第二十三節
それは何の変哲も無い一日だった。
天気も良いし、コップも割れてない、黒猫が私の前を横切ることもなかった。何か不吉なことが起きる兆しなんて、その時は微塵も感じなかった。
まぁ何かが起こる前に分かりやすい前兆があるのなんて物語の中だけなんだけどね。
現実はもっと性急だ。
大抵の場合は事が起こって初めて事態の変化に気付くのだ。
今回がまさにそれだった。
アイリスと二人仕事を気持ちよく終え、鼻歌交じりに集会所に向かって歩いていると、何やら村が騒がしいことに気が付く。
これは何かが起こったのだと二人で急いで集会場に駆け込んだ。
案の定、そこには聖都に放っていた密偵の一人がいた。
それだけで事態に何がしかの変化が起きたのだと察することができる。
私はアルフレッドの元に駆け寄り、話を聞く。
「アルフレッドさん!何があったの!?」
「ネレイスの姉御!ちょうどいい所に来てくださいやした!ついに聖都内の情報を掴みやしたよ」
そう言って得意げな顔をするアルフレッド。
私は彼に頷き、密偵として潜入してくれていたケヴィンさんの報告を聞くことにした。
そして、その報告で状況が予測していたよりも悪いことが分かった。
「正直予想よりもだいぶヤバいですね。一見すると普段通りの警戒レベルに見えるんですけど、実際には平時の倍以上の皇国騎士団が常に待機してます。命令があればすぐに出撃できるよう備えてるって訳です。それに加えて近衛騎士団が城の周りをがっちり固めてます。姉御が誰を狙ってるかは分かりませんが、城に潜入するのだけは辞めといた方が良いですよ」
「そう…。ありがとう、ケヴィンさん。教会の動きは何か分かった?」
「教会は本気ですね。皇国中の聖騎士団を聖都に集めてますよ。その総数は2万にも届きそうです」
「2万!?」
その圧倒的な兵力差を前に声を失ってしまった。
こっちの戦力は2人なのに相手の戦力は2万。実に1万倍もの戦力差がある。
その途方もなさに目の前が暗くなる。
「それは予想以上だわ…。皇室と教会は歩調を合わせているかしら?」
「いえ、それは無いかと。それぞれが独自に戦力を増強している印象を受けました。そもそも教会と皇室は仲が悪いことで有名ですからね。恐らくは連携は取れていないでしょう」
そこで今までジッと話を聞いていたアイリスが唐突に口を開いた。
「皇帝は教会を邪魔に思ってる。わたし達と教会が潰し合うのを黙認する筈」
「根拠はあるの?」
「皇帝と直接話した時に上手くやれって言われた」
「そう。皇帝とやらの思惑に乗るのは業腹だけど、それが一番私たちにとって勝率が高いってわけね」
私の言葉にアイリスが頷く。
誰かの掌の上ってのは気に入らないが、今回ばかりは仕方がないだろう。
本当にそうなのか!?
この作戦で私たちが生き残る確率はどのくらいある?
そんな可能性はほとんど皆無と言っても良いだろう。
どれだけ祈ろうと、奇跡は起こらない。
現実はどこまでも残酷だ。
おそらく私たちはその数の暴威を前にほとんど抵抗も出来ずに磨り潰されることになるだろう。
前回のように奇襲を仕掛けることも出来ないのだ。敵は私たちが来ると分かった上で、準備万端の態勢を整え、私たちの歓迎会を開こうって算段なのだから。
そんな中にのこのこ顔を出したら、まず間違いなく殺される。
仮に万が一私たちの目的である復讐を果たせたとして、その後は?
