。

 「浩志君。浩志君。」

 私は彼の隣で呟いた。

 久しぶりの休日が楽しくて仕方が無かった。だが彼の表情からはそれが読み取れない。私たちは、離れていっていた。もう気付くことができなかったことを悔やんでしまうくらいに、私は悲しくなっていた。

 ふと強い風が私たちの間で吹き抜けたなと感じた直後、彼が話した。

 「…ごめん。もうやめようか。俺たちの関係、終わらせようか。」

 突然だった。でも私は動揺はしていない。だって分かっていたから、浩志君がやめたいって思っていること。

 「私は、ねえ、辞めたくない…。」

 次に出てきた言葉は、自分が思っているよりも切なくて悲しくて、スルスルと涙がが伝っていた。こんなに、悲しかったんだ、私。そんなことを思っていると次の瞬間、「ごめん。」浩志君が抱きしめてくれた。

 私はその時理解した。

 私は誰かに抱きしめてもらいたかったのだし、浩志君に抱きしめられるともう全部が溶けてしまったような心地になることを、分かってしまった。

 「うん…。」

 はあ、人生って美しい。

 幼い時のようにただ甘美な幸せを味わっていたのだと思う。だからなぜか、懐かしいと思っていた。

 浩志君、ありがとう。

 私は心の中で純粋な幸せをくれる彼に感謝を伝えていた。言葉にはしなくても伝わることってあると思うから。

 「浩志君、子供出来た。」

 私たちはそれからしばらくして子供を授かった。

 きっと喜んでくれる、そう信じていた。

 でも、

 「え…?」

 彼は顔を歪めて笑顔が消え失せていた。

 ちゃんと避妊していただろう、と言いたげな顔で私の方を見つめている。だから思った。はっきり言ってよ、嫌だって。

 私は妊娠という事実と身体的な体調の変化でひどく動揺していた。もう、どうしよう。

 望まれない子、それは現実として受け止めるにはあまりにも重たいものなのだと思う。

 浩志君はでもやっぱり、その後一度たりとも笑わなかったし何も言うこともなかった。

 聞いたことがある。

 子供を授かったと聞くと喜ばない男がいるってこと。

 まさか浩志君がそうだったなんて…思いもよらなかった。だって浩志君はとても優しい人だし、子供も当然好きなのだと思っていた。

 でも彼の中に眠る弱い部分はもしかしたらそういう少し歪んでしまったところなのかもしれない。そんなことを考えていた。

 それから少しして、私は会社から帰った直後家を出た。不安で仕方なかったから、浩志君がなぜ私との間に授かった子供を、喜ぶことがすぐできなくてもただ動揺しているだけでも、しばらくしたら気持ちがまとまってうれしく思ってくれると期待していた。でも、違った。浩志君はもう絶対に喜ばない。そんなことが分かってしまったんだ。

 暗い部屋の中にはメモが残してある。

 そこには、「………。」田路浩志はテーブルの上に雑然と置かれてあるメモに目を通した。今日は疲れて帰ってきていたから、早くビールでも飲んで寝てしまいたかったのだ。だからメモには目を通さずにしておこうかと思ったけれど、やっぱりおかしいなと漠然と思っていた。だって部屋の中があまりにもきれいに片付いていて、水紀がいないことはよくあっても連絡がないなんてことは無かったから。水紀はまめな女だったし、そういう所が俺とは正反対だなと思っていた。

 妻を殺した酒は、断っていたはずだった。

 あいつが死んでしまった後、俺は後悔しながら懺悔をしていた。毎週教会に通っては祈る。その繰り返しが日課になっていた。それなのに、一度口に入れてしまうと止められないんだ。きっと、俺はそういう病気なのかもしれない。じゃあもう救われなくてもいいじゃないか。誰も誰も彼も、他人のことなど救えない。救えないし、救われない。俺の妻も救われなかった。あんなに俺からの愛を欲していたかわいそうな女だったのに、死んでしまった。それなら、現実がもうそういうことだとなってしまうなら、俺はもう何もしたくない。

 呼吸もしたくない、何もしたくない、生きていたくない。お願いだ。

 もうこりごりなんだ、誰かに捨てられるのは、手放されるのは、辛すぎる。

 ふっと意識が途絶えたと思ったら、俺は闇の中に沈んでいくらしい。

 はあ、これで終わりなのだろうか。そんな疑問がこのゆったりとした重さの中で浮かび上がっていた。

 

 「……。」

 感覚がない。今日は何日だったか、何時だったか、そもそも俺は誰なのだろうか。

 疑問だらけの中で初めて掴んだのは、女の手だった。

 その女は、告げる。

 「浩志君、ダメ。あなたが死んだら困るわ。父親がいない子なんて絶対にダメ。分かるでしょ?」そいつは当たり前だろうといった顔で俺の顔を見つめていた。うすら寒くなるように歪んだ笑みだった。

 「俺…誰ですか?あなた。」

 俺は何もわかっていない。自分のことも、目の前の女のことも。何もかも全部。

 そうしたらその女は目を見開いて言った。

 なぜだか嬉々とした表情で告げていた。こう、

 「あなたは私の夫で、今私は子供がいるの、お腹の中に。結婚はしてないけれど、そのうちするわ。」

 急に溌溂とした声を出し俺に事実だと言いながら何かを理解させようとしていた。行き場のない俺は、でもなぜだか自然と頷いていた。

 娘の名は、夕。

 俺がつけた。妻となったあの女がつけたのは本当におかしかった。なぜ子供にあのような名前を付けられるのだろうと不思議に思ったくらいだった。

 「みゅう。」

 自分が堅苦しい名前で嫌だったのもあるし、柔らかくて猫の鳴き声みたいだと言って考えたという。俺は心の中でコイツ、おかしいんじゃないかといぶかしんでいた。けれど幸い俺が提案した名前を案外すんなり受け入れてくれてことは収まった。良かった。本当に。

 夕はとてもかわいらしい女の子だった。顔も俺と似ているから本当に自分の子なんだなと認識することができた。正直、あいつの発言はいまいち信用に足らなかったから、疑っていたのだ。でも夕がどんどん成長するたびに、俺は喜びを感じた。

 だが、同時に限界を迎えていた。

 やっぱりこの自分は妻と主張する女の得体の知れなさに俺は寒気を隠すことができず、突発的だったが家を出てしまった。

 そして、もう帰ろうという気力がこの先一度も起らなかったのだ。そして意外だったのは、離れてみればあれほど可愛かった夕のことも手放しな気分になっていた。そう思ったら俺はずいぶん無責任な奴なんだなと感じた。でもそれで良かった。俺は今最高に幸せだから。

 酒の容器が散乱した部屋で、俺はまた酒を飲みそのまま深い眠りへと落ちて行った。


 私は一人で娘を育てている。

 あの人は私達を捨てて出て行った。あの人は、ずっと様子がおかしい。だってそれは毎日酒を飲んで錯乱しているから。仕方が無い。はっきりとおかしいと気づいたのは私が家出をした時だと思う。ついにお酒に溺れて病院へ担ぎ込まれた。私は連絡を受けて急いで病院へ駆けつけた。彼は身寄りがないと言っていたから、必然的に私が呼ばれることになったのだ。

 その時思った。

 ああ、こんなどうしようもない人を捨てることはできない。

 私は、きっとこの人と運命を共にする羽目はめになるのだと確信していた。それ程哀れで手を離すことのできない存在になっていたから、私にとって。

 「あなた。」

 初めてこのような気取った台詞を口にしたと思う。あなた、という絶対的な夫婦関係でしか呼びえない意味を持つこの言葉を、あえて使った。

 「あなた、平気?平気なら、もう行くわよ。」

 切羽詰まっていた。

 アルコールで卒倒したなんて病院中で見世物を見るような目で見つめられる。だって浩志君は完全にやばい状態だから。顔中真っ青で、普通じゃない。

 一番普通じゃないのは、本人がそれに気づいていないってことなのだが、もうそんなことには目をつぶろう。

 この人が、夕の父親が彼なのだから、私は手放さない。

 彼がおかしくなってしまうのなら、私もおかしくなってやろう。

 奇妙な決意を胸に秘めて飛ぼうとしている。どこへ?どこでも。どこまで?いくらでも、何とかなる。

 「何とかするのよ。」

 そう告げながら私は浩志君の手を掴んだ。

 浩志君はでも変な人間を訝しみながら見つめるような顔をして私を見つめていた。

 だが私は、ふっと鼻で笑いそのまま浩志君を病院から連れ出した。

 家までの帰り道、私は考えていた。

 いったい浩志君には私がどう映っているのだろう。どう映っているのだろうか。ずっと不審な様子で後ろをついてくる浩志君をチラリと見てまた笑いがこぼれていた。

 あは、何よ。

 何よ。

 浩志君、おかしいじゃない。私達、あんなに仲が良かったのに、おかしいじゃない。ねえ、浩志君。

 私、私。

 涙がそっと流れている。でもそれは自然なことだ。だって私は人間なのだから。

 「ねえ、浩志君。今日のご飯何にしようか。」私は日常を営み続けなければいけない。だってそれが唯一の世界なのだから。

 夕を抱えた今、私は確信している。それはもう決して揺らぐことは無い。

 

 「お母さんはね。夕のことが好きなんだよ。」

 幼い私は無邪気だった。母にずっと邪険にされていたのは理解していたし、でも唯一の肉親だから信じていたのだ。私を、私のことを母は愛してるって。でも同時にこうも思っていた、強くはっきりと。愛してよって。

 母の愛は歪だった。私のことを大事に思っていることは本当なのに、現実が忙しすぎて実行に移せないのだ。愛してるとも、言えない。愛してるだと、表現できもしない。でも、でも。確実には母は一人娘の私を溺愛していて、それははっきりと伝わっていた。

 だから余裕があって子供を存分にかわいがることの許された人間が疎ましかった。その人たちはだって、私たちが、私たち親子が望んでも手に入らないものを当たり前のように持っていて、見せびらかす。しかもそれに収まらず、高く掲げては見下し、私達を馬鹿にするのだ。

 なんて、卑しいやつら。

 私はそんな自分が嫌いだった。

 なぜ、私はこんなに醜いのだろう。

 幼い頃の私がずっと抱えていた命題だ。

 だが自然とそんなことは気にならなくなっていき、母とも距離感を取って接するようになったからとても安定していた。母もその感じがいいと思っているらしく、昔のように声を荒げることは無くなっていた。

 これは、私が高校生の時だったと思う。


 「夕のお母さん。」

 「何…?」

 含みを得た間を紡ぎ彼女は冷笑する。

 ぞっとする寒気に意識を取られないように、背筋を伸ばしていた。

 「どうして?」

 「どうしてって?」

 「私に何でこんなことをするんですか?」

 「……。」

 黙ってないで答えなさいよ。心中では怒りを含んだ言葉が翻弄ほんろうしている。

 「うん。そうね…。理由なんているのかしら。ただこうするには過程があって、今に至るまでには多くのものを重ねているのよ?まあでも、あなたには記憶がないから分からないわよね。仕方ないわ。」

 「……。」

 私は黙ったままうつむいている。でもただうつむいているだけではいられない。自分でも驚くほど冷静で、中学生だったころの粟立つような感情の波とは裏腹に大人となった今は非常に落ち着いていた。

 見つけなくては、見出さなくては、活路を。

 だって私は、生きたいから。

 昔は生きることは辛いことだった。

 当然のように大変で、でも誰からも理解などされなくて、あえて自分から辛いのだと打ち明けることのできる友達すらいなくて、私はもう手詰まりだったのだ。

 父と母が死に、私は生きる術を無くした。

 中学生というただの子供で働くこともできない身分だったから手の打ちどころが無く、非常に困っていた。しいて言うなら施設に入らせてくれればきっと楽になれたと思うのだが、私の親戚はそれを許さず私を飼育した。飼育って、本当にそう。衣食住も適当で、確認もしない。私の使えるお金は微々たるもので、小学生のお小遣いと同等程度だった。だからもう抜け出したくて毎日震えて、震えて泣いてしまっていた。

 その頃には感情がぐちゃぐちゃでとりとめが無かったように感じる。あいまいな感情の中で、でも毎日続く日常の中で、私は浮足立っていた。そして彼女たちは何の罪も知らないといったような顔で残酷なことを行うのだ。

 世界は残酷だ、少なくとも私にとっては。

 「そろそろ行くわね。」

 私を部屋の中で拘束したまま夕の母親はどこかへと消えた。

 今がチャンスだと思い逃亡を図ろうとしたがダメだ、何の手がかりもない。何の道も目に映らない。目に入らない。嫌だ。…怖い。

 恐怖心が錯誤する中でも懸命に意識を保とうと力を振り絞る。

 誰か、助けて。

 人間はそういうもので、やっぱり窮地に陥ると誰かに救ってもらいたくなるものなのだ。…悔しいけど。少し流れてくる涙が私の心を潤す麻酔となる。パサついた恐怖心に溺れないように私はじっと浸り続ける。

 「ガチャ。」

 何?扉が空く音がした。瞬間私は体を強張らせる。夕の母親が、戻って来たのか?

 近づく足音に震えながら身を縮こませている。

 何だろう?

 すると、その存在は言い放った。

 「里穂ちゃん?」

 あれ?夕の母親じゃない、誰。私の名前を知ってる?誰?誰。

 混乱したそのまま私はどうにでもなれと窓を確認した。拘束されていて届くことは無いけれど、何か。何か、投げればきっと割れるはず。そう確信していたら、そう意を決していたら、抱き寄せられた。

 え?

 温かく、ああ、この人は女性だ。

 薄暗く光の入らない部屋で初めてその存在を立体的に把握することができた。

 「覚えてる?私菜種です。」

 菜種?

 菜種って、木戸菜種きどなたね

 あの子は、私をずっと馬鹿にしていて水を頭からかけたりしてきていたいじめっ子?

 なぜ、あの子が?

 年下なのに私に執着してよく嫌がらせをしていたのだ。私はでもそんな幼稚な行動に反応する気力すらなかったから特に気に留めることもなかった。

 「菜種って、木戸さん?」

 私は少しどもったような声を出し彼女に尋ねた。感じていなかっただけで、私は少なからず彼女に対して恐怖心を抱いていたのだということにその時気付く。震える感情を上手くなだめることができない。だから爬虫類ににらまれたウサギのような顔をして問いかけた。

 「そうよ。そうです。私、木戸菜種です…。」少しためらったような雰囲気を出し彼女は言った。

 「あの、昔はすみません。里穂さんのこといじめてました。でもすごく美人でなんていうか芯が通っている里穂さんに憧れてて、上手く話しかけるきっかけもなくて…つい。別の方向に走って里穂さんに執着していました。」

 木戸さんは申し訳なさそうな顔をしていて、私も別に取り立てて負の感情を持っていたわけでは無かったから、

 「そうなのね。知らなかった。」とだけ伝えた。

 それにしても疑問だった。なぜ菜種、木戸菜種が夕の母親がいない隙にこの部屋にいることができるのか。なぜ私がここにいるということを知っているのか、何もかもが不自然だった。

 そうしたら木戸菜種は察したのか説明を始めていた。

 「私、里穂さんがここにいることずっと知ってました。見たんです。里穂さんがさらわれるのも、どこに監禁されているのかも、全部。でも怖くて、ずっと気になっていたけれど、昔のまだ幼かった私には逃げることしかできなくて、迂闊に話せるような状況でもなかったんです。夕の、夕さんのお母さんは、完全に狂っているから。」

 そうなのか。そうだったのか。この子はそんな事実をずっと抱えて生きていたのか、そんなことを考えると過去のいじめを鑑みても何だか彼女に申し訳なくなっていた。

 でも思い返してみたら菜種って浮いている子だったような気がする。ただ私をいじめる時だけ周りの子と同調することができて嬉々とした表情で立ちはだかっていた。そういうこの子のことを少しかわいそうだと思ったけれど、いじめって人の尊厳を無条件に奪うものだし、それを嬉々とした顔でやり遂げることのできるあの子は今思うととても弱い子なのか、それとも悪い子なのか、判断はつかない。

 菜種さんは、木戸さんは、やっぱりどこか歪んでいるように感じる。

 「それってつまり、私のこと助けに来てくれたってこと?だって、木戸さんは私のことどう思ってるのかいまいち把握できないから…。」

 とりあえず当てで、彼女から何かを聞き出そうと思っている。何でもいい、何でもいいから何かを掴ませて。心の中では猛々しい感情がぼうっと燃えていて、ああ、案外私って熱い人間だったのかなあなんてその思いとは裏腹に冷たい温度のまま私は考えていた。

 視線を木戸さんに向ける。

 この子はいったい何を知っているというのだろう。でもたった一人の頼みの綱で、手放すことはできない。放心したような顔で立ち尽くしている彼女を何とか励まさなくては、だってそれが私の頼みの綱なのだから。

 「そうですよね。里穂さん今意識が戻ったばかりだし無理ないと思います。でもね、里穂さんは最近もずっと元気だったんですよ?動き回っていたし、ちゃんと会話していた、いろんな人と。じゃあ何で今記憶がない状態でこんな場所に閉じ込められているのかって、それはね、つい最近のことなんです。ほんの少し前、ここに連れてこられて、それからずっと眠っていたんです。だから今がチャンスだと思って、ずっと話すことすらできなかった里穂さんが、やっと逃げることのできる隙を見つけたから。」

 それって、どういうこと?

 私は今ずっと意識が無くてもう大人になってしまったのではなく、ちゃんと意識があって生きていて、それでその後記憶をなくしてこの場所に監禁されているってこと?

 じゃあ、菜種は何でこのタイミングで私を助けるというのだろうか、一体なぜ?一体なぜなのだろう。なぜ…。

 「だるいなんて思わないでください。」

 え?急に菜種がきつい顔でこちらを睨みつける。何か強い意志のようなものを感じる。どうしたというのだろう。

 「里穂さんは、そうやって洗脳されてたんですよ?考えれば考える程薬はよく回って、また元に戻ってしまいます。せっかく正気を取り戻したんだから、諦めないで。考えすぎてだるいなんて思わないで、それは薬の影響だから、惑わされないで…。」

 少し泣きそうな顔で訴えてくるこの子は、何を言っているのだろうか。

 私が、洗脳されていた?

 そんな、馬鹿なことがあるのだろうか。

 だけど、今の私の状況を考えるとむしろ合点がいくのかもしれない。私はもう自分のことが全く分からなくなっていた。

 「行きましょう。出ましょう。今しかないから。」

 菜種は用意していたのか黒のフードのような物を私に着せて、暗闇に紛れたまま私の手を引きどこかへ連れ出した。

 どこだろう、でもついていくしかない。あそこにいたってきっといいことがないのは確かなのだから、でもなぜあの夕のお母さんが私をこんな目に合わせるというのだろう。夕は、色々なすれ違いはあったけれど、私の大事な人だということは確かなのだから。だからこそ、なぜ?

