第37話
じいさんの家は、渋谷の超高級住宅地、松濤の一角を占めている。コンクリートの高い塀に囲まれた要塞のような外見から、中は一切伺い知れない。この屋敷はじいさんの父親が建てたものだ。中には庭園があり、春は桜が美しい。
かつてはこの桜を見せるために政財界の要人を招待したものだが、今は一年を通して来客はほとんどなく、主の時政が人前に姿をさらすこともなくなってしまった。
海斗と敬樹は完全に委縮していた。長々と続く塀の横を車がゆっくり走っていく間、2人は時宗の『ダンジョン攻略』という言葉が比喩でもなんでもないことを噛みしめているようだった。
なにせ買い物から立て続けだからな。
普通の買い物とは全然違う『買い物』にも、2人は緊張しっぱなしだった。
まず、お迎えにやってきた10人程度の従業員と総支配人に入口で丁寧に挨拶され、VIPルームに案内されるまでが一仕事。
次に大人しく立って、時宗の指示に従って次々と従業員が持ち込んでくるものを着たり脱いだり脱いだり着たり。
お茶をお淹れしましょうか。お菓子はいかがですか。こちらの御召し物はいかがでしょう。
大勢にかしずかれて、「あ、はい」しか言えない状態の2人のために、時宗はすべての服を選び、小物を選び、お茶を飲ませ、お土産のクッキーを袋に入れてもらい、着てきた服と靴を袋に入れてもらい……。スマホをポケットに突っ込もうとする敬樹を慌てて止め、ベルトにつけるスマホケースを追加で買い……。
位置情報を抜かれないよう、海斗のスマホは電源を入れることを厳禁している。それはリュックに入れられたまま、うやうやしく矢代にトランクに詰め込まれた。
今の2人は、もう心細さ最高潮という顔だ。弥二郎のことがなければ帰りたいという気持ちがありありと出ていて、かわいそうなほどだった。
服装は完璧だった。時宗が選んだのだから当然だ。
海斗はミディアムグレーに深い青が混ざった色合いのシングルにした。動くたびに青味のある光沢が生まれ、しなやかな体のラインを引き立ててくれる。ネクタイは黒に近い紺。じいさんに会うには無地でなければならない。
敬樹の方もやはりグレーだが、こちらはもっと濃い。そこに、ほとんどわからないぐらいの緑色が混ざっている。シルクの割合を少し押さえ、若く溌剌とした仕草がじいさんの癇に障らないよう配慮した。本当はシルクをちょっと多めにして、敬樹の笑顔に似合う艶を出したかったのだが。ネクタイは落ち着いた深緑の無地。
2人とも、きちんとストレートチップの革靴を履き、胸ポケットのハンカチも完璧。あとは……歩き方だな。
カーテンを開け、入口の警備カメラからこちらの顔が見えるように窓を開ける。
「2人とも背もたれに背中をつけろ。足は組まない」
「わ、わかった」「わかりました」
メルセデスは塀の前で一旦止まった。鉄の門扉が開くのを待って、ゆっくりと曲がりながら進入していく。警察は敷地のすぐ外で待機することに取り決めてある。
「うわぁ……」
道の両脇には、池と庭園が広がっていた。美しい場所だ。鯉が滑るように背中を見せていた。冬なので、広々とした場所は芝生と松の緑ばかりで花は少ない。それでも、あちこちで水仙が白い凛とした姿を見せ、館の近くでは椿が咲いている。バランスよく配置された桜の木々は、今は枝だけの姿で春を待っていた。庭の奥の方では、東屋とそれに向かってかかる小さな橋が、冬の午後の光の下で、まどろむように佇んでいる。
無機質なコンクリートの壁の内側には、俗人には想像もつかない世界が広がっている。
高校生の頃に漢文の教科書で『桃花源記』を読んで、時宗は、この屋敷のコンクリートの壁に穴があったら面白いのにと思ったものだ。あの話は、山腹にある穴を無理やりくぐり抜けた男が理想郷に辿りつく。
海斗も敬樹も、注意されたことを忘れ、身を乗り出して庭を見ている。
「綺麗だな……」
「ほんとですね。春とか、きっと素晴らしい」
「毎年花見をしてたんだけどな。……祖父はもう、やる気をなくして」
時宗の声に、海斗が振り向いた。
「誰も、この庭見ないのか?」
「祖父は散歩してると思う。……わからない」
「そっか……」
黙ってしまった3人を乗せて、車は屋敷の車寄せに、静かに入った。
