第35話
敬樹の作った朝ごはんを食べ終えると、時宗はダイニングテーブルに座ったまま、電話をかけるという仕事に取り掛かった。海斗も敬樹も警察も聞き耳を立てている。全員の野次馬根性を満たしてやるため、時宗は通話をスピーカーに切り替えた。
「もしもし?」
相手は2コールで出た。
『はい』
向こうが名乗らないのは昔と変わっていない。こちらが何者なのかを明かさなければ、そのまま電話を切られる。
「南条時宗です。ご無沙汰しております」
電話の向こうで、息を呑む気配がした。
『時宗様……』
「そうです。あなたは藤宮さんですね? お変わりございませんか?」
執事の名前を呼ぶと、老人の息が震えた。
『はい、はい、おかげさまで……今も……』
「よかった。今日の午後1時におじい様にお会いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
『時政様は……本日はどなたにもお会いにならないかと存じます』
「そうでしょうか? おじい様は僕にお会いになりたいと思います。大変ご無沙汰してしまいましたから。それに、今日はおじい様にご紹介したい方々も一緒に伺います。なんと、僕の大切な友人です」
『そ、それは……時政様はお喜びにならないかと……』
「いいえ。おじい様はお会いなさったら、間違いなくお喜びになります。ね? おじい様は必ず僕にお会いになられますから、あなたは僕の訪問の準備をなさらなくてはいけませんよ?」
『で、ですが……時政様にお伺いしなければ』
時宗が自分のことを『僕』というたびに、向かいに座っている海斗の眉が驚いたようにぴょこんと上がるので、時宗は噴き出しそうだった。
「では、おじい様にお伺いしてください。僕はお待ちしておりますから」
『少々お待ちくださいませ』
軽やかな保留音を聞きながら、時宗は澄ました顔でコーヒーを飲んだ。
斜め前の敬樹が、真ん丸な目で時宗を見ている。何年も一緒に暮らしてきて、時宗が『お坊ちゃん』をやっているのを見るのは初めてなのだ。
数分経つと保留音が止まった。執事の藤宮が、さも残念だという声で時政の意向を伝えてくる。
『大変申し訳ございません。時政様は、やはりお会いにならないとおっしゃいまして……』
「おや、おじい様も全然お変わりありませんね。こんなに経っても、僕に会いたいという本当のお気持ちを口にすることがお出来にならないなんて。今日の午後1時に伺います。よろしくお伝えくださいませ。それでは失礼いたします」
通話を切り、時宗は呟く。
「相も変わらず、ツンデレこじらせてんな~」
海斗がガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
「……お、お前って南条って言うんか?!」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてねぇ! お前車ん中で、実家金持ちだって言ったし、ほんとの名前は時宗だって言ったけど、名字は言わんかった!!」
「あ~そういえば。すまん、俺の本名は南条時宗だ。ヨロシク」
「ヨロシク、じゃねぇ! おま、お前南条っていったら……」
「ちなみに俺たちが泊まった青森のホテルの株は俺もちょっとだけ持ってる。経営に口を出したことはないけどな」
「へぁあ?!」
「とりあえず座れよ。先は長いんだから」
海斗はすとんと座った。しばらく黙って考えてから、時宗を上目遣いで見る。
「お前のじいさん、会わないって言ってた気ぃすんだけども」
「昔っからなんだよ。これで実際に行かなかったら、今夜は執事が徹夜で愚痴られる」
「すごい……自分に会いたくないわけがないっていう自信がすごい……」
敬樹がぼそぼそ言うのに構わず、時宗は次の場所に電話をかけた。やはりスピーカーで全員に会話を聞かせる。
『はい、佐藤でございます』
「佐藤さん? 僕、南条時宗ですが。ご無沙汰しております。ご主人はまだご在宅でいらっしゃいますか?」