 「ザザザ…。」

 しばらくすると草地のようなところに出ていた。

 川の水音のようなものが聞こえるから、きっと河川敷なのだろう。水の近くにいると自然と癒される。それは何だか久しぶりに感じた心地の良い感覚なのだと思う。

 「少し静かにしていて下さい。見つかるかもしれないから、夕さんのお母さんは少しじゃなくてかなりヤバい人なんだから、気を付けないと…」

 自らに言い聞かせるように呟き菜種は周囲を窺っている。

 「ねえ、でももうここ外じゃない。こんな所まで来たのだから多分平気だと思うよ。」率直な意見だった。だってそうじゃないか、こんな川辺に誰が追いかけてくるというのだろう、それに私たちが逃げているってことまだきっと誰も知らない。だったら大丈夫なはず。そう確信していたのに菜種の反応は冷淡に厳しいものだった。

 「そんなわけないんです。あの人は、夕さんのお母さんはもうすでに気づいています。あの人は、あなたに執着している。初めは弱い執着だったのかもしれないけれど、あなた、気づいてないかもしれないけれどすごく魅力的だから、人を惑わせるし傷付けるってこと、自覚した方がいいと思います。」

 「え…?」

 そういうしか無かった。

 この子は、一生懸命私を連れ出そうとしてくれているみたいだから、もう何も言えなくなっていた。

 「ハアハアハア。」

 ずっと歩き続けていた。そして少しするとボートのようなものに乗ってどこかへと繰り出した。そして辿り着いたのは、見知らぬ小屋だった。

 「はい、どうぞ。」

 菜種は冷蔵庫から飲み物を取り私に手渡した。私はそれを受け取りぼんやりとつぶやいた。疲れていたから言葉がぼうっとしていて上手く思考がまとまらないのだ。

 「ここ、どこ?小屋みたいだけど、あなたのお家なの?」

 この単純な疑問に彼女は答える。

 「違います。でも私は最近はずっとここで暮らしています。だから家って言ってもいいのかも。親戚が持っている土地と小屋で手入れしていないから少し様子を見てくれないかと頼まれて管理している場所なんです。私は自分の住居というか、何かをする部屋、作業部屋としてちょうど良かったから一時的に預かっているんです。だから私のものではないんですよ。」

 へえ、この子昔とは違ってかなりしっかりしている印象を覚える。いつもうろたえて手間取って失敗を繰り返していたあの子とは比較が難しいと思うのもそうだが、何より目がさえわたっている。

 一度視線が合うとなかなか外すことのできない強さをほのかに感じていた。

 「じゃあ、ちょっと寝ようか。私もうすごく眠くて、ごめん。」

 途切れそうな意識を奮い立たせながら彼女に伝えると、頬を叩かれた。

 どうして?いまいち理解ができなくて、すごく理不尽なような感じを持つ。

 「分かった。でもダメなんです。それ、薬の影響ですから。絶対にダメ、だってまた飲み込まれてしまうから。」

 菜種は言い放つ。

 薬の影響って、え?私がこんなにもぼんやりとした心地を抱いているのは、ああ、薬のせいだったのか。何か変だという感覚だけ抱いていて、それに理由が付されて私は妙に納得したような気分になっていた。

 「だから、今日は一緒にゲームでもして、コーヒー飲んで楽しく過ごしましょう。そしたら寝なくて済むと思いますから。」

 はっきりとした物言いで勧めてくるから私は自然と頷いていた。

 菜種はRPGが好きなのだという。物語もアクションも好きで、感動していつも泣いてしまうのだと言っていた。

 「何でRPG好きになったの?菜種って、女の子って感じだったからゲームとは無縁だと思っていたよ。」私は自然と菜種と呼び捨てていた。菜種も特に違和を感じている様子はなく、会話を続けていた。

 「あの、実は私家ではずっとゲームばっかりしてて、女の子の遊びは苦手だったんです。」少し恥ずかしそうに打ち明ける彼女はひどく可愛い、という感じだった。それくらい何だか懐かしい親近感を覚えている。

 そうだったのだ。昔からもっと言葉を交わして仲良くなれるよう努めていれば良かったのだ。せっかく私に関心を抱いてくれている菜種に対して私は失礼だったのだと思う。よく思い出せば年下の菜種はちょこちょこと近づいてきてかわいらしい笑顔でニコニコと話しかけてきていた。だけど私はその時自分のことで精いっぱいで、他人の善意をくみ取るようなことが全くできていなかった。きっと今思い返せば、それも悪いことなのだと思う。

 せっかく、私に関心を持ってくれていたのに、話しかけてくれていたのに、きっと仲良くなれたはずなのに。

 少し悔やんで、でもあの頃の私は本当に理不尽な程キツイ状況にいたのだから、やっぱり仕方なかったのかなと自分を立て直す。私はそういうちゃっかりとした冷静さを持つ勝手なクールというか、そういう人間なのかもしれないと少し唇を噛んでいた。

 「楽しい。」

 「え…?」

 「あ、ごめん。何かこうやって同世代のことただゲームするのってこんなに楽しいんだ。知らなかった。」

 私はつい言ってしまった言葉をかき消すように菜種にズカズカと言い放つ。

 そうしたら少しはにかんで私に笑いかけていた。ああ、この子はやっぱり可愛くて良い子なのだ。

 私は少し罪悪感を覚える。こんな純粋な子にもやもやとした思いを抱えさせてしまったなんて、善意で私に声をかけてくれたのに、善意でずっと私を助け出そうとしてくれたのに。

 そんなこと思っても何の解決にもならないことは分かっていたし、私はただ今幸せになれればいいのだ。幸せになって菜種を、菜種のことも幸せにしてあげたい。みんな、本当は幸せになるべきなのだ。それがきっと最良なのだと思う。

 「やっぱり里穂さんは良い人だった。ずっと話したいし一緒に遊びたいと思っていたけれど、できなかった。里穂さんはいつも学校の中ではうわの空で、それに夕さんっていう親友がいたし、里穂さん、夕さんのことしか目に入ってなかったでしょ?」

 少しおどけたような表情で尋ねてくる、その姿はもう幼い少女ではなかった。

 菜種は、ずいぶんと大人びていて、そう思ったら私は、私は。

 記憶が中学生の卒業式の日で止まっていて、今いきなり大人になってしまっているのだが、ずいぶんと幼稚なように感じる。幼稚なままでいることはもうできない年齢になっているように感じるのに、私は。

 「私、もう大人なんだよね。」

 ふと呟いた言葉に菜種が目を広げる。

 「そう、だけど…。でも里穂さんはすごくきれいで若いからこれからもっと、もっと幸せになれると思います。」

 菜種なりに今いきなりどうしようもない状況にいる私への気遣いの言葉なのだと思った。ありがたかったし、安心した。もう、私たちは昔なじみの友達のように笑い合って、過ごすことができるのだ。

 そうしてしばらくすると、私たちは自然と眠りについていた。

 「あ、眠っちゃった。」

 気付いたら日差しの差す朝になっていて、やらかしてしまったことを後悔しながらもすごく心地が良い気分になっていた。

 「大丈夫ですよ。昨日は薬に眠らされたんじゃなくて、きちんと私と一緒に疲れて眠ったんだから。」

 その言葉にホッとし、その気持ちのまま新しい朝を迎え、これから立ち向かうべきであろう現実へと意識を移し、気を引き締めていた。


 お母さんは、厳しい人だった。

 ぼんやりと店の天井を見つめながら私は仮眠をとる。

 やっと混雑が収まる時間になったのだから、今寝てしまわないと。店をバイトの子やパートのおばさんに任せ私は休憩をとっている。これは日課で、皆が承知していることだった。

 私は昔から少し体が弱くて、ずっとの立ち仕事というものができない。いや、始める前はできるだろうと思っていた。だが次第に目がグラグラと回るようになりでも店主が私を気に入ってくれていたから、少しだけ15分程、休みをもらえるようになっていた。でもそれは他の人たちと違って一日中働き詰めるわたしへの扱いだったのかもしれない。他の人は私以外皆短時間しか働いていないのだから。

 「あのう…。私ばっかり休憩頂いてもいいんでしょうか?」

 恐る恐る店主に尋ねてみた。

 店主は男性で、もう年齢は50代頃なのだろうか。人の好い笑みを浮かべることのできる優しい顔立ちの人なのだ。

 「うん、気にしないで。全然平気。そんなの気にしてたら毒になるしね。僕は君のこと、優秀だと思っているから。」

 新聞に目を通しながら店に関することは何もせず、ただ悠然と座っていた。

 私はその時、汚れた床を必死にこすっている最中だったのだが、タイミングが合わなくてちょうど暇になったこの時だと思って話しかけたのがたまたまそうなったのだけれど…。

 あいまいに目をうつむきがちにしている私はそのまま店主を一瞥して立ち去った。一瞥なんて割と不躾なことをしたのに、この人は全く動じていなかった。むしろいつもより機嫌が良いのでは?と思わせる不思議さがあった。

 「お疲れ様です。」

 バイトの子とパートのおばさん方が仕事を終えて帰宅する。私は彼女たちより多くの仕事をこなしているし、汚い汚れ作業も私が担っていた。特にそのような作業は苦にならなかったし、それを率先して受け持っていると職場の空気が良くなるということを発見してしまったため、進んでやっている。

 そして私はこの時間が好きだ。

 家では母が不機嫌になったりご機嫌になったりと忙しいのだが、今は誰も彼もがいなくて私一人の時間が確立されていて、最高に自由だと思える。

 自由とは、こういうものなのだろうか。ふと疑問に思うことがあるのだが、私の知っている中では最大級に自由だからそれでいいのだ。それでいい、それ以外は何も要らない。

 「夕。今日は何してたの?」

 私が家で一人きりで料理をしていることを母は知っていた。母は知っているのにこのような問いかけを投げるのだ。

 「……。」私は言葉が出てこない。

 知っているのに、なぜ、なぜ彼女は私に問いかけるのだろう。

 それは、明確な悪意なのだ。

 ニタニタと笑ってコソコソ隠れて料理をやってみる、その娘の挙動を意地悪な子供のような挙動であざ笑う。

 料理など一切してくれない母のくせに、私が隠れて料理をしていることを馬鹿にする。そうだ、矛盾しているのだ。私はそうやって馬鹿にされると恥ずかしくなって、もうこんなことしないって思うから、料理なんかやめた。わざわざ嫌な思いをして買う苦労ではないと思うから。

 「てか、夕飯は?」

 私は話題を変えて母に尋ねた。

 この家では食事は基本的に米だけだ。米を炊いておけばおかずは要らない。そういう理屈なのだ。だから納豆をかけたり佃煮を乗っけたり、いくらでもやりようはある。

 だが、だが。私は言葉にできない憤りをはっきりと抱いているのに、やっぱり明確に母を糾弾するとげとまでは至らなくてむずがゆい。

 同年代の中で、私はやっぱりどこかおかしいような気もする。ロクなものも当たり前のように食べられず、まともな衣食住というものを経験した記憶がほとんどない。昼飯には金が置いてあって、だが徒歩圏内には店が1店舗しか無くて、だけどそこには学校の同級生の母親や教師が良く買い物に来ているから、見られたくなかった。買わず、食べず。買わないから、それは自己責任だから食べられない。世間からそう突き付けられているようでいつも罪悪感とずうと突き抜ける空腹感とだが次第に鈍くなっていく感覚にいつも歯がゆくて仕方が無かった。

 「お母さん、ちょっと出てくるね。」

 私がパスタ屋で働き始めてすぐ、母はどこかへ頻繁に出かけていくようになった。私は別に家に母がいないと居心地が良かったから安心してしまっていた。

 母は理不尽の塊で、でも私はそこから抜け出す力を持つことができなくて、大人になった。

 どうしよう、先が暗くて、恐ろしかった。恐ろしくて、怖かった。怖くて、でもどうしようもないのだ、私には何かをする力が無くて、ただ鬱々と日々を生きている。

 「トントントン。」

 ああ、母が帰ってきた音だ。もう寝静まる時間なのに何をしていたのだろう。ふっくらと想像だけ巡らせて、でも仕事で疲れた体は睡眠を求めていて、そんな中ふうっと子気味の良い鼻歌が薄っすらと聞こえている。

 母が、歌っているのだろうか。

 そんなことを考えながら私は眠りに落ちていた。

 しばらくしてパスタ屋の雇われ店長となり日々はさらに忙しくなった。

 忙しすぎてたまに血反吐ちべどを吐きながらうなるときまであったのだが、今は割と落ち着いている。血の匂いがもわっと体から発せられると、私はハッとして休むようになる。というか、それまで私は気付くことができないのだ。血を感じて初めて、自分が弱っているということに気付く。

 大したことのない毎日だったと思うが、私の人生の中ではかなり充実しているのだと思っていた。

 母は、ずっと様子がおかしかった。

 忙しく仕事に行くという様な感じではなくどこかそわそわとした妙な雰囲気を纏っていた。

 今、思い返してみればそういうことだったのかもしれない。

 

 里穂が、見つかった。

 いや、現れた。


 「羽田水紀容疑者が逮捕されました。」

 「あれ、あの人夕さんのお母さんですよね。」

 「………。」

 バイトの子が私に声をかける。その顔は心配が半分で好奇心がそれを上回っているように私には感じられた。私はただ黙って硬くなることしかできなかった。

 そしたら、「今日はもう帰っていいよ。」店主が久しぶりに表れ私にそう伝え、店の仕事をこなし始めた。私はうろたえながらでも、「ありがとうございます…。」とだけ伝え店を出た。

 お母さん、お母さん。

 母が逮捕された。

 私の昔の友達を、監禁していたという罪で。それって、一体どういうこと?何でお母さんが里穂のことを監禁するの?つじつま似合わないよ、そんなの、おかしい。うろたえながらでもどうすることもできなくて、私はただ走っていた。

 「ガチャ。」

 急いで家のドアを開けた。何かが分かるのではないかと思って、もしかしたら人違いで逮捕などされていなくて、家でいつものようにのんびりとぼんやりテレビを見ているのかもしれないと思ったのだ。

 頼む、頼む。そうじゃなかったら、私耐えられない。

 しかし目前に広がるのは散乱した荷物と荒らされた部屋だけなのだった。母はこの家で確保されたという。だから警察官が部屋の中を土足で歩き回りもう部屋の中はめちゃくちゃになっていた。

 呆然と立ち尽くすことしかできない。

 一体、何が起こったというのだろう。私は目の前がくらくらと歪んでいくのをただ、ただグニャリとなりながら感じていた。

 「もうさ、ねえ、どういうことなの?母さん。ねえ、ねえ。里穂!」

 私は戻って来た里穂に問いかけたかった。母ではなく、里穂に。あの子の口からしっかりと何があったかを聞かなければ、私はきっと納得できないのだろうと思う。

 だって、私のお母さんと里穂の関係は、二人をつなぐ縁は私しかありえないのだ。もし、私のことで母さんと里穂に何かがあったというのなら、本当にいたたまれない。

 テレビ画面に映っていた奇跡の生還者、急里穂きゅうりほは非常に衰弱しているようだった。誰がどう見てもまともな生活を送っていたようには見えなくて、顔色も濁っているように感じる。

 あんなかわいそうな状態に陥れたのが私の母だというなら里穂には本当に、本当に申し訳ないと思う。ごめんなんて言葉は安っぽすぎて、何の意味も成さないような、そんなようなものなのだろう。

 「おい、羽田。」

 玄君だ。玄君は私のことを羽田と呼ぶという所で落ち着いたらしい。そんな全く関係のないどうでもいいことに思考を巡らせていると、彼は言った。

 「なあ、里穂が監禁されてたってどういうことだよ。お前の母さんがそんなことする理由ってなんだよ。普通に考えて俺たちは同級生だったんだから俺たちの関係の話だろう?でも何でお前の母さんが、あんなこと…。」

 混乱していて言葉がうまくまとまっていなかった。だけど私はそのことに口を据えられる程冷静ではいられなかったのだ。

 「知らない。私は全然知らないの。」

 動揺していた。

 問い詰める玄君の口調に呼応するように私はただ否定の言葉を吐き出していた。

 そうやってしばらくしていると、現れた。

 「久しぶり…?」

 変な口調で話す人だなと思った。だが私達には心当たりがある。私と玄君は目を自然と合わせ声の主の方を窺い見た。

 そこにいるのはやっぱり、

 「里穂。」

 「そう、里穂なの。夕と玄君だよね。ごめん、私二人のことなんて呼んでいたっけ?色々あったし、記憶がところどころあいまいで抜け落ちているの。だから思いついたままに夕と玄君って呼んでいいよね?」

 クリっとした目を光らせながら彼女は言う。

 私たちはだからただ、「うん。」とだけ呟いた。 


 夜の繁華街は苦しい。

 人がどこか浮かれていて、ただでさえ一人ぼっちな私がより一層浮足立ってしまう。

 フラフラと大通りを歩きながら私はタクシーを呼び止めた。と思っていたら気がついたら病院の中で寝ていたのだった。

 これまでにもこのようなことは何度かあって、私はそれでもいいやと思っていたのだが、でもこの場所で目覚めると良かったなって、強く感じているのだ。

 医者によるとこのまま不規則な生活を続けると死ぬというのだ。それは嫌だったが、でもやめられそうにはない。だって私にとって静寂はほとんど死と同義なのだから。夜の静けさに、耐えられない。だから繁華街に繰り出して、でもやることがないから飲み歩いて、自分を壊す。きっと私のような人間はどこかが初めから壊れていて、そのせいで何もかもがうまくいかなくなるようになっているのだと思う。

 耐えられない静寂に飲まれる前に、言わなくては。

 あの人に、告げなくては、今すぐに。

 私は、弱った犬だった。

 それを拾ってくれたのは紛れもない水紀さんだったのだ。水紀さんは初めて会った時からおかしかった。何だか不安定で、守ってあげたくなっていた。自然と男にそう思わせる不思議な魅力を持った人なのだった。

 だけど、私は女だった。

 何で、あんなに妖艶な水紀さんが好むような人間じゃないのに、なぜ私を拾ってくれたのだろう。

 思い返せばずぶぬれで足の中まで水浸しで冷え切っていた私に水紀さんは傘をさしてくれた。

 「ありがとう。」と返すと笑ってくれたのだ。あまりにも笑顔が可愛いから、じっと見つめていると、自分の上着と近くのコンビニで買ってきたホットドリンクと、そして私を自分の家の中にあげてくれたのだった。

 濡れた体を洗い流して、温めて、私はひどく生き返ったような心地を抱いていた。

 そうしたら、水紀さんは何も言わずに私をずっと養ってくれたのだ。

 私はしばらくしたらすぐに働ける状態になったし、早く水紀さんに恩返しがしたかったから、泥のように毎日を働き詰めで送っていた。

 過去の、水紀さんと知り合う前の私は、文字通り濡れ雑巾のようだった。家の中で家族と一緒にいると日に日に自分が壊れていくのが手に取るように感じられるのだ。いい加減、抜け出したくて私はいつも一人きりになれる時間を狙って外を散歩するようにしていたのだが、その日は雨で傘を持っていなかったからただ濡れたままぼんやりとしていた。

 「もう平気?あなた、ずぶぬれだったから放っておけなかったの。最近珍しいじゃない、傘も何も差さないで平気で雨に打たれている人。私、そういう人が好きなのかもしれない。」

 彼女はそう言った。そう言われたら確かにと思ったし、水紀さんという名前も教えてもらったし、なんだかすごく照れ臭かった。私はこういう少し抜けている部分が自分の中ではコンプレックスだったし、その部分を好きだと伝えてくれるなんて奇跡に近いと感じたのかもしれない。私はすぐに水紀さんになついてしばらく一緒に住まわせてもらうことになった。

 懸念していたことはあったのだが、それは家族のことで、私がどこか別の場所で暮らすだなどというと変に嫌らしく反応してくるのかと思ったが、案外あっそうという感じで冷ややかな反応だった。

 こんな簡単なことであの家から出ることができたのならもっと早く出て行くべきなのだったと少なからず後悔もしていた。そのくらい私にとっては人生を動かす出来事だったのだと思う。水紀さんとの出会いは。

 「水紀さん、今日仕事は行かないの?お休みじゃないでしょ?」

 最近水紀さんの様子が少しおかしい。いや、水紀さんは最初からどこか不思議な雰囲気を纏わせていたけれども、やっぱりどこか思いつめた様子になっていたのだ。だからさりげなく彼女の様子を探っていた。だって、水紀さんは私にとってオンリーワンの大事な人で、正直どこの誰なのだかも分からない人だけど、それでいいのだ。私にとって彼女はこの世の中で一番だともう断言できる程大事な人になっていたのだから。

 「そうね…実はね。辞めちゃったの。もう嫌になってしまって、ごめんね。でも、しばらくは普通に暮らしていけるから、心配しないで。」

 そう言って彼女は笑った。

 笑っていたがどこか不安そうで私はこの時だというばかりに抱きしめた。自然と、抱きしめていた。そしたら、彼女は泣いてしまった。

 年齢も離れているだろうし、彼女はもうだいぶ大人なのだった。だが私は、もう彼女を放っておくことはできない。

 「私が、守るから。今日から仕事を見つけて養うよ。」

 その決意だけ伝えて本当にその日のうちに職を見つけることもできて私は自分が安定していく喜びを感じていた。同時に、水紀さんを守れる強さを手に入れることができたと実感することができ、それがすごくくすぐったい気持ちにさせてくれたのだ。

 私は男の人が好きだ。

 ずっと男の人が好きだったのに、今は女性である水紀さんが好き、なのだろう。

 この好きは、一体どういう感情なのだろうか。

 分からない、女の人を好きになったことなんて今まで一度たりとも無かったのだから、何もかもが手に掴めない砂のように収まりきらない。

 でも、「泣かないで、水紀さん。」この言葉だけは本当なのだと思う。

 私は水紀さんに全てをかけてみるのだ。それが私にとってのきっと幸せなのだから。

 かすかに流れる異常信号を私は思いっきり無視し続け、だから多分このような結末になったのだと思う。

 私は、何をやっているのだろう?

