終わる音を君と聞く

九十九

終わる音を君と聞く

「もうすぐお別れだね」

 そんな事を言って、少女は傍らに座る存在と小指と小指とを絡めた。

 惑星はもう随分と地球に近づいていた。空を覆う惑星は綺麗で、周りが言うほど悪いものでは無いと少女は思っていた。


 彼女との出会いは少女にとって鮮烈なものだった。

 暑い夏の日だった。じりじりと肌を焦がす太陽と太陽の光を照り返すアスファルトの気怠い熱さを嫌に覚えている。

 少女の隣に引っ越して来たお姉さんは、常に笑みを顔に貼り付けている様が印象的な人だった。

 引っ越しの挨拶だと言ってやって来たお姉さんと玄関先で対峙している母を横目に、少女は庭で水を撒いていた。暑い日だった。アスファルトの道路にも水を放れば、じゅわ、と音を立てて蒸発するような暑い日だった。

 挨拶を終えて玄関から立ち去るお姉さんを少女はぼんやりと眺めていた。見送って居た母が玄関の扉を閉じて、もう直ぐお姉さんが家の前を通り過ぎる、そんな時だった。

「あ」

 少女の手元でホースが暴れた。ホースの中を通っていた水が膨張し、ホースが揺れた。少女はそれを握ろうとして、けれど力加減を間違えて握りつぶしてしまって、ホースから流れる水が綺麗な放物線を描いた。

 放物線を描いた水は、今まさに家の前を通り過ぎ終えようとしていたお姉さんの顔に勢い良くかかった。

「あ」

 ぐにゃり、とお姉さんの顔が歪んだ。比喩では無い。物理的にお姉さんの顔が霞のように霧散して歪み、中から一瞬何かが覗くと慌てて霞が戻り、そうして元の容姿端麗とも言えるお姉さんの顔に戻ったのだ。

 互いに口の形を、あ、にしたまま、少女とお姉さんは互いを見合った。お姉さんは貼り付けた笑顔がどこかぎこちなかったし、少女もまた濡れさせてしまった申し訳なさと己の失敗に戦々恐々としていた。

「ごめんなさい」

 最初に切り出したのは少女の方だった。濡れさせてしまったと言う後悔と、何かお姉さんにとって見られたくないものを見てしまったのだろうと言う罪悪感で、少女の中はいっぱいだった。

 お姉さんは暫く少女をじっと見ていたが、やがて少女の元へと歩いて来ると、少女に手を差し出した。

「家においで」

 優しい声音でそう言うお姉さんの声に釣られるように、少女は彼女の手を取った。


 母に一言言って家を出た少女は、隣のお姉さんの家のリビングへと通されていた。

 もしかしたら濡らしてしまった事を叱られるんじゃないか、とにわかに考えていた少女は、座っていて、とお姉さんには言われたが、落ち着きなさげに閑散としたリビングの中で立っては座ってを繰り返していた。

 やがてリビングの扉が開き、お姉さんがやって来ると、少女は立ち上がり身体を固くしてお姉さんへと向き直った。

 それを見たお姉さんは笑って、怒っていないよ、と少女を安心させるように声を掛けた。

「本当?」

「本当だとも」

 少女は安心したように身体から力を抜くと、もう一度、ごめんなさい、と謝った。

お姉さんは気にしていない事を少女へと告げると、椅子へと促し、自身も向かい合った椅子へと座った。

「ねえ、怖くないのかい?」

 お姉さんが少女に尋ねたのはそんな事だった。

「何が?」

「見ていただろう?」

 そう言って、お姉さんは自身の顔を示した。

 少女は納得したように頷いてから、怖くない、と口にした。

「本当に?」

「本当」

 どうして、と尋ねるお姉さんに少女は少しだけ考えてから口を開いた。

「SF映画とか好き。格好良い」

 成程、と言う顔をお姉さんはして、次いで面白そうに笑った。


 少女と隣のお姉さんはそれからよく遊ぶようになった。お姉さんが少女の事を気に入って、可愛がってくれたのだ。少女もまたお姉さんによく懐いた。

 だから、出会って数か月もしない内にお姉さんがそれを少女に教えたのも、きっと彼女が自身で思うよりずっと少女の事を気に入ったからだ。

「この星はね、あと十数年の命なんだ。私達の惑星がやって来るからね」

「SF映画みたいだね」

 聞いた少女が最初に思ったのはそんな事だった。

「怖いとか、嫌だとか、無いのかい?」

「わかんない。でも地球が無くなったら困るなって言うのは分かる」

 具体的に何が困るのかは分からないが、何となく困るな、と少女は思う。例えば母の手料理を食べられなくなるとか、例えば学校の友達と遊べなくなるとか、困る事はいっぱいだ。けれども怖いとか、嫌だとかは、今は思わない。きっとその時になってみないと分からないのだ。

「君の母星の危機なんだけどな」

「映画の中だと隕石がよくぶつかるよ」

「うん、その映画みたいになっちゃうんだよ?」

「きっと大変だね」

「感想が大変だけかあ」

 まあ確かに大変だよね、とお姉さんは苦笑した。笑顔を貼り付けたような顔が印象的なお姉さんは少女の前だとよく表情が崩れる。その度に、テレビの画像が乱れるみたいにお姉さんの顔はずれる。きっとそんなに擬態の精度が良くないんだろうな、とSF映画好きな少女は思う。

