第3話 三日月とブーメラン
顔だけは。
顔だけは、何とか死守した!
薄暗くて仄明るい沼地のほとりで、足の生えた人間サイズのお魚と追いかけっこをしたあげくに、何にもないところで躓いてぬかるみにダイブしたあたしだったけれど、咄嗟に両腕で庇ったおかげで、泥の大地とのキスだけは免れた!
ありがとう! あたしの反射神経!
いや。お礼を言っている場合でもないんだけれど。
だって、ほら?
あたしは今、あたしを食べようとしている人間の歯が生えたお魚さんから逃げていたわけで。
つかず離れずの距離を保っていたお魚さんの前で転んじゃったってことは、つまり。
大・ピ・ン・チ!
って、ことで。
うん。冷静に考えてみると、人間の歯が生えたお魚さんに頭からバリバリやられちゃうくらいなら、泥とキスした方がまだマシじゃない?
それに。
泥で汚れたことで、お魚さんの食欲が失せてくれちゃったりするなら、むしろ今からでも泥の中に顔を突っ込むべきなんじゃない?
もしかしたら、お魚さんは意外に綺麗好きだったりするかもしれないし?
一縷の望みを託して、あたしは両手についた泥を頬や額に擦り付けてから、身を起こしてそっと振り返ってみる。
み、見てる!
こっち、見てる!!
そんで、めっちゃ興奮してる!!!
や、ちょ、お、落ち着こう! 落ち着こうよ!
もっと、ほら!
汚れたモノを食べることに、ためらいとか、嫌悪感とか、持とうよ!
こんな、泥だらけのモノ食べたら、お腹痛くなっちゃうって!
ね?
という気持ちをありったけ込めて、お魚さんを見上げてみる。
が。
めっちゃ目がランランしてるし、生臭い息でハアハアしてるし、涎は滝みたいだし!
待って! 落ち着いて!
よく見て!
これ、チョコレートコーティングとかじゃないから!
泥だから!
お腹痛くなるヤツだから!
美味しくないから!
そんな、心の叫びもむなしく。
お魚さんは、膝を曲げて腰を落とす…………いや、体を下げる?
どっちでもいい。
兎に角、なんか顔が近づいてくるよ!
も、もうダメだ! 喰われる! 誰か!
「た、助けて…………」
自分では叫んだつもりだったけれど、心の底からの願いは、掠れた吐息のような声にしかならなかった。声を出したはずのあたしにすら、聞こえるか聞こえないかくらいの、呟きにもならない掠れたS・O・S。
こんなんじゃ、きっと誰にも届かない。
…………どっちにしろ、今ここにはあたしとお魚さんしかいないんだけれど。
ああ、どうしよう。
食べられちゃう。食べられちゃうよ。
お魚さんの顔がゆっくりと近づいてくる。
逃げ出したいのに、体が動かない。
目を閉じたいのに、閉じれない。
かつてないくらいに、心臓がバクバクしている。まるで、恋にでも落ちたかのようだ。
お魚さんの顔がゆっくりと近づいてくる。
まるで、これからキスでもするみたいに、ゆっくりと。
辺りを飛び交うホタルモドキの仄かな光が、ちょっとムーディと言えないこともない。
もしかしたら、食べられるんじゃなくて。
求愛のキスだったりする?
そんな可能性が、あったりする?
お魚さんは、やっぱり。
悪い魔女に呪いをかけられた元人間で。完全に人間に戻るためには、乙女のキスが必要とか。とか。
ちょっと、気持ち悪いのをガマンすれば、呪いが解けて、イケメン王子が現れて、二人で末永く幸せに暮らせる可能性は、どれくらい?
お魚さんの顔が、近づいてくる。
食欲なの? 求愛なの?
心臓が、爆発する。
いや、もう、いっそ爆発して欲しい。
決定的な瞬間が来る前に。
その前に、爆発しちゃって欲しい。
お魚さんの、顔が。
膝の上に、お魚さんの涎が落ちてくる。生暖かい。
嫌だ。嫌だよう……。
心臓を爆発させるボタンを持っていたら、間違いなく押していた!
という、まさにその瞬間。
空から三日月が飛んできた。
左上空からやって来た三日月は、ザシュッと時代劇のチャンバラシーンでよく聞くような音を立ててお魚さんの体を斜め上下の半身に薙ぐと、くるっと回転して空へと戻っていく。
半身にされたお魚の上半身が、ズルリと滑って、あたしの膝先へと落ちる。泥が飛んだけど、そんなの今更だ。もう既に、ドロドロだし。
上半身を失ったまま立ち尽くす下半身(足つき)の向こう側に。
セーラー服の天使が音もなく降り立った。
紺色のセーラー服。白いスカーフ。スカート丈は今どき珍しい膝下丈。
背中に真っ白い羽が生えている。天使というよりは、鳥の羽っぽいけど。
右手には、さっきお魚を半身にした、三日月のブーメラン。たぶん、ブーメラン。
髪は長い。背中の真ん中あたりまである。綺麗な黒髪。「寝ぐせって知ってますか?」って思わず聞きたくなるくらいに、素晴らしくサラサラした髪質。絡まったりしたこと、なさそう。羨ましい。
月を擬人化したみたいな、冴え冴えとした超絶美少女だった。
いや、擬人化なんてチープな言葉は、彼女にふさわしくない。
えーと、そう。化身!