 手にしたナイフで人を殺した。

 血が流れて止まらない。私からも、目の前にいる急里穂の体からも、血が、血が止まらないのだ。

 ああ、どうしよう。そう思うと涙が流れてきて、でももう全身から噴き出している汗なのか何なのか、最早区別などつかないのだった。

 「…水紀、さん?」

 私は私を見下ろす彼女の目を見る。

 その顔は悪魔のように笑っていた。どこか中身を欠いてしまった人形のように、ただ美しい顔を歪んだように演出して見せつけているように感じられた。


 急里穂は取り調べを受けていた。

 取り調べというか、被害者だから事件の実態について話を聞くという名目だったのだが、ひどく疲れていて正直口がうまく回らないのだ。だから勘弁してくれと心の中で呟き目を伏せていた。

 痛む。

 あの女に刺された場所がひどく痛む。

 刺された直後にあまりの痛さにショックを起こしたのか意識を失った。だからその後一体何が起こったのかは分からないが、はっきりと言えることは、私は能地寿里のじじゅりに殺されかけたということだけだった。

 そうだ、菜種と逃げていた。はずだった。

 なのに、はぐれてしまって、というか誘拐されて能地樹里に襲われた。怖かった。彼女の顔は正気を失っていて、私を刺し殺そうとする瞬間には目から光が消えていた。ああ、このような化け物がこの世にはいるのだなと身震いが止まらなかったのだ。

 菜種とずっと一緒に暮らしていた。

 夕のお母さん、水紀から逃れている間ずっと。菜種は蓄えがいっぱいあると言っていて、しばらくは大丈夫、生活していけるよと明るく笑って見せていた。ああ、何というのだろうか、すごくほっとしていて、この子と一緒にいれば全てのことが大丈夫だと思わせてくれる、そんな人間なのだなと思った。菜種は、私の中でもう逃れられない程大切な存在、というか私には菜種しかいないのだ。菜種、あなたに頼ることしかできない。ごめんね。

 忙しそうに外と中を行ったり来たりする菜種の様子を窺いながら私は心の中で謝る。呟く、そしてもどかしい。

 やっぱり、このままではいけないことは分かっていた。私はずっとそう思っていたから、つい、つい。出来心で、いや溜まっていた思いが蓄積していった感情が、堰を切ったというのだろうか、私はもう取り返しのつかない行動を取ってしまう。絶対にしてはいけないと分かっているはずなのに、なぜだろう。でもそんなの、分からない。

 菜種が寝ている私の様子を確認してから家を出た。

 だから私はそれを薄目を開けて窺っている。ちゃんと菜種が出て行ったか、用心深く観察していた。そして菜種が行ってしまったと分かると、立ち上がった。

 行くのだ。この終わりの見えない現実を、前に進めていきたい。

 それだけだったのだ。

 だから、何で私は今殺されかけているのだろう。

 少し出歩いただけなのに、能地樹里と名乗る女に捕まって今一人で、そいつに殺されかけている。一体私が何をしたというのだろう、記憶が中学生のころまでしかない私がなぜ、良くも分からない状況でこのような理不尽な目に合わないといけないのだろう。

 ああ…。

 「命令だから…。ごめんね。私水紀さんには恩義があって、絶対に断れないの。私の頭の中では水紀さんの考えが絶対的で、あの人を信じているから自分がしていることが間違っているってどうしても思えないの。でもこんな話をあなたにするから、だからそういうことは、きっと私が分かっているってことなのだと思う。本当は間違っているって。でも、私は元々狂っているから、もうそれでもいいやって思えてしまうのよ。」

 うつろな目でこの女のことを見つめていると思う。

 そんなことをなぜ話すのか、そんなことを思いながら体中は震えているのに、精神はひどくのろまで間抜けだった。もう逃げられない、そう決意しているようだった。

 彼女がナイフを手にする。それを見ながら、ああ、もうダメだと意識が遠のいていく。そんなゆっくりとした時間の中を漂っているはずだったのに、それはすぐに来た。

 激しい痛みと衝撃、かきむしりたくなるような苦しさ、逃れられない、そう思った。そう思って、でも意識はすぐに遠のいていくことは無く、だがだんだんと意識がなくなっていく感じがしているなと感じたら、すぐに世界はシャットアウトされた。

 そして、目覚めた世界では私は大々的にテレビで報道される被害者となっていて、なぜそうなったのかは本当に分からないのだけれども、どうしてなのだろうか、私は生きていた。

 いや、絶対に死んでいると思っていたのだ。

 暗黒の中にいたことすら実感できない場所から、いきなりテレビの電源が灯る様に私は目覚めた。

 目覚めたときにまず初めに目にしたのは、菜種だった。目に涙を浮かべた跡が残っていて、とっさに申し訳ない気持ちになっていた。私、女の子とこんなに仲良くなったのは実は初めてかもしれない。夕とは一応親友のような立ち位置だったと思うのだが、本当の意味ではあまりそりが合っていなかったように思う。今私が生きている世界では、人が箱の中にぎゅうぎゅうに入れられていて、その中で意地でも分かりやすい関係を築かなくてはいけない、だから私は自分のために多分困った顔をしている夕に執着していたのだと思う。そう思うと、悪かったんだと自分を省みることができる。

 「良かった。急にいなくなるから、出ないでって言ったのに、夕さんのお母さん、水紀さんはしつこいし目ざといから、絶対に逃げられないの。私、知ってたから。だから絶対に外には出ちゃダメって。」

 泣きながらそう言う菜種を今すぐ抱きしめてあげたかった。でも菜種は、菜種に手が届かない、私、体が固まってしまっていて、動かない。

 「あの。ごめんね。」

 私は菜種にそう言った。

 菜種は黙って私のことを抱き寄せた。

 「うん、分かってるよ。」

 そう言ってくれたから、実は心からほっとしていたのは言わないでおこうと思った。言葉にしなくても伝わることはあるのだと、そう知っているのだから。


 突然すぎると思わないか?

 急にそんなこと言い放たれたからって、俺は対処のしようがない。

 なあ?そうだろう?

 「いやよ。もう知らない。あんたなんかどっか行って。一緒に居たくなんかない。もう帰って。」

 痛烈な言葉を並べ立て吐き続けるのは、俺の妹だ。

 ずっとここ最近様子がおかしかった。

 話しかけても返事すらしない。いつもならキャンキャンと吠えるチワワのようにすさまじく反論してくるのに、今日はただじっと黙りこくっている。というか俺の言葉など耳に入ってすらいないといった様子だ。それが一番適当な言葉なのかもしれない。

 「なあ、なあ。待ってくれって。」

 だから驚いたのだ。ずっと黙っていたからそっとしておいた。気性の激しい妹を取り扱う様に接してる俺にとってはそれが最善だと思えたから、でも、でも一体なぜ?

 「ゆき。どうしたんだよ?何で急に怒り出すんだ。俺、何かした?」

 戸惑ってめちゃくちゃに言葉をひねり出していた。理論などない、ただ思いついたままに、叫んでいた。

 そうしたら妹はしばらくしてまた言葉を止め、次第に感情が崩れて行って泣き始めてしまった。

 どうしたというのだ。

 もう分からない。

 だが、いつもなら特に理由もなくキレているのに今日は俺に対してはっきりと敵意をむき出しにしていた。だからやっぱり俺が何かしてしまったのかもしれない、そう思った。

 だけど泣いている妹にどう言葉をかければいいのか分からず、俺はただ立ち尽くしていた。

 妹は昔からいつもしかめっ面だった。

 お前、何でそんなに不愛想なんだよと思っていたが理由は明白だった。

 親父もお袋も、妹のことはひどくぞんざいに扱っていた。具体的にはそうだな、俺が普通に歩いているだけでも怒ることは全くないのに、妹は呼吸をしているだけでも激怒されていた。

 そう、存在そのものを否定されているような、きっと妹はそのように感じていたのだと思う。

 親父もお袋も、正直仲が良かったとは言えない。多分恋愛結婚というやつでは確実にない。だから特に盛り上がることのない空気の中で、微妙に生じたひずみが全て妹に向かったのだと思う。

 妹は、だからいつもしかめた面で世界を見つめていた。

 そんな妹が、大人になってまともになれるはずなど無く、案の定グレた。

 そりゃあもうひどいという程グレてしまった。

 学校では同級生をいじめまくり、学校に行けなくなったら外で誰かを苦しめていた。人を苦しめる、そうやって妹はただ生きていた。まるでそれが生きがいなのかと勘違いする程に、彼女は人生をかけて熱心に取り組んでいた。

 でもしばらくしたら仲間もいなくなって、というかあまりにも傍若無人だから見放されて一人になってしまった。そして家にこもって父と母に当たり散らしているから、当然一緒に住んでいる俺にも被害はやってきた。

 だが俺だけがちゃんと知っているから、妹が、幸がどういう扱いを受けて今に至っているのか、分かっているから見捨てられない。

 俺は大学を卒業すると同時に自立して、いつも自分をかきむしり続けている幸を引き連れて一緒に暮らすことにした。あのクソみたいな両親の元から誰かがコイツを引き離してやらないと、事態は一向に解決しないように思えたからだ。

 そして目論見は当たり幸はまじめな女の子に転身した。

 生まれつきの可愛さと、素直すぎる性格で男にモテていた。

 まあ、これで一件落着かと思ったら、今、あの幸が俺をものすごい目で見つめている。そして泣き始めてしまった。どうやら、俺が泣かせてしまったらしい。

 「………。」

 とりあえず落ち着くまで泣かせてやった、それから事情を聞こう。

 俺はクズだけど、妹がいるとまともな人間になっているような気がする。だから実は妹には感謝しているのだった。こんなどうしようもない馬鹿に守らせてくれて、ありがとうって。

 翌日俺たちは電車に乗って海へ来た。

 幸は海へ来ると笑顔になるから、困ったときはここへやってくるのだ。

 「なあ、昨日はなんであんなに怒ってたんだよ。」

 俺はさりげなく尋ねた。

 「怒ってないよ。私が何で怒ってるように見えるの?いつも通りじゃない。いつも通り不機嫌なだけ。それがいけないの?」

 何だか何も自分は悪くないし、俺がおかしなことを言っているかのように幸は言い連ねていた。でもだって、お前、昨日は泣いていたじゃないか。あんなに悲しそうに、怒りながら泣いていたじゃないか。

 幸は昔から掴みどころのない部分があった。

 急に考えていることが分からなくなる。

 いや、普段はどうなのかって話だけれど、いつもはめちゃくちゃ分かりやすいのだ。ああ、あいつ今ご機嫌だな、とかそんな感じ。

 だけど本当に突然、あいつは自分を隠す。

 隠して、見せない。

 「海、良いよな。」

 だからそれだけ呟いた。

 そしたら幸はそっぽを見て海の匂いを嗅いでいるようだった。

 それでも実は、予感はしていたのだ。

 あいつは最近、彼氏に振られた。そして、一人になってしまった。学生時代に荒れ狂っていたせいでロクに友人もおらず本当に社会的に親しい人もおらず一人ぼっちになってしまったのだ。

 そして、あいつは、そもそも俺とは血がつながっていない。

 あいつは、それを知らない。

 俺だけが知っている。

 俺の両親は女の子を欲しがっていた。

 母親が昔自分の親から虐待のようなものを受けていて、女だからとひどく差別的な扱いをされていたらしい。それはもう壮絶なもので、一晩中外に出されたり、食事を全く食べられなかったり、殴られたり、理不尽の嵐だった。

 だからもうその人たちとは縁を切っていて、俺たち家族は完全に今でいう核家族になっていたのだと思う。

 そんな時、俺が5歳ぐらいの頃だったのだろうか。急に母親が女の子が欲しいと言い出し、どこかから赤ちゃんを連れてきた。その子は赤ちゃんなのだと思っていたけれど、もう2歳に達する程の年齢になっていて、俺とは3歳程しか離れていない。

 とても可愛らしくてよく笑う子だった。

 少なくとも、俺に対しては。

 あいつは、俺の母親を見ても全く笑わずずっと不機嫌だったのだ。なぜだか理由は分からないが、多分俺の母親は不器用で赤ん坊にも好かれるタイプではなかったのだと思う。

 そうやって、あいつは次第に家庭の中の要らない存在になってしまったのだった。

 「お兄ちゃん。」

 しばらくぶりの呼び方だった。

 普段は呼び捨てで隆之介と呼ばれることが多かった。だけど今日は、なぜだろう。邪推だが、昨日の涙と何か関係しているのではないか、そんなことを思う。

 「何だよ。」

 「私、仕事も辞めちゃった。ごめんね。迷惑かけてるよね。出て行こうか、この家。」

 「は?仕事辞めたって、そんなことは別にいいけど、出て行くってなんだよ。お前彼氏に振られたばっかだろ?だったらますます出て行くべきじゃないと思う。」

 突然の言葉に俺は舌がもつれた。

 出て行くって、何なんだよ。

 「そうだね。そうだよ。でも、それでも私は、しょうがないじゃない。」

 しょうがないって何なんだよ。何でずっと一緒に暮らしてきたのに、いきなり出て行くだなんて言えるんだよ。

 そんな気持ちがぐちゃぐちゃなまま喉元までせりあがっていて、溢れた。

 「勝手すぎるだろ?お前、じゃあどうするんだよ。言ってみろよ。」

 俺は幸の発言の真意が読み取れなかったから、つい、強気な暴言を放ってしまった。

 しまった、そう思った時にはすでにもう手遅れだった。

 「………。」

 泣いていた。幸は昔から強い言葉を受けるとすぐ涙を流してしまうのだ。

 ごめん、そう言おうとしたけれど、うまく言葉が出てこなかった。

 「後悔したくないの…。」

 震える声で彼女は呟いた。

 「私知ってるの。お兄ちゃんも父も母も、偽物だってこと。だから私、もう行くしかないの。」

 そう泣きながら、言っていた。

 俺はその事実に呆然とするしかなかったし、誰も幸には本当のことは言っていないはずだったし、なぜ?そんな疑問の声が渦巻いていて、俺はもうぼんやりとするしかなかった。

 ああ、これで終わりなのか、そんな間抜けな感慨が胸の中を突き抜けるだけだったのだ。

 

 里穂が帰ってきた。

 あの子は事件に巻き込まれていた。

 だが、記憶がないという。

 私はぼんやりと仕事終わりに近くのカフェへと立ち寄った。この中で本を読んでいると何か自分を取り戻したような感覚を抱けるのだ。

 自分を取り戻すって、いまいち言葉にはしにくいのだけれど、仕事ですり減らした自分という存在を磨いて、明確にさせていくような、もやがかかった銅像をピカピカにするような、そんな感じなのだと思う。

 「はあ…。」

 一息ついたら自然とため息が出てしまった。

 里穂が現れて、私と玄君は非常に驚いていた。マジでヤバイ、実際に現実になってみるとイマイチ実感が湧かない、そんな不思議な感覚を共有していたのだと思う。

 あの子、何だか大人になっていた。

 中学生の頃の印象とだいぶ違う。なのに記憶は中学生のころで止まっているって言うから本当に驚く。だってそれって今見ている世界は中学生のころとそう遠くない感覚で捉えているってことだと思うから、それなのにあのこは非常に卓越していて、言葉遣いも仕草も、私なんかよりずっと優れている。大人びていて、立派なように感じていた。

 「………。」

 黙ったままコーヒーをすすっている。

 ひどく苦い味なのだが、私はもう砂糖を追加しようという気力も起きない程疲れていた。そんな体には、むしろこの苦いコーヒーが良く沁みわたる様な気がしていた。

 プルルルル。

 電話をかけないと。

 そう思って私は少し嫌そうにおずおずと受話器を持った。

 「あ、玄君ですか?」

 「…そうだよ。」

 玄君に連絡を取った。今度落ち着いたら一回連絡を入れると約束をしていたから、今がその時なのだった。

 玄君は里穂に話しかけたいことがいっぱいあって、でも里穂は怪我をしていて病院に入院していて、退院した今も通院を続けていて、とてもじゃないがそんな余裕はない。

 一般的な感情で考えて病み上がりの人間にそこまで強く問いかけるのは虐待に当たるだろうとも思う。

 でも、

 「あのさ、里穂。記憶ないんだろ?記憶ないって、ずっと行ってたじゃん。でも俺、あんなに大人になったあいつ見てるとイマイチ信じられないんだ。だって、記憶が無くてずっと眠っていたってわけじゃないらしいし、ある時にそれまでの記憶を失ったってことだろう?本当に俺なんかには想像ができない程苦労していて、どう言葉をかけていいか分からないんだ。」

 「うん。私もそんな感じのこと思ってた。ずっと知ってた里穂じゃない、確実に私達とは違う何か大きな経験を積んでいるように感じた。本当に、そのくらい変わっていたから。」

 「だよな…。」

 妙な沈黙が続く。でも私たちは幼馴染だからこの沈黙もあまり怖くは感じない。

 そしてしばらく時間がたった頃にフッと彼が呟いた。

 「里穂、やっぱりおかしかったよな。」

 私は息を呑む。そうだ、その通りだ。私はだから頷く。

 「里穂は、あんな奴じゃなかった。しかも何も知らないって言っていたけれど、俺たちの所に現れた時は何か含みのようなものを持っていて、絶対に何かを知っているって感じた。知っている上で、俺たちに会いに来た。そう、感じた。」

 そうだ。里穂は確実に何かを掴んでいるようだった。

 そして、私たちに会いに来た。

 そう思うと背中が寒くなる様な、嫌な感覚が込み上げてきて上手く拭えないのだった。


 俺たちが知っていることはあいつの、夕の母親が里穂に危害を加えたということだけだ。

 つまり、夕の母親が犯人だったってことを。里穂は、それを知っていて、俺たちの様子を窺いに来たのだ。犯人の娘と、そいつと一緒に居る俺のことを、偵察に来たのだ。

 それを、はっきりとその場にいる全員が分かっているのに、あいつは平気な顔をして、俺たちの前に現れた。それが末恐ろしくて、本当に不気味に感じて落ち着かない。

 里穂は、だから一体どのような目に合ってきていて、どのような経験をしてしまえばあのような歪な顔をできる人間になろうのだろう、そんなことを俺は考えていた。


 あの後、私は急いで菜種の元へ向かった。

 久しぶりに見た夕はひどくやつれている印象だった。それもそうか、夕は今もずっと母親の水紀と暮らしているのだし、あの女と暮らしているならばそりゃあグレるだろう。それは仕方が無いことだ。 

 菜種が私と共に暮らしてくれている。もう私たちは親友といっても過言ではないと思う。親友という言葉は最早私たちのために存在しているのではと思わずにはいられない程、しっくりとあてはまっているように感じた。

 「おかえり。」

 「ただいま。」

 私が帰宅するとすぐに菜種は出迎えてくれる。

 菜種は人懐こい笑顔を浮かべながら、今日の出来事をツトツトと語ってくれる。

 だけど私には一つ疑問があるのだった。

 菜種は、夕と親しいんじゃなかったのだっけ?

 夕と中学生の頃もよく一緒に居るという印象だった。だけど菜種は私だけが大事だと言っていたし、私もここまで世話をしてもらったらそれを認めないわけにはいかない。

 だけど。

 「ねえ、菜種ってさ。最近仕事辞めたんだよね。あのさ…言いにくいんだけど、菜種って夕と親しいんじゃなかった?私の記憶だとそうだもの。」

 少し間があって彼女は言った。

 「そうよ。」

 一言、そう言った。

 「じゃあ何で、夕とは?今も一緒にいるの?仲良くしてるの?」

 勢い込んで言い募った。だが私は知りたかった。菜種は私の味方をしてくれるけど、イマイチ本心が掴めなくて不安だったから。

 聞いてしまったのだ。

 「大丈夫。私は夕さんとは今も仲良くしてるけど、それは水紀を監視するっていう目的もあるから。夕さんは良い人で、母親と違ってとても良い人だから、私普段の生活では夕さんしかいなくて、相談とか遊びとか全部、あの人にしてるの。」

 菜種は不安そうに揺れた顔をしながら私の方を見た。

 その顔は私に信じてくれと強く訴えかけているように感じられた。

 私は、「違うの。水紀のことは夕とは関係ないもの。私も夕にはよくしてもらったから、もちろん恨んでなんかない。まあ、複雑な感情はもちろんあるけど、夕はとてもいい子だと思うの。」

 必死で言葉を紡いで泣きそうな菜種を安心させてあげたかった。

 じゃあ、もう大丈夫と二人で言い合って、また今日も一緒に夜通しテレビゲームに興じていた。私たちの仲直りはこのようなもので済んでしまうのだ。本当にあっさりとした私達だけの関係なのだと思う。


 あいつがいなくなって数週間がたとうとしていた。

 いや、正確には何週間だか数えていられなかったのだ。あいつがいなくなってから日付の感覚に疎くなり、生活もぼんやりとし始めた。前だったら執拗に気にしていた身だしなみも全く意識の外になってしまったのだ。

 あいつが、幸がいなくなってからは本当に自堕落な生活を送っていると思う。というか、俺にとって幸の面倒を見ることは生き甲斐だったのだといまさらになって気づく。それは本当に強いものでずっしりとしっかりと根付いているということにも俺は気付いてしまったのだ。

 なぜ気付いたかって?それはなあ、俺、食べられないし、寝られないんだ。

 生きてるってこと、全般がうまくできなくなっちまった。本当に、訳が分からない。

 つまり、どうやら俺は幸の面倒を見ることで、生かされてたってことらしい。

 気付いて、さらに深く後悔をする。

 

 「知りませんか?」

 町に出てビラ配りと情報収集にいそしむ。

 あいつがいなくなったと知って俺に取れる行動はそのくらいだったのだ。

 そしたら、「見たよ。」

 チンピラ風の男が話しかけてきた。

 年は50くらいじゃないだろうか。派手に決めて若作りをしているような印象だけれど、実際はより老けているようにも見えた。

 だからだいたい50くらいがいい所を言っているような気がする。

 「見かけたんですか?どこで?すみません、教えてください。」

 勢い込んで言葉を継いでしまった。何気ない口調で話しかけてきた彼は少し驚いた様子で、いや、でもちょっと似た人見ただけだからと走り去っていってしまった。

 そうだ、分かっていた。

 こうやってビラ配りをしているとこういうことがよくある、暇を持て余した人がただ漠然と声をかけてくるのだ。俺みたいなやつが知りたいことっていえば、探し人の情報でしかないから、それに付け込んで自分は知っていると吹聴してくる、これが定番。

 そして落ち込む、ひどく落ち込む。

 ああ、またやっちまったよ。失敗しちまった。どうでもいい奴が話しかけてきてるって普段の俺ならすぐわかるはずなのに、なぜか気付けない。

 俺はもう少しどこかがイカれているのかもしれない。

 少し前に知り合いが幸を見かけたと言っていた。

 そいつは幸の同級生で、でもあいつの友達などではなく幸を馬鹿にして何かと突っかかっていた優等生だ。勉強さえできればそれでいい、そうじゃない奴はゴミだと平気で吐き捨てることのできるやつなのだった。

 「どこで…?」

 だから俺はぼんやりと聞いた。

 幸に対して良くないことをしていたコイツに会話なんてものをしてやるのも嫌だったが、仕方ない。今は何か情報を仕入れることが最優先だ。

 「教えてくれよ。」

 俺の濁った、でもギラリとした目が怖いとそいつは言っていた。だけどこう教えてくれた。

 「泣いてた。ずっと泣いてた。あまりにもすごく泣いているから誰も声をかけられなかった。それでしばらくして様子を見に来たらいなくなっていた。」

 そう言っていた。そいつもやっぱり心配で、あまりにも様子がおかしいから気にしていたのだと言っていた。

 俺はそれを聞いてそれはそうだろうと思った。

 だってあいつは、兄である俺とも、両親とも血縁ではないと知ったのだから、その思いを俺にぶちまけたのだから。

 きっと世界が足元から揺らぐような衝撃を受けたのだろう。そう思った。

 俺は、だからそれ以上の情報を今手にできていなくて、ただ不安で仕方なかったのだ。

 一体、どこに行ってしまったのだろう。本当に分からなくてただ茫然とするしかなかった。


 「幸が見つかった。」

 「あ…。」

 見てしまった時にはもう手遅れだった。

 テレビ画面に映る幸の顔はただ笑っていた。

 幸は、もう帰ってこない。それだけが事実なのだった。

 それと同時になるのだろうか、警察から連絡が来て俺は出かけるために靴を履いた。つんのめって転びそうになりながら、マンションの階段を駆け下りた。

 「あなたが、羽田幸さんのお兄さんですね?」

 警察官はそう言った。だが俺は何のことを言っているのかいまいち理解ができなかった。だって、幸は、俺は、郡司ぐんじという名字なのだから。郡司幸、郡司隆之介。

 だから、「違います。幸はハタなんて苗字じゃありません。」そう言い切った。

 「いや、身分証明書にははっきりとそう記載されています。携帯を見たらあなたの番号が登録されていてお呼び立てさせてもらったのですが、近しい方ではないということでしょうか?」

 警察官は疑問を浮かべた顔でこちらを疑うように顔つきで、俺を見ていた。

 俺はうまく口から言葉が出てこない。

 でも鈍い頭の動きの中でも少しだけ思い出すことがある。

 幸は、両親と縁を切ったのかもしれない。俺の、両親と。俺はまだ地味に交流を続けているのだが、幸はきっと違うのだろう、そう思っていた。

 だから、もしそうだとしたら、幸は元々の名前と苗字に戻ってもおかしくない。最近あいつの様子がおかしかったのも、なおさらこの理論に根拠を与えている。

 「では、誰かご親族の方ご存知ですか?いや、誰とも連絡が取れなくて。住民票によると一人暮らしのようですが、戸籍もご本人のみのもので、全く血縁者の居所が分かりません。だからあなたしか連絡を取る手段が無かったのです。」

 警察官はやや困った顔をしながら俺の方を見つめていた。俺が動揺していることを察したのか、幸が無縁な人間であると分かったからなのか、その目は先ほどと変わってどこか同情を含んでいるような目をしていた。

 だけど、何で?

