第二十一節


 陽が射し始める前の刹那の時間。

 払暁。

 まだ空が多分に夜の闇を含んでいるのか、空気がとても冷たい。

 そんな底冷えするような夜明け前の温度と鳥の囀りが私の目を覚ます。

 知らない天井に驚きつつも、現状を思い出して落ち着きを取り戻す。

 その後、私の隣ですやすやと寝息を立てるアイリスに捕まり、悶絶することになったが、それは前に述べたので今回は省こうと思う。

 それからアイリスが目を覚ますまでの短くない時間を理性と本能の狭間で煩悶とすることになったのだが…。まぁそれも省いていいだろう。

 こらそこ!いつものことだろとか言うな!

 誰しも一度は私と同じ気持ちになったことがある筈だ。人生で一度は自分の獣欲と戦ったことがある筈だ。

 そんな経験がないなんて世迷言を吐けるのは、この超絶美少女であるアイリスの天然あざとかわいい仕草を目にしたことがないからだ。

 本物の美を前にした時、人は存外無力なものだと私は学んだのさ。

 アイリスと出会うまでは私も自分にこんな獣のような衝動が眠っているなんて想像だにしていなかったのだが…。

 それを自覚した時は、少し自分のことが怖く思ったものだ。

 なんて一人で訳のわからない現実逃避をしていると、アイリスが目を覚ました。


 「ふぁ…おはよぉ、ねれいす…」


 寝起きまで可愛いのは反則だと思う。

 まだ覚醒し切っていない朦朧とした意識のまま起き上がろうとして、だけどバランスを崩したのかそのまま私にしなだれかかる。


 「んん、あったかい……」


 ………………………………………………………………………………ハッ!あまりの可愛さに意識が飛んでいた。

 まだ眠いのかアイリスは私の胸にもたれかかったまま寝息を立て始めた。そのあまりのあざとさに私はノックアウト寸前だ。顔面を中心にボコボコにぶん殴られた気分だ。

 なんだか朝っぱらからもう堪らない。

 ぐったりとしてしまった心に鞭を打って、私はアイリスを起こそうと試みる。


 「アイリス、起きて!もうそろそろ起きる時間よ」

 「もうちょっとだけねるぅ…」

 「ダメよ!もう十分寝たでしょう?ほら、いい子だから起きなさい」

 「んー……」


 アイリスって意外と朝に弱いのよね。

 でも、ここまではっきりと寝ぐずった姿を見せてくれたのはこれが初めてで、それだけ私に心を許してくれるようになったのかな、なんて思うとそれだけで嬉しさが込み上げてくる。