屋敷もまた、洋風の立派なものだ。煉瓦の外壁は年を経てどっしりした色合いとなっている。切妻屋根は時宗が出入りしなくなってから直したらしく、新しい深緑の色は外壁と少しちぐはぐになっていた。少し奥には多角形の塔が見える。祖父の居住空間である和室は、こちらからは見えない。
車寄せにメルセデスが止まると、中からフットマンが出てきてドアを開けてくれる。
まず敬樹が降り、もたもたと海斗が降りる。それに続いて時宗もボタンを留めながら降りた。久しぶりの祖父の家。さてじいさんはまだ、まともな感性を残しているのか。
「2人とも、上2つのボタンを留めろ。堂々と。海斗。敬樹。お前たちは、立ってるだけで誰もが惚れるいい男だ。それを忘れるな」
「いや、忘れるなって……」
「堂々と。背筋を伸ばして」
2人は背筋をピンと伸ばし、緊張した顔になった。
「そう、その調子。俺が全部言うから、考えなくていい。いくぞ」
フットマンについて、時宗は屋敷へ入っていった。
玄関ホールは吹き抜けになっている。高い天窓から陽光が射し込み、待機する秘書などのための椅子が壁に沿っていくつか並んでいる。奥には広い階段が2階へと迫り上がっていた。
「絶対に椅子に座るなよ」
「何分ぐらい待つんですか?」
「最短10分、最長記録は6時間」
「マジか」
「俺じゃないけどな。とにかく座るな」
「6時間……」
ドエライ待ち時間にビビったらしく、2人は玄関ホールの隅っこに並び、黙って突っ立っている。フットマンは玄関の外で矢代と話していた。ガレージの方へ誘導しているのだ。女性のお手伝いさんが入ってきたので、時宗は銀のお盆に名刺を乗せた。お手伝いさんは、時政様は昼食を召し上がっておいでです、と説明して一旦下がった。
がらんとした玄関ホールで、3人は放って置かれた状態になった。客間に通してお茶を出さないのは、おそらく時政の指示だ。こちらが癇癪を起こして帰るかどうかを試している。
時宗は奥の隅に懐かしい物を見つけた。近づいてみる。それは、寄せ木細工の秘密箱だった。壁に沿って置かれた小さなテーブルに、ぽつんと取り残されたように載っている。
じいさん、ツンデレもいいとこだな。
時宗は涙が出そうな気分になった。あの日──小学校の卒業式の後──祖父の目は、確かに時宗を慈しむものだった。
あれからずっと、箱はここにあったのだ。乱暴に断ち切られた時間が再び動き出すのをずっとずっと待ちながら。
じっと見る。この箱を置くためだけに用意されたらしき、小さなテーブル。華奢な脚の周りは、ほんの少し埃が溜まっている。箱の下のレースの敷物もうっすら汚れていた。すべてに掃除が行き渡っている屋敷の中で、それは違和感があった。
そっと手を伸ばす。
「いけません!」
鋭い叱責に時宗は思わず手を引っ込めた。横を見ると、さっきの女性のお手伝いさんが時宗を睨んでいる。怯える海斗と敬樹を尻目に、女性は言った。
「その箱は、どなたも決してお触りになってはいけません」
厳しい口調。
突然、閃くように時宗は理解した。弥二郎のメモ。『箱の中身はなんだ? 掃除の時に邪魔なんだよ』。おそらくあのメモは、この箱を指している。祖父は掃除のために触れることさえ許さないのだ。
時宗が女性の顔を見て思案していると、客間のドアが開いた。中から60代の小柄な男性が出てくる。目立たない紺のスーツに、少し明るい紺のネクタイ。その男性に、時宗は声をかけた。
「藤宮さん。ご無沙汰しております」
「時宗様! ご無沙汰いたしております……おぉ……こんな……見事にご成長なされて……」
執事も時宗を覚えていた。嬉しそうに近づいてくる。
「お待ち申し上げておりました。……いつかまたいらしてくださると……」
「長くなってしまいましたね。またあなたにお会いできて、本当に嬉しいです」
時宗が微笑むと、女性は気まずくなったのか、退出しようとした。時宗はそれを制して声をかけた。
「お待ちください。申し訳ない。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
女性は立ち止まり、しばらくためらった。藤宮の方をちらりと見て、彼がうなずくのを確認してから答える。
「……佐々木でございます」