 俺が知りたいのはそういうことじゃない。俺が望んでいるのは、ただ幸が無事であるということだけなのだ。

 

 幸は、眠ってしまって起きない。起きれない。意識がない。目覚める保証はない。

 そして、激しい傷を負っていて、なにがしかの事件に巻き込まれたということだ。俺は、目をふさぎたくなるような幸の傷ついた体を直視することができない。

 「あの、つまり俺が警察に呼ばれたってことは、幸は何かの事件に巻き込まれたっていうことですよね。」

 俺は知りたいことを口にした。警察官はさっきから俺の様子を窺っているばかりであまりにも何も喋らない。その感じにもう耐えきれなくなっていた。

 だって、それはどうやら俺が疑われているようだったのだから。

 「…いやね。幸さんの近況を知っている人によれば最近あなたと喧嘩をして、激しい喧嘩をして家出をしたということじゃないですか。それって、やっぱりあなたが疑わしいんですよ。」

 何も遠慮をしていないのに、形だけ謙遜しているような、そんな不遜な態度でものを言っていた。

 コイツらは、分かっていたけれどやっぱり気に食わない。職業だからといって、もう少し確信を持ってから語ってほしいと思うのだ。

 だって、俺が、幸を傷つけるわけがない。絶対に、それだけはあり得ない。幸は、俺の中で一番大事な人なのだから。俺は人生の中で幸以上に大事だと思える人に未だ出会ったことなど無いのだ。全く、一度も。

 「違います。俺じゃないです。それだけは確実です。」

 言わないわけにはいかなかった。口から言葉がするするとあふれ出しだ。

 そうしたら、ギラリと光る眼光を俺に向けた男が言った。

 「まあ、まあ。言っていることは分かります。もちろん分かります。でもね、あなたたちの家庭、複雑だったんでしょ?幸さんは養子で、あなたは実子だ。やっぱり、色々な感情が渦巻いていても仕方ないと思うんですよ。はは。」

 嫌味な言い方だと分かっているのだろうか。無垢な顔をして自然に言っているのだとしたら相当たちが悪いということに気付いているのだろうか、俺の頭の中に浮かんだのは、そんな怒りのような感情だけなのだった。

 俺はその場を何とか切り抜けて、もちろん証拠など何もなかったし、ただ疑われているという状況だけなのだから、解放された。

 今、だから今。俺は探さなくては、幸を、一体幸に何があったのかを、一体だれが幸をこんな目に合わせたのかを、真実を見つける、俺が今優先するべき課題はそこなのだとより一層認識していた。

 

 「なあ、お前幸のこと知ってるって言ったよな?」

 幸を見たという同級生にコンタクトを取った。もう一度話を聞いて、詳しく状況を把握したい。その一心で電話をかけた。

 「…はい。あの、幸さんが事件に巻き込まれたって、テレビで見て驚いています。」

 どこか頼りなさげな声を出しながらそいつは言った。

 「ああ。そうなんだ。だから教えてくれないか。あいつは、一体どんな様子でどこへ行こうとしてたんだ?」

 俺が勢い余って問いかけると彼女はこう言った。

 「実は、少し話をしたんです。何か久しぶりだったし、結構話してみたら楽しくて、また会いたいなって思う程だったんです。お互い大人になったというか、そんな感じでにこやかに別れたのに、こんなことになるなんて、驚きました。」

 「そうなんだ。それで、幸は何て言ってた?どこへ向かって行った?」

 「その、話は大したことしてません。最近どう?とかそんなこと、あの子は毎日楽しいって言ってました。でもそれは嘘だって分かってました。だって泣いていたんだから。それで向かっていたのは駅の方です。町の方に用事があると言っていました。」

 「そう。なあ。」

 「…はい。」

 俺は少し息を呑んで尋ねた。

 「お前、最初幸が泣いていて誰も声をかけられなかったって言っていたよな。」

 「そうです…。けど?」

 「だよな。じゃあ、何でお前は声をかけたんだ?なぜ?誰も声をかけようとする状況じゃなかったのに、なぜお前は声をかけたんだ?」

 少し間があって、彼女は言った。

 「それは…。最初は見かけてひどい様子だったから無視しようと思ったんです。でも、昔から知ってる子だし、そのままにしておくのはよくないと思ったから、声をかけてしまったんです。でも結果的にはよかったと思っています。彼女は泣き止んで、笑顔まで見せてくれたから。少しだけ勇気をもって声をかけて良かった。そう思ってます。」

 「ああ、ありがとう。どうやら君だけみたいだから。ひどい様子だったあいつに声をかけてくれたのは、それはすごく感謝している。ありがとう。」

 「あ、はい!」

 俺はそのまま受話器を置いた。

 公衆電話からかけたのでだいぶ料金が加算されていた。

 携帯を忘れて、手当たり次第に電話を探してやっと見つけたのだ。教えてもらった番号を控えていたからすぐ繋がった。

 その子は、幸を気にかけてくれるいい子だった。

 それ以上の情報をほとんど何も得られなかったけれど、幸を気にかけてくれる子がいるという事実だけで俺はどこか救われていた気がする。

 

 「………。」

 何もできないままここ数週間閉じこもりっきりだ。

 部屋の空気も何だか淀んできているような気がする。このままこの淀んた空気が広がっていって、私にまとわりついて離れないのでは、という夢を見た。

 それは今朝のことだった。

 「お母さんが、犯人なの?」

 私は母が逮捕されてから数日後、面会へ行った。

 母はさほど憔悴した様子もなく、割と笑顔を見せていて少し怖かったことを記憶している。

 どぎまぎとした感情を抑えながら私は母に言った。

 「ねえ、本当に?」

 「お母さんが犯人なの?」

 「何で?何で里穂なの?私が…もしかしたら関係しているの?」

 次々と言葉が出てきていた。自分で思ったよりも多くの言葉が、次々とあふれ出てきた。

 そうしたら、お母さんは言った。

 「ねえ、夕。お母さんが犯人だと思うの?私が里穂を傷つけたと思っているの?ねえ、どうなの?」

 母は、問いかけるだけだった。

 何かを主張するのではなく、ただ私に問いかけるだけだったのだ。

 「お母さん。私に聞かれても分からないよ。私は、お母さんがなぜ捕まってしまったのか、それが真実なのか、知りたいの。だから教えて!」

 この打開できないモヤモヤについ強い言葉を放つことで解消しようとしてしまった。

 そして面会時間はそのまま終了し、私は何も掴むことなどできなかった。

 一人部屋へ帰って呆然としながら考えていた。

 そうだ、そういえば母は昔からおかしなところしかなかったと。

 私もその母に育てられたのだから、世間一般の常識とは違うものが常識となり備わっているということ。

 だから私は社会にうまく適合できないのだろうか。だから私は、何もうまくなど行かないのだろうか。そんなことをぼんやりと思っていた。

 母は、あの人はいったい何者なのだろう。

 そこまで考えが行き着いて、そこが私の知りたいポイントなのだと自覚した。

 私が知りたいのは、そういうことだ。きっと。

 今しばらくは店に出ることもできないし、それは店のみんなも店主も理解してくれていてすごくありがたかった。だけどその裏には多分私のような加害者の娘を店先には立たせられないという嫌悪もあるのだと分かっている。

 分かっているから、なおさら辛い。

 ただでさえ私にとっては、店は唯一の居場所だったはずなのに、そこでさえ簡単に失われていくし、居場所は壊れていく。

 私は、そこが壊れたらもう何もない。

 家族も友人も全て。

 何も築いてこなかった。

 いや、築くことなどできなかった。

 何だか暗い穴の底に閉じ込められたような気分になりひどく落ち込んでいた。

 その日は、そのまま終わった。


 私は、私には夕しかいない。

 私は、夕をただずっと大事にしたいだけなの。

 だけど、できないわ。

 上手にできないの。

 頑張っても、どうやらあの子を傷つけているみたい。

 私って、おかしいのかしら。

 思い返してみたら、全部おかしかったわ。多分、私がおかしくてあなたはまともなのかもしれない。だって、そうじゃない。私がおかしいのなら、あなたたちはまともなはず。

 私は、人を殺した。

 私は、悪人だ。


 日記を読んだ。

 母の部屋から出てきたそれにはひどい文面が整った字で書き綴られていた。

 私はその点が母らしいなと微妙に納得した。母はざっくりと言って訳の分からない奴だ。昔から得体が知れなかった。だが私には母しかいなくて、その状況を恐ろしいなどと思ったこともなかったのだが、今になってみてこの事件のことも踏まえて、私たち親子は異常だったのかもしれないと思った。

 異常に異常を重ねていき、まともが何なのだか分からなくなってしまったのかもしれない。

 母はだから、一体全体、もう、何人もの人を殺しているという。

 その中に、私の父親も入っていて、私は全身から身震いというものを感じ、止まらなかった。

 「お母さん、お母さんは本当にお母さんなの?」

 この言葉だけが真実なような気がする。

 この言葉だけが、母を、あなたを疑うことのできるただ一つの真実なのだと断定できる。いや、断定したいのだ。


 天井を見つめる。

 そこには何もなく、ただぼんやりとした闇が広がるだけだった。

 俺は、もう何もしたくはない。

 だって、この世は恐ろしいのだから。

 引きこもってどのくらい時間がたったのだろうか。

 俺は里穂に何も言うことができなかった。

 俺は夕に何か言葉をかけることができなかった。

 俺は無力だ。本当に無力だ。何をしても無力だ。本当に無力だ。

 繰り返し繰り返し同じ思考が繰り返されていて、辟易する。辟易しているはずなのにやめられない。

 この繰り返しをしばらく続けていた。

 しばらく続けていて、気づいたのだ。

 俺は知りたいのだと。

 はっきりと、このぼんやりと起こった悲劇をそのまま埋もれさせないで明らかにするのだ。

 俺が、神地玄が、見つけるのだ。


 パッパー。

 久しぶりに来た繁華街。

 この町には用事があってやってきた。

 この街には、里穂が住んでいるのだ。

 里穂は、あの後、事件に巻き込まれた後俺たちが住む街を出て行った。それはそうだろう、あんな恐ろしい町にはもう住めないというのは事件被害者にとってみれば当然の感情なのだと思う。

 だけど、里穂は夕の後輩、木戸菜種というやつと一緒に住んでいるらしい。そいつは里穂を囚われの状況から救い出したあながち王子様といっても過言ではない程の活躍を見せたということだ。

 だから一緒に住む。それももちろん分かる。

 

 でも、俺は木戸菜種を知っているんだ。昔から、ずっと。

 あいつは変なやつだった。

 掴みどころが無くてどう扱えばいいのかいまいち分からなかった。分からなかったからどうしようもなかった。だから関わらないで置いたのだけれど、あいつはしていたのだ。

 俺の妹を、いじめていたのだ。

 凄惨に、それも本当にひどく手に負えない程。

 俺は、でもその事実を隠している妹をたてるために関与しなかった。

 だから今でも後悔している。

 何で助けてやらなかったのかって、こうなってからじゃ遅いんだって、その時気付ければ良かったのだ。

 「佑季ゆき。」

 呼びかけても返事はない。妹は完全に心を閉ざしてしまった。俺はだからずっと妹の世話をしながら働いている。

 妹は、一向に動き出そうとしない。

 だが、俺はそれを責めることができない。


 「ピンポーン。」

 チャイムが鳴った。

 出ようか出まいか悩んだが、まあ出てみるかと玄関へ向かった。そして後悔した。

 「あんたが、木戸菜種だよな。」

 そこに立っていたのはかつて激しい喧嘩をしていた相手、神地佑季の兄で、玄という男だった。

 「あんた、神地玄でしょ。」

 思ったより汚い言葉が口をついて出ていた。

 私は、コイツの妹佑季とは本当に仲が悪い。あの子とは目を合わせるたんびに意地をはり合っていた。

 お互い地味だったし何となく一緒に居ることが多かったけれど、本当は私たちは一切気など合っていなかった。

 それなのに、なぜ一緒に居たかって…。

 それは単純明快だ。私たちはお互いクラスの中で浮いていて、友達がいなかった。だから仕方が無いから一緒に居たのだ。何か話そうと思っても全く会話が浮かばないし、とたん一言言葉を発すれば互いにイラつき合っているのが感覚的に分かる。

 そういう存在。

 だから、こんな奴になど会いたくなかった。なのに、何で?何でいまさらになってこの男は私のことを尋ねてくるのだろうか。どうして、何で。

 「佑季のお兄さんですよね。」

 「ああ、そうだ。」

 「………。」

 沈黙が空間を支配する。

 私たちはなぜだかにらみ合うような格好になっていた。

 ていうか、私は里穂との暮らしを始めていたからこんなどうでもいい訪問に手をかけている余裕などないのだ。

 でももしかしたら、里穂の知り合いなのかもしれないと、思っていた。

 だってコイツと里穂は同学年で、知り合いであっても決しておかしくはない。というかむしろ、里穂と見つけたこの新しい住居をなぜこの男が知っているのか、それはきっと里穂のことを知っている誰かから聞いたのだ。

 それはつまり、コイツはなにがしかのつながりが里穂との間にあるという証明にもなるのだと思う。

 はあ。

 「もしかして、誰かから聞いたの?私のこと。」

 思い切って聞いてみた。

 「ああ。羽田夕から。というか里穂から直接教えてもらった。」

 え?

 里穂から?

 何で?

 「里穂と知り合いなの?」

 口をついて出た言葉は最初に浮かんだ疑問だった。

 「ああ。昔からの幼馴染だ。」

 そうなのか。何という偶然だろう。私の住んでいる町は狭かった。私の住んでいたあの町はとても狭かった。本当に狭かった。

 「それで、え、じゃあ何をしに来たんですか?もしかして、佑季のことですか?」

 私はまあそうだろうと思っていたことを口にする。

 まあそう、そうだったのか。

 でも一体何だというのだろう。私の問いかけにただ頷いている男の顔を見つめながら私はぼんやりと考えた。

 「私、知ってます。佑季が引きこもっていること。でも、確実に誤解があることだけは分かります。私は決して佑季にひどいことなんかしてません。誤解しています。」

 「は…?」

 何だと言いたげな顔でこちらを見てくる、玄の顔はひどく歪んでいた。

 だが、私は決して佑季をいじめてなどいない。それは確かな事実なのに、佑季は勝手に引きこもって家から出てこなくなった。

 それだけのことなのだ。

 中学生の頃、佑季と同級生だった頃何があったのかって?

 それは、すさまじい喧嘩の日々だった。

 お互いににらみ合って比較し合う。

 お互いがお互いに陰険だった。

 醜かった。

 だから忘れたいのだ。

 どちらかが悪いなんてことではなかったように思う。

 私たちはお互いが認められなかった。好きじゃなかった。ただそれだけなのだと思う。

 でも引きこもったと人づてに聞いた時には思った。もしかして私のせい?と。お互いがひどく苦しかったあの頃のことを考えると全てが私のせいなような気がしてならなかった。

 「俺はお前が佑季をいじめていたって、人から聞いたんだ。違うのか?」

 「違います。私はいじめてなんかいないし、佑季が蹴ってきたら私も蹴り返しました。それはお互い様だし、苦しかったけれど私たちにとっては事実なんです。だからきっと、妹さんが引きこもっている理由は違うものなんじゃないでしょうか?」

 それが今の私が出せる結論だった。

 佑季は、強い子だった。だからきっと何かもっと深い事情があってお互いをけなし合ったあんな過去よりもっと、ひどい目に合ったのだと思う。全てを一緒に経験して きた私にとって、それは確信でもあった。


 震える手を抑えながら俺は受話器を握る。

 その手を意識しまいと力を込めながら座卓へと向かう。

 「里穂…。」

 出た言葉はざっとした嘆息のようなものだった。俺はそれを少し恥じながら誤魔化した。

 「久しぶり。おほん。急に電話して悪いな。この前教えてもらった連絡先にかけてみたんだ。お前のこと気になってたし、やっぱり話がしたいと思っていたから。」

 「そうなんだ…。」

 手汗がすごい。すごく緊張しているのが分かる。俺は確実に動転している。

 どうしよう、そんなことばかりが頭の中を支配していた。

 そうしたら、里穂の方から返事が来た。

 「あの、玄君。私もすごい久しぶりだなって思ってる。記憶は中学生のころまでしかないけど、いや、だからこそ玄君たちのことはすごく近く感じるの。正直に言って、私は夕のお母さんに監禁されていた理由は分からないの。でも夕のことは友達だと思ってるし、憎めない。私は夕のことをちゃんと知っているから、なおさら憎めないのよ。」

 「ああ…。そうかもな。」

 急に話し出した話は俺、というより夕のことだった。

 それは当然のことなんだろうけれど、俺はただ里穂と話がしたかったのだから、少し落胆してしまった。

 でも、そうだ。今の里穂にとってはなぜ友達である夕の母親に自分が監禁されていたのか、その理由を知ることが一番大事なことなのだと思う。それこそが最も大事で、最も知らなくてはいけないことなのだと思う。

 だから、「夕な。最近はずっと家にいるらしい。もう外には出れる状態じゃなくて、ずっと。それであいつ母親の面会に行ったんだって、そうしたらもう母親はまともじゃなかったって、言ってた。」

 「それって…。まともじゃないって、どういうことなの?分かる範囲でいいの、教えてくれない?」

 「ああ、そうだな…。夕が言っていたのは何も言わないってことらしい。何も、自分が犯人なのかどうかも、断言しないって言ってた。」

 「…うん。」

 ギリギリと突き詰める様な話になってしまった。だから里穂の顔は少し歪んでいるのだろうか、それが電話越しでわかる様な不安定な声にすり替わっていた。

 俺はもう続きを語れないから、何も知らないから、別のことに話題を変えようとしたんだ。

 「それでさ、里穂は今どう暮らしてるの?困ってることとかあるだろうから言ってくれよ。」

 自然を装って話題を転換させた。

 そうしたら少し和んだのか里穂の声色は明るくなった。

 「今、私あの町には住んでない。私を助けてくれた人と住んでるの。多分知ってるかもしれない、夕と仲がいい子だから。下級生よ、一個下。木戸菜種っていうの。知ってる?」

 知ってる。

 俺は叫びだしたくなるような声を必死に押しとめて内にしまった。

 知っている、知っているのだ。

 だって、木戸菜種は妹の佑季をいじめていた女。忘れるわけがない。

 「ああ、何か聞いたことがある…。」

 だけど俺は濁した。けれど俺はそいつの情報を知りたい。妹を苦しめたやつのことを知りたい。

 だから、「その人とはうまくやっていけてるの?」と、様子を窺う様な事を口にした。

 そうしたら里穂は、「当り前じゃない。命の恩人よ。すごく仲がいいわ。」と朗らかに答えた。

 それを聞いて俺は何かのスイッチが入ったのか、その後里穂から家の場所と里穂が在宅していない時間で菜種だけがいる時を丁寧に聞き出した。

 後から振り返ってみるとその時の俺はひどく濁っているように感じた。


 「つまり、佑季のことはいじめていないってことだろ?じゃあ、佑季と話してやってくれよ。仲が良くなくても長く一緒に居たんだろ?だったら、頼むから。」

 動転した様子でその男は頭と視線を下にした。

 私はそれを見て思った。多分この人は知りたいのだ、自分の妹が引きこもってしまった原因を、何でもいいから形にして目に焼き付けたいのだ。きっとそうしないとこの人は一生安定することは無い。気がかりになって、のどに刺さった骨のような感覚を抱き続けるのだと思う、一生をかけてずっと。

 まあ気の毒だなとは思うけれど、佑季のことと私を勝手に紐づけるという短絡的な発想は解せないし、悪くないはずの私を憎んでいただなんてとんだお門違いだ。

 そんな冷静な感覚がこの男の頼みを拒もうとしている。

 だって、今はそんな状況じゃない。

 叫び出してやりたかった。

 この男も知っているはずだ。私と里穂が命からがら生き延びたってこと。なのにどうしてすぐ人って、自分のことばっかりになってしまうのだろう。

 ねえ、どうして?

