幕間 其の二


 何故許す?

 何故なにもしない?

 その疑問を解消してくれる唯一の頼みであるネレイスはアイリスが憎んでいるものと楽しげに話している。

 それがアイリスには我慢ならない。


 何故、何故、何故。

 疑念が胸中に渦巻き、気が触れてしまいそうだ。

 もしかしたらもう彼女はもうわたしのことを見てくれないんじゃ…。

 わたしみたいなつまらない女には愛想を尽かしてしまったんじゃ…。

 そんな嫌な想像ばかりがアイリスの心を占めていた。


 アイリスにとってネレイスという存在はもはやこの世の全てだった。

 始めは魔王という地位を利用して、己の贖罪のために利用しようとして近づいた。だけど、彼女の存在はアイリスを惹きつけて止まない。

 その高潔な精神に、その崇高な志に、それでいて意外と可愛い面も持ち合わせている彼女のギャップに、気がつくとネレイスの全てに惚れ込んでしまっていた。

 何より決定的だったのは先日身も心も追い詰められた時のこと。彼女はわたしの前に颯爽と現れて、わたしを縛っていた鎖を引き裂いてくれた。わたしに自由を与えてくれた。

 その姿があまりにも格好良かった。

 あまりにも魅力的過ぎたのだ。

 抱き上げられた時、見上げたその凛とした表情に惚れた。

 慈しむように抱きかかえられたその腕の優しさに惚れた。

 わたしなんかの為にも本気で怒ってくれるネレイスのことが大好きになった。

 この人の為なら死んでもいいと本気で思えた。

 むしろネレイスの幸せのためにこそ、この命を使おうと固く決意した。


 わたしはネレイスを信じている。

 それでも過去に負った傷跡がわたしの心を抉る。

 母を失った時の心細さが、わたしの猜疑心を煽る。

 こわい。

 もしネレイスがわたしをイラナイと言ったら…?

 きっとわたしはもう立ち直れない。

 もしネレイスがわたしを捨てると言ったら…?

 きっとわたしはもう立ち上がれない。

 それがどうしようもなく、こわい。

 今すぐ彼女の真意を問いただしたいのに、それを確かめてしまうと何かが決定的になってしまうように思えて、わたしはただ口を噤むしかない。

 そんな自分が情けない。

 それでもわたしはなにも出来なかった。


 不満は溜まる一方だった。

 ネレイスと親しげに話す姿に苛立ちを覚える。

 和やかな雰囲気に自分だけが馴染めなくて、孤独感が募る。

 それ以上わたしのネレイスに馴れ馴れしくしないで!

 そう考えて…自分の思考に愕然とした。

 ネレイスは誰のものでもないのに、そんな権利は誰にもないのに、それでもネレイスにはわたし以外の誰とも楽しそうに話して欲しくなかった。

 わたし以外にその笑顔を向けて欲しくなかった。

 そんな独占欲めいた感情が激しく渦巻いて、わたしの内面をズタズタに引き裂く。

 溜まり続ける自分の不満を、やり場のない憤りを、わたしは八つ当たりという手段で発散しようとした。

 どれだけ当たり散らしても気持ちは全然晴れなかったが、それでもわたしは自分の持て余した感情を、溜まりまくった憤懣を、吐き出す以外の選択肢を持ち合わせていなかった。

 そんなわたしの態度がネレイスの心を傷付けてしまった。


 夜、わたしの腕の中で泣き崩れるネレイスを見て、わたしの胸中には様々な感情が綯い交ぜになった。

 彼女の瞳から溢れでた熱い雫に触れ、わたしは自分の愚かさを悔いた。

 少しでもネレイスの行動に疑念を持ってしまった自分を恥じた。

 こんな弱いわたしじゃネレイスの役になんて立てる訳がない。

 だから、わたしは決意する。

 彼女の隣に立つに相応しい人物になろう、と。

 身体的な強さだけじゃなく、心ももっと強くなろう、と。

 そう誓いながらも、自分の中に彼女がわたしのために涙を流してくれているという事実に、どこか仄暗い喜びを感じているわたしが居るのを実感していた。

 薄汚れた欲望だ。

 こんなわたしはネレイスに相応しくない。

 そうは思ってもこの気持ちに嘘はつけなかった。

 打ち震える身体も、止め処なく流れる涙も、可愛らしい嗚咽も、今だけはわたしだけが知っている。

 わたしは彼女に頼られている。

 その実感がわたしをどうしようもなく昂らせる。

 泣き疲れて、眠りに堕ちたネレイスを見下ろしていると更なる衝動がわたしの中にうまれた。

 寝息を立てるその美しい口を貪りたい。

 その口腔に舌を捻じ込んで、わたしの唾液を彼女に流し込みたい。

 その白皙に輝く首筋に舌を這わせて、柔肌を味わい尽くしたい。

 形の良い耳も、鎖骨も、あまつさえその下にある双丘にさえ触れて、その熱をすべて奪い去りたい。


 嗚呼、わたしはなんて汚いのだろう。


 こんな変態的な衝動をわたしが持っているなんて彼女にだけは知られたくない。

 もし万が一にでも知られてしまったら、きっとわたしは彼女の側にいる資格を失ってしまうだろう。

 当たり前だ。

 こんな汚い欲望を持ったわたしは彼女に相応しくない。こんな感情は消し去った方が良いに決まっている。

 だから、わたしはこの想いを彼女に悟らせない。

 欠片も態度に出さないように感情を封印するのだ。

 大丈夫。

 心を殺すことは小さい時からずっと行ってきたことだ。

 絶対に彼女にだけは悟らせない。

 このやましい気持ちは隠し通してみせる。

 だから、今だけは…。

 わたしはネレイスの眠りが深いことを確認してから、彼女の瞳に溜まった涙を舐めとった。

 少ししょっぱいその雫が身体に染み渡っていく。

 それを確かな歓びとして刻み込んだ。

 ネレイスの頰にくちづけをする。

 それだけのことに心臓が痛くなるほど騒いだ。

 はじめて会った時には彼女の唇を奪っても平気だったのに、今は頰に吸い付くだけで胸が張り裂けそうになる。それだけでわたしにはもう限界だった。

 そのことが不思議で仕方がない。

 けれど、どれだけ考えても思い当たることがないので、わたしは考えることをやめた。今はこの不思議な心地に浸っていたかった。

 気恥ずかしい。だけど、心地いい。

 そんな矛盾した気持ちを抱えながらも、わたしの心は満ち足りていた。

 この痛いほど鳴る鼓動の音でネレイスを起こさないように切に祈りながら、わたしは彼女の隣で眠りに堕ちるその時を静かに待った。


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