「佐々木さん。先ほどは失礼いたしました。お聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「あなたはここのお掃除をなさっているのではありませんか? でも、お掃除の時でさえ、おじい様……時政様はこの箱に触ることをお許しにならない。違いますか?」
「そうです。決して誰も触ってはいけません」
「あなたはお仕事に熱心に取り組んでくださっているのですね。おじい様に代わってお礼を申し上げます。本当に、ありがとうございます」
佐々木と名乗った女性は頭を下げた。時宗は続けた。
「あなたにお願いがあります。この箱に触れることをお許しいただきたいのです」
「……それは、時政様がお決めになることでは……」
「いいえ。あなたにお許しいただかなくてはなりません。というのも、この箱は僕のものだからです。違いますか? 藤宮さん。小学校を卒業した折、ここへご挨拶に伺って、僕はこの箱をおじい様から頂いた。僕がおじい様から受け取るところを、藤宮さんもご覧になっていたはずです」
藤宮はうなずき、微笑んだ。
「ええ。時宗様はとても嬉しそうになさっておいででした」
「そうです。ですが、兄に乱暴に取り上げられてしまいました。おじい様は激怒なさって父と兄を追い出し、僕も父に引きずられ、みっともなく退出した」
藤宮の目が悲しそうになった。後ろの方では、海斗と敬樹がじっと成り行きを見守っている。
「この箱は僕が一度受け取った物です。でも、僕はこれをここに置いて行かなければならなかった。だからこそ、おじい様ご本人も、これには決してお触りにならない。僕ひとりだけが、この箱に触る権利がある。ですが現在、この箱を実際に守ってくださっているのは佐々木さんだ。あなたのお仕事に感謝して、僕はあなたのお許しを頂きたい」
佐々木が納得した顔になった。
「わかりました。どうか……時宗様のご自由になさってくださいませ」
「ありがとうございます」
時宗はにっこり笑うと、胸ポケットからハンカチを出した。
「時宗様。こちらをお使いください」
別な布が差し出される。佐々木がポケットから、家具などを拭くための柔らかい布を差し出したのだ。さっき時宗を叱責した時とは違い、佐々木の目は優しいものになっていた。
「お恥ずかしいのですが……埃が溜まっております。時宗様のハンカチが汚れます」
感謝に微笑んで布を受け取ると、時宗は箱をそっと持ち上げ、丁寧に拭いた。佐々木が手を伸ばし、終わった布を受け取ってくれる。
箱をそっと揺すると、中でコトンと音が鳴った。やっぱり。小学校卒業の時も音には気づいていた。何か入っている。
佐々木は一礼すると、静かに玄関ホールを退出していった。
「中に何が入っているんだろう……」
時宗が呟くと、藤宮も「さぁ……私も伺ったことはございません」と言う。海斗と敬樹も近づいてきて、箱をのぞきこんだ。伝統的な寄木細工の箱は、あたたかみのある木の風合いと幾何学模様の優雅さとが相まって、美しいたたずまいをしている。その麗しさを時宗はしばらく楽しんだ。
この中には何が入っているんだろう? 時宗の想像力を尊重して、母も祖父も中に何かを入れた状態でくれたことはない。中身が入っている箱をもらったのは初めてだ。
「これ、どうやって開けるんですか?」
「……仕掛けがあるはず。当時の俺は小学生だった……極端に難しくはなく、でも頭を使うことが要求される回数だと思う」
時宗は箱を開け始めた。あちらを引き、こちらを押す。違うか……こちらを先に下げ、反対側を引く……辛抱強く、色々な手順を試す。
「客間へどうぞ」
藤宮の招きに応じ、海斗と敬樹が客間へ入る。時宗は箱のからくりを解きながら、彼らの後についていった。ソファーに座り、会話をしながら箱の開け方を考え続ける。
「お茶をお淹れしましょう。何がよろしいでしょうか」
「紅茶がいいな。ミルクティーで。茶葉は何が?」
「アッサム、ディンブラ、ウバをご用意してございますが」
「今日はアッサムでお願いします」
「かしこまりました」
顔を上げ、海斗と敬樹に声をかける。
「飲み物は何がいい?」
「オレ……わかん、わからないです。時宗と同じものをお願いします」
「ぼくも、ミルクティーをお願いします。あっ、同じ茶葉で」
「ではそのように」