『はい、主人はおりますが……時宗様……』
「お伝えいただけますか? ご主人は僕のことを覚えておいでだと思います」
『は、はい。少々お待ちくださいませ』
再び保留音。ひそひそと海斗が囁く。
「誰だ?」
「ん? 南条デパート銀座店の総支配人」
踏みつぶされた蛙のような声が、敬樹と海斗、そして後ろの警察官から漏れた。同時に保留音が切れる。
『と、時宗様?!』
「はい、佐藤さん、ご無沙汰しております」
『ご無沙汰いたしております。あの、本日はどのようなご用件で……』
「今日の午前中、開店と同時にそちらにお買い物に伺いたいのです。ブリティッシュスタイルのスーツを2着と、それに付属するものすべてです。シャツ、ネクタイ、ベルトもしくはサスペンダー、靴下、靴。あとは……そうですね、ソックスガーターやハンカチなども、必要でしょう。ひとりは17歳、身長は……」
敬樹がちっちゃい声で言う。
「170センチです」
「170センチ、痩せ型のすらりとした体形です。もうひとりは……」
「……179」
「179センチ、こちらも痩せ型です」
『かしこまりました。係の者に指示をしておきます。他のご要望は?』
「もしかしたら、スーツに合う小さな鞄もお願いするかもしれません。よろしくお願いいたします」
『かしこまりました。一同、心よりお待ち申し上げております』
電話を切り、時宗はやれやれとコーヒーを飲む。金は多分大丈夫なんだが……。
母が離婚の直前に時宗名義で開設した個人口座は、父にも兄にも知られていない。それに紐づけられたブラックカードは使ったことがないが、今回初めて出動しそうだ。母はそこに一千万円を残してくれた。
弥二郎には、いざという時のために、その金には絶対に手をつけるなと言われていた。弥二郎を取り返すためだ。今が『いざという時』なんじゃないか?
「……オレ、スーツなんか着たことねぇ」
「ぼくもです……」
「スーツを着ないとじいさんの家には入れない。屋敷に足を踏み入れた瞬間に叩き出されたくなかったら、スーツを着こなさないとならないんだ」
「へ~~~~~~」
「言っとくけどスーツは戦闘服だぞ? 変な装備じゃ足元見られる。マジで、半端な服でじいさんに会ったら、社会的に抹殺されるからな」
「へ~~~~~~」
さてさて最後の電話だ。この電話がある意味一番危ない。相手が実家の運転手だからだ。
深呼吸してから、時宗はスマホを持ち上げた。これは普通の音で通話していい気もしたのだが、全員に手元を凝視されているプレッシャーに負け、時宗はスピーカーにした。
『時宗様?!』
相手は、時宗の電話番号を自分の電話帳に残してくれてあったらしい。通話が繋がった途端、懐かしい男性の声が素っ頓狂な声をあげた。
「矢代さん、こんにちは。ご無沙汰しております」
『時宗様……時宗様、今どうしていらっしゃるのですか?』
「今は、弥二郎叔父と一緒に暮らしております。僕は元気ですよ。矢代さんはお元気でいらっしゃいますか?」
『はい、はい、それはもう……よかった……時宗様、ずっと心配しておりました。お食事はきちんとお召し上がりになっていますか?』
「はい、たくさん食べられるようになりました。そういえば……矢代さんによく頂いたチョコレート、今も時々、自分で買って食べます。本当においしい」
運転手は泣きだした。今でも涙もろいらしい。
『よかった……あのチョコレートは高価ではありませんから、時宗様のお口に合わないのではないかと思っておりました』
「そんなことはありません。いつも矢代さんを思い出しながら買っております。食べ過ぎだと弥二郎叔父に叱られるほどです。ところで、今、父と兄は在宅でしょうか?」
『いえ……昨日からお戻りになられていないのですが……お呼び出しいたしましょうか?』
「いえ!! それには及びません!!」
やっぱりな。あいつらが昨日から家にいないっていうのが決定的だ。見てろ、絶対に全部暴いてやる。すべてのデータはUSBメモリにスタンバってんだ。