 その言葉は私の冷たい視線に代えられていた。

 だから、男は、玄は少し困惑した顔をして見せた。

 私の少し意地汚い部分が、この哀れそうな男に問いかけた。

 「いいですよ。私で大丈夫なら。でもあなたは私のせいで佑季が閉じこもってるって思っているんでしょ?いいのかしら。」

 投げやりな言い方で吐き捨てた。

 彼はさらに困惑した顔をして見せて、私はもっと強い口調を使ってしまっていた。

 「だから、そうじゃない。私ずっと疑われてたってことでしょ?そんなことだったらきっとあなたも嫌だと思うはずよ。同じ立場だったら、ねえ。私は別に佑季と仲が良かったわけでもないの。ただ、助けてあげてもいいけど、私は今、できない。だって知っているじゃない。私は、私と里穂二人を守っていかなきゃいけないの。二人だけなの。二人だけで生きて行かなきゃいけないのよ。」

 そうだ、これが言いたかったんだ。だから私はコイツに対して不躾にもやもやとした感情を抱いていて、吐き出したのだ。

 「嫌よ…ってこと?」

 うつろな目で問いかけてきた。

 私はその目のあまりの空虚さに少しひるんだが、言い放った。

 「そうよ。それはそうじゃない。」

 「だけど、頼む。」

 直後に来た返答はシンプルなものだった。とても、シンプルに、言い切った。

 私はこの男もかなり混乱しているのだと理解した。同級生が事件に巻き込まれて、妹がその事件の関係者と知り合いで、しかももしかしたら自分の妹にひどい目を見させた奴なのかもしれないと、思い知った。

 確かに、まあそう考えればそうなのかもしれないと思った。

 なんだか急に体中に入っていた力が抜けて私は久しぶりに佑季に会うことを決めた。


 「どうぞ。」

 少し緊張した声で、「おじゃまします。」と空っぽの玄関に向かって私は言った。


 「別に、ただ話してくれればいいから。前もってちゃんと佑季には呼ぶよって伝えてあるから。それで特に拒絶反応もなかったから多分大丈夫だと思う。だから、よろしく。」

 短くそう言い置いて玄は去った。

 私は思ったより緊張していない自分に気付いた。やっぱり中学の頃の同級生だからか懐かしさもある。

 「ガチャ。」

 「入るね。」

 そう言ってドアを開けると、

 そこには何も無かった。

 物も何も、空っぽだった。

 ただ一人佑季がうずくまってベッドに横たわってるだけだったのだ。

 「佑季…だよね。久しぶり、え、大丈夫?横になってるけど、具合でも悪いの?」思わず言葉が出てしまう程異様な様子だった。

 だけど、彼女は言った。

 昔と何一つ変わらないあのスッと通る甘い声で、

 こう言ったのだ。

 「久しぶり…。わざわざ来てくれたんだ、ありがとう。懐かしいね、お互い喧嘩ばっかりしていたけれど、私にとってはいい思い出なのよ。何ていうか、同じ年の子と本気で関わり合ったというか、私のけんかっ早い本当の性格を出すことができたというか、菜種。あなたはそういう子なんだよね。きっとそこがいい所なんだと思う。」

 ずっと家に閉じこもっていた割には明朗に私に今この瞬間の感想を伝えてきた。

 私も、すごく懐かしかった。

 そう思ったとたんお互い顔を見合わせて笑ってしまった。

 ああ、思い込みなんか捨てて、こうやって誰かと、仲直りしたかった誰かと笑い合えるって、こんなに心地いいことなのかと思った。私は、なぜだかすごく幸せな気分になった。

 そうだ、違うじゃないか、切り出さないと、本当の目的を、この子に伝えなければいけない。

 「急で悪いんだけど、あの、佑季のお兄さんが会ってくれて言うから、最近閉じこもってて気にしてるからって。お節介かもしれないけど、何でか理由聞いてもいい?」

 ちょっと視線をそらした佑季はでも答えた。はっきりと、すぐに。

 「…いいよ。別に隠すことじゃないの。ただ、少し外に出るのが怖くて、ダメなの。」

 ああ、この様子だったらもしかしたら何か社会生活で問題があったとか、そんなことなのかもしれないな、と思った。

 だけど思い返してみたら佑季はそんな子じゃなかった気がする。もっと我が強くて、引きこもりだなんてことは許せなくて、いや多分見下しているのかもしれなくて、とにかくそういう少し薄汚いくらいの意地が彼女にはあったと思う。

 だから何だか腑に落ちないのだ。

 一体佑季は何が原因で、こんな風にならざるを得ないのだろうか、分からない。

 「実はね、お兄ちゃんのせいなの。」

 え?

 「え?玄さんって人?」

 「…そう。」

 意外な答えだった。あんなに妹思いな兄のせいで引きこもっているというのか、なぜ?ああ、本当に分からなくなってきた。だって理由がないじゃないか、正当な理由が。

 「じゃあ、教えてくれる?」

 「うん、いいよ。聞いてくれるなら。」

 そう言って話し始めた内容は、過酷だった。

 到底聞くに堪える話ではない。あり得ない、いや、許せない。

 なぜ佑季の兄はあの様に平然としていられるのだろう、分からない。というか、そうだ、そういうやつだからこそ、ふんぞり返るのだ。


 佑季は、兄に生活を監視されていた。

 部屋中に監視カメラが設置され、自由などない。

 そんな人生を送らされていた。実の兄によって。でも、どうやら本人は自覚がないようで、悪いことだという自覚がないようで、どうにもできない。直談判しても、話が通じない。なぜ悪いのかと声を荒げる。

 佑季は、自分が汚いから監視されているのだと感じ、そんな汚い自分が外を歩いたら大惨事だろうと思い込み、外で息ができなくなった。

 だから、家出をしたいのだが、出来ない。


 つかつかと家へと帰宅する。

 佑季にまた来るからねと言い置いて、手を強く握って安心してって伝えて、私は帰宅した。

 玄関を出る瞬間、見つめる玄の顔を最大限さげすんだ顔で睨みつけた。

 だが、あの男は何も感じ取っていなかったようだ。

 本当、狂った野郎だ。

 人間って、みんなどこかおかしいのかもしれないけれど、私もおかしいのだろうか。傍から見てまともな兄と引きこもりの妹、でも実は異常な性質を持つ玄とそれに抗えない佑季。ちゃんちゃらおかしい。ちゃんちゃらおかしい。おかしいだろう、こんなこと。

 軽い憤りをこぶしとして握りしめながら私は家を出た。

 自分の家を出た。

 帰宅してすぐに。

 私は今夜にでも佑季を連れ出そうと思っている。

 今すぐ逃がしてあげないと、ダメだ。

 私には使命があって、今これが最優先事項なのだと自覚する。


 そして家に忍び込み、佑季をさらった。

 

 「佑季、どう?」

 「最高。久しぶりに空気吸ったって感じ。ありがとう。」

 佑季の目はキラキラと輝いている。

 私は自分の行いを正当化する。

 そうやって、異常は生まれるのかもしれない、そんなことをぼんやりと考えながら私は里穂と暮らす新しい住居へと走った。

 手をつないで、佑季と一緒に。


 「なあ、妹がいないんだ。」

 彼は焦っていた。だけど私はその行方を知っている。

 はっきりとこの目で見た。

 菜種と、里穂と、一緒に暮らしている。

 その理由ももちろん聞いた。完全にこの男が悪い。なのに、なぜこうも被害者面ができるのだろうか、不思議だった。

 「玄君…。聞いたけど玄君が悪いと思うよ。玄君、監視カメラで妹さんのこと監視してたんでしょ?」

 「それが…悪いかよ。あいつ目ぇ離したらすぐいなくなるんだぜ?危ないからさ…。」

 ああ、言い淀んでる。やっぱり悪いことだとは分かっていたんだ、だってうつろな目を泳がせているから、確実に。

 「じゃあ、もうそういうことだよね。妹さんのことはあきらめた方がいいよ。自由にしてあげて。」

 そう伝えた。

 玄君は答えを失った何かのようにしょんぼりとしていた。その何かがイマイチはっきりとしないのだが、私にはなぜか見覚えがあった。

 私は昔から自尊心が低かった。

 そんな私を玄君や里穂、周りの子供たちはよく遊んだり付き合ってくれたものだなと思う。というか、たまげる。

 私だったらそんなやつほっぽっておく。なのに、そんな玄君が、そんな寛容な玄君がなぜ妹を監視し地獄の中に閉じ込めたりしたのだろう。

 分からない。

 「ああ、分かった。羽田、夕。お前から伝えてくれよ、妹に。もう俺とは関わらなくていいから、自由に生きてくれってこと。」

 「うん、そのほうが玄君のためでもあるよね。」

 私は最近ずっと玄君と一緒に居る気がする。

 里穂のことで、今は里穂の元にいる妹の佑季のことで、結局私たちが一番誰かの中間に位置するのかもしれない、なんてことを思う。

 私は里穂や菜種みたいな関係は築けないし、だからそこには入ることができないし、そもそも私の母親はとち狂っていて、反応に困る。

 何だか現実はひどく遠いことのような気がして、薄ぼけてきた。薄ぼけたまま少し眠たくなってきた、…あれ?

 私は今玄君と一緒に居るのよね?

 何で…こんなに眠たいのかな。

 あれ?

 突然黒くなった視界に激しく困惑しながら私の意識は消失した。


 「できない…。俺には、佑季が必要なんだ。」

 意識の外からかすかな声が響く。

 その声は気味が悪い程鮮明だった。


 「気が付いた?」

 目の前が開けるとそこにいたのは、里穂だった。

 「大丈夫?ねえ、大丈夫?」

 「…え?」

 私はそう答えることで精いっぱいだった。それくらい訳が分からなかった。

 体はぼんやりとしていて上手く自由がきかない。

 苦しい。

 意識はどんよりとして重い、これはすごく鈍い痛みだった。

 「あのね、玄君が捕まったの。妹さんを監禁した罪で、夕から場所を聞き出して、また奪いに来たの。佑季は震えてた。私も怖くて動けなかった。でも菜種が、すぐに通報してくれていて、助かったの。本当に良かった。」

 「そんな…。」

 優しかったはずの同級生が崩れていく。

 玄君はとてもいい人だ。

 いい人なはずなのに、良くないだなんて、信じられない。信じたくないような気もする。だけど私はすごく怖い目に合ってそれでも生きていることができたという事実に、安堵する。玄君が捕まって近くにいないという事実に、安堵した。

 「里穂、私のせいで玄君捕まったのかな?」

 恐る恐る問いかけてみた。

 誰でもいい、否定してくれ。

 「絶対に違うわ。遅かれ早かれ、玄君は捕まっていた。だって、きっとどこかがおかしかったんだもの、仕方ないわ。」

 「そう…。」

 里穂は強く否定を示してくれた。

 だけど仲の良かった同級生の逮捕という事実は私たちに重くのしかかった。のしかかったまま離れなかった。それはすごく苦しいことだった。


 午後の喫茶店でためらう。

 今日の夕ご飯は何にしようか。これは一大事だ。とても重要なこと、私たち家族にとって。


 私は幼い夕を引き連れて家を出た。

 浩志君はもうダメだ。

 娘と共同生活を送れる状態じゃない。

 私がおかしいのか、彼が正しいのかそんなのどっちでもいい。私はただ、愛した人の娘を守るのだ。

 彼に出会って初めて、子供が欲しいと願った。

 親に捨てられて、親戚の家ではロクに食べることもできず、やせ細った。やせ細って、考える力も無くなって、何だか同年代の子と自分は違うのかもしれないと自覚し始めた。

 大人になって、きちんと食事をするようになり気づく。

 私は本当にまともじゃなかったって。まともになりようもない環境でただひたすら委縮していた。みじめだった。


 「たまに、泣きたくなるの。」

 イケない。夕に漏らしてしまった、心の声を。

 でも、この子は、こう言うのだ。

 「平気。ていうかお母さん大丈夫?お父さんがいなくても私は平気、お父さん好きだけど、お母さんの方が好きだもの。」

 どうしてこんなことを言ってくれているのだろう。

 私の人生の中で一番は夕だ。

 ぞんざいに扱ってごめん、でも私なりに一生懸命なの、でもごめんね。


 私は矛盾している、ひどく矛盾していた。

 夕が生まれたときに私はものすごい感動を覚えた。

 夕は私にそっくりだったのだ。顔も似ているし、ちょっと不安そうに目つきをキットしているところも似ていた。

 可愛い、と思った。

 この子は、私だ。

 私の分身で、まがいもなく私の子供だった。

 私は自尊心がとてつもなく低い。そんな私が幼いまだまだ無垢な夕を、守るのだ。愛するのだ。それは、出来なかった過去の自分自身を抱きしめてあげるのと私にとっては同等の意味を持っていた。

 「夕、夕。」

 近寄ってきてくれるだけで私はこれ以上ない幸福を覚えた。

 すごく、大事にしたいはずだった。

 なのに、出来なかった。

 私はやっぱりどこかが壊れているのだと思う。何かを大事にしたいと思えば、すればいいのに、できない。

 私は夕を遠ざけて、関わらないようにすることで精いっぱいだったのだ。

 一生懸命大事にしたいのに、私の中に潜む悪魔がそれを退けようとする。

 私は、出来損ないだったのだ。


 今日は久しぶりに出社した。

 バイト先は前よりも少し客足が多く、店主に事情をそっと尋ねると困った笑いを浮かべながらこう言った。

 「いや…何かマスコミが大勢来てさ、羽田さんの件で。群がってるから人気店なのかと思ったのか、ランチに来る人が増えちゃったんだ。」

 言いにくそうに最大限気を使って言葉を選んでいるようだった。

 その中にも不躾だと思う単語はもちろんあったのだが、それは私が最近委縮しているからなのだと思い込むことにした。

 「すみません。」

 そう言い置いて私はロッカールームへと走った。

 はあ、はあ。

 「ハアッ…。」

 ロッカールームに入った途端急に涙が溢れてきた。

 私は自分の感情を飼い慣らせないでいる。

 途端に押し寄せる泣きたいという衝動が強すぎて、殺せない。

 これは、一体どうしよう?

 でも、どうもしなくてもいいのかもしれない。

 私はもう、失う物など無いのだから。

 「着替えてきました。」

 久しぶりだったからみんなに声をかけることを意識した。

 意識して、緊張していた。

 迷惑をかけ続けているみんなの顔を見つめられない。だから私は視線を下に向けた。

 「気にしないでください。」

 肩を叩きながらそう言ったのは、一番年配のおばさんパートの人だった。

 割と人馴染みの良い人で、接客業としては即採用に至った人である。特に仲が良かったわけでもないのに、すごく苦しさを理解したといったような顔で、理解しようと伝えているような趣で、そう言った。

 「あの…ありがとうございます。」

 その場の雰囲気は一気に和んだ。

 きっと彼女のおかげだ。

 私はその人の顔をチラリと見る。すると、ニッコリとほほ笑んでくれた。私は恥ずかしくなって、少し顔を背けてしまった。


 ぼんやりと忙しい時間が終わる頃、思った。

 ああ、さっきの配慮は、きっとあの人にも何か苦しいことがあったのだろうと、推測する。本当にそのような配慮の仕方だと思ったし、気配を感じたから。

 パートだから途中でおばさんは帰ってしまうのだけれど、私は最大限気合を込めて「お疲れ様です。今日はありがとうございました。」とお辞儀をした。

 すると、「今度お茶でもしない?羽田さんが大変なの分かるからさ、少しでも誰かに気持ちを話した方がいいと思うよ。」と告げた。

 私は突然の誘いに少し戸惑ったけれど、今日の恩義があるからその誘いを受けた。

 「良かった。じゃあ、今度ね。場所とかは後々、連絡するね。」

 と言い置いて、自転車をこぎ帰って行った。

 何を話すのだろうか、私はいったい何を話したいのだろうか。そんなことをぼうっと考えていた。


 場所は駅前のビルだった。

 すごくお洒落で、私は行ったことがない店なのだった。

 「お疲れ。」

 仕事帰りの私を待っていてくれた彼女は、いつもよりラフな格好で出迎えてくれた。

 「お疲れ様です。今日は私のために時間作ってくださってありがとうございます。」

 「いいのよ。私もちょっとすぐに家に帰るんじゃなくて、寄り道したかったから、むしろ良いってことなの。」

 ニコニコと話す彼女は、どこか仏様のような雰囲気を醸し出していた。

 「それでね―。」

 店に入り席に着くとさっそく彼女が質問をしてきた。

 「夕さんの、羽田さんのお母さん。大変みたいね。」

 やっぱりすべてを知っていて、私を気遣っているのか、この人は。

 「はい、ご存知の通りだと思うんですけど、申し訳ありません。母のことだから、私が謝ることしかできなくて、すみません。」

 「ちょっとやめてよ。そんなことされたら困る。私は羽田さんに謝ってもらう理由なんかないわ。」

 この人は、仁良木冬子という名前なのだ。私は店長で名簿を管理しているから、よくフルネームを目にするし、知っている。

 「仁良木さん。そんな、だって私。責められて当然なんだと思うんです。だって、だって。混乱してるけど、母は私のお母さんだから、仕方ないんです。」

 私は勢い余って、つい乱れた口調で震えながらまくし立てていた。

 「そんなの…違うと思うわ。あなたはあなたで、お母さんはお母さんよ。」

 はっきりと、彼女は断言した。そう言われると、なぜだか心が安らぐような気がした。

 私は目の前に置かれたコーヒーをじっと見つめている。


 クリスマスの前日だった。

 12月24日、クリスマスイブ。

 晴れ舞台にはふさわしくない緊張を体中に蓄えながら、仁良木冬子は泣き出した。

 「お母さん、お母さん。」

 去っていく母親の背中を見つめていた。その背中はひどく冷たいように感じられた。私はだからそのまま直立して動けなくなってしまった。

 

 口がきけるようになったのはしばらく時間がたったお正月の頃だ。

 クリスマスの学芸会で突然いなくなりそのまま消息不明となった母は、まだ戻ってはこない。

 私は願っていた。毎日、神様に。

 「お願いします。私を今すぐ母に会わせてください。」

 すぐに願いは叶うだろうと心に決めていた。母親がいなくなるなんてありえない。だってあの人は私のお母さんなのだから。


 そう願い続けて、そう願い続けている内に、私は成人した。

 そして悟る。

 もう母は帰ってこないってことを、知ってしまったのだ。

 涙はなぜだか出てこなくて、人からはよく枯れた木のようだと揶揄される。私は呆然と突っ立って、言葉がうまく操れない。

 それは、ひどく苦しくてもどかしいことだったのだ。

 「冬子。好きだ。」

  彼がそう言ってくれたのは、私がもう30になろうとしている頃だった。

 30になったら、死のうと決めていた。

 死ねないなら、自分で死んでやろうと決意していた。

 私は、そんな人間なのだから、もう、いい。

 不思議とそう思う瞬間だけ私の目には涙が溢れる。溢れて、止まらなくなる。そして、ひどくすっきりとした気持ちになるのだ。

 やっぱり、不思議なことだと思った。

 彼は、同じ会社の同僚と連れ立って行った旅行先で出会った。

 一人旅でツーリングをしていた窓見そうみくれぶは、平凡な会社員だった。私はその雰囲気に自然と惹かれていて、声をかけてしまった。気づいたら、そうしていたのだ。

 「あの、バイクで来られてるんですか?」

 彼はバイクの手入れをしていた。ひどく様になっていて、格好良かった。

 「ああ、そうです。あなたは旅行?」

 「はい。近くの温泉に行きたいんです。」

 隣でニマニマと同僚が笑っていた。後から聞くと、もう二人だけの世界っていうか、そんな雰囲気だったよと教えてくれた。

 すぐに私たちは仲が良くなって、というかもう出会ったその日からどうやらお互いのことが好きになっていた。

 会わない日に私は、ぼんやりと彼のことを毎日考えている。生理現象というか、激しい程にめまぐるしく体中から彼が好きだというサインが発せられていた。

 眠れないし、食べられない。

 過酷な程、それらは酷かった。でも良かったのだ。私は、窓見くれぶに恋をしていた。

 しばらくした頃、そうだ。一緒に海を見に行った時だっただろうか、江の島の海だったし夏だったから、ひどく混みあっていた。しかしその雑踏の中で、彼は静かに私に告げた。

 「好きだよ。…冬子、好きだ。」

 私は顔中というか、耳が赤くなるのを感じて、でもその気持ちはすでに分かっていて、でも口からはただ、えぇ…と自分史上最大限に可愛い声で言葉を呟き続けていた。

 それ程、動揺していたし、隠せなかった。

 でも、でも。その状況で私の頭の中によぎったのは、母親のことだった。

 私は、天涯孤独だ。

 一人で、友達もうまく作れないで、何とか社会とつながっているダメな人間なのだ。こんなに立派で、カッコいい男に告白なんかされても、うかつにイエスと言える境遇などではなかった。

 だから、

 「うん…。返事は、今度で良い?」

 と言ってしまった。

 「え…分かった。」

 彼は即返事をもらえるだろうと含んでいたのか、落ち込んだ様子を隠せないでいた。私は、すごく申し訳ない気持ちになっていた。

 その後二人でぼんやりと散歩を繰り返した。

 歩いては、止まって海を見つめる。

 それだけで、幸せだったのだ。


 彼に振られたのは、いや、彼と連絡が取れなくなったのは、ちょうどその一週間後のことだった。

 彼は、私ではなく親に勧められた見合い相手と結婚するということだった。

 私は、それを人づてに聞いた。

 何で?