 だからかついつい甘やかしてしまいそうになるが、私はその気持ちをグッと堪えてアイリスを揺さぶる。


 「ほら、起きて!」

 「んむぅ……」


 な、なかなか手強いじゃないの。

 揺すぶっても起きないとは正直予想外だ。

 そう言えば昔おじいさまに「寝耳に水」って慣用句を習った気がする。確か予想外の出来事に驚くとかそんな意味だったような…。

 由来は忘れちゃったけど、寝ている時に耳に水が入ったらそりゃびっくりして起きちゃうわよね。

 今、水はないけど代わりに息でも吹きかけてやろうかしら。

 そう考えた私はそのいたずら心の赴くままにアイリスの耳に口を寄せ、ふぅーと息を吹きかけてみた。


 「んっ…!」


 反応は思った以上に劇的だった。

 バッと顔を上げたアイリスとお互いの吐息を感じるほどの至近距離で目が合う。その顔は真紅に染まっており、その手で私が息を吹きかけた耳を隠していた。

 それに今の声ってもしかして…。

 そのことに思い至った私の顔も茹で上がる。

 アイリスの熱が私にも伝播してきているかのようだ。

 ゴクリと喉が鳴る。

 何か言わないと…。


 「そ、その、アイリス…」

 「ね、ネレイス、私…」


 お互いの言葉が被ってつまづく。

 どうしよう。二の句が続かない。

 緊張が高まる。さっきから心臓がやたらと五月蝿い。

 視線がアイリスの大きな瞳に吸い寄せられる。

 その美しい翡翠色の輝きが、私を捉えて離さない。

 刹那の空白。

 頭が真っ白になって何をすべきか、何を言おうとしていたのか全てが漂白されて消え去る。

 自分がどうすべきか、どうしたいのかさえ分からなくなってしまって慌てる。だけど、何故だろう。それがぜんぜん嫌な感覚じゃないのだ。

 自分の心が全く分からないままに、ただアイリスの潤んだ瞳に誘われるままに、私はアイリスに顔を寄せる。

 アイリスも少し上目遣い気味にその宝石のような瞳に私を映して、目を閉じる。

 窄められた唇を見て、美味しそうだと思った。

 無性にそれを喰べてしまいたいという衝動に駆られる。

 私はその衝動に抗うことなく、ゆっくりと顔を近づけていき……。


 「姉御ー!!おはようございやす!もう朝食は食べやしたか?うちのお袋が良かったら一緒にどうだって言ってやすけど、どうしやす!?」


 …………とりあえずアイツは後で絶対にシメる。

 2、3発は殴らないと気が済まない。

 突然の闖入者のせいでせっかくの雰囲気が霧散し、なんとも言えない空気感が辺りに漂う。

 ……なんだか気まずいけど、ここは改めて挨拶から始めるとしよう。


 「……おはよう、アイリス」

 「……おはよう、ネレイス」


 お互いに気まずい沈黙の中、手短に身支度を済ませる。

 昨日から何も口にしていない私たちは思い出したように空腹を覚えたので、これ幸いとボス(仮)の招待に応じることにした。

 なおボス(仮)には出会い頭にボディにフックを入れておいたことをここで述べておく。



 「ゲホゲホッ…。さ、さぁ、つきやしたぜ!ここが俺の家でやす!」


 私たちはボス(仮)に村の中心にほど近い一軒の家に案内された。そして、この村の規模を考えるとそこそこに大きい木造建築だった。

 聞けば村の集会場としても使われているらしい。

 どうやら昨日何かあれば訪ねろって言ってたのはボス(仮)の家のことだったらしい。

 ボス(仮)がどこか誇らしげに自分の家を紹介してくる。

 その様子が少し鬱陶しく感じるのは、きっとさっきこの馬鹿にいい所で邪魔されたからだ。

 思い出しただけでなんか腹が立ってきた。

 もう1発入れてやろうか。


 「さ、さぁさぁ!どうぞ入ってくだせぇ!」


 ボス(仮)はそんな私の不穏な考えを敏感に感じ取ったのか、慌てたように私たちを家の中に押し込もうとする。

 チッ…。勘のいい奴め。

 それはそうとご飯が食べれると分かった途端から私の飢餓感は限界を迎えている。そのことに免じて今回だけは見逃してやることにする。

 つくづく運のいい奴だ。

 そんな悪態をつく私たちを迎えたのは随分と高齢に見える老婦人だった。

 老婦人は柔和な面持ちで私たちの来訪を歓迎してくれた。

 ちなみに私は全身鎧を着込んでいるので、ぱっと見ただけでは私が魔族であるなんて誰も想像し得ないだろう。何故食事中も鎧を外さないのかと聞かれたら、先の戦争で酷い傷を負ってしまったと言い訳をするつもりだ。

 しかし、そんな心配は杞憂に終わった。

 ボス(仮)の母親を名乗るこの老婦人は私たちのことを深く追求することもなく、ただ静かに食事を振舞ってくれた。


 「主よ。日ごとの糧とその慈悲に感謝を。いただきます」

 「いただきます」

 「…いただきます」


 数日ぶりのまともな食事は涙が出るほどに美味しかった。

 私もアイリスも老婦人に勧められるままに、与えられた食事を夢中になって貪った。

 空腹が満たされていくと不思議と心に余裕が出てきた。

 食事を終える頃には老婦人やボス(仮)と、世間話のようなものを楽しむことが出来るくらいには精神が回復していたのだ。

 相変わらずアイリスは押し黙ったままだったけれど、昨日と違って反発するような態度は取らなかった。ただその目は老婦人とボス(仮)の取り留めのないやり取りを注視していた。

 きっと彼女にも何か思うことがあるのだろう。

 それにしてもこの老婦人が私たちのことをまったく探ってこないことが少し不自然だ。

 食事の時にさえ鎧を外さない奴がいたら、普通その理由とか尋ねるよね?

 ここまで何も聞いてこないとなると、敢えてその話題を避けているかのようにも感じる。

 もしかしたら私の考え過ぎなのかもしれないが、ちょっと探りを入れてみよう。


 「ご馳走様、ご婦人。こんなにも美味しい食事を食べたのは生まれて初めてよ」

 「ふふっ。お粗末様。うちのボンクラは何作っても味の感想なんて言ってくれないから、なんだか新鮮だわ」

 「謙遜することはないわ。あなたの料理の腕前は一級品よ。私、こんな美味しい料理ははじめて食べたもの。いったい誰に習ったのかしら?」

 「そんなに褒められたことは初めてよ。こっちこそありがとうね。二人ともよく食べてくれるから、私も作り甲斐があって楽しかったわ。……誰に教わったかという質問だったわね」


 そう言って老婦人は少し逡巡して見せたが、すぐに決意を秘めた顔で私たちに向き合う。


 「私の料理はね…今はもう亡くなった私の旦那に教わったのよ」

 「お袋……」


 いつの間にかボス(仮)が彼女のそばに立って肩に手を置いていた。

 それは信頼感、いわゆる家族間の絆というものだろう。私には縁遠いその関係に眩しさを感じて、私は老婦人の言葉への反応が少し遅れてしまった。


 「それは……お悔やみ申し上げます」


 それでも老婦人はなんでもないというような態度をとる。


 「いいのよ!なんだかごめんなさいね。せっかくお客様がいらしたというのにこんな暗い話をしてしまって。そうだ!折角だし紅茶でも飲んで行きなさいな。すぐに入れるから待っててね」