「今回お電話したのは、他ならぬ矢代さんにお願いがあったからです。父と兄がいなくてよかった。本当によかった」
『さようでございますか』
「はい。実は本日、おじい様を訪問する予定なのですが、訪問用の車がなくて」
『あぁ! さようでございましたか』
海斗がぴょこんと眉を上げた。オレの車じゃダメなんか? という顔。あれは訪問用の車じゃねぇんだってば。
「ただ、父と兄には、僕が矢代さんにお願いして実家の車を出したということを絶対に知られたくないのです。どうでしょうか……?」
『なるほど……なるほどなるほど。かしこまりました。そういうことでしたら、お任せください』
矢代の声が嬉しそうになった。時宗が子どもの頃から悪だくみに付き合ってくれた人だ。こっそりどこかに出かけたい時は、いつも矢代が手伝ってくれた。
『何かの時のために、志緒里様にお話ししておけばよろしいかと。……その、実は志緒里様は、もうご自分のご夫君である時頼様とも、お義父様の義時様ともほとんど言葉を交わすことがないのです。車がなくても、志緒里様がお使いになったということにしておけば、義時様も時頼様もまずお疑いになりませんよ』
「ではそのように手筈を整えてください」
やっぱりね。離婚は秒読みってところだろうか。ただ問題は、志緒里さんの両親の会社なんだよな。
『本日であれば、メルセデスをお出しできます』
海斗と敬樹の顔が、ぱぁぁぁっと輝いた。オレたちメルセデスに乗れるんか?! 2人は顔を見合わせ、にんまりしている。
言っとくけど、スポーツカーじゃないからな?
「よろしくお願いします。五反田の弥二郎叔父の家の住所はご存知でしたっけ?」
『正確な住所を教えて頂ければ、お迎えにあがります』
「わかりました。電話を切ったら、住所をメッセージで送ります。今日はまず、南条デパート銀座店に開店時間と同時に入って買い物をして、1時に祖父の屋敷に到着するというのが差し当たりの予定です。祖父とどのぐらいの時間話すかは……」
『そうですね。あの方とお話しになるのであれば、時間の予測は無理かと存じます。ご心配には及びません。時宗様がお帰りになるまで、私はいつまでもお待ちいたします』
「ありがとうございます。ではよろしくお願いします」
『失礼いたします』
電話を切り、時宗は住所を矢代に送った。海斗がマグカップを持って立ち上がりながら言う。
「いっつも買うチョコレートって?」
「……チロルチョコ」
「マジか?! 財閥のおぼっちゃんもチロルチョコ食うのか?」
「チロルチョコをバカにするな。いつでもどこでもコンビニで買って食べられるんだぞ? 種類もいっぱいあるし」
敬樹が対面キッチンのカウンターに皿を上げる。
「時宗さん、そういえばよくチロルチョコ食べてますよね。もっと高いのは食べないんですか?」
「だからチロルチョコをバカにすんなって。あれは企業努力もすごいし、いつでもどこでも食べられるし、うまいんだから。なんなんだよ。俺がチロルチョコ食べるのそんなに変か?!」
「いや……なんていうか……舌が肥えてそうなおぼっちゃんが食いまくってるってことは……チロルチョコってすげぇんだなって」
「おぼっちゃん言うな」
「いや……完璧なおぼっちゃんだった。……ほんとに御曹司だったんだな……」
「御曹司言うな」
むすっと拗ねた時宗の顔を、海斗は立ったまましげしげ眺めている。
「なんだよ」
「……なんでもね。やっぱり、お前は時宗だぁ。そやってチロルチョコ気に入って、教えてくれた人を大事にすっから、矢代さんって人もお前のこと大好きなんだべな」
敬樹が尊敬の眼差しで海斗を見上げた。
海斗はそれに気づかず、時宗を見てにこにこしている。
時宗は……今すぐ海斗を自分の部屋に連れ込んで、なりふり構わず抱きしめたいと思っていた。
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