月の化身のような、とんでもなく綺麗な女の子。
満月のようでもあって、半月のようでもあり、そして三日月のような女の子。
あまりにも綺麗すぎて、まるで生きていないみたい。
人間じゃないみたい、というか。
月の女神様、なのかもしれない。
女子高生のコスプレをした月の女神様。
あ、今のなし。なにか、大事なものが失われた気がする。
女子高生が月の女神さまになった…………。こっちの方がしっくりくるかも。
月の女神さまは、ゆっくりと音もなく、あたしに向かって歩いてくる。
助けてくれた…………のかもしれないし、もしかしたら、あたしもあの三日月でザシュッてされちゃうのかもしれない。
どっちであっても、おかしくない。
そんな雰囲気。
優しいような、冷たいような。
どっちともつかないような、どっちでもあるような。
あたしはただ、呆けた様に月の女神様を見上げていた。
なんだか、もう。どっちであっても構わない。
完全に、圧倒されていた。
少しも泥跳ねさせることのない、ゆっくりとした静かな足取り。
月の女神さまは、残った足つきお魚の下半身の前まで来ると、右手に持った三日月でお魚の下半身を軽く小突く。
下半身は、上半身とは反対側にビシャリと倒れ込む。綺麗にそろえられた筋肉質の白い足がなんだか妙に艶めかしくて、むしろ腹立たしい。
泥はねは、あたしの方にも女神さまの方にも飛ばなかった。
女神さまはあたしに、三日月を持っていない方の手を差し出した。
考えるよりも前に、条件反射的に手を重ねていた。
手を捕まれ、そのまま引き上げられる。
女神さまに手を引かれて立ち上がると、全身が温かい風に包まれた。
こう、ふわって感じで。
風はあたしの体を一周してから、背中の後ろへ流れていく。
え? うわ! 何コレ!? 何が起こったの!?
風が通り過ぎた後のあたしは。
まるで、まるで、まるで。
お風呂に入ってから、新しい服に着替えたかのような爽快感! 快適!
女神さまは本当に女神様だった。
セーラー服だけど。
「地上からの迷い子か。…………見たところ、何の力もない普通の少女のようだな」
少し低めで、だけどどこか冴え冴えとした響きのある女神さまの声に、あたしは頷いた。
地上からの迷い子って、つまり神隠しのことだよね?
あと、おっしゃる通り、何の力もない普通の中学二年生女子です。
「では、簡単に説明をしておこう。ここは、あの世とこの世の狭間にある
つき……はな…………。
月華。
なんて、ぴったりな名前。
「もう分かっていると思うが、ここ闇底は、妖魔たちが蔓延るとても危険な世界だ。何の力も持たない、ただの人間の少女である君にとっては、特に。このまま一人でウロウロし手入れば、早晩他の妖魔に喰われて命を落とす羽目になるか、怪しい実験の材料にでもされるか、どちらにせよ碌な目には合わないだろう」
あ。やっぱり、食べられちゃうところだったんだ。いや、求愛されても困るんだけどさ。
あのお魚は、悪い魔女に呪いをかけられた元人間じゃなくて、妖魔さんだったんだ。…………『ようま』って、妖魔でいいんだよね? 変換、間違ってないよね?
って。このまま一人でウロウロって。
この後はもう助けてもらえないんだろうか?
はっ。助けてもらうためには、お金的な何かが必要になるってこと? お賽銭みたいな?
どうしよう。あんまりお金持っていないんだけど。
おいくらくらい、必要になるのかな?
言いたいことや聞きたいことはいっぱいあるけれど、頭がぐるぐるして何も言えずにいるあたしにお構いなく、月華……は話を続けた。
「この闇底の世界で君が生きていく方法として、私から一つ提案がある」
じっとあたしの目を見つめる月華に、あたしは二回頷いた。
えっと、何が必要なんでしょう?
てっきり何かを要求されるものだと思い込んでいたのだけれど。
月華の提案は、全く全然、あたしには思いもよらないものだった。
「私と血の契約をして、魔法少女という名の下僕にならないか?」
「へ? 魔法……少女?」
間抜けな声がポロリと零れ落ちる。
いや、だって、ねえ?
…………月の女神さまの下僕の、魔法少女?
も、問題が難しすぎる!
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