第38話
時宗は、座る前にまず敬樹をぎゅっと抱き締めた。怒鳴られる怯えと恐怖に、敬樹は逃げ出さず、パニックも起こさずに耐え抜いたのだ。海斗もやってきて、敬樹の頭を撫でた。
敬樹は時宗の腕の中で深呼吸をすると、体を離した。
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
にっこり笑って見せると、時宗は祖父を見た。一番奥の上座にどっかりと腰を下ろした時政は、労わりあう3人に厳しいことは言わず、窓の外を見ていた。
やれやれ。手がかかるじいさんだ。
時政の右脇に時宗は座る。入口に近い方のソファーには、時政の向かいに海斗が、時宗の向かいに敬樹が座る。
ごく自然に海斗が祖父の正面に座ったので、時宗は内心驚いた。嫌がるかと思ったのだが。
しかし海斗は敬樹に笑いかけると、ソファーに深く腰掛けた。時政と同じように窓の外を見る。2人の仕草はそっくりだった。誰の足跡もない雪原を見つめる、孤独な眼差し。どこか遠くへ。自分の想いのままに行きたいと願い、愛情を探しに行くことを渇望しながら、それを諦めようと思っている目。
しばらくそうして外を見ていた海斗は、穏やかに祖父へ視線を向けた。
「……庭、すごく綺麗だなぁって思いました。今は誰も見る人がいないって、本当ですか?」
祖父は庭を見たまま答える。
「そうだな……以前は招待していたのだが……客は誰も……庭など見ない。それに気づいて、私はすべてが嫌になってしまった」
「客はみんな、南条家の権力と財産を見に来る」
「そういうことだ。だから、私は引退してからは誰にも見せたくなくなった。この庭を美しいと思っている者以外に見せる必要はない」
「……わかる気がします」
海斗は再び窓の外を見た。少し向こうに池があり、その手前で水仙が揺れている。年古りた松が、緑の枝を池に向かって差し伸べていた。それは老人特有の無邪気さを湛え、孫に池を自慢するように揺れていた。手前の芝生の中を、散歩用の小道がのんびりとしたカーブで横切っている。庭師が道具を持って歩いて行くところだった。
冬の日差しの中で、庭は春の準備をしながら静かに眠っている。
「あの、今度お散歩してもいいですか? 池とか見たいです」
海斗はゆっくり言った。時政が、穏やかな声で答える。
「そうか。案内しよう。梅が咲いたら、また来るといい。桜が咲いたら……そうだな、ここ数年は花見も……しておらんが……」
時宗は黙ったまま、座っていた。今、言葉を出すのは無理だ。喉に想いが詰まってしまって、何か言ったらみっともないことになる。ずっと孤独だった祖父と孫が静かに話す光景は、懐かしくて、優しくて、そして……。
ドアが開き、お茶の香りが部屋に満ちた。
藤宮がひとりひとりにお茶を淹れるのを見ながら、時政は時宗に聞いてきた。
「あの箱を開けるのに、どのぐらいかかったのだ?」
「30分程度だったようです。このピン……10年以上も箱の中にあったのですね」
「そうだな。私は時期尚早だったかもしれないと思いながら、あそこに置いたまま心を決めかねていた。だがお前は……自分で結論に至ったのだな」
「そうですね。父と兄は、箱にこれが入っていることを知っていたのですか?」
「どうだろうな。あの者たちは、そうしたことには鼻が利く。知っておらなくても、私がお前を当主にと一旦考えたことには勘付いていたと思う。それが今回のきっかけであったかもしれんな。
……お前が大学を卒業した辺りから、あの者たちは焦り始めた。弥二郎によく電話をかけておったようだ」
「それは僕も聞いたことがあります。僕の父……義時が弥二郎叔父様と怒鳴りあいをしておりました」
「弥二郎には悪いことをした。あれは私の目となり、様々なことを見て伝えてきておった。義時と時頼の企みが露見したのは、先月のことだった」
祖父は緑茶を飲んだ。時宗はティーカップを持ち上げ、落ち着く香りを吸い込む。海斗と敬樹は、会話を真剣に聞いていた。
「時頼の娘、優香里は何歳になったのだったか……」
「2歳です。おじい様」
「うむ。義時と時頼の2人は、どうあろうとお前に当主の座を渡したくなかったのであろう。勝手にピンを作ったぐらい、私を無視しておったしな。2人は……念書を作成した。現当主義時が引退し、後継者を優香里とするというものだ」
「まだ2歳ですよ?!」
「そうだ。2歳の娘を当主とし、実質的な権力は義時が握る。そして時宗。お前が将来、決して当主の座を狙わず優香里に譲ると宣言するものだ。2人はそれを文書化し、お前を強引に連れ戻して署名させようとしておった」
「そんなバカなことを考えていたのですか……」
浅知恵ばかりの連中が考えそうなことだと時宗は思った。向かいの2人も呆れた顔をしている。
