第21話


 今野は青森の街を南へ抜け、国道を通って東北自動車道に乗った。

 高速道路は人がいないところを通っている。車の中から見る限り、時宗には北海道との違いがあまりわからない。青森の方が「山の中を通っている」という感覚が多いぐらいだろうか。

 ただ、どちらも空が広い。頭の上に、薄い青空がずっと広がっている。キンと澄んだ色は吸い込まれるような透明感に満ちていた。

 後ろがいなきゃ最高の旅なんだがな。

 例のセダンは、やはり後ろにいた。料金所を抜けた今野はバックミラーで後ろを確認し、溜息をついている。それでも運転にブレはなく、常にきっちりと交通ルールを守っていた。

 しばらく走り、状況に動きがなくなったころ、時宗は切り出した。

「なぁ、後ろからついてきてるのって、何者なんだ?」

 今野は再びバックミラーをちらりと見た。

「……」

「答えないつもりか? あんなにあからさまなのに」

 無言のまま真っ直ぐ前を向き、今野は唇を引き結んで黙り込んでいる。

 溜息をつき、時宗は続けた。

「言っていいか?」

「……なんだ」

「ここは高速道路だ。あの車にドつかれるとか、普通に事故ったりとか……何かトラブった時、俺はお前と一緒に死ぬことになる。それに、お前が背中の積み荷とトンズラすれば、俺も、とばっちりを食らうことになる。俺はその可能性を含めてお前に『乗った』。東京まで、お前は文句つけるなと言った。でもひとつ言わせろ。俺はお前が『自分も東京に行く』と言ってくれた時、嬉しかった。だから一緒に車に乗ると決めた。お前と運命共同体になる覚悟でな。なのに俺はまだ、自分がいつどんなふうにお前と運命共同体になるのかを何も知らない」

 唇を引き結んだまま、今野はしばらく答えなかった。

 白い景色は続いている。どこまでも続く道の両側は、風を避けるための林や丘で見通しは悪い。それでも、雪原の果てへ2人は一緒に走り続けている。

 今野。会ったばかりだとお前は思うかもしれないけど、俺はお前に信頼してもらいたいんだ。乱暴に拒絶するんじゃなく、笑ってほしいんだ。俺は自分の事情を脇に置いて、お前のために笑う。お前が手を伸ばしたパンに、俺も手を伸ばす。小さいことだけど、そういうのがきっと人生を作っている。

 時宗はじっと待った。

 今野はもう一度バックミラーを見て、ぼそっと言った。

「……色々、あったんだ」

「しゃべる時間はあるだろ」

「だな」

 そう返事をすると、今野は前を向いたまま力なく微笑んだ。

「でもオレ、説明下手くそなんだ」

「知ってる。お前がしゃべりやすいところから、ゆっくり始めればいい」

 今野は、どこから話し始めるか考えている顔になった。時宗はその横顔を眺める。時間はあるんだ。なぁ、お前のことを教えてくれよ。俺に何かできることはあるかもしれない。

「……じいさん、東京のどこに住んでんだ?」

 だいぶ遠くから始めたな。時宗は笑いそうになった。いいさ。とことん付き合ってやるよ。

「俺は聞いてないんだ。肺ガンが悪化して、病院にいるってファイルには書いてあった」

「そうなんか」

 今野はバックミラーを見ると、ぽつぽつ続けた。

「母さんが東京出身だってのは聞いてた。札幌に仕事で来て1年住んでた時に、父さんと知り合ったんだって。父さんは札幌で、自動車整備の会社やってた。車が好きで、オレも子どもの頃、いっぱい教えてもらったし、カート乗りに連れてってもらったりしてた」