生き残れる訳がない。不可能だ。
その場で討ち死に出来たら上出来、最悪捕まって生き地獄を味わわされる可能性すらある。そして、最後には公開処刑に処されてこの首が朽ち果てて、原型が分からなくなるまで晒され続けることになるだろう。
とにかく次聖都に入ったら私たちは死ぬ。それだけは確信を持って言える。
いくら私たちが強かろうとも万の兵を前にした時、個の力なんてたかが知れている。
あぁ、苛々する。
元々私は故郷を後にしたあの瞬間から死ぬ覚悟を定めている。
だから、私のことはいい。
玉砕覚悟で突っ込んで、一矢報いてやる。
たとえこの身が滅びようとも、あのくそったれの裏切り者だけは絶対に道連れにしてやる。
だけど、アイリスはダメだ。
私は彼女には幸せになってほしいのだ。
そして私の言う幸せってやつは、決して死ぬことが確定している無理で無茶で無謀な作戦に付き合わせることではない。
話したらアイリスは怒ると思って後回しにしていたが、それもここが限界か。
それにアイリスはこの村で人として真っ当な喜びを見出しつつある。
仕事で汗水を流し、家事を教わり、生き生きとした彼女を見る度に思った。彼女の本当の居場所は戦場なんかじゃない、と。
少し不器用なところがあるから心配だが、彼女ならきっと一人でも上手くやれるだろう。
幸いこの村は皆優しい。
彼女を支える人間はたくさんいるのだ。
彼女の孤独もきっと時間が癒してくれるだろう。
私は覚悟を決め、アイリスと向き合う。
「アイリス」
「なに?」
「あなたはこの村に残りなさい」
「え?」
「次の作戦は正直予想よりも分が悪い賭けになる。なら私たちが共倒れになるのは避けるべきだと思うの」
アイリスは私が何を言っているのか心底理解できないと言った面持ちだ。
いや、理解したくないのだろう。
それでも言わなくては。
「聖都には私一人で行く。その方が合理的だから。大丈夫。前にアイリスのターゲットの匂いも覚えたし、私は一人でもやれるわ。だからアイリスはこの村に残ってしあわせ…」
パンッ。
乾いた音が室内に響き渡った。
私が頰に衝撃を感じたと思ったら、その部分がジクジクと痛み出す。
それで初めて気がついた。自分が横っ面をはたかれたという事に。
私を叩いたアイリスの両目からはボロボロと大粒の雫がとめどなく溢れ落ちていた。
こんな状況なのに私はその涙を綺麗だと思った。
「ネレイスのバカ!もう知らない!」
そう言ってアイリスは集会場を飛び出して行ってしまった。
突然の出来事に誰もついて行くことが出来ず、誰もアイリスを追いかけることが出来ずに呆然と立ち尽くすしかなかった。
いや、誰もなんて卑怯な言い方はよそう。
私がアイリスを傷つけたんだ。ならば私が彼女を追いかけるのが道理というものだ。
でも、追いかけてそれで何を言う?
さっき言ったことはもれなく全てが私の本心だ。
今更訂正する気もないし、この決定を覆すつもりもない。
あぁ、苛々する。
どうしようもない現実を前にして、私みたいなちっぽけな人間に何ができると言うんだ。
答えは何も出来ない、だ。
そんな風に現実逃避をする私に一人ゆっくりと近づいて来る人物がいた。
「メリッサおばさん…」
メリッサおばさんは私の前に進み出るとアイリスが打った方と反対側の頰をぴしゃりと叩いた。兜をかぶっているから、叩いた手の方が痛むだろうに、全力で。
「ネレイスちゃん、アイリスちゃんに謝って来なさい」
「なぜ?」
「アイリスちゃんがどんな思いであなたと一緒にいたか理解できないあなたじゃないでしょう?どうしてそんな酷いことが言えたの?」
「ひどい?それならアイリスに私と一緒に無謀な作戦について来てって言う方が優しいと?一緒に死ねと言う方が優しいとメリッサおばさんはそう言うの?」
「ええ、アイリスちゃんの気持ちを考えたなら、まだそう言ってあげたほうが救いがあるわ。あなたの優しさは独り善がりで傲慢よ」
「偽善だってことは分かってる!でも!それでも私はアイリスには生きて幸せになって貰いたいの!もうこれ以上アイリスが傷つく姿なんて見たくないの!」
「私もアイリスちゃんが傷つく姿なんて見たくないわ。だからネレイスちゃん、私はあなたを許さないわ。今、誰よりもアイリスちゃんを傷つけているのはネレイスちゃん自身に他ならないのよ」
「そんなの…詭弁だわ」
「ネレイスちゃん、聞いて。私はあなたもアイリスちゃんのことも自分の本当の子供のように愛しているわ。たとえネレイスちゃんが魔族だったとしても、そんなこと関係ないわ」
「な、なんでそのことを……」
そう言ってから私は自分の失敗に気が付いた。
どうやら私はすっかり冷静さを欠いているようだ。
これじゃ自白したようなものだ。
それはそれとして何故メリッサおばさんが知っている?
心当たりといえば…。
私はアルフレッドを睨みつけるも、彼は焦ったように首を横に振る。
彼じゃないなら一体何故?いつから?
「ネレイスちゃん、落ち着きなさい。言ったでしょう。あなたが誰でも関係ないって。あなたも私の可愛い娘の一人よ」
そう言ってメリッサおばさんは静かに私の手を包んでくれた。
その温みが私を落ち着ける。
「ネレイスちゃん、私はね、あなたにも死んで欲しくないのよ。さっきのあなたの言葉からは自分一人だけ犠牲になれば全て丸く収まるって意思が透けて見えていたわ。だからこそアイリスちゃんも怒ったんじゃないかしら」
その言葉は深く私に刺さった。
以前は私があれほどアイリスにそれをやめるように言って聞かせていたのに、今度は同じことを私がしていた?