「元々、あの者たちには胡散臭い連中が群がっておった。それこそ……違法なことを平気でやる輩だ。お前を誘拐し、殺しかねないところまで事態は進みそうな気配だった。お前が大学を立派に卒業し、社会人となったことが連中を追い詰めていたのだ。
さらに事態は悪化した。実のところ、弥二郎はお前の行動をそれとなく見守り、常に警備を配置しておった。お前に気づかれぬよう、常にだ。お前がグループ会社を追い出された者たちを集め、密かにネットワークを作り、横領、背任などの証拠を集めていることも知っていた」
「えっ? いつ言おうか悩んでいたのですが」
「とっくに知っておった。私と弥二郎は、時宗もやりおると祝杯を挙げた。お前は廃嫡ぎりぎりのところで泣き寝入りを拒み、己の力で当主の座を勝ち取ろうとあがいている。やはり時宗こそが当主の器であるという点で、私と弥二郎の意見は一致しておった。
弥二郎は……あれは元々、人の秘密を探るのに長けておってな。あれが探偵という仕事を選んだのは、私の目となり、同時に私の子供たち、長女政子と次男早雲とを探すためだった。
あれはあれなりに、家族が離散してしまったことを嘆き、元に戻したかったのであろうな。政子が駆け落ちした時から、弥二郎は政子がどこで何をしておるかを定期的に私に報告しておった。政子が死に、その夫が多額の負債を残して死んだことも、その負債のせいで孫の海斗が困った輩にこき使われておるのも、知っておった」
「えぇぇ……? ずっと放っておかれてたんか……」
海斗が困惑した声を出した。
「放っておいたわけではない。お前がどのような性格であるのか、連れ出すとすればどの時期にどのような方法をとるか、弥二郎は探っておった」
「もしかして、他人のふりして追っ払ってたってのも」
「弥二郎は笑っておったぞ。お前の部屋を訪ねた折に、隣から政子そっくりの青年が澄まして出てきおったと。いくら他人のような顔をしても弥二郎には通用せん。お前は政子と同じ目元だからな」
呆れて時宗はミルクティーを飲んだ。
「数日前のことだ。私は弥二郎と話しておった。海斗を一族の者として連れ戻すべきかどうか。私は海斗の性格がまだわからぬ。それゆえ反対だと怒鳴ったが、弥二郎は頑として受け入れず、札幌から連れ出すよう主張しておった。このままでは海斗は愚かな輩に潰されると。
弥二郎は啖呵を切った。私の顧問弁護士と結託し、海斗に自分から東京に来るよう、すでに何通か書面を送ったと言いおった。事態は私の許可を得ず、既に動き始めていると。時宗といい弥二郎といい、お前たちはいつも図々しい。私が本当は海斗に会いたいのだと弥二郎は言い張った」
「事実でしょうが」
「黙れ、時宗」
時宗の噴き出しそうな顔に、祖父は不機嫌な顔になった。
「とにかく、海斗の事情も時宗の事情も逼迫しておった。お前……時宗は、義時と時頼の違法行為の証拠をいまにも警察に持ち込みそうな勢いだった。連中の犯罪が露見するとなれば、今度こそ、お前は殺される。
そして……最悪なことに、義時と時頼がこの屋敷に押しかけてきた。私と弥二郎はこの部屋で話しておったのだが、執事の言うことも聞かず、強引に乗り込んできおったのだ。弥二郎が私と頻繁に会っているという情報を得て、現場を押さえようとしておったらしい。ついに、我々は鉢合わせすることになった」
あぁ……その光景が目に浮かぶ。父親が腰巾着の兄を従え、してやったりという顔でドアを乱暴に開けて乗り込んでくる様子が。何一つ経営能力はないくせに、自分の悪口を陰で言われることには我慢ならないのだ。
「私は……愚かなことを言った。こればかりは弥二郎に謝罪するべきだ。弥二郎は……時宗、海斗、そして私……全員の盾となった」
時政は顔を覆った。祖父は10年前より確実に老いた。おそらくこの祖父は、グループ全体の当主として全力を尽くしたのだ。祖父自身の父が作ったものを発展させることに必死だったこの祖父は、元は優しく感受性に溢れた人だったのだろうと時宗は思う。
それがグループの発展に尽力していくうちに、弱い部分を隠して生きるようになった。引退して、自分の本当の性格を隠す必要がなくなった今、祖父は再び感受性豊かで孤独に怯える者となった。なのに、威圧感を使って先制攻撃をするやり方だけが残っている。祖父自身、どうしたらいいのかわからないのだろう。
祖父は顔を覆ったまま、しばらく黙っていた。不意に海斗が手を伸ばし、驚いたことに祖父の肩に手を置いた。さらに驚いたことに、祖父はその手を振り払わなかった。
「弥二郎さん……叔父さんが心配なんです。あの、オレたちで助け出すから、どうなったんか教えてもらえないかって思うんですけど。オレ、頑張ります」
祖父はのろのろと顔を上げ、低い声で続けた。