 その思いは私の中を駆け巡って、消えなかった。消せなかった。だから、私は、死ぬことにした。もう、死んでもいいのだと決意したのだ。30になったら死ぬと決めていた。私を生かしてくれた彼は、もういない。

 だから、そう思って彼と一緒に行った海へ向かった。

 向かう最中の記憶は、無かった。


 「…ごめんな。」

 懐かしい声がした。

 ああ、この人は、

 「窓見さん…。」

 気が付いて目を開けた私の目の前には泣く彼の姿があった。それを見て海に落ちたはずの私は助かったのだと確信した。

 助けてくれたのかな、彼が。未だに夢見がちな私が考えていたのは、そんな妄想じみたロマンチックな話だった。でも実際は、後から聞いた話だが、近くの釣り人が助けてくれたらしい。そんなに荒れた海でもなかったし、救命用の浮き輪などがあって救助を早くできたということだった。

 「何も言わなくて、ごめん。俺は、君とは結婚できない。俺は、卑怯な奴だから、許してくれ。自分でもこんなに心が狭くて、恥ずかしいんだ。」

 一心不乱に呟き続ける彼の姿を見て、私は分かったよ、と承諾した。

 そうするしか、無かった。


 熱いコーヒーをお替りした。

 これで、3杯目だ。さすがに飲みすぎかもしれないと、仁良木さんの方をチラリと見た。

 しかし彼女は何も気にしていないといった様子で、ただ飲んでいた。私はもうコーヒーの苦みに耐え切れなくなっていたのに、彼女は全然平気だと体からサインを出していた。

 「話、逆に聞かせちゃったね。ごめんね。」

 仁良木さんは申し訳なさそうに笑った。私はだから愛想笑いを返した。

 「この話はね、私の話なんだけど、私天涯孤独なの。独り身だし、実はここのパートも身元保証人を偽って書いているの、ホントはね。」

 意外な事実に私は反応に困り、焦った。店長としての立場もあるが、そもそも働くことは平等の権利なはずで、身元保証人などといった理由で不採用にすることは不当だと思う。だけど私は店長なのだったから、何か言うべきなのかもしれないが、言えなかった。


 「あは、今日はごめんね。羽田さんの話聞くつもりだったのに、私の話ばかりになっちゃった。つまらなかったよね。でも仲良くなれたと思うの、良かったらまたお茶しようよ。良かったらでいいからさ。」

 あけすけな笑顔で、でも去り際にはどこか悲しい含みを残しながら仁良木さんは帰っていった。私は店の締め作業で手抜かりがあったことを思い出していたから一旦お店の方へと足を進めた。

 考えてみたら、仁良木さんはどこか卓越した雰囲気を纏っていたように思う。

 他の人と違って、どこかお客さんに可愛がられる節があった。それはきっと彼女が愛想が良いからなのだと思ったが、違うのかもしれない。

 彼女の体から発される切ない空気に、人は惹かれるのだ。乗り越えてきて苦労に、吸い寄せられるのだ。しかし、なぜ?なぜ彼女はいまだに独り身なのだろうか。彼女のことを大事だと言ってくれる人間も必ずいるのだろうし、きっとそういう人に巡り合っているはずだ。だって彼女はずっと接客業で渡り歩いてきたのだから、出会いも多いのだと思う。

 だけど、だけど、彼女の顔は語っていた。

 忘れられないの、と。その窓見さんという人のことが、かなり罪深い人間なのだなあと思う、その窓見という人は。

 逆に、今どうしているのだろうか。

 そればかりに疑問が向かう。私は現実から逃げ出したいのだ、だから都合のいい口実を見つけ出した子供のように、仁良木さんのことに関わろうと決めた。

 しかし、そのためには彼女の許可と、情報が必要だ。早速明日、彼女にコンタクトをとってみよう。相談するのだ、私のしたいことを。


 「来ちゃったね。」

 「はい…。」

 恐る恐るといった様子で女二人が過疎地の駅に降り立った。

 そこは人一人いない超ローカル鉄道で、今年廃線になるらしい。だから私たちは、貴重な乗客として少し好奇な目で町の人から見られていた。

 その中の一人が、突然声をかけてきた。だから私たちはとても驚いた。

 「あなた達、何しに来たの?ここ、山しかないんだよ?登山ってわけでもないようだし、何かあるなら案内してあげるよ。」

 好意を示しながら、内面ではよそ者を敵視する排他的な雰囲気を醸し出していた。

 怪しいから、とりあえず声をかけて、警戒しようといったところだろう。

 「いや…あの。私の昔の知り合いがこの町に住んでいるんです。あの、窓見くれぶという人なんですけど、もしかしてご存知だったりします?」

 仁良木さんはその老婦人に目的を伝えた。

 彼女は愛想がとてもいいから、訝し気な態度を示していたその老婦人はすぐににこやかになり、言った。

 「ああ、知ってるよ。有名人だよ。町を盛り上げてくれるいい人でさ、私の家の電球とかも替えてもらってる。案内しようか?」

 「あ、はい。お願いします。ありがとうございます!」

 良かった。

 私たちは顔を見合わせ、彼女の後について行った。


 そこは古いが立派な建物だった。

 町の中でもどっしりとしていてかなり目立っているように感じる。

 しかし窓見くれぶはその隣に建つ小さい今風の家に住んでいるということだった。

 「ピンポーン。」

 「はい、窓見です。」

 若々しい女性の声が応答した。仁良木さんの顔が少し緊張の色を帯びていた。

 「ああ、私。あのね、窓見くれぶさんに来客。開けてくれる?」

 軽くそう言っただけでその女性は分かりましたと言い扉を解放した。

 そこから出てきたのは、仁良木さんとは異なる穏やかで大人しそうな眼鏡をかけた女だった。

 「あの、どちらさまですか?その方たち…。」

 不思議そうな顔で私達をながめ、老婦人に尋ねた。

 「ああ、あのね。くれぶさんの知り合いなんだって。だからわざわざ会いに来てくれたらしいの。」

 「そうなんですね。私は知らない人たちだけど、主人に聞いてみます。」

 慣れた様子で応対をしていた。

 この女性は普段からこのような訪問客に出くわしているのかもしれない。そう思わせるだけのこなれた対応に少し感心してしまった。

 だけど、仁良木さんの顔は穏やかじゃない。それはそうだろう、いまだに想い続けて忘れられない人の妻、その完璧な妻ぶり、私だったら複雑な感情を抱くし嫉妬せずにはいられないと思う。


 「やあ、久しぶり…。」

 すごくにこやかな男が近づいてきた。

 ちらと仁良木さんの顔を見ると、輝いていた。生き別れた肉親に出会うかのように、光っていた。

 「来てもらって悪いね。ごめん。」

 悪いと口にしながら全く悪びれていないこの男は、どうやら窓見くれぶのようだった。あの輝いている仁良木さんの顔を一度でも目にすれば一目瞭然だ。

 「仁良木さん…この人。」

 私は聞いた。言葉を濁しながら、だって仁良木さんは何も話さないのだから、仕方が無い。空気は、最大限に重くなっていた。

 「冬子。」

 その人が、口にした。仁良木さんの名前を、そうしたら、

 「久しぶり。窓見さん。元気?」

 と彼女が口にした。

 私たちは先ほどの妻の紹介で近くの喫茶店でお茶をすることにした。動揺はないのか、とかいろいろ疑問は浮かんだのだが、細かいことを気にする暇もなく物事は着々と進んでいった。

 「あの、用件は?」

 窓見は仁良木さんにそう話しかけた。

 そんなの決まっているじゃないか、お前のことだよ。何でそんなことを聞くんだ、そんな言葉が頭をよぎった。

 だってずいぶん身勝手ではないか、仁良木さんはあなたに会いに来たのに。

 私は早々にこのクソ野郎をどうにかしたかった。

 お前、いい加減にしろよ。しっかりしろよって。

 でも、仁良木さんは言った。

 「あのね、会いに来たの。…私この子の勧めで、羽田さんて言うんだけど、あなたが私を捨てた理由を、知りたいの。教えてくれない?」

 はっきりと告げた。しこりとして残って消えない、この人への思いを、人一倍強く抱き続けた彼女は、そう言ったのだ。

 「いや…あの。それは。」

 口ごもった。予想通りだ。好きな女を捨てて見合いに安易に走り結婚するなんて、卑怯だ。

 「いいのよ、言って。私ずっとモヤモヤしていたの。あなたと一緒に居る時間はなんだか現実から離れているっていうか、もう大人なのに子供のころに力いっぱい遊んでいるような、不思議な感覚を覚えてた。私にとって、やっぱりあなたは特別だった。だから。」

 仁良木さんが下を向きながら一気に言い放ち、男は目を見開いた。そして観念したといった顔で、語り始めた。


 「帰りぃっ。早く帰ってこい。」

 母は激しく𠮟りつけた。いや、違うか。母は不安なのだ、俺が冬子と結婚したいと思っていることが。

 だから電話を即切ってしまい、また再び着信音が鳴り響いていた。

 うっとうしい。

 母親がうっとうしい。

 もう、耐えたくない。

 天涯孤独な冬子を、あんなに毛嫌いするなんて、俺は母親のことがますます嫌いになっていた。昔から感情の強い人で、俺にはすごく執着していた。俺はそんな環境が嫌で、爆発しそうな自分の感情を消すために、バイクに乗ってどこかへと向かった。そうすると不思議と爆発寸前のそれはすうっと無くなってしまって、俺はまた平穏に戻れるのだ。

 そんな日々の中で、見つけた。

 彼女は仁良木冬子と言った。

 運命の人、少し言葉を交わしただけなのに、そう思えた。本当に不思議だった。

 俺はきっとこの人と一生添い遂げていくんだ、そう誓えるような感覚になっていた。

 「あんた、駄目よ。絶対にダメ。」

 それは冬子との結婚を母に匂わせた時に言われた言葉だった。俺はただの戯言して聞き流そうと決めていた。いつか、折れるだろうと、見くびっていた。

 しかし母は、一向に折れなかった。気の強い人だとは感じていたが、ここまで頑なになることは珍しかった。

 ある日、そうやってぼんやりと隠し事をしながら冬子と落ち合う日、俺は親戚のおじさんから伝え聞いた。バイクで冬子の住む所へ向かおうと思ったのだが、途中で鉢合わせてしまった。父方の兄弟で、俺は少し苦手だなと感じているゲヘゲヘと笑う変わった人だった。

 早くやり過ごしてしまおう、そう思っていたのに、彼は言った。

 「あのな、お前の結婚反対してるって聞いたんだけど…。」

 「はい、まあ。」

 俺はやや困った顔をしていたと思う。いきなりなんだと顔中が問いかける様な、そのような態度だったのだと思う。だから、おじさんはより一層強い声で言い聞かせる様に話した。

 「お前の母さんな、天涯孤独なんだ。本当は。分からないように隠しているけれど、俺たちは知っている。もちろんお前の父さんも、死にそうになっている彼女を助けたんだよ、お前の父さん、つまり俺の兄さんが。」

 衝撃を受けた。

 まっとうに綺麗にしか生きてこられなかったという人なのだと思っていた。しかし実際の母はたった一人世界と戦わなくてはいけない小さい存在だったのだ。

 それを聞いたら、いてもたってもいられなくなった。

 いつも理解してやれなかった、俺のお母さん。今からでも決して遅くない、俺は俺を不器用にでも大事に育ててくれたあの人を捨てられるわけがない。

 理由を聞かなくては、冬子に会う前に。この前の告白の返事を聞く前に、

 俺はお母さんに会って本当のことを聞かなくてはいけないのだ。


 呆然とした。

 知ろうと思った真実は、あまりにも残酷だった。残酷すぎて、到底受け入れられない、そのような類の物だった。

 「……。」

 ぼんやりと目の前で海が流れていく。俺もこのまま流されてしまおうか、俺が知ったことは、到底この手のひらに収まるものでは無かった。

 そもそも、俺は冬子を幸せにできる状況などでは無かった。

 俺は、犯罪者の息子だったのだ。

 母は涙ながらに語っていた。

 暴れ回って盗みを働いて、人を傷つけて卑怯だった、と。そんな私を拾ってくれたのがお父さんだったのだ、と。

 思っていたよりも重い罪を抱えているようだった。酒を飲んで車を運転して、人を傷つけて、友達を裏切って、挙句には麻薬にまで手を染めていたらしい。

 今の母からは想像もつかない、得体のしれない女の話を聞いているようだった。でも思い返してみれば、あの激しすぎる激情もその名残なのかもしれない。そんなことを思っていた。

 

 「お母さん。」

 俺は冬子の元へは行かず、母の所へ戻った。

 「くれぶ…。」

 俺は何も言えなかったが、母は俺に抱きつきながら口にした。

 「ごめん。お母さんが悪いの。お母さんがひどいことをしてきたから、だから結婚に反対しているの。私が天涯孤独で、だからそういう子をいっぱい見てきたし、みんな少なからず厄介な自分を抱えてた。だから、お母さんは自分のことが嫌いなの。でもくれぶの好きになった人がそうだなんて、ごめん、諦めて。」

 それが母の言いたいことだった。 

 俺はもう何も言えなかった。本当に、何ものどから言葉が出てこなかった。


 しばらくして、縁談の勧めがあって俺はそれに飛び乗った。

 頭の中で冬子のことをいつも考えてしまうことが、嫌だった。申し訳ないことをしたのに、ずっと頭の中から追い出さず、抱えていることは卑怯で良くないことなのだと思えてならなかった。

 お見合い相手の女性はしっかりとした女性だった。

 この人は、恋とか愛など欲していないのかもしれない、そう思わせる安心感があった。

 だが実際はそんなことは無くて、ただただビジネスライクにお互いの関係を夫婦として定めよう、そのような関わり方しかできない、不器用な女だった。

 だから逆に都合がいいのでは、と思っていた自分を戒めていた。結婚することになって、愛とか恋に関心を強く持たないこのような安定した女だったら、きっと穏やかにうまく人生を渡っていけると思い込んでいた。だが実際は、どんどん、どんどん、妻の承認欲求のような、底から湧き出てくるといったような、俺への期待がひどく重たくて、たまらなくなっていた。

 妻には、申し訳ないと思っていた。

 勝手にお見合いに出て、本気で愛するつもりでもないのに結婚をして、彼女の人生を奪ってしまった。彼女には幸せになる権利があるというのに、俺のわがままによって本当の幸福を感じるには到底届かない距離のある世界へと導いてしまった。

 「なあ、俺たち結婚してもう数年たったよな。あのさ、お前、幸せか?」

 ある日妻が酔って帰ってきたのだと思う。

 普段は飲まないお酒を飲んだからか、久しぶりに一緒に寝ようよとせがまれた。俺には妻の要求を断ることはできなくて、言われるがままにしていた。

 そしたら、彼女が言ったのだ。

 「私達って、いつ別れるの?いつまでこの関係を続ければいいの?」

 そう、言ったのだ。

 俺は、初めて妻の本音を聞いたような気がする。

 妻も、だからこの結婚は間違っていると思っているようだった。それは、初めて知る事実だったのだ。だけど酒に弱い妻は明日になればすべて忘れているだろう。

 だから、聞いた。

 俺たち、いやお前は幸せなのかと、問いかけた。

 一夜だけの本当の姿を、お互いさらけ出していた。


 「その話、聞かなきゃダメ?」

 冬子はそう言っていた。

 俺がとうとうと話し続けた今までのこと、そんなこと聞かせる必要もないのだし、聞く必要も冬子にはなかった。

 だけど、知ってほしかった。

 冬子が嫌いになったから捨てたんじゃないってこと、まだ好きだってことを、卑怯にも匂わせたかった。

 「勝手だね。でも悔しい。私はあなたのこと、まだ好きなの。思い出してしまうの。もう私は運命を見つけてしまったから、世界は一変してしまったの。知らなかった頃の私には、戻れないの。戻れないのよ。」

 冬子は強く言い放った。

 俺は困った顔しかできなくて、でもまだ冬子が俺を胸に抱いているという事実に喜びを感じていた。本当は、お互い忘れてしまった方が楽なはずなのに、どちらもそれができなかった。

 俺も、冬子と一緒だった。

 冬子と、連れの羽田さんという女性はスッと立ち上がり何も言わずに帰って行った。

 俺はだからただ呆然と言葉を失っていた。何かを言いたかったのに、言えなかった。


 運命とは、何とも残酷なものなのだと思う。

 出会ってしまったら、その前には、帰れない。出会う前の私はただの赤子だった。脱皮をする前のカエルだった。一回りも二回りも小さかった。幼かった。それだけだった。

 この寝床で私はよく泣いていた。掴めなかった運命を思って苦しかった。掴めないのなら、いっそ無くなってしまえばいいのにと思ったのだが、赤ちゃんだった私と大人になることのできた私では、全く違う別種の生き物なのだから、やはり戻りたいとは本気で思うことはできなかった。

 今日知ったのは、私はくれぶに愛されているという事実だけだった。私が歪にずっと抱いてきた思いをぶち壊してくれる、冷たい現実など、存在しなかった。くれぶはただくれぶであって、私の好きな彼のままだったのだ。

 そんなことを知ったら忘れることなどできないし、先に進むことなど不可能に違いなかった。

 だから、ぼんやりと、私は泣いていた。


 この短期間で色々なことがあったように思う。

 羽田夕は公園のベンチに座り休憩をしていた。昼ご飯は、バナナだけだった。それでもお腹は充分に満たったのだった。


 少し前だが、実子ちゃんの知り合い二人が見つかったということだ。いなくなっていた、健斗君と深見君という男の子。二人は、生きていた。

 良かった。

 不穏すぎる失踪だったから何か事件に巻き込まれていたのではと思っていたのだが、どうやら違ったということだ。ここ最近連日警察に赴くことが増えていて、その時に偶然実子ちゃんと出会った。そして、彼女が言う健斗君という子と、深見君に。

 「あの、羽田さん!お久しぶりです…。」

 私の母親の事件を知ったのだろう、どこか困った様な言い方をしていた。実子ちゃんは、でも泣いてはいなかった。

 だから、

 「久しぶり。ねえ、もしかして隣の二人…探してた人?」

と聞いた。そしたら、「そうです…。見つかりました。二人とも、無事だった。」と告げた。

 私は理由を尋ねた。どうして見つかったのか、結局何があったのかって。

 「実は、二人とも、私から離れていただけなんです。私が関係しない所で、ひっそりと二人で暮らしていたということなんです。驚きました…。」

 思ったよりも魔性の女っぷりがドスを聞かせている実子ちゃんの実態に、私は少しひるんだ。

 しかし、健斗君という子が言った。

 「あの、僕たちは、実子のことがすごく大切で、比較なんてできないんです。実子のこと、どちらかなんて決められないから、二人で会った時にもう実子とは関わらないようにしようって、話したんです。だから誰にも告げないでひっそりとしていました。だけど、家族とか色々なことが僕たちの不在を不自然に思って、見つかったんです。」

 そして、「だから、実子には俺たちの存在を忘れてもらった方がいいと思って、離れていたんです。」と恥ずかしそうに深見君という子が言った。

 実子ちゃんはそれを聞いてただただ困った顔をしていた。

 私は、何だかとんだ茶番だなあと外から見つめていた。


 でも良かったのだ。

 実子ちゃんが不安の種を取り除けて、そしてあれ程男たちから深く愛される実子ちゃんは、私なんかからはとても遠い存在のように感じられた。

 私は、犯罪者の娘で、恋人もいないロクでも人間だし、何だか少し惨めだった。みじめだと思い始めるとどうしようもなくて、死にたくなった。

 でも、死ねなかった。


 お母さん。

 お母さん、何でだろう?