言葉を失った私にメリッサおばさんは優しく諭してくれる。
「あなた達はこれまで二人でやって来たのでしょう?きっとアイリスちゃんが欲しかった言葉は私が泥をすべて被るからあなたは幸せになって、とは違うと思うの。きっとアイリスちゃんは他ならぬあなたに頼って貰いたかったに違いないわ」
「…………そうなのかもしれない。でも、やっぱりアイリスに私と一緒に死んでくれとは言えないよ。アイリスは私にとって自分の命よりもずっとずっと大切な人だから」
それだけは譲るつもりはない。
相手がアイリスだろうと、それだけは絶対に。
だけど、メリッサおばさんの出した答えは拍子抜けするほどに簡単なものだった。
「ネレイスちゃんは確かに無理って思ったのかもしれない。でも、それはあなたの頭の中だけで判断したに過ぎないってだけでしょう?もっと周りを頼りなさいな」
「……まわり?」
「そうよ。アイリスちゃんでも良いし、私でも良いし、この愚息でも良いし、生き残るために利用できるものはなんでも利用しなさい。それにね。ネレイスちゃんにはこれだけははっきり言わせて頂きます!」
「な、なに?」
「そもそも私は自分の可愛い娘が死にに行くような無茶を許可するつもりはありません!」
「ふふっ…、何言ってるのよ。私は死ぬつもりなんて毛頭ないわ」
「なら良いのよ。ほら!落ち着いたならすぐにアイリスちゃんを追いかけなさい!あなたがアイリスちゃんを泣かせたんだから、泣き止ませるまではご飯抜きよ?」
「分かったわ!メリッサおばさん、その…ありがとう!」
「どういたしまして」
外に飛び出す。当てはないけどとにかく走る。
息がうまく吸えない。苦しい。それでも無理矢理にでも走り続ける。
きっと彼女の苦しみはこんなものじゃないと思うから。
気が付くと私たちに充てがわれた石造りの家の前に来ていた。
本当になんとなくだがアイリスはここにいる気がするのだ。
扉を開けて中に入る。
灯りのついていない薄暗い室内をぐるりと見回す。
やはり目につくのは奥の部屋に続く扉だ。
そっと近づくとアイリスの啜り泣く声が聞こえる。
彼女を泣かせたのは私だ。それでもアイリスの鳴き声を聞くと胸が苦しくなる。自分の心臓を鷲掴みにされて、そのままぎゅっと握りしめられているみたいに痛い。
音を立てないようにそっとドアを開け、ベッドの縁に座る。
「アイリス、ごめんなさい。私、自分だけが犠牲になれば良いって考えていたわ。今ではそれが馬鹿な考えだったと理解しているつもりよ。それで、その…ここに残れなんてあなたの気持ちを考えていないを発言をしてしまったこと、本当にごめんなさい。もし許してくれると言うのならこれからの作戦を考えるのを手伝ってくれないかしら」
一息にそう言い切った。
反応はないけれど、私はアイリスが話してくれる気になるまで待つつもりだ。
そう覚悟を決めた時、布団の中から急に手が伸びて来て、私を押し倒した。
私にまたがるアイリスの顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっていたが、私はそれでもアイリスを美しいと思った。むしろそれらの体液全てを飲み干したいとすら思った。そうすることでアイリスの抱える辛さや不安を億分の一でも理解できる筈だから。
「バカ!バカバカバカバカバカバカ!ネレイスのバカ!」
「ネレイスが居ないなら意味なんてないのにここに残れなんてバカ!」
「わたし足手まとい?邪魔?そうじゃないなら一緒に連れてって!」
「ネレイスと一緒じゃないとわたしもう笑えない。もう…生きていけない……」
「だから…おねがい…おいていかないでぇ……」
最後の方は消え入りそうなほどか細い声になっていた。
この声音には聞き覚えがある。まるでちいさい子が置いていかれるのを極端に恐れるようなその声には。
そこに思い至って、私はやっと納得することができた。
私もちいさい頃おいていかれることが怖かった。
戦争に赴く祖父を見送ることしか出来ない無力な自分を呪った。
それなのに大きくなったら、同じことをしている自分を嘲った。
否、同じなんかじゃない。アイリスはあの時の無力な自分と違って私よりもはるかに強い。それなのに私が護ってやらねばならないなんて考えていた。
私はなんて傲慢なことを思っていたのだろう。
もうよそう。
他なならぬアイリスの気持ちを蔑ろにするのは今、この時を以って終わりにするのだ。
私は自分の頰に垂れてくる彼女の涙を舐めとって、そう決意した。
「もう分かったわ、アイリス。私たちは何があっても一緒よ」
「……やくそく?」
「ええ、約束」
「なら、いい」
そして私たちはお互いの存在を確かめるようにお互いを掻き抱いた。力の限り抱きしめたから骨が軋む音がしたが、その痛みすら今は愛おしい。
アイリスが落ち着くまで抱き合い、二人手を繋いで集会場に戻った。
その日、私たちの手が離れることはなかった。
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