「義時は……私と弥二郎が時宗を当主に据えようとしていると、口を極めて私を罵った。現当主は自分だ、老いぼれは引っ込んでいろと。私から……最も大切なものを奪った息子は、今また私から大切なものを奪おうとしている。私は怒り、弥二郎が止めるのを聞かずに怒鳴った。お前のような者たちに当主の座は渡さぬと。海斗を連れてきた者とだけ、まともに口をきいてやると私は……言った」
「やっぱり海斗に会いたかったんじゃありませんか」
時宗は呆れて思わず言った。ツンデレもここまで来ると面倒くさい。
「孫の死体を揃えたければ揃えてやると言い捨て、義時は出ていった。私は……私は耐えられなかった。時宗と海斗が死体となって並ぶなど……」
「ご老人にずいぶん残酷なことを言いますね」
敬樹がぼそりと言った。
「それが俺の父親だ」
時宗は、思わず普段の口調で答えた。はっきり言って、自分の父親と兄のことは、敬語で穏やかに話していられる気分にはなれない。
「連中が出ていった後、弥二郎は一計を案じた。時宗を言いくるめ、海斗を探しに札幌へ派遣すると。私の言ったことを逆手に取る。時宗がまんまと海斗を連れて帰ってくれれば、当主は正式に時宗となる。
だがさらに私と弥二郎が願ったのは、時宗……お前が海斗を見つけられず、数日、あるいは1週間程度札幌で足止めを食うことだった。
弥二郎はお前が寝ている間に、義時と時頼の横領の証拠をコピーしてあった。それに……弥二郎はずっと、2人のふしだらな行いの記録を取っておった」
「ふしだら……?」
「自分たちで作ったゴルフ場だかどこだかで、あの者たちはパーティー三昧をしておった。数人の女性が連れ込まれ、その、いかがわしい行為を強要されたという報告が上がっておった。ヤクザ者など、とにかく胡散臭い連中が多いようで、私は気が気ではなかった。そういったことが表沙汰になれば、私が築いたものは……。
とにかく、弥二郎が集めた記録と、時宗が集めた記録、すべてを集めて一族から追放する時が来たと弥二郎は言った。一族の者に連絡を取り、採決を取って当主をすげ替えるための手続きを行う。それが終わるまで、時宗と海斗を札幌に避難させておこうというのが、弥二郎の考えだった。
だが思惑は外れた。良い方向にも、悪い方向にも」
「僕は海斗をあっという間に見つけ、2人でのほほんと車で日本を縦断し始めた」
「そうだ。お前たち2人は自分たちで知恵を絞り、札幌と東京、両方の敵をかわしながら見事に戻ってきた。こちらの思惑よりも、お前たちは聡明だった。しかし、お前たちを本気で妨害するために、連中は弥二郎を連れ去った。弥二郎から最後に連絡が入ったのは、拉致される1時間までだった。焦っておった。曰く、なんと言ったか……時頼が、例の言い争いに乗じて弥二郎のスマートフォンに何かを入れ、情報が筒抜けであったということだった」
「あぁ!」
時宗はやっとわかった。弥二郎め、ヘマをしたんだ。時宗の兄、下半身の緩い時頼に遠隔操作アプリを入れられて、時宗との通話を抜かれたんだなと時宗は思い至った。だからアナログなメモを砂糖に残したわけだ。
そうか、そういうことか。つまり、札幌で海斗を見つけ、一緒に移動して青森で一泊したところまで、こっちの動きは漏れていた。だがその後、弥二郎は情報が抜かれていることに気づき、スマホを処理した。
で、情報を抜いているのがバレたから、ついに向こうは強引な手で弥二郎から直接情報を抜き、ついでに時政と孫2人とのつながりを断つという意図で弥二郎を連れ去った。弥二郎を人質にして時宗か海斗を呼び出すつもりか、あるいは単純に口封じで消すつもりか。
時宗は、祖父の手を取った。
「すべてわかりました。おじい様、弥二郎叔父様のことは僕たちにお任せください。全員の居所も、おじい様のお話のおかげでわかりましたし。
僕に考えがあります。全員まとめて片づける。どうか心安らかに、ここで僕からの連絡をお待ちください。海斗、敬樹、行くぞ」
「わかったんか?!」
「あぁ。俺もお前も、決着をつけに行こう。おじい様、お会い頂きありがとうございました。改めて弥二郎叔父様と後日伺います。それでは」
「……武運を祈っておる」
古風な言い方に、時宗は不敵に微笑んだ。あの箱にはじいさんの夢が入っていた。彼が受け継ぎ、次の世代に引き継ぐために必死で築き上げたすべてが。そしてそれは今、時宗自身の夢となった。
しかも時宗は、最高の武器を手に入れた。海斗だ。
藤宮の連絡を受け、矢代が車寄せにメルセデスを回してくれる。乗り込みながら、時宗は思った。
海斗。お前の自由は俺の自由だ。俺は、自分の夢を諦めないための理由をお前の中に見出した。今度こそ、俺は、俺たちの人生を手に入れる。
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