 生まれた時から車と一緒だったのか。子どもの頃の今野を想像する。きっと可愛かったに違いない。車に目を輝かせる少年を思い浮かべて、時宗は微笑んだ。

「運転歴長いんだな」

「うん。カート面白かった。学校から帰ってきたら、父さんの仕事見てた。母さんは事務室で仕事したり、中古車売ったりしてた」

 今野の目が暗くなる。

「でも、オレが高3の時に母さんがガンで死んで、全部変わった。オレは高校は卒業したんだけど、金ないから大学には行かないで、父さんのとこで仕事を始めた。

 ……父さんは、母さんがほんとに好きだったんだ。健康診断でガンが見つかって、それから母さんはあっけなく死んじゃって。父さんはそれで精神的にまいったんだろな。酒ばっかり飲んで、気を紛らわすのにパチンコ始めたんだ。のめりこんで、中毒になって……。気がついた時には、もう取返しのつかないことになってた。会社の土地も建物も、何もかも抵当に入ってて、父さんはヤクザにまで金を借りてて……」

 最後の方は、喉に引っかかったような声になっていた。しばらく黙ってから、今野は続けた。

「オレが20歳になる頃、父さんは死んだ。ヤクザどもに、風邪薬かなんか、変なのをいっぱい飲まされて、道端で。病気なのか転んだのか、さっぱりわかんない理由で死んだんだ。すごい額の生命保険がかけられてたけど、受取人はオレじゃなかった。オレは……保険がかけられてることも知らんかった。金がどこに行ったのかも知らね。

 会社がなくなって、オレはガソリンスタンドで働いてた。

 でもあいつら、がめついんだ。父さんの命を絞って金をふんだくったくせに、借金がまだあるって、オレんとこに来た」

「いくらぐらいだ?」

「あん時言われたのは、1000万だった。バカじゃねぇのか。保険で回収したくせに、まだ足りないなんて。嘘だと思った」

 闇金か。トイチ、トゴ。十日で一割、十日で五割などという、とんでもない利息で貸し出し、悪魔のように人の命を吸い尽くす連中は存在する。

「それでオレ頭にきて、車で逃げた」

「おいおい」

 すげぇな。今野ってもしかして、本当はけっこう強気の性格なんじゃねぇのか?

「農道とか、裏道通ってぶっ飛ばして、札幌から砂川あたりまで逃げたんだけど」

 バックミラーを見て、今野は顔をしかめた。その時のことを思い出したらしい。砂川がどこだか知らんが、だいぶ粘ったということか。

「あとちょっとで完全にまけるってとこでガス欠になって、捕まった」

 その硬い声音に、時宗はぞっとした。逃亡に失敗してヤクザに捕まるなんて、半端な恐怖じゃない。それが20歳の時だって?

「タコ殴りにされて、殺されるって時に、あいつらの事務所の上の方の奴がオレに話を持ち掛けてきた。運転がうまいから、殺すのはもったいない。借金返せるように金を出してやるから、運び屋やれって」

 そういう経緯ね。時宗は納得がいった。

「それから、あのアパートに住めって言われて、あそこにいる。あいつらが使ってる不動産屋があって、管理されてんだ。それまで持ってた物は全部取り上げられて、なんにもなくなった。仕事ない時はなんもすることないって言ったら、PCは買っていいって金渡された。あと、車は仕事道具だから、ちゃんとした車じゃないと嫌だってオレが言ったんだ。どうせならと思って乗りたい車言ったら、買っていいって。警察に足がつかないように、毎年取り替えてる。

 オレは一応、あのアパート扱ってる不動産屋の社員ってことになってる。でも仕事は……あっちこっちに、言われた物を運ぶこと」

「何運んでるんだ?」

「スーツケースは鍵かってて開かさんないから知らね。多分クスリとか銃とか、そんなん。……人も運んだことある。今、後ろに乗っかってんのは金だと思う。あいつらに言われた。警察には絶対に捕まるな。捕まっても雇い主のことは絶対に吐くな」

 だから足抜けができないのか。やめると言えば口封じに殺されるだけだ。

 今野は静かな声で言った。

「オレは、もうダメなんだ。この先はなんもない。あいつらに殺されるか、警察に捕まるか、それとも、どっかで事故るか。だから帰れって言った。誰か来たって、オレは乱暴に追い返すしかねぇ。あのアパートだって、あいつらが時々見に来る。仲良くしたら、来た奴に悪いことが起こる」

 それで最初に、こいつは俺の顔をドアでブン殴ったんだ。あの乱暴な出会いは、今野の精一杯の優しさだったんだな。……で?