藤宮が退出すると、部屋に沈黙が流れた。ゆったりとしたソファーの椅子の中で、時宗は集中する。ここを押して……感触としては21回仕掛けか、27回仕掛けだ。箱の仕掛けを理解するコツは、木に無理をさせないこと。力づくでやらず、木のパーツが動きたがる方向を探る。時間を経たせいか、きつくなってしまった所があって、時宗は苦戦した。
藤宮が大きなお盆を持ってきてミルクティーを淹れてくれる間も、時宗は真剣に箱に取り組んだ。こちらを下げ、そちらを右に。木の小さなカタカタという音だけが部屋に響く。海斗と敬樹はミルクティーを飲みながら、時宗を見守っている。
あと少しだ。多分これで最後。でも反対側でパーツが引っかかる。5回戻って、こっちを先に押して、それから……。
「開いた」
静かに時宗が言うと、海斗と敬樹はおぉ~と声を上げた。見ていた藤宮も目を見張っている。
「もう解かれたのですか?」
「ええ。21回でした。どのぐらいかかりましたか?」
「そうですね……30分もかかっておりませんよ。さすがは時宗様。幼少の頃より聡明でいらした」
「時宗、お前……すごいんだな」
3人の視線を心地よく感じながら、時宗はそっと箱の蓋をずらした。海斗と敬樹は椅子から身を乗り出し、みんなで時宗の手元をのぞく。
「これ……」
「時宗様、これは……なんと」
時宗は箱に手を入れ、薄紙の包みの中からそれを取り出した。
これは……とんでもないものだ。
そして同時に、おそらく今回の騒動の原因のひとつだ。
時宗はそれを目の前にかざし、しげしげと眺めた。まさかこんな大切なものが入っていたなんて。しかも、祖父は時宗がわずか12歳の時に、これを贈ろうとしていたのだ。
それは、一族の者がスーツの襟につけるラペルピンだった。飾りの部分から長いピンが伸びていて、襟のボタンホールから差し込み、長い針先を表に出して留めるタイプのものだ。
ラペルピンには種類がある。今、時宗がつけているのは銀のラペルピン。当主の長男以外の直系がつけるものだ。当主の長男は金、当主は……。
「これがここにあるってことは、父のピンは何なんだ?」
「ご自分で特注でもなさったのでは?」
藤宮と一緒に、時宗はピンの飾り部分を詳細に調べた。間違いなく当主のピンだ。夕顔の家紋が、黒漆に沈金と呼ばれる技法で描かれている。奥深い艶と光沢を放つ黒漆の上で、純金の線が煌めく、それ自体がひとつの芸術作品。
「すごい……」
「きれいだなぁ」
のんびりと感嘆の声を上げる海斗と敬樹は、間違いなくこのピンの価値と意味をわかっていない。
時宗はそのピンを自分の襟につけると、銀のピンをハンカチに包んで胸ポケットに入れた。
「箱を開けたのか」
突然、朗々とした声が客間に響き、時宗は顔を上げ、立ち上がった。海斗と敬樹もぴょこんと立ち上がる。
「えぇ。おじい様、こんにちは。ご無沙汰いたしております」
時政は、堂々とした背の高い老人だった。そこにいるだけで部屋を圧倒するようなオーラを放っている。彫りの深い顔のすべてのパーツに、見る人を威圧する迫力があった。白くなった眉は太く、炯炯と光る目は部屋の中の者すべてを見据えている。
黒に近いグレーのスーツを着て、ネクタイは明るいグレー。いまもってしっかりとした歩き方で、時政は部屋の真ん中へ歩いてくると、3人を睨み据えた。
さぁて、ここからが勝負だ。
「私は、その箱に何者も触れるなと言い渡しておいたはずだが」
「僕以外に誰も触っていませんよ? これは僕の箱ですから」
「だが中を開けるなと」
「せっかく僕がおじい様から頂いたのに、開けないなんてあり得ますか? 僕は10年もの間、おじい様に頂いた箱のことを想像していたんです。中に何が入っていたんだろうと。おじい様もお人が悪い。こんなに長い間、黙っていらっしゃったなんて。こんな粋な方法で僕を後継者に指名してくださったのに、気づけずに申し訳ありませんでした」
時宗がにこりと笑うと、時政はぶすっとした顔で背を向け、窓から庭を眺め始めた。
「……そもそも、私はお前以外をこの家に入れることを許可していない。得体の知れぬ者を連れてくるとはな。帰れ!」
突然の怒声に、海斗も敬樹も飛び上がった。思わず入口に向かおうとするのを目で制し、時宗は軽い調子で言った。