 それだけ言い残して老婦人は席から立ち、火の着いた竃に水を張った鍋を置いて熱する。

 茶葉のいい香りが部屋中に漂う中、私はこの老婦人の真意を測りかねていた。

 善良を絵に描いたような人だ。

 だけど、これは私の個人的な経験でしかないのだが、残酷なこの世界では親身になってくれる人ほど疑ってかからねばならないのだ。


 「ご婦人。付かぬ事を聞くけれど、こんな怪しげな二人組をそれでも客人と言って持て成してくれるのは何故?それも何も聞かずにいるなんてどういうつもり?」


 言外にあなたにどんなメリットが?と含みを持たせて問い詰める。

 そんな私の問いに返ってきたのは、竹を割ったようなさっぱりとした笑い声だった。


 「あぁ、ごめんなさい。馬鹿にするつもりはないのよ。私が何故あなた達に親切にするかだったわよね。それはね、あなた達も私たちと同じ先の戦争の被害者だと聞いたからよ」

 「それはどういう意味?」

 「あなた達はこの村がどういう風に出来たか知っているかしら?」

 「知らないわ」

 「この村はね、戦争から逃げ出した人たちが集まってできた村なのよ」

 「えっ?」


 どういう意味だ?

 理解できずにアイリスを見るも、彼女も混乱しているようだ。

 そこで今まで黙っていたボス(仮)がここで初めて口を開いた。


 「姉御、これは言って信じてもらえるかは分かんないんですけど、俺たち男衆は元はほとんどがこの国の兵士だったんですよ。と言っても良いとこの騎士様みたいな立派なもんじゃないんですけど。臨時で徴兵された傭兵崩れみたいな奴らばっかですけどね」


 それは思わぬ告白だった。

 アイリスもその言葉に衝撃を受けているのが分かる。

 ボス(仮)改め、アルフレッドの言葉は続く。


 「実は俺たちはずいぶんと前から長いこと魔族との戦争に駆り出されてたんです。そこで色々と目の当たりにしてしまったんんですよ。それで色々と考えちまったんです。なんで俺は憎くも何ともない奴らと殺し合いをしてるんだろうってね。ちょっとでもそんなことを考えてしまったらもう戦えねぇ。だから俺は他にも気乗りしないって奴らを引き連れて戦争から逃げ出したんです」


 「この村はこの国が躍起になってる戦争に嫌気がさした人間達が寄り集まって出来たんです。ゆっくりと時間をかけてここまで人が集まって、村も随分と立派になったんですよ?戦争は多くのものを奪ってくけど、俺たち末端の兵士が得るものなんて何もないんですから嫌になるのも当然ってなもんですよね」


 「でも、戦争から逃げた俺たちにはもうマトモな職ってやつに就くことなんて出来なかった。国元に戻ろうもんなら親族諸共罰せられる。それが嫌だから隠れ潜むように生活してるんです。勿論畑耕したり、狩りもするんですけど、それだけじゃ家族を養っていけない。その末が盗賊稼業って訳です」


 アルフレッドが語ったのはこの国の闇の一端で、それはアイリスが私に話してくれた内容ともリンクするところがあった。

 だからだろうか?アイリスのアルフレッドを見る目が変わっていくのが分かった。

 軽蔑から同じ人間を見る目へと。

 そう、彼らは醜くてそれでいて美しい、そんな相反する性質を併せ持ったただの人間だったのだ。


 「まぁそれが姉御達に迷惑をかけた言い訳にはならないってことは重々承知してるんでやすが…」

 「えぇ、そうね。私はあなた達を許すつもりはないわ」

 「勿論で…」

 「でもね、今はあなた達のことを知れてよかったと思っているわ。話してくれてありがとうね」

 「い、いえ!これくらいお安い御用でやす!」


 私はチラッとアイリスに目配せをする。

 私の視線とその意図に気付いたアイリスは嫌そうにしていたが、私が笑顔で見つめ続けると観念したのか深いため息を吐き、アルフレッドと向き合う。


 「わたしもアルフレッド達がネレイスにしたことを許すつもりはない。ネレイスは私にとって一番大切な人だから。だから二度とネレイスを傷つけるようなしないで」

 「はい!誓います!」

 「うん、じゃこれで仲直り、ね?」


 そう言って微笑むアイリスは天使と見紛うほどに可憐だった。

 アルフレッドもその微笑みにすっかり骨抜きになって、だらしなく鼻の下を伸ばしているくらいなのだから。

 しかし、私の目の前でアイリスにデレるなんていい度胸している。

 やはりアルフレッドの野郎には後でもう1発キツイのをお見舞いする必要がある。そう強く感じた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る