第34話
2人の間から抜け出すのは、思った以上に大変だった。まず、そろりそろりと右腕を敬樹から抜く。動くと敬樹がうにゃうにゃ何か言うので、時宗はそのたびに固まったまま待った。正直、一気にすぽっと抜いた方が早かった気がする。
腕を抜き終わったら、じりじりと頭の方へ移動していく。途中からヘッドボードに手をついて体を引き上げ、とにかく2人を起こさないことに全神経を集中する。
寝やすくなったのか、時宗がやっとのことでベッドを抜けだすと、2人はもそもそ体を伸ばし、深い寝息をたてた。
これでよし。
最初の大仕事を終え、時宗はシャワーを浴びようと部屋を出た。詰めていた警察官たちは小声で話していたが、時宗に気づいて挨拶してきた。
「……どうですか?」
「連絡はありませんでしたね。長期戦になるかもしれません」
時宗は頭を下げた。
「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします」
真面目な人たちだ。こうやって、丁寧に仕事をしてくれる人たちが時宗は好きだった。
「朝食はどうしましょうか?」
「いえ、我々は勤務中ですから、どうか気を遣わないでください。交代で休憩を取っておりますので、そこで食事を取ります」
「そうですか……恐れ入ります」
時宗は再び頭を下げると、風呂に向かった。昨日面倒をみてくれた警察官ではなかった。もし同じ人たちならお礼が言いたかったのだが。
手早くシャワーを浴びて汗を流すと、時宗は身支度をして自分の部屋に戻った。2人はまだ起きる気配がない。
デスクの横の棚を眺める。そこには箱が並んでいた。中に特別な物を入れているわけでもない。誕生日ごとに、祖父と母は箱をくれた。子ども相手にも一切手抜きせず、2人は最高級の箱をくれた。ただ高価なだけではなく、職人の手による細工が素晴らしいものばかりだ。引き出しから白い手袋を取り出してはめると、時宗はまず螺鈿の箱を手に取った。
考えたら、毎日のように箱の手入れをして棚を掃除しているのは時宗本人だ。『掃除の時に邪魔』なんて言われる筋合いはない。
螺鈿の蝶は、手の中で虹色に羽ばたいている。この中には時宗が想像する森が広がっていて、蝶たちは虹色の牡丹の上に留まろうとしているのだ。
静かに開けてみる。タイピンが並んでいるが、メモらしきものはない。
次はフランスで作られたアンティークのグローブボックス。象嵌細工の縁取りが美しい。でも、その中も自分のカフスボタンが入っているだけで、メモなどはなかった。
現代作家の手による、細密画の描かれた箱。スウェーデンの伝統花柄があしらわれた木製の小物入れ、祖父と母は、小学生だった時宗に毎年ひとつずつ箱をくれた。祖父は6個、母は5個。
そういえば……。祖父が小学校卒業の時にくれようとした寄木細工の秘密箱は、結局もらえないままだった。祖父が怒り狂って兄から奪い返したけれど、時宗は強引に屋敷から引っ張り出され、それを受け取ることができなかった。
あの箱、じいさんまだ持ってるんだろうか? だとすれば、やはり自分は弥二郎のメモを正しく理解していることになる。
時宗は思い出を辿りながらひとつひとつの箱を確認したが、やはり何も成果はなかった。
すべての箱を見終わり、時宗が感傷的な気分になりかけた時、ぱさりとベッドの掛け布団が動いた。
「ん~」
海斗が起き上がり、目をこすっている。
「起きたか?」
「起きた。時宗早いな」
「まぁ……」
世話して心配してもらったのだから、暑かったというのは気が引ける。
海斗が起きた気配に、敬樹ものっそり起き上がった。
「おはようございましゅ」
「おはよう」
目をしょぼしょぼさせながら、敬樹は大あくびをしている。
「ほら、2人とも暑くなかったか? なんなら寝汗を流してこい。今日は大変だぞ?」
2人は同時に、ぱっちり目が覚めたようだった。
「そうだった。弥二郎さん!」
「連絡はまだ来てない。だが俺の考えが正しければ……。今日で事件は解決する」
「ほんとか?」「ほんとですか?」
「あぁ。そうだ海斗、質問がある」
「なんだ?」
「お前のお母さんの名前、何ていったんだ?」
海斗はきょとんとした顔をし、それからゆっくり答えた。
「政子……旧姓はいっぺんも教えてもらえなかった。でも、母さんの下の名前は、政子ってんだ」
「やっぱりな」
怪訝な顔をする海斗に、時宗はニヤリと笑いかけた。
「早く寝汗流して着替えろ。じいさんに会いに行くぞ」
「えっ! 誰だかわかったのか?!」
「あぁ。だが種明かしをする前に、俺たちは装備を整える必要がある。忙しくなるぞ」
時宗は身を乗り出し、ベッドの向こうのカーテンを開けた。朝の光が部屋に満ち、敬樹と海斗は洗面所を使う順番のためにジャンケンを始めた。
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