「おじい様、全然お変わりないようで安心いたしました。ご病気だと伺っておりましたが……癇癪を起こされるようなら、まだまだ大丈夫ですね」
藤宮がはらはらした顔をしている。時宗は安心させるように笑うと、ソファーテーブルを回り込んで海斗を迎えに行った。さりげなく腰に手を回してエスコートしながら、時宗はさらりと時政に言う。
「ご紹介しましょう。今野海斗くんです。僕は今回、札幌まで彼を迎えに行ってまいりました。おじい様がお会いなさりたかった方ですよ。おじい様の一人娘、亡き政子叔母さまの息子さん。おじい様の孫にして僕のいとこです」
時政が目を見開いたが、それ以上に海斗が仰天した顔になった。
「えっっ?! え、誰がだ?!」
「海斗が」
「オレぇ?!」
逃げ出さないように腰を抱き、時宗は海斗を時政の正面に立たせた。海斗は引きつった顔をしている。
「どうぞ、おじい様。お孫さんです。車が大好きで、運転がとてもお上手でいらっしゃいます」
「と……時宗……」
「ほら海斗。僕のおじい様と、君のおじい様は同一人物だったんだ。気づいたのは今朝だったんだけど。君にお母さんのお名前を聞いただろう? 君は迷いなく答えた」
「うん……だけどお前、そういうことは早く言えって……お前、いとこだったんか……」
時政の目が、じろりと海斗を見た。上から下まで、全体を吟味する目つきだ。海斗は緊張でカチコチに固まったまま、時政の前に立っていた。
「ふん。スーツを調達したのは時宗か」
「えぇ。とても似合っているでしょう? とても美しい青年だと思いませんか? 僕は海斗くんと一緒にこちらへ来る間、たくさんのことを話して仲良くなりました。心根も本当に美しくて、僕は大好きです」
色々な意味で。
時政はしばらく黙って海斗を見ていたが、ぼそっと言った。
「南条家の一員たるもの、もっと堂々と振る舞え。なっておらんな」
「海斗! よかったなぁ。南条家の一員として認めてくださるそうだ」
「……そうは聞こえんかったんだけども」
海斗がぼそっと言うと、時政の眉が吊り上がった。来るぞ。
「なんたる話し方だ! 人前での話し方を練習しておらんのか。出て行け!!」
時宗は噴き出して見せた。
「おじい様。ついさっきまで、海斗くんは自分を南条家の一員とは思っていなかったんですよ? いつ練習するっていうんです。よろしいですか? 話し方で性格は決まりません。それより、僕はおじい様の前で、こんなに緊張しながらも思ったことを言える度胸を素晴らしいと思います。海斗くんのそうした良さを見て頂くために、僕は海斗くんに、おじい様のことを黙っていました。今までおじい様にお会いした方は、ほとんどがおじい様の命令通りに、あっという間に部屋を出ていった。おじい様も、お寂しかったんじゃありませんか? その点、海斗くんはおじい様を充分楽しませてくれることでしょう」
「……時宗」
「なんです?」
「お前もしかして、面白がっておらんか?」
時政の言葉に、時宗は声を上げて笑った。
「ええ。面白がっています。おじい様は海斗くんのことを一目で気に入ったのに、口では素直じゃありませんから。そんなことでは海斗くんに嫌われますよ? 海斗、おじい様に、お母様と自分のことをお話ししてください」
優しく言うと、海斗はおずおずと顔を上げた。しばらく時政の顔を見てから、海斗は覚悟を決めたように背筋を伸ばし、しっかりした声で話し始めた。
「あの、えぇと……こんにちは。オレ、あの、僕は今野海斗っていいます。ずっと札幌にいました。じいさ……おじい様がどんな人かは聞いたことがなかったけど、母さんはネックレスをすごく大事にしてました。銀色の小さいハート型で、青いちっちゃな石が埋め込まれてた。母さんはそのネックレスを『母さんのお父さんが、最後に会った時にくださったのよ』って言ってました。その……あの、オレを雇ってた連中に取り上げられちゃったんだけど」
海斗はちょっとうつむいて、悲しそうな顔をした。
時宗は自分のことのように誇らしい気分で祖父を見た。海斗はとっさに、きちんと自分の出自を証明するエピソードを話したのだ。祖父の目が潤んでいる。それを隠すように、時政は窓の外を見た。
「ネックレスは……私が政子の誕生日に贈ったものだ。あの後、政子は……黙っていなくなった」