「きっと色んなものが死んじゃうよ」

 一拍置いて、お姉さんはそう言った。その瞳が真っ直ぐに少女を見つめて来るので、少女もそれを真っ直ぐに見つめ返した。

「それは寂しいね」

 映画の中では色んな人が泣いていた。色んな人が生きて、そうして死んで行った。空いてしまった存在に手を伸ばしてももう誰も届かない。

「きっとすごく寂しいね」

 少女はテーブルの上にあったお姉さんの手を何となく両手でぎゅうと握った。映画の中で愛しい人の名前を呼びながら泣いていた女の人が脳裏に過る。お姉さんは一瞬瞠目してから、空いている方の手で少女の手を握った。

「そうだね、寂しいんだろうね」


 惑星の存在が世に知られたのは少女とお姉さんが出会ってから数年後の事だった。

 突如として現れた惑星に人々は困惑し、近づいていると言う事実に悲嘆に暮れた。それまで存在しなかったものが存在する事象に混乱した人々は様々な対策を打ち始めたが、時間が無いのは明白だった。

 人間の何の準備も待たない内に地球が命を終える予感に誰も彼もが怯えていた。

 そんな世間一般とは異なり、少女は酷く落ち着いた心持で惑星を眺めていた。昔、お姉さんに教えて貰った通りに美しい惑星を見上げる。

 惑星は綺麗な色をしていた。惑星が現れてから先、何処までも澄んだ飴色が地球の空いっぱいに浮かんでいた。

 少女は惑星の色が好きだった。お姉さんの瞳と同じ色をした惑星が空いっぱいに広がる景色が好きだった。他の人達は怖がっているから、少女が惑星を好きなことはお姉さん以外には共有出来はしないけれど、少女はあの惑星が終わりを運んでくるのならそれはそれで良いのではないかと思っていた。

「お姉さんの惑星、綺麗だね」

「君は本当に私達の惑星がお気に入りだね」

 お姉さんのリビングの窓の近く、少女は空を見上げながら呟く。お姉さんは何度も聞いた台詞に苦笑して相槌を打った。

「今度、ロケット飛ばすんだって」

「ああ、あの調査の奴か。でも誰も辿り付けないよ」

「どうして?」

「あの星は地球とは構造も文明も違うからね。間に空間を作るなんて容易いのさ」

「空間があるからずっと辿り付けないってこと? 目の前にあるのに?」

「そう、目の前にあるだけでずっと辿り付けない。虚構空間があるからね」

 少女は、ふうん、と相槌を打ってからお姉さんを見た。

「でもあっちからはこっちに辿り着くんでしょ?」

「そうだよ」

 だから地球の命はあと少しなのだ、とお姉さんは言った。

「お姉さんはそれまで居てくれるんでしょ?」

「うん、それが私の仕事だからね。ここだよって教えてるのさ」

「じゃあ、それまでは一緒に居てね」

 朗らかにそう言う少女に、お姉さんは擽ったそうに笑って、少女の頬を撫でた。擬態の精度はここ数年で向上していたから、お姉さんの顔が崩れる事は無かった。


「もうすぐお別れだね」

 そんな事を言って、少女は傍らに座るお姉さんと小指と小指とを絡めた。ここ最近、よくこうしてお姉さんと小指と小指とを絡めて空を見上げている。

 もう直ぐ地球はその命を終える。そうしたら、少女とお姉さんはお別れだ。少女は自分が生き残れるとは到底思えなかった。

「ねえ、無粋で馬鹿な事聞くね。一緒に逃げる?」

 お姉さんからのそんな提案は珍しくて、少女は目を丸くしてお姉さんを見た。お姉さんはもにょもにょと口を動かしていた。

「お姉さんが昔からいっぱい教えてくれてたから、怖くはないんだ」

 お姉さんを視界に捉えながら、少女は呟いた。

「でも、お姉さんと会えないのは困る」

 言いながら、少女は空いている方の手でお姉さんの手を取った。じんわりと温かい体温が互いの間で行き来する。

「寂しいねお姉さん」

 少女は朗らかに笑って言う。お姉さんは眩しそうに少女を見た。

「寂しいね」

 それでも地球から離れる事は少女には考えられなかった。大好きな母を置いていくことも少女には出来なかった。

 だから、ただ寂しい、とお姉さんに伝える。手の届かない所に行くのは寂しいのだ、と精一杯に少女は伝える。

 一緒に逃げてあげる事は出来ないけれど、最期まで一緒に居たいのだ、と少女はお姉さんに笑った。


 地球の命の終わる音がした。多くの命が終わる音がした。

 少女は地球の最後の瞬間にお姉さんと一緒に居た。

 少女は沢山ぎゅうをして母にお別れを言って家を出た。少女の母は少女が最期に幸せでいられる場所に行きなさいと背中を後押しした。それが少女と母の最後だった。

 少女はお姉さんと一緒に笑って、綺麗だね、と飴色の空を見上げて、最後まで絡めた小指はそのままに地球が終わる音を聞いていた。


「寂しいよ」

 彼女は眠る少女の顔を撫でた。地球の多くの命は終わってしまった。

「寂しいよ、ねえ」

 未だに擬態を解けずにいる彼女は、飴色と青色が混ざり合った母星で呟いた。

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