 歪だったけど、私を大事にしてくれているのは分かっていた。だから私も確実に彼女を見捨てることができなかったのだ。そう考えると、私は自立していたということに気付く。本当は自立していて、でも自ら泥沼に浸り続けていたのだ。私は、そういう人間だということに、今初めて気づいた。


 「夕。ごめんね。」

 あれ程色々なことを濁していた母が謝った。どういう心境の変化なのだろうか、不思議だった。

 ただ分かるのは私の母親は歪んでいて、おかしいということだけだった。

 何か、本当の、不変の、変わらない確かなものが、だから欲しかった。見つけたかった。教えて欲しかった。つまり、知りたくてたまらないの。もし、あるなら、私にその答えを渡して欲しい。

 だから聞こうと思ったけれど、うまく口から言葉が紡げなかった。

 そして、押し黙っている私を見て、はっきりと私の目を見つめて、母が言った。

 「夕のためなの。夕が、困ってたら、その困らす誰かを除きたかった、それだけなの。困らせているかどうかなんて、私にはあまり関係が無かった。真実がどうなっているのかなんて、必要が無かった。ただ一日の中で短く言葉を交わす夕の顔が曇っていたら、誰かのせいにして排除していた。…言えるのは、それだけよ。」

 そう言った母の顔は苦しそうだった。

 私のためだと呟く母の顔は濁っていてい、醜かった。私の知りたかった答えは、ただただ、私に向けられた歪な愛情だったのだ。

 母はどこまでも、歪んでしまっていた。


 知れたこと、知ってしまったこと、全部すべてが変えようのないものだった。変えることができないのなら、変えなければいい、変わらないものにこだわらなくていい、それだけでいいのだ。

 しかし、私はむなしかった。

 母を失って、玄君も失った。

 身近な人の悪意を知ってしまった。深く深く、汚く汚れたものだった。そしてその中に潜む純粋な悪におののいていた。怖くて、見たくなどないのだ。

 私には誰もいない、里穂も、菜種も、もう自分の人生を歩んでいるようだった。私の母が奪った空白を埋めるかのように、前をひたすらに進み続けていた。

 だから、声などかけられなかった。

 犯罪者の娘として、社会でも生きづらくなっていた。

 私は、無職だった。


 

 蝉の声がする。

 季節は夏で、蒸し暑い。こんなにジメジメとした気候の日に、私は今歩を進めている。一歩一歩がひどく思い。ひどく重くて、頼りない。もういっそ立ち去ってしまいたくなる程、気持ちが乗っていなかった。

 だけど、尋ねたのは古い一軒家だ。

 田んぼばかりが広がる農地に囲まれその家は建っていた。

 「ピンポーン。」

 恐る恐るといった様子でチャイムを押す。その手は見ると震えていた。だから必死にひた隠した。

 すると、「はい。」端的に短く応答する男の声がした。割としっかりとした言葉を出すような人で、私は少しホッとしていた。

 中から誰かが出てくるようだ。

 緊張しながら玄関の前に立ち尽くしていた。

 「ガラッ。」

 扉が開き、顔を見せたのは…

 「はい…。何か御用でしょうか?」

 すっとぼけた顔で現れた、その男はひどく間抜けなように見えた。

 だけど私は、言い放った。

 「あの、私羽田夕と言います。お父さん…で間違いないでしょうか?」

 私が会いに行ったのは、ずっと離れていて再開できなかった私の父親だった。


 とても驚いた顔をしていたのは覚えている。

 だけど私は頭がグラグラとしていて、イマイチその時の感覚が思い出せない。その位、動揺しまくっていた。

 「お茶、どうぞ。良かったら。」

 律儀に茶を用意してくれたこの人は、まだ私の問いに答えていなかった。しかしどうぞ入ってと中に通されたのだから、全くの無関係ではないということだけは、分かっている。

 「………。」

 黙ったまま、お互い何も話さない。私は、ただ単に何を話せばいいのかが分からない、でももしかしたらこの人も一緒なのかもしれない、なんてことを考えていた。

 「羽田水紀の娘。ご存知ですよね?」

 私はもう思い切って吹っ掛けた。私の思いを吹っ掛けていた。

 「……。」

 ちらとこちらを見て、でも彼は黙ったままだった。この沈黙に耐え切れなくなりそうだったので、私は今すぐにでも外に走り出したい衝動を覚えた。その衝動は時間が経過していく毎に強くなり、抑えられなくなっていた。

 そして、「すみません。なんだか急に押しかけてしまって、もう帰ります。」とだけ短く伝えた。

 しかし、引き留められた。

 どうやって?

 それは、私の足が感じていた。

 私の去ろうとする足首を、その手は掴んでいた。

 私は怖くなって、動けなかった。

 しかし、彼は言った。

 「ごめんな。少し目が悪くて、足首しか上手く掴めなかったみたいなんだ。」

 「それで、君のさっきの質問だけど、そうだよ。僕が浩志だ。君の父親だ。間違いない。」

 その時、なぜだか時が止まった様な、違和感を覚えた。

 それは、とても不思議な感覚だった。


 「浩志君。次どこ行く?」

 笑顔が可愛い、俺の水紀。ずっと失いたくなかった。だけどなぜだかいつか失ってしまう予感が、ずっと俺の中にはあり続けていた。

 俺は、未熟だった。全てにおいて、仕事も不定で、とてもじゃないが誰かを幸せになどできる様な状況ではなかった。だからいつも、不安だった。

 「ねえ、浩志君。浩志君ってば。」

 は、また意識が宙を浮いていた。最近、よくあるのだった。あって、とても困っていることなのだった。

 「悪い、ボーっとしてた。」

 俺は申し訳なさそうに額をこすった。水紀はその様子を見てただ微笑んでいた。

 生きている内に、最愛の人に出会える人という者は、どのくらいいるのだろうか。本当の、他のものとは別種だと断言できる確実な愛というものを、掴んだことがある人はいるのだろうか、俺は知りたかった。

 多分水紀と出会わなけれな、適当な女と結婚して、おれはそれが幸せだと思い込んでいたのだと思う。水紀に出会わなければ、これほど深い愛情を、他のものとは別のものだと断言できるこの感覚を、持てなかったと思う。

 世の中には妻がいるのに離婚をして、愛人と結婚するという輩がいるらしいが、俺は理解してしまった。この世には、知らないと分からない深淵のようなものが存在しているということ、そしてそれを知れるということは当たり前ではないということ、求めなければ手に入らないということ、知ってしまったらもう終わりだということ。


 人間になど、もうなりたくなかった。いっそ檻の中に閉じ込められて、動物園で暮らしている何かになってしまえばいいと思っていた。ただの自由な俺は、だからひどく狼狽していた。


 「水紀。」

 「何?」

 俺の様子がおかしいことを察したのだろう、彼女は不安そうな顔を見せ答えた。

 正直、俺は毎日眠れないのだ。水紀と出会ってから、感情が爆発しそうだった。これまでに経験したことなどない程、新しい刺激に満ち溢れていた。俺はそれに飲み込まれ、息もうまくできない。

 だから、

 「ごめん、別れない…か?」

 言ってしまった。言いたくない一言を、つい口にしてしまった。しなくては、俺は壊れそうだった。

 しかし、水紀は、言った。

 「噓でしょ?私分かってるよ。お互いが一番好きだってこと、浩志君が繊細だってこと、だから絶対に分かれるのは間違っているよ。」

 どこかすねたような言い方だった。

 水紀の言っていることは正論で、正しかった。俺は水紀のそういう所が好きだった。

 俺も、だからもう何も言わないようにすることにした。


 「そうやって、自分が爆発して壊れそうになっていることを悟られないように、ずっと一緒にいた。でも、いつか限界が来ることは分かっていた。お互いがお互いを本当に大事に思っていると、相手を尊重してしまうのだ。別れるなんて、本当は誰も望んでなどいないのに、結局はその結末を迎えてしまう。哀れなんだよ。」

 父はそう言った。

 私はでも何も言えなかった。初めて、大人になって初めて会う父親はどこか頼りなさげな印象で、うまく言葉にすることすら難しかった。だから反応もお互いあいまいで、ぎこちなかった。

 「そう…なんだ。でも…さあ。お父さんは、お父さんって呼んでいいよね。…お父さんはどうしてお母さんのことを愛し続けなかったの?不安でも、離れなければよかったじゃない。」

 それは本音だった。二人が離れなければ、お母さんは人殺しになどならなかったはずなのに、なぜ。

 その意図が伝わったのか、父は言った。とても鋭く冷えた顔つきで、静かに言い放った。

 「違う。」

 「え?」

 私は一瞬何のことだか分からなかった。本当に分からなかった。嘘くさい程冷えた空気が痛く肌に刺さるようだった。

 「あいつは、水紀はすでに人を殺していた。人を殺すことは、あいつにとっては日常だった。」

 何の話なのだろう。

 私の母は、追い詰められて歪になって人を殺したのではなく、元からそうだったってこと?そんなこと、あるのだろうか。全く信じられなかった。

 だって、私は自分の母親が、そんな人だと思えない。訳が分からない部分もあるけれど、人間であるということは分かっているつもりだった。母は、だって私を愛しているのだから。

 「なあ、水紀はね。」

 「うん…。」

 「水紀は、本当にロクでもない生き方をしていたんだ。俺も出会った頃は気付かなかった。というか、あいつですら気付いていない。自分の中に悪魔が潜んでいるなんて、知らなかったんだ。」

 「それ、つまりどういうことなの?」

 教えてよ。お母さんはなぜ人を殺すの?なぜ?

 「お前のお母さんはな、何度も殺されかけているんだ。子供の頃に、時には親から虐待として、時には親戚から暴力として、時には同級生からいじめとして、命を失いかけていた。そして、お母さんはもうすでに自ら気づかないそのうちに、壊れてしまっていた。あまりにも哀れで、可哀そうだった。俺が知ったのは、現場を見たからだ。あいつはうつろな目で人を殺していた。」

 「………。」

 何も言えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。

 お母さんは、お母さんは、殺人鬼だったのだ。


 帰り道コンビニによって飲み物を二本買った。買ってからは足取りが重くなっていった。一歩一歩、家に帰りたくないという思いが込み上げてきた。

 家には、母はいない。もう、帰ってこない。

 誰もいないのだ。

 私は、一人きりになってしまった。

 仲良くなれたと思っていた人達は、結局私とは違うどこかを目指していた。私以外の誰かと、分かち合いたかったのだろう。自らの思いを、生き方を、それは私ではいけないのだ。母も、父も、あの日久しぶりに会った父親でさえ、私をどこか敬遠していた。遠ざけて、離そうとしていた。私は傷ついたのだけれど、考えてみればおかしい私が悪いのだ。おかしすぎる私が悪いのだから、そうやって嫌われるのは当然のことなのだ。

 死ぬ気で走った。だから私は死ぬ気で父の元から離れた。嫌だという感情を殺しながら走り去った。実の父親の元から。

 それから、この町に帰ってきた。

 走ったからとてものどが渇いていて、つい二本も飲み物を買ってしまった。やらかしてしまった。私の財布はどんどん軽くなっていく。入ってくる見込みのないそれを、ただ静かに握りしめていた。


 一人きりのこの夜、思った。

 いくらでも思い返していた。思い返せるならいくらでも、私は足取りが軽くなっていた。思い出したくないことも、一人でいると頭に流れてきてしまう。

 正真正銘の犯罪者の娘である私が、もう誰とも一緒にいられないということは、まず確かな事実だったのだから、諦めよう。全てを、諦めてしまおう。


 涙が出た。

 ツルっと、どうにもしようのない涙が、こぼれていた。

 拭ってくれる見込みなど一切ない、静かな涙だ。

 私は、それで余計に感傷的になって、ひたすらひどく傷ついていた。傷ついても、仕方が無い。それは、分かっているのだ。




 3年が経っていた。

 あれから、母が逮捕されたあの年から、もう3年もの時が経過してしまっていた。

 だけど、だけど。

 私は何一つ変わっていなかった。ただ、老けておばさんになっていただけだ。でもそれに対して特に何の感慨も抱いていない。苦しいとか、受け入れられないとか、そんなことなど微塵もない、どうやら私は普通の人間からは遠くかけ離れてしまっているようだった。


 玄君は、あの後、逮捕された後、もう特に拘束されるということは無くなっていて、どうやら穏便に事が運んでいたらしい。

 妹が、玄君の妹の佑季が、そうするようにお願いしたということだった。実の兄弟というのは、やっぱりややこしくて複雑なのだなあと、それを知って思った。

 その後、玄君は行方が分からなくなった。しかし佑季には、自分はもう近づかないと誓っているということだ。俺はもう、佑季には、佑季の目には入らない場所へ行くと宣言していた。

 それはいったいどこなのだろう、外国だろうか、だったら生活はどうするのだろうか、でも行動してみたら案外何とでもなるのだろうか、そんなことをぼんやりと考えていた。

 かくいう私はずっと家で過ごしている。

 貯金は一切なく、就職は出来なかった。当然だ、全国に知れ渡る史上最悪と言っていい程の犯罪者の娘なのだから。

 それで、結局頼るところも無かったから生活保護を受給することになった。

 私は、もう何もすることが無かった。

 里穂と菜種は、今はすごく幸せそうだ。偶然出会って、二人はひどく輝いているようだった。まぶしくて、目がくらんでしまった。

 だから、尋ねた。

 「二人とも、ごめんね。私のお母さんが、迷惑をかけて、本当に許されることじゃないから、でも謝りたいの。二人とも、今は平気なの?」と、それが知りたかったのだ。私の母親が壊した二人の人生はちゃんと軌道に乗っているのかどうか、確かめたかった。

 「………。」

 二人は少し黙って顔を見合わせた。見合わせて、言った。里穂が、

 「平気。今はすごく充実してるの。辛いこともあったけれど、菜種のおかげだと思う。二人で支え合って、しっかり生きれてる。だから、夕は気に病まないでよ。だって、夕は悪くないのだから。」

 私はその言葉を聞いて、泣いてしまった。

 私は、なぜ泣いてしまったのか、理由が分からなかった。申し訳ないと思ったのだろうか、それとも私は悪くないのだと断言してもらったからなのだろうか、でもやっぱり分からない。

 私は、分からない。

 私は、壊れている。


 ミーンミーン…。

 この町はセミが夏になるとけたたましく鳴いているのだ。この音を聞くと、私はふと思い出す。

 「ねえ、水紀ちゃん。」

 ああ、母の声だ。

 私は幼いただの子供で、ただただ無垢な存在だったのだと思う。

 「水紀ちゃん、今日ご飯、何にする?」

 「私、カレーがいい。」

 「分かった。じゃあ、待っててね。」

 私はこの場面を何度も思い返している。

 何度も、何度も、繰り返す。

 「…お母さん?」

 「お母さん?」

 呼んでも、返事はない。

 母は、殺されていた。

 血まみれの姿で、母の愛人の部屋で発見されたのだった。

 

 私は、その場面を、第一に発見した人間になってしまった。

 その瞬間、出てきたのは涙では無く、ただ垂れる尿だけなのだった。

 涙は、追いつかない。出したら、出せたら楽だと分かっているのに、出来ない。

 私は、それからの記憶がいまいちハッキリとしていないのだ。

 だから、悪いことも良いことも、私の頭の中では何一つ記憶が正しく作動していないようで、私はただうずくまって背を丸めて呼吸をしていた。


 私は、そう、人を殺した。

 中学生の夏、好きだった人を、この手で。

 「水紀。」

 そう呼んでいるのは小学校の同級生、田代君だ。田代君はイケメンで、私はそこが好きだった。それまでは、田代君に好意を持つまでは全く誰も、好きになったことなどなかった。でも初めて、中学生になり初めて、誰かを好きになるという気持ちを知ったのだった。

 「悪い。今日は部活があるから、遊べないんだ。」

 「そう…。」

 「悪い、じゃあな。」

 そう言って田代君は走り去った。

 私はただその背中を見つめていた。そして、ひどく悲しかった。

 家に帰ると誰もいない、空っぽの場所があるだけだった。食事も、ロクに食べていない。そもそも生活習慣というものがこの家には無くて、ただ帰っては寝るという無機質な暮らしを実践する場所でしかなかったのだ。

 一人で、布団にもぐっていると、無性に苦しくなる。それは耐えようのないもので、ぽっかりと埋めようのない何かでしかなかった。

 それを埋めないと私は気が狂いそうで、夜に街を練り歩いて徘徊しては男と共に寝た。

 気付けば私は、不良になっていた。

 見た目はぼろ雑巾のような小汚さなのに、なぜか男にはモテた。

 なぜだかは、分からない。

 田代君は、もう私とは関係のない人になっていた。恋人の関係になってからもう何年も経った頃だった。私は、私を捨てた田代君を、殺してしまった。

 きっかけは些細なことだったと思う。

 偶然、田代君と夜の街中で会った。その頃にはもうすでに私と田代君は疎遠になっていた。私は田代君のことが好きだった。だけど、彼は私を嫌っていた。

 それは、ただある事実なのだった。

 「田代君…。」

 「ああ…。」

 すごく居心地が悪かった。その時に私の隣を陣取っていたのは、薄汚いおじさんだったのだから。私は、顔を歪めて下を向いた。そして、逃げようとした。

 けれど、

 「待って。」

 田代君が手を引いた。だから私はすごく驚いた。こんな汚れ切った私に何の用があるのだというのだろう。もう、放っておいてくれないかな。

 それは羞恥心とか色々な感情が複雑に混ざり合って、出てきた考えなのだと思う。私は、だから少し泣きそうになって、必死にこらえていた。

 「行こう。」

 私の手をしっかりと握りしめて、田代君は走った。

 だけど、だけど私は振り払った。

 その時の感情はよく覚えていなくて、今考えると、恥ずかしいという感情が一番強かったような気もする。大好きだった人に、私の素顔を見られてしまった。

 耐えられなかった。

 気がついたら田代君は倒れていて、血を流していた。

 もう、これで何も戻ることはできないのだと、その場で悟った。

 私は、まだ中学生だった。


 ぼんやりと独房の中で考えを巡らせている。いや、そう言っていいのだろうか。だが、頭は嫌に冴え渡っていて、正直気が狂いそうだった。

 この状況に、抜け出せない現実に、私は絶望を感じていた。

 一人でこうやって、ぼうっとしていると、私はやっぱり悪かったのかなと思えてくる。私が、したことはもちろん悪い。私はちゃんとそのことは分かっているはずなのだ。だが、私はきっとまた繰り返すのだろう、そう思う。

 誰かと関わろうとした瞬間、私の中に眠る悪魔のような物がきっと暴れ出そうともがきはじめる。これは何というか、自然にただ存在する仕組みというか、ふっと気が付けば作動していて、ちっぽけな自分一人では抑えることができないのだ。

 思えば、浩志君と生活していた頃は落ち着いていたように思う。だけど、次第にそれは顔を出し始め、私たち二人は崩壊した。

 私は、また一人ぼっちになってしまったのだ。

 もちろん、幼い夕を引き連れてはいたが、こんな私では到底育てることなど難しいと分かっていた。だけど、私が夕を愛しているということも、痛すぎる程自覚してしまっていた。


 どうすればよかったのだろうか、きっと私はそれを一生かけて、残りもう少ないであろう一生をかけて、考え続けるのだろうと思う。だから、きっとそれが私に対する罰なのかもしれない、だって、それはとても苦しいことだったから。

 答えなんて、本当は無いもの。

 私は、知っているのだから。


 「面会だ。」

 誰だろう。夕かな?でもあの子とは縁を切らなくちゃ、そうしないとあの子はずっと苦しいままだもの、一人でも生きて行けるように、私はあの子のことを放棄する。それは今までの人生の中でも、強いと思える決意だった。

 「やあ…。」

 え?

 目の前にいるのは、誰?この人。

 「久しぶり。」

 「水紀。」

 浩志君だ。私を平穏の中へと連れてきてくれた、最愛の人。一生の中で最愛の人が一人なのだということは、彼が私に教えてくれたのだ。だから、顔を見るだけで苦しくてたまらなかった。失えないのだ、最愛の人は一人なのだから、嫌われてしまったら死に値するような欠如を感じるだろう、だから、私は浩志君に会いたくなかった。心の中にしまっておくだけで、それだけで良かったのだ。

 それとも、それすらも奪おうというのだろうか…。

 こんな極悪人である私を、彼はわざわざ決別でも告げるために訪れたというのだろうか、私はただ恐くて、震えていた。

 私は、ただの弱い女になっていた。ただの、弱い一人の女の子のような心持ちだったのだと思う。

 だから、聞いたんだ。浩志君に、思いをそのまま尋ねていた。それはただの自然な趣だったと思う。

 「浩志君、どうして?私に会いに来たの?教えて。」

 誰かに、聞きたかった。こんな私にいったい何の用があるというの?生まれてから、親にも姉弟にも、誰にも、愛されたことなどなかった。そんな人間の気持ちなんてあなた達にどうやって理解してもらえばいいのだろう。だから、それはきっと無理なことで、みんなそのことは無意識のうちに理解していて、でも私はやっぱり人間だから一人で誰かを求めもせず生きるなんてことは、どれだけ自分を保とうと強がっても到底無理なことなのだった。

 「俺、夕に会った。久しぶりだった。なあ、俺に似てるよな?可愛い所が。」

 浩志君はなぜかニッコリだが少し不安げな顔を見せながら笑いかけた。

 私は、初対面の人間になんだコイツという顔で見られることが常だった。だけど、浩志君は違った。なんだコイツという顔をしながらも、ずっと話しかけ続けてくれた。目をそらさないで、ただ一緒にいてくれた。

 それだけで、良かった。

 「もう、どうでもいいよな。俺も、水紀も、苦しんでばっかりだろ?壊れてるんだ。壊れてるのに、気づけないし、外からも分かりようがない。だから求められるのは普通で、でも壊れているのだから決して普通になどなれなくて、だからどんどん加速度を増して壊れていく。それだけなんだろうな、お前も、俺も。」

 浩志君はなぜだか物わかりのよさそうな顔でぼそりと呟いた。だけどその声はひどく明確で、私の中にスッと入ってきたのだった。

 私は、なぜだかぼんやりとした顔をしながら浩志君のことを見つめていた。


 「夕。」

 「ああ。」

 「おかえり。しゅん。」

 ぼさっとした髪の毛を直しもせずそのまま立っている。この男は私の夫だ。

 「今日も髪ボサボサだね。」

 「うん。そうなんだ。湿気がすごくてね。」

 私はそう言ってはにかむ彼を微笑ましく見つめた。

 だって、ちゃんと知っているから、彼が髪の毛をそのままにしておくのは、いくら整えてもすぐ崩れてくるからだってこと、ちゃんと分っているから。

 私たちはお互いが好きだった。

 だから、そんな些細なことですら、愛おしくてたまらない。この切ない魔法は、一体いつまで続くのか、今の私達には分からない。だが、永遠に死ぬまで続けていけたら、それはきっと幸せなことなのだと思う。そして、そうなったらそれを石碑か何かに残して、形にしてみたいのだ。私たちは、そんなことを考えるただのどこにでもいる様な穏やかな夫婦なのだと思う。

 「仕事、見つかったよ。」

 「ホント…⁉嘘…うれしい。」

 「うん。驚くよね、俺たちずっと探してても見つからなかったんだからさ。」

 このご時世はもう極度の不況で、一昔前の当たり前など一様にあり得ないことになっていた。だって、安泰だと言われていた職業は尽く失われて、我が我がと自ら求めるものにしか何も与えられない、狭苦しい世の中になってしまったから。

 人は、そんなにずっと強くいられるわけじゃない。私は、よく分かっている。なのに今はただずっと無意識に強くいられる人だけが、重用されるということになっていて、社会は非常に歪だった。

 「でも…私があの羽田水紀の娘だって、犯罪者の娘だって、知ってるの?その、店を開く資金を出してくれた人…。」

 「もちろん、大丈夫。心配しないで、大丈夫。大丈夫。」

 春は、私がうろたえると即座に、大丈夫、という言葉を何度も言って、言い聞かせてくれるのだ。私がそれで安心することを、どうやら彼は本能的に分かっているようだった。そんな動物的というか、本当に純粋というか、そんな彼と知り合ったのは、刑務所だった。


 「………。」

 今日の面会は父と一緒に来ることになった。私の父は私を再び娘として迎え入れ、母を妻として大事にしてくれた。たとえ壁を隔てていても、私たちはただ顔を合わせるだけで幸せだった。そんな幸福を、生まれて初めて味わっていた。

 しかし、世間はどんどん混乱を深めて行って、世相は今までに経験をしたことのない程荒れ狂ったものになり、私は犯罪者の娘としてどこにも行き場がなく、ただバイクで国中をツーリングしまくっていた。

 そんな時、俊に出会った。

 それは、母との面会の帰りだった。

 待合室でぼうっと椅子に座っていると、隣に座る男性がもたれかかってきた。

 「ちょ…大丈夫ですか?具合、悪いんですか?」

 私は動揺しながら私の肩にもたれかかるその男に尋ねた。

 とても、苦しそうだった。

 だから、「ここ、あまり空気の好い所じゃないから、外出ます?」そう聞いてみて、彼はただ頷いていた。

 「ありがとうございます。俺、あそこの空気に耐えられなくて、いつもこんな感じで外に出る羽目になるんです。でも今日は気付いてくれる人がいなくて、でも一人じゃ起き上がれなくて、すごく焦りました。だからあなたが話しかけてくれて、すごく助かりました。」

 「いや…いいんです。ていうか良かったです。私なんかが人助け何て、出来てむしろ良かったなと思ってます。」

 彼は少し目を見開いた。私が言った言葉が引っかかったのだろうか、少しだけ驚いたような困った様な、そんな顔をしていた。

 「え、それって。もしかして、聞いていい?きっと訳があるんだよね。」

 彼の瞳は真っすぐだった。何も否定などしない、ただそのままそこにいるという体裁で、ただ存在していた。

 だから、私は自分のことを語ってしまった。

 ずっと心の中に固まっていて、溶けなかったその言葉たちを、いや言葉にすることすら難しかったものを、彼は何も、何一つとして否定せずただ頷いてくれたのだった。だから、私は思っていた。

 ああ、きっとこの人も何かを抱えていて、誰かを批判するなどという仕草ができないのだ、と。

 私はその時、自分以外の誰かをけなすことすら許されないような気がしていたし、自分以外の誰かをけなす理由すら見つからなかった。どんなに私が理不尽に全く知らない人たちから傷付けられようと、なんだか怒るという気分にもなれず、ただそういうものなのかもしれないと妙に納得していた。

 そんな私だから、春の存在は異様だと感じた。

 つまりこの人は、同類なのだと直感した。そして、彼もそう感じたのかもしれない。

 「うん。そうなんだ。大変だったね。大変だったね。…でも、大丈夫だよ。俺、もっとあなたと話したいから。」

 これは救いなのだと思った。私が無意識のうちに蓄えてきたこの飢餓感を、はっきりと自覚させ、そしてはっきりと埋めてくれた。

 彼は、私の正義だった。


 しばらくして一緒に暮らすことになって、次第に春は心を開いてくれるようになった。というか、元々屈託なく話す人だったのだけれど、自分のこと、自分の過去のこと、そこには一切触れようとしていなかった。

 そして、それは到底口にできることなどでは無かった。

 彼はずっと虐げられてきて、虐げられているのに彼はただの悪者になっていて、そうやってどんどん居場所がなくなっていて、ずっと一人で孤独だったのだという。私は、こんな深い連鎖にハマっている人を深く知ったことは無かった。だから、とても苦しかった。だから、私は春を抱きしめた。子供みたいに弱い、この大きな青年を。


 「やっぱり一緒にお店を開くのがいいよね。俺たち、きっとどこにも採用されないんだからさ。仕方ないよ。」

 「うん…。ごめんね。私が奥さんだから、そのせいだって分かってるから…。」

 私が言い淀むと、すぐ春は抱きしめてくれるのだ。欲しているわけではないのだが、私はもう幸せでたまらないという心地になっていた。

 そして、なぜだか苦しくて泣き出してしまっていた。

 「泣かないでよ…。でも、泣きたかったら泣いていいよ。泣いて、夕がすっきりするならいくらでも、俺にとってはこの時間が、夕を抱きしめている時間が一番甘美で美しいものなんだ。夕と一緒に暮らして、初めて気づいたんだよ。」

 「うん…うん。」

 私は春に愛されていると思うと何も言えなくなる。心が震えて、同時に喉元が痙攣して、うれしいという表現をする前に、涙が止まらなくなってしまうのだ。

 ああ、私って愛されてるんだ、そう感じることができた。それは、とても幸せなことだった。


 しばらくして、私たちは土産物屋を開くことにした。春は割と顔がイケメンだから、立っているだけで人が寄り付いてくる。そして私は接客業の経験があるから店先での応対は得意とすることができた。

 土産物屋を始めたきっかけは、春だ。

 春は国中を動き回っていて、というかもどかしい気持ちを心の中に抱えていて、それから逃れるためにずっとどこかへ行くということを繰り返していたらしい。

 かくいう私はツーリングで現実逃避をしてしまうタイプだったから、一緒に暮らすようになって私は春を後ろにのっけてタンデムをした。

 そして春はその楽しさにハマってしまい自らもバイクの免許を取り今では私を後ろにのっけてどこまででも連れて行ってくれる。

 私は、とても幸せだった。

 タンデムって、この世の中でもとりわけ特別な存在であるように感じられたし、私たちは正直有頂天だった。

 「いや、だから俺たちには土産物屋が一番だよな。土産物屋って、この近くの特産物を売るんじゃなく、俺たちがバイクで仕入れてきたアクセサリーなんかを売るんだからさ。俺たち、オンリーワンになれてるよな。」

 またタンデム中になると、春はいつもより調子に乗った口調で話しかけてくる。だけど全神経を運転に集中させていて、私もそれに同調しようと努めているから、私たちは過言ではなく最早一体だった。

 「ホント、こうしてる間だけ、私は許されているような心地になる。どうしてかな?」

 「さあ、でも俺もそんな感じなのかもしれない。いつも誰かに追われているような現実から、この瞬間だけ逃れられるんだ。俺は、もうだから逃げる必要がなくなった。」

 それは、私もそう思っていたことだった。

 私たちは、だからもう一つになっているような心地だった。たとえお互いを深く触ることが無くても、ただこうやって風を感じているだけで、幸せになれるのだった。

 

 世間は一変していた。

 大なり小なりの事件など気に留めることもできない程変化を続けており、だから私たちは知らない間に皆の記憶から抜け落ちてしまっていた。

 私が、母の事件で散々マスコミに追い回された頃などもう遠すぎる昔であるかのように、誰一人として私達を覚えているものなどいなかった。

 そして、春は人を殺してしまったらしい。

 私は知らなかったのだ。出会った頃に春は何かしら抱え込んでいるものがあるなとは思っていたけれど、まさか人を殺していただなんて。春はそんなこと一切口になどしていなかったのだが、とても気持ちのいい日に海岸沿いを歩いている時だった。

 春が座りたいというから分かったと私は言い、何気なく二人で座り込んだ。

 そうしたら、春が私の方をうつむきがちに見つめてきて、言ったのだ。

 俺は過去に人を殺したことがある、と。

 「夕、ごめん。俺、昔親友を殺したことがあるんだ。」

 そう言った、その時の春の顔は、うつろだった。

 「どういうこと?話して。」

 私はできる限り穏やかな声を出して春に続きを促した。そして、

 「あの、な。俺昔はすごく悪くて、チョイワルとかヤンキーなんて言葉では収まらない、最低な奴だったんだ。だから、その時、いつも通り人を殴っていたら、そいつが死んじまって、でもその人間が、よりにもよって俺の親友だったんだ。そいつは俺と同じワルで、別のグループにいたんだ。俺はだからいつも通りの抗争だと思ってただ人を殴っていた。だけど、次第に手加減ができていなかったんだと思う。だんだん、制御が上手くできていない自覚があった。だから、俺はよりにもよって、親友を殺してしまったんだ。」

 私は、反応ができなかった。上手く、繕うことが難しかったのだ。

 「ああ、そうだよな。何も言えないってことだよな。俺も、もうどうすればいいのか分からないから、でも夕には隠せなくて、ごめん。」

 これが、春の誠意なのか、私は、ひどく動揺して、少しだけ泣いていた。

 「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ。ごめん。俺、その時はまだ未成年だったから、すぐに社会に出れることになったんだ。でも、俺は苦しくて、どうしようもなくて、分からなかった。何も、何も前も先も見えなかった。」

 「…うん。」

 かろうじて発することができた言葉はただの頷きで、でも私の体の中からは春に対する拒絶などは一切ないということを感じていた。

 私は、私たちは、だから罪人なのだと思う。

 このままずっと一緒にいられたら、いいのかもしれない。けれど、きっとそれは私達にとっては幸せなのかもしれないが、同時に不幸せにもなるのだろう。だって、私たちは社会の中で生きていて、そこから孤立してただ一人でいるだなんていうことは、きっと、苦しくなってしまうはず。

 だけど。

 だけど、

 「春、でも一緒にいようよ。私、もうどこにも行くつもりはないの。誰から責められるとか、そんなこと、疲れちゃった。ずっと一緒にいれば、きっとそういうことから逃げられるんだよ、ねえ、そう思わない?」

 「…そうかな。はは。」

 春は少し嬉しそうだった。だけど、どこか苦しそうな顔をしていて、でも私はそれが苦しくて、埋めたくて、ただ抱きしめた。抱きしめて、呟く。

 「平気。もう平気。どこへ行っても、もう大丈夫。死ぬときも、一緒にいようよ。だって、私たちはもう私達しかいないのだから。それを冷たいとか苦しいだとか、思っても知らないふりをしようよ。そうだな、不安になったら、もう一緒に消えちゃおうか。ねえ、春はそのくらい私と一緒にいたい?」

 一瞬目を見開いて、春は口をぽかりと開けていた。

 「でも、さあ。そんなのすぐに止めたいって思うはず。だから、俺は一生満たされないって分かるから、その時に死にたいって思うはずなんだ。俺は、その時に本当に心から、死のうと思えるはずなんだ。だから、夕、お前は死なないでくれよ。俺を、捨ててくれよ。」

 分かる。私は、春の言っていることが分かってしまっていた。私たちは、行き詰る未来しか見えない、生まれた瞬間から、きっとそう定められていたのだろう。それが、だって、現実なのだから。

 「………。」

 沈黙が場を支配している。だけど、私たちは苦しくない。

 

 「あれ、そうだ。どうしたんだっけ?あれ、私。」

 記憶があいまいで、ぼんやりとする。

 私はいったい何をしていたのだっけ?

 「ああ、そうだ。春、どこ?」

 そうだ。春と一緒に死のうとしていたはず。だけど、あれ?これ、生きてるってこと?あれ。

 ぼんやりとした意識の中で掴んでいる現実が本物なのか幻なのか、分からない。

 あれ?

 そう思っていたら、力強い何かが私を掴んだ。

 ああ、春だ。そう確信して、振り返った。

 私は、すごく幸せな顔をしていたと思う。

 「夕。」

 ああ、春だ。相変わらずカッコいいな。大好きな、春。春に愛されて、私は、もう抜け出せなくなってしまったのだと思う。

 運命は、私たちの中にあった。ただ、そこに存在しているだけだった。

 ここは天国なのだろうか、ぼんやりとしていていまいちあいまいなままだった。私はただ浮かんでいるような心地で、その隣には春がいる。こんな、こんな私たち二人だけの場所が存在しているということが、ひどく心にずしりと乗っかった。

 そのずしんとした感覚だけを、私はこのうすぼんやりとした世界の中で、ただはっきりと持ち続けていた。



 土曜日。

 もう人々は土曜日に働くということをしていない。する必要が、無くなったから。今は、だからすごく生きにくい時代なのではないかと、名茂小鳥なもことりは思った。

 アタシ、だってずっとこうやって家の中にいるだけなんだもの。

 昔から感じていた。何かがおかしいってこと。でも、それを上手く形にして認識することができなかった。だって、アタシはただこの部屋の中で寝ているだけなのだから。

 人間の寿命は、いつだったか結構昔に無くなってしまったらしい。だけど、死ぬという選択は、誰もできなかった。そうやって地球の中には人間が増え続け、場所が無くなってしまったから、アタシたちのような最近誕生した者は、こうやってこの狭い部屋の中で無力化され、寝かされているということだ。

 なんだか、人権だか何だかで、こうやって最低限の知識を習得させることはするらしいのだけれど、ほら、アタシの全身はこうやってガチガチに、縛られているの。

 出られない、それを苦しいと感じることすら許されない。

 アタシは、そう、気付いている。

 ちょっと前のことなんだけどね、外を、動き回ってみたの。

 アタシ、この狭い部屋の中でなら、いくらでも学ぶことを許されているから、この監獄の中からでもアクセスできる抜け穴を探して、外の人とつながることができたの。

 そうはいっても、心の中だけ、体はもちろん外には出られない。アタシの、頭の中だけが、彼を知ったの。

 「名茂。」

 その声で呼ばれると、すごくくすぐったい。くすぐったくて、でもとてもうれしいの。アタシは、初めて人間というものを知った。それは、すごく、すごく新鮮なことだった。アタシは、つまり生まれ変わった様な心地だったの。

 アタシの、アタシっていう一人称は、彼が教えてくれたの。アタシが、自分のことを自分と言っていたら、「名茂、お前テンション高いんだから、アタシっていう一人称がいいんじゃない?すごく似合うと思うよ。」と話してくれた。教えてくれた。アタシは、だから初めてその時自分のことを、アタシと言ってみたの。そしたら、その瞬間に世界が変わったわ。アタシ、アタシはアタシなんだって、思った。

 すごく、良かった。

 人生の中で、人生というものを認識したことがそもそも初めてだったと気づいたのだし、だから私は、抜け出すことにした。

 昔話を知ってるの。

 昔、すごく昔。

 アタシのお母さんという人が教えてくれたの。この世界では自分の子供を育てるということは許されていなくて、それはなんでかって、不公平だからっていうことらしいの。育てる人によって幸せに差が出るということが、不平等だからって、アタシは親の顔も知らずに生きている。

 それを、当たり前だと思っていたのに、彼に出会って初めておかしいって気づいた。

 アタシは、アタシのお母さんに会ってみたい。

 「ねえ、アタシ、お母さんに会いたい。」

 思い切って彼にそう告げた。彼は少し切なそうな顔をして、アタシを撫でていた。アタシは、そうされるとやっぱりくすぐったくて、心地良かった。

 「分かった。探すよ、俺が。」

 彼はそう言った。そう言い切ってくれた。でも、アタシは知っている。この世界の中でそのような動きをするものを排除しようと動く存在がいるということを、それは、ただ単にこの世界の秩序を乱すという理由のため。アタシはちゃんと分っている。アタシは、全部分かっている。

 「お母さん、どんな人なのかな。ちょっと考えてみたんだけど、浮かばない。会ったことも無いんだから、仕方ないよね。」

 おどけてアタシがそう言うと、彼はきりっとした声で否定した。

 「それは違う。」と。

 それからしばらくして、彼は戻ってこなかった。

 もう、いくら交信しようと思っても、届かなかった。

 アタシは、全てを理解してしまった。彼は、もう戻ってこないということを、諦めなどでは無くて、確信として、傷として、アタシの中に残り続けることになった。

 


 それからしばらくして、彼から何か連絡が来ないかななんて、叶いもしないことを分かっているのに、アタシは待ち焦がれていた。

 その頃だった。

 手紙が届いたのだ。

 宛名を見ると、彼からではなかった。

 名前は、

 羽田夕。羽田春。

 この人たちは、誰だろう。アタシに手紙をよこすということは、どういうことになるのか分かっているのだろうか。外界との接触を公にはできない、アタシにこのアナログな手紙という方法で何かを伝えようとしている、とうことはつまりほとんど命がけということだ。

 見つかったら、殺される。もしくは、それより辛い目に合うのかもしれない。

 だって、この世界では秩序が優先だから、いや、絶対的だから、いやそれだけなのだから。

おそるおそる手紙を読み取ってみた。アタシの手足は拘束されているから、アタシはただその中身を何とか見通すことしかできない。この状況の中で、アタシが身につけた生きる術。こんな所で役に立つとは思っていなかった。そう思うと、無意味に感じられていた全てが、あって良かったことなのかもしれないと思えた。

 何だろう、何、一体。

 少しづつ内容が読み取れていく。

 そして、アタシの目からはポロリポロリと涙が溢れていく。

 際限がなく、止まらなかった。

 「こんにちは、初めまして。

 いきなりで驚くよね。でもごめん、急いでいるから、君に伝えたくて、仕方が無いことがあるんだ。

 私たちにこの手紙を書くようにさせてくれたのは、彼だよ。君を救ってくれた、彼。彼は命がけで私たちに君の居場所を報せてくれた。

 ありがたいと思った。

 私たちは二度と君には会えないと思っていて、辛すぎるから心の中から消していた。でも、もうすぐ会いに行く。何としても、彼と一緒に、君を助け出すよ。

 だから、もう少し、そこは窮屈だと思うけれど、待っていてね。


 父、母より。」

 アタシには、家族がいた。

 そして、彼は生きていた。

 それだけがアタシの胸の中にあり続ける。それだけが、真実なのだ。

 ぼろぼろと流れる涙に押し負けて、アタシは声をあげながら泣きじゃくっていた。誰も聞いてなどいないこの部屋で、アタシは人間を強く自覚していた。アタシは、愛されている。愛されていた。

 その事実が痛くて苦しくて、でもうれしくてたまらないのだ。

 「アタシ、良かった。アタシ、アタシ。」

 何も言葉にならない。なぜだかうまく言葉にならない。感情が渦のようで、ひどく混乱している。

 でも、アタシはアタシであるということが、今骨身にしみて感じられる。

 誰かの意思が、アタシを包んでいる。

 今までは孤独だったのだ。

 気付くことすらできなかったのだが、いつも死の淵をさまような、そんな場所にいたということに気付かされる。

 それは空恐ろしくて寒気がするものだった。

 「アタシ、待ってる。待ってるから、平気。そして、ありがとう。」

 そう呟いて、少女は眠りにつく。

 すると何名もの足音が聞こえ、怒鳴り声が響く。

 

 「死亡を、確認した。」

 その声は狭い独房の中をこだましていて、不気味なものだった。

 世界は、やはり驚くほど残酷だと言わずにはいられない。

 世界の数合わせに、そこから外れてしまった彼女は、殺された。

 自らが気付くこともできない内に、ひっそりと。おぞましく、痛い。

 私は、この事実をただ書き留めようと思う。せめてもの反逆として、この世界がおかしいということの通告として、後世、誰かが呼んでくれれば幸いだ。


 そう、締めくくられていた。

 僕が図書室で手に取った本にはそう綴られていて、一体この本は何なのだろうと思わずにはいられなかった。

 僕は、ただの小さな町の一高校生なのだから、やっぱり何も、分からない。

 分からないのだ。

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眠りにつく前に @rabbit090

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