時政には珍しく、掠れた声だった。
「……海斗。お前は、政子によく似ている。目元が同じだ。だから、話し方や振る舞いを練習しなさい」
静かな声だった。時宗は心の中で胸を撫で下ろした。祖父はまだ、時宗を可愛がってくれた頃の心を持っていたのだ。
「ところで、そこの隅に突っ立っている少年は何だ?」
第2ラウンド開始か~。時宗は苦笑いをした。まぁ、この調子なら大丈夫だろ。
「彼は黒岩敬樹くん。弥二郎叔父様が大切に養育なさっている方です」
時宗は敬樹のところへ行き、これもエスコートして時政の所へ連れてきた。腰に触れると、敬樹は小刻みに震えている。パニックを起こしそうな雰囲気だった。
頑張れ敬樹。
時宗は心の中で呟いた。ここで弥二郎を取り返すんだ。
「どういう関係だ」
時政は、ぎろりと敬樹を睨んだ。敬樹は物も言えず、縮み上がっている。
「弥二郎叔父様が、ご友人から託されて育てていらっしゃいます。弥二郎叔父様は実の息子のように可愛がり、敬樹くんも弥二郎叔父様を実の父のように慕っております。弥二郎叔父様が何者かに拉致されて、彼はとても心配しております。今回の事件、どういったいきさつなのかをお教え願いたい。おじい様、弥二郎叔父様の行方をご存知ではありませんか?」
時政は時宗のことも睨んだ。
「私は、この少年が弥二郎とどういう関係かと聞いたのだ。血のつながりはないのだな? 関係のない者を連れてくるとは。お前に用はない! 出て行け!!」
威圧する怒声に、敬樹の息がヒュッと鳴った。落ち着かせるために、時宗は敬樹の肩を抱く。
「おじい様。まず怒鳴るのはやめて頂きたい。敬樹くんは弥二郎叔父様と実の親子同然だと申し上げたでしょう? 心配で夜も眠れないでいる息子が、決死の覚悟で父親の行方を聞きに来たのです。それを追い出すとは、ずいぶん冷たいことですね」
「だが」
我を通そうとする祖父を、時宗は見据えた。
「いいですか。僕も弥二郎叔父様と暮らしています。敬樹くんとは家族です。ひとつお聞きしたい。おじい様は亡くなられたおばあ様を愛しておられたとお聞きしております。おばあ様とは当然、血の繋がりはなかったと思うのですが、お2人は家族ではなかったのですか?」
力を込めて、時宗は続ける。
「それとも、もっと酷な例を挙げましょうか? おじい様には4人のお子様がいらっしゃいますが、血の繋がりがあれば疑いなく家族なのですか? 2人はおじい様と縁を切りました。長男である僕の父は、おじい様に何をしているんです? 彼はどこですか」
「黙れ!」
「家族かどうかを決めるのは、血の繋がりや法的な取り決めではない。そのことを、おじい様が一番良くご存知のはずだ。敬樹くんを追い出すなら、僕はおじい様に失望します。おじい様は、この僕を失望させるような、くだらない人間なのですか?」
時政は黙った。
「敬樹くんは、弥二郎叔父様が拉致された時に一緒にいました。自身も拘束され無力感を味わい、精神的なショックで倒れるほど弥二郎叔父様を案じている。この少年を追い出すなら、おじい様は僕と海斗くんという2人の孫も一気に失うことになる」
海斗が黙って一歩踏み出した。時宗の向こう側で、敬樹を挟んで守るように立つ。
「いいですか。僕の父と兄が、おそらく今回の黒幕だ。弥二郎叔父様を拉致した目的は何です? 今、彼らはどこにいるんですか。何があったのか、きちんと僕たちに説明なさってください」
時政は溜息をつき、窓の外を眺めた。遠い、遠い目だ。海斗に似ていると時宗は思った。不思議だ。別々に見ていた時にはわからなかったのに。
「そうだな……。時宗。お前を当主にと心に決めた時から、これは始まっていたのかもしれん」
時政は手を振り、ソファーに座るよう全員を促した。
「藤宮。私に緑茶を持ってきてくれんか。……お前たちは?」
時宗はほっとした気分で微笑んだ。
「僕は先ほどと同じミルクティーで。海斗、敬樹、お前たちは?」
「オレもミルクティーをお願いします」
「ぼくも……ミルクティーがいいです」
「かしこまりました」
藤宮も緊張が緩んでいた。涙に潤んだ目で何度もうなずくと、彼は部屋を出ていった。
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