「じゃあ、なんで俺は部屋に入れた?」

「今まで、なんかの用事で来た奴は何人かいた。でも、寒い外で何時間もオレを待ってたアホタレはお前だけだ」

「……アホタレって」

「あんなとこに立ってて、あいつら来たらヤバいことになる。夜中に凍死して警察に来られても困る。だから一晩泊めて、うまいこと言って東京に帰そうと思ったんだ」

 今野お前、俺のことをアホタレって言ったか?

「そしたら仕事入って」

「で、アホタレの俺を東京まで連れて行こうと思ったわけだ。……いつもああやって、お前が逃げないように見張ってるのか?」

 今野は、極端に遅いトラックを追い越すためにウィンカーを上げた。危なげなく余裕を持って車線変更し、トラックを抜くと滑らかに元の車線に戻る。

「久しぶりだ。オレが……ヘマしたから」

「ヘマ?」

 今野は、ひどく寂しそうな顔をした。

「うん。ヘマした。お前のせいだ。お前が……」

 視線がこちらを向く。一瞬時宗を見据え、また車の進行方向に戻る。

「夢なんか持ってくるから」

 夢。

「オレはバカだ。一瞬でも、もしかしたらって思った。午前中に荷物を受け取りに行った時に、オレは言っちゃったんだ」

「何を?」

「『もしもの話だけど、もし足抜けするとしたら、いくら金が必要なんだ』って」

 あぁ……。

 時宗は目をつぶった。

 今野。お前はそれを夢って言うのか。

「どうしてオレは口に出したんだろ。あいつらは、オレが逃げる気だって思ったんだ。荷物を受け取ったところから、もうあいつらはオレの後をああやってつけだした。だから思ったんだ。お前を連れて行こうって」

 どうつながる?

 今野は静かだった。どこまでも静かだった。足跡のない雪原を見つめる、あの目だ。

「この仕事が最後だ。多分、今回の荷物を届け終わったら、オレは……殺される。だったら、せめて……ひとりじゃない方がいい。父さんが死んでから、オレには誰もいなかった。

 仲良くなった奴はお前だけで、オレに夢なんか持ってきた一番嫌いな奴も、お前だ。道連れにすんのにちょうどいい」

「それは……どうも」

 今野を見る。泣きそうな顔で、今野はバックミラーに目をやった。唇を噛みしめ、必死で何事もない顔を装っている。でも、途中で時宗の視線に耐え切れなくなったように、今野はむこうを向いた。

「今野。お前は俺が嫌いなのか?」

 ぐす、と鼻をすすり、今野は正面を見た。運転だけは丁寧なままだ。

「知らね。一緒にいたら楽しくて、友だちだったらよかったのにって思う。でもお前は、オレの人生を終わりにした。だから嫌いだ。好きな奴も嫌いな奴も、お前しかいねぇ」

「そりゃ……人手不足になると、友人も一人二役か。忙しいな」

 時宗はしばらく考えていた。

 過酷な人生に、適当な言葉は言えない。今野はずっと耐えてきたのだ。孤独に、恐怖に、人生に。

「今野」

「なんだ」

「人生が終わりにならなかったら、俺はお前の友だちになれるか?」

 この際だ。恋人なんていう贅沢は言わない。お前が生き延びてくれれば、俺の人生は大成功だ。

「……終わりにならない方法なんかない」

「あるかもしれないぞ? アホタレの俺でも、まぁ頑張って知恵を絞ってみるからさ。ダメなら一緒にバックレようぜ」

 軽い調子で言ってやると、今野は弱弱しく微笑んだ。

「どこにバックレんだ」

「俺んち。正確には、俺の叔父のうちだけど」

「お前、ほんとにアホタレだな」

 今野はぐすんと鼻を鳴らした。時宗は励ますように笑って見せる。

「言ったな。約束しろ。俺も一緒に考えるから。人生がこれで終わりにならなかったら、ちゃんと俺を友だち認定しろよ?」

 かなり長いこと鼻をすすりながら運転していた今野は、30分も経った頃、やっとティッシュで鼻をかみ、「わかった」と小